城郭探訪

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ブロガー情報発信【本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡 周辺を訪ねて~日野町~】  INDEX

2013年07月06日 | INDEX

 

天正10年(1582)6月2日の未明、 信長は明智光秀の謀叛により京都本能寺で横死した。

光秀は安土城に向かった。留守を守る賢秀は、討死を決意 したが、「遺族を無事守ることこそ忠節」と論され、 日野城に遺族を届け、氏郷とともに日野城を固めた。

安土城下町の南西に常楽寺という集落があり、城下町成立以前より湊があり、にぎわいがあったことで知られています。この常楽寺湊から南へ延びる街道が安土街道で、八日市で御代参街道に接続し、伊勢へとつながります。本能寺の変の直後、安土城の留守居であった蒲生賢秀が、城内にいた信長の妻子を居城の日野へと逃がす時、迎えに来た息子氏郷が通ったルートがこの安土街道と考えられます。

【信長の妻子を日野城へ】

安土城~常楽寺~南腰峠~石寺~老曾~八日市~岡本~日野~中野城

安土城観音寺城安土街道箕作城小脇山城大塚城

 八日市御代参道標日野祭り山モニュメント中野城(日野城)

本能寺の変直後の蒲生氏郷の足跡

・蒲生氏郷の足跡・・・「遺族を無事守ることこそ忠節」 信長・秀吉時代は、湖東百二十八郷を治めた、氏郷の城下町として栄えた日野、今も町の至る所に当時に面影を色濃く残す・・・保地煙管・玉受山・桟敷窓・・・!

蒲生氏郷 銅像   

 

  ・日野城跡(中野城跡) 蒲生氏郷の祖父定秀が築城した蒲生家の居城。本能寺の変直後信長の妻子を匿った。

 

 ・音羽城跡  中野城以前の蒲生家の居城

 

 

・信楽院

信楽院(しんぎょういん)は、日野の領主であった蒲生(がもう)氏の菩提寺。菩提寺墓地には蒲生氏郷の遺髪供養塔あり。

・馬見岡綿向神社 蒲生の豪族・蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山麓に狩りに来たところ一天にわかに掻き曇り、四月(新暦五月)だというのに吹雪となった。
しばらく岩陰で休み、雪が止んで外に出てみると大きな豬の足跡を発見。夢中になって足跡を追っていくうちに山頂に導かれ、綿向大神の化身となって現れた白髪の老人から「この山の頂に祠を建てて祀れ」との託宣を受け、社殿を建てて祀ったという。


 

・興敬寺 湖東・湖南の中心的真宗寺院。一向一揆の中心となり信長と戦った。境内には土塁と堀が残る。蒲生・甲賀・栗太の三郡に門末を擁して、本願寺を支えていた有力寺院が蒲生郡松原(日野町)の興敬寺あった。

 

・清源寺 近世日野の領主仁正寺藩市橋家の菩提寺。境内には3代・6代・8代藩主の墓
があり。歴代藩主の肖像画を伝える

 

・西大路藩 市橋藩庁

 

 

 

 

現在の日野城下町MAP 

 

日野町のバス

 

・昼食 レストラン岡崎 近江日野牛レストラン

 

 

 

・和菓子 かぎや

日野商人の銘菓

 

・日野物産館(特産品館 伊勢藤) 日野町の特産品を販売

 

 

・信長の千種越え

 

   

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

 

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


探訪【三重生城(みおうじょう)】2013.7.6

2013年07月06日 | 平城

天文年間(1532~54年)に川副筑前守よって築かれたとされますが、詳細は不明のようです。永禄十二年(1569年)に柴田勝家ら織田軍に破れ落城したとされる。

①三重生城(みおうじょう)
②住所:高島市安曇川町常盤木
③目標地点:正法寺
④形式:平城                                                              ⑤比高:--m 
⑥現況:寺・田畑

⑦遺構等:土塁
⑧時代/人物:戦国期/川副氏
⑨満足度: 凸+
⑩最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:県道から2分
⑪撮影・訪問時期:2013年7月


・日野物産館(特産品館 伊勢藤)

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

 

考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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http://www.rmc.ne.jp/hino-net/ee-mon/

滋賀県蒲生郡日野町の特産品が勢揃い!お気に入りの逸品を見つけてください。
■ 近江茶・地 酒
地酒 近江日野商人
酢屋忠本店
近江茶 かぶせ茶

木田製茶
近江茶 朝日山煎茶

満田製茶

■ 近江牛・近江米
日野産 近江米
ライスショップ米勇
日野産 近江牛

岡崎精肉店
 
■ 銘 菓
蒲生氏郷饅頭
氏郷庵かどや
地酒ケーキ
洋菓子の店 不二屋
生菓子詰め合わせ
御菓子司 かぎや
日野あられ
藤あられ本舗
日野おかき
おかちん本舗
故事伝来銘菓 蒲生
特産品館伊勢藤
日野菜パン
日野菜パン富士家パン
 
