友人の
バースデープレゼントを
もとめに
波佐見町の
白山陶器へ
器たちを
眺めるのも
大好きだけれど
外構に
はめ込まれている
タイルを
見るのも
ワクワクします
今も
いただいた
カタログを
眺めては
そういえば
実家に
あったよね
とか
あら
いま
バードモナミで
使っているモノは
最新作の
ルーツと
なっているんだ
とか
なつかしく
あたらしく
ほほぅ
と
感心してしまいます
~華美ではなく、かといって平凡でもなく
新しさはあるが時代に左右されることなく
使っていて飽きのこないデザインこそ
美しい器だと考えております~
そう
白山陶器の理念が
記してありますが
これは
器に限らず
生き方
装い
対人関係
など
あらゆる
シーンに
通ずる
理想でも
ありますね
愛される理由は
長い月日の
中で
築かれるモノ
と
それだけに
頼らず
その都度
いま。の
中で
気付き
かみしめたり
整えたりする
鍛錬の
バランス
を
とるコト
なのかもしれませんね
自身のルーツを
否定したり
歪めるコト
なく
新たな
出逢いや
発見する
貪欲さにも
正直で
在りたいな
同じ日に
樹齢3,000年の
大楠
と
樹齢4,000年の
大公孫樹
を
見上げた
神々しく
どこか
モノ哀しく
護っているような
どこか
いやいや
守られているような
尊敬と
憐れみを
同時に
懐いた
よく
話題にするのだけれど
不老長寿の薬が
発明されたら
迷わず
服用しますか?
と
ヒトの本音
は
覚悟の下に
潜まされているから
その時。が
きたら
揺らぐのかもしれない
けれど
ワタシの
答えは
NO
だろう
いつかは終わる。
から
いまを
いとしく
想えたり
この
出逢いや
関わり合いを
焼きつけようと
必死になる
そう
必死。
だから
明日しよう
来年しよう
は
必死。
から
意識を遠ざける
言い訳となる
終わりを
怖れず
終わりに
感謝できるくらい
日々を
全うしたい
モノである
そんなコトを
思い巡らしながら
すっかり
仲間たちを
見送ってきた
ひとりぼっちの
大木に
問うてみる
それでも
まだ
生きたいか?
と
大木は
何も語らず
に
ただ
生かされている
そう
佇むコトで
体現している
感謝の念を
還してくれている
かのように
眺めるモノたちを
優しく
見守りながら
枝で囀る
小鳥たちには
飽くるまで
羽を休める
場所で
在れば
と
きっと
生き永らえたモノにしか
汲みとれない
ある種の覚悟
ある種の達観