■ 漬 物・なれずし等
日野菜漬け
わたむき物産

■ 豆腐類・調味料等
ごまどうふ

坂甚商店

・和菓子 かぎや

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

創業嘉永元年。

かぎやはその時代に合った味に改良を続け、今日まで多くの支持を得てきました。
かつては富裕層の間でしか口にされなかったかぎやのお菓子も今は誰でもおいしく頂ける程よい甘さと手軽さで親しまれています。

近江日野商人の育てた味

かつて日野町を拠点とした近江日野商人は全国各地で行商を成功させ、富を得ていました。
そうして各地で美味を堪能した日野商人達の舌を満足させる為に日野ではお菓子作りが独自の進化を遂げてきました。
お菓子の本場京都からも数多くの職人が招かれ、明治初期には30以上のお菓子屋さんが軒を連ねたといわれています。

■まごころを伝えるお菓子

日野商人の舌をも唸らせたかぎやの生菓子は全て職人による手作り。
その完成度の高さは実物を見れば一目瞭然。
大切な方への贈りものやお茶席などでもご利用頂いております。

 

 

店舗前の日野商人街道を挟んで燈籠が

店舗前の日野商人街道を駐車場から・・・滝之宮神社が

御菓子司 かぎや
〒529-1604
滋賀県蒲生郡日野町村井1366番地
TEL:0748-52-0048
FAX:0748-53-3048

店舗のウィンドウに【伊藤みき】のポスターが!

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・昼食 レストラン岡崎

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

近江日野牛という、こだわり。

和風ハンバーグ定食

 


優秀な和牛子牛から厳選され、岡の直営牧場で大切に育てられる「近江日野牛」。

気候や水質に恵まれた近江ならではの自然風土が、その質に磨きをかけています。
さらに、もち米配合の飼料をはじめとする独自の飼育ノウハウにより、常時、1,000頭以上の牛を飼育。
最高級とのご評価に恥じない自慢の味を常にお届けできるよう、弛まぬ努力を重ねています。

 

 http://www.beef.co.jp/index.php?data=./data/cl7/

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・興敬(こうきょう)寺

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

 

自然の地形、日野川を堀に!境内には土塁・空堀が残る。

日野城(中野城)遠景・・・ダム湖の右

 

 湖東・湖南地方に真宗が伝播したのは十四世紀の中ごろであるが、十五世紀の後半には蓮如の活躍により、特に湖南の諸村に本願寺の勢力が伸びた。本願寺は蓮所のあと、実如の代となるが、真宗が近江で盛んとなるのは蓮如、実如以後のことである。

 この時期に、湖東、湖南地方、郡域でいえば蒲生・甲賀・栗太の三郡に門末を擁して、本願寺を支えていた有力寺院が蒲生郡松原(日野町)の興敬寺あった。

 興敬寺は親鸞の弟子円鸞が開いた興性寺に始まり、もと京都五条西洞院にあったが、のち蒲生郡日野谷の仁正寺(日野町西大路)に移り、明応二年(1493)に二寺に分割され、蓮如によって興敬寺と号されたという。永正五年(1508)実如が興敬寺に方便法身尊像を下付し、それ以後前記三郡以外のも愛知・志賀・高島諸郡にまで勢力を伸ばしていた。

 甲賀郡内の真宗の坊主・門徒は興敬寺の勢力圏にあり、石部の場合も例外ではなかった。『興敬寺文書』によると、永正八年(1511)ごろ、甲賀郡内檜物荘、野洲郡、栗太郡の地域で二十七ケ在所に興敬寺の直門徒が置かれていた。このうち甲賀郡内檜物荘(甲西町、石部町)には柑子袋、平松、針、夏見、それに石部地域の各在所に坊主・門徒がいた。

 年紀不明の文書であるが、これにさきの各在所の坊主・門徒らが「柑子袋光林寺」、「平松了順」、「はり(針)了道」「なつみ(夏見)小川三郎」「大黒や」「ゑびすや」などと挙げられ、光林坊には「今号光林寺、今又号民念寺」、大黒屋、ゑびすやには「今蓮乗寺」と注記されている。大黒屋、ゑびす屋が石部地域にあったことは、続いて「谷」の地名が書かれていることによっても明らかであるが、西福寺、蓮乗寺という注記から動かし難いところである。

 興敬寺は石山合戦では本願寺と密接な連携を保っていたが、興敬寺の門末も興敬寺と「一味同心」するところがあtった。天正十七年(1589)六月十三日付の『興敬寺文書』は、「下坊主衆にはんをすへさせ」て「こうきゃう寺孫右衛門」に提出させた誓約書であるが、これに連署しているのが内林仁右衛門西蓮、ゑびすや彦兵衛、大こくや浄永、はり(針)了道、同教道、たかの(高野)順了、林将監宗慶、大坂春慶、窪村専了、辻村教善、土村、今里、三上、岩井塚、今せ(金勝)覚円、光琳坊宗久らであった。いうまでもなく、西蓮、了道、教順、光琳坊、彦兵衛、浄永らは甲賀郡域の坊主・門徒であり、中でもゑびす屋彦兵衛、大黒屋浄永の二人は石部のものである。

 このように、永正八年、天正十七年の『興敬寺文書』によって、16世紀初めにはのちに蓮乗寺、西福寺と称した真宗道場の存在が認められる。また同世紀の末には興教寺の有力な下坊主衆であったことも知られる。蓮乗寺、西福寺がゑびす屋、大黒屋といわれたのは、両寺が商業に従事する町屋の道場から起こったことを意味しよう。同時にまた、石部がすでに天正のころ商業の一中心地であり、したがって宿場的性格がこの地に形成されていたことを示唆している。

 さて、ここであらためて蓮乗寺の寺伝をみると、同寺はすでに述べたように明応七年に玄戒によって中興されたという。寺伝上、第二次の開創期を迎えたわけである。しかも第二次開創は真宗という宗派色を帯びていた。一方、『興敬寺文書』による限り、真宗寺院としての蓮乗寺は明らかに道場として、また興敬寺の下坊主として出現している。そこで考えられるのは、ゑびす屋道場から発展して寺院となるとき、衰退した宮寺・蓮浄寺の名跡を継いだのではないかということである。寺号を継ぐことによって蓮浄寺の寺伝をも担うことになったのであろう。

 寺院化への過渡期は王塚の地においてであったかもしれないが、元和五年(1619)に大塚了達が東本願寺宣如から阿弥陀如来の裏書を受け、さらに堂舎を字鵜の目町の現在地に移転した、このときが真宗寺院としての実質的な発足期をいえよう。

 ゑびす屋とならんで登場する、大黒屋すなわちのちの西福寺もまた、明応七年の開創と伝え、浄斎の開基をいう。明応七年は近江の真宗興隆に大きな役割を果たした蓮如が没した前年に当り、その後継者実如が活躍する時期である。栗東町には実如の裏書がある方便法身尊像をもつ寺院が多いが、これはかっての道場、惣道場に下付されたもので、その惣道場は実に興敬寺や西福寺が明応七年に中興または開基されたと伝えるように、明応期と考えても大きな過誤はなかろう。

 ちなみに西福寺の山号は清水山といい、元禄五年東明寺と改め、さらに享保十三年(1728)田中山と改称したが、田中山の号は田中という地名によるものである。蓮乗寺の山号上田山も地名から出ている。15世紀末から16世紀前半にかけて、田中村に大黒屋にはじまる、また植田村にゑびすやから起こった真宗道場がそれぞれ出現した。『興敬寺文書』には、ゑびす屋と並んで「谷」と書かれているので、谷村にも門徒がいたようである。

 なお、興敬寺の教線は栗東町域にも伸び、永正のころには窪・下辻惣道場、伊勢落、高野・祝塚惣道場などがその門徒であった。この興敬寺との関係は史料的に明らかでないが、石部では永正十五年(1518)に了法の開基による道場が現れた。すなわち浄源寺であり、寺伝によればもと野洲川よりにあり、のち街道沿いに転じ、火災によって享保元年(1716)知伝の代に金谷の現在地に移ったという。

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

 

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・馬見岡綿向神社

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 5月2・3日の「日野祭」は、この神社の春の例祭です。

日野に生まれた戦国の武将 蒲生氏郷公は後の天正18年(1590)に会津黒川城主となった時、縁起をかついだ氏郷公は黒川の名前を変えようと考え、故郷日野町で蒲生 氏の氏神と崇めた綿向神社参道の「若松の杜(森)」からその名をとり、「会津若松」と改称した。古文書によれば、江戸時代中期の明和年間に松が枯れ、伐り除かれてその後人家が建ったようである が、「会津若松」の呼び名は今も用いられ、その名ごりを残している。

勧請縄勧請縄社務所

境内正面

 本殿

夏越し大祓・・大祓の神人形

 石橋の手前の狛犬

江戸時代に日野商人が寄進したという立派な石灯籠(いしどうろう)や石橋があります。

拝殿

【御 由 緒】

当神社の起りは、 近江国の東方に連なる鈴鹿山脈の南端に、気高く聳える霊峰『綿向山』の頂上に、神武天皇の御宇、出雲国の開拓の祖神を迎え祀り、欽明天皇6年(西暦545年)その頂上に祠を建てたのが始りと伝える。

その後、平安時代の初期延暦15年(796年)に里宮として現在の地に遷し祀られたという。以来、延喜式神名帳にもその名が見え、蒲生上郡の総社、日野の大宮として、何時の時代も当地の産土神と、人々の信仰の中心となってきた。殊に鎌倉時代から安土桃山時代にかけて、この地の領主であった蒲生氏一族は、氏神として尊び庇護し、更に江戸時代に全国に名をはせた近江商人の内の日野商人達の巨万の財力に支えられ、出世開運の神として崇敬が集められ、明冶 9年郷社に、同42年県社に列せられた。そして今の世も氏子人等の心の拠り処と崇め親しまれている。

その始めを嘉応2年(1,170年)とする春季例大祭(5月2・3・4日)は日野祭と称し、3人の神稚児や3社の神輿、16基の曳山車を中心に、古式ゆかしく絢爛豪華に繰り広げられる祭礼は県下にも有名で、県の無形文化財に指定されている。

なほ、綿向山山頂(標高1,110米)に祀る奥之宮(大嵩神社)は古来より 20年毎に社殿を建て替える式年遷宮の祭事が、今も絶えることなく続けられている

 本殿と狛犬

 境内には形の異なる大小多くの石灯籠がある。最古のものは、鎌倉時代の様式を伝え、重要美術品にも指定された価値あるものである。御本殿前に据えられた石灯籠は、元禄11年(1698)日野出身で上州で商いをしていた商人中で 奉納したものであ り、また御手洗川岸にある大灯籠は文化9年(1812)建立されたが、地震で倒壊した為、文政2年(1819)に123名の篤志者によって再建されている。このほかにも日野商人などの名が刻まれたものが沢山あ り、日野商人の信仰の歴史を見ることができる。

石灯籠 国指定重要美術品 (鎌倉時代)                                              当神社の最古の現存品とも云うべきものが、この石灯籠である。年代は刻まれていないが、鎌倉時代の様式をよく残している。

猪と綿向神社

 

絵馬殿

絵馬殿に掲げられた多くの絵馬の中に、畳4枚分程とひときわ大きな絵馬には、天正年間の祭礼のお渡りの様子が細やかに描かれている。

 蒲生氏郷公が生まれられたお祝いとして殊に盛大に行われた祭礼を、後の世の文化9年(1812)に日野の代表的か画家である谷田輔長が描いたものである。奉納者は全国にその名をはせた日野の豪商中井家であり、この絵馬を奉納せんが為に、絵馬殿を寄進したと伝えられている。このほか境内にある拝殿・馬舎・水舎など中井家の一建立である。

 千両松 江戸時代の後期、日野商人の豪商の中で、伊豆の三島で醸造業を営んでいた辻惣兵衛は、儲けたお金を故郷の日野に持ち帰る為に、度々と三島と日野の間を行き来していたが、この頃街道を大金を持って往来することは、山賊などの危険にさらされ、至難のわざであった。そこで惣兵衛は考えた末、この大金を松の盆栽の鉢の中に隠し、故郷日野の本宅に無事帰ることができた。これは氏神様である綿向大神のご加護のお陰と感謝して、神社の境内にこの五葉松の木を植えた。現在も境内にその木が残っており、『千両松』と呼んでいる

もとは、綿向山(1110m)の頂上に鎮座していましたが、蒲生氏が城下町を開いてから現在地に移され、湖東の大宮として信仰を集めました。
 昔、山頂から2羽の雁が飛んできて消えたのを見て、村人たちが神が降りてきたと思って、山麓に社を建てたという話が残っており、このことから「二羽雁」が神紋(しんもん)となっています。
 壮大な境内には、拝殿や本殿をはじめ、
本殿右前には、六角形で火袋(かたい)に散蓮華(さんれんげ)を刻む鎌倉時代の石灯籠があります。また、境内の正面右側に「千両松」と書かれた石碑があり、1本の松が植えられています。この松は、江戸時代に遠方で商売して儲けた辻惣兵衛(つじそうべえ)という人が、大金を日野に持ち帰るために、植木鉢の中に小判を隠してその上に松の木を植えました。その結果、無事に日野まで帰れたのでそのお礼に、この境内に松を植えたといわれています。

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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信長の千種越え

2013年07月06日 | 講座

 

 

千種街道

信長が馬を繋いだと云われる松元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、信長は蒲生氏配課の「桜谷の佐久良城城主・小倉右京亮実房の道案内」で千種越えで美濃の岐阜城に帰陣する。千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云われる松が甲津畑の速水氏宅にある。


「対岸の信長を狙撃」事件の「善住坊のかくれ岩」

\\\\\\\信長公記 三巻  遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事\\\\\\\\

 5月19日、浅井長政は鯰江城(東近江市・愛東鯰江)に軍勢を入れ、同時に市原(旧永源寺町)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(旧永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離(約22~24mほど)まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

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杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)

生年不詳 - 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。

鉄砲の名手であったという以外の人物像は不明であり、出身については織田家に滅ぼされた武家、甲賀五十三家の一つである杉谷家の忍者、雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。                                                                                         信長を狙った理由も、近江を追われた六角氏からの依頼、信長への個人的な恨み、鉄砲名人としての腕試しなど諸説ある。

元亀元年(1570年)4月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され一時京都に逃れていた(金ヶ崎の戦い)信長は、翌5月に岐阜城への帰還の途についていた。5月19日、善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江の千草越(千草街道)を通過していた信長を狙撃するが失敗に終わった。12-13間(20数m)の距離から2発撃ったとされるが、信長はかすり傷のみで済んだ。

その後は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。                                                 その結果、近江高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、近江高島郡の領主である磯野員昌に捕縛される。                                        織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。                                                                                               なお『フロイス日本史』にも、名前不明ながら「ある仏僧が立ったまま生き埋めにされ小さなノコギリで首を切断された」事件のことが記されている。それによれば、この仏僧は書状でもってある1つの城を信長に敵対させようとしていたとのこと。

・八風街道(菰野町田光から八風峠を越え永源寺町杠葉尾までの「八風越え」)

・千種街道(菰野町千種から根ノ平峠を越え現滋賀県永源寺町甲津畑までの「千種越え」)

 

八風街道が桑名と近江の八日市を結ぶ最短距離の道であるならば、その南の千草街道は、四日市と近江の日野を結ぶ交通路であった。この道は一般に千草越え、あるいは甲津畑越え、根の平越えとも呼ばれ、現在でも菰野町千草から滋賀県永源寺町甲津畑に通じている。中世には、鈴鹿峠を避けてこの峠道が八風峠とともに最もよく利用された通商路であった。

この千草越えも八風越えと同様、近江六角氏の庇護の下にあった保内(山越)商人(近江商人の発祥=東近江・今掘の)が流通路の独占を図っていた。根の平峠の下、千草街道に面して千種城があり、天文9年(1540)、近江の六角氏に属して以後その被官となった千種氏は、在地領主として城下を通る交易商人に対して多少の関料を取り立てていたようである。

千種氏から峠の流通独占権を認められていた保内商人は、その見返りに役銭を支払っていたわけで、このような役銭の支払による通行及び営業圏の独占は近世初頭まで続いた。

近江の保内商人(近江蒲生郡得珍保内の今堀・蛇溝・中野・今在家などの諸郷の商人で、鈴鹿山脈を越える山越商人)が独占していたようです。約一,〇〇〇点にも及ぶ滋賀県八日市市の「今堀日吉神社文書」中の永禄二・三年(一五五九・六〇)の「保内商人申状案」によると、保内商人が八風・千種越えで、千草氏から両峠の流通独占権を認められ、その見返りとして役銭を支払っていたことがわかります。

織田信長もここを越えている。『信長公記』の元亀元年(1570)5月の記事によれば、信長は京都から岐阜への帰途、千草越えの途中、佐々木承禎に頼まれた杉谷善住坊によって狙撃されたが、弾丸は身体をかすめただけであったとある。

 

 

千種街道の杉峠千種街道、杉峠

 杉峠には、名前の由来を示すかのように杉の木が何本かあります。


参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・・blog 等々

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・信楽(しんぎょう)院

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

音羽城を築いた貞秀は、戦いに出る時何時も、槍の先に冠子に入れた阿弥陀仏にを槍の先に引っ掛け、念仏をとなえながら戦ったといわれ、こんなことからこの仏を「槍かけ本尊」とも呼び、今もこの寺に安置されている。

信楽院(しんぎょういん)は、日野の領主であった蒲生(がもう)氏の菩提寺。浄土宗。

 

信楽院本堂(県指定文化財、江戸時代 元文四年 1739年、前面に土間を持つ浄土宗本堂(特異)

 

本堂の天井には、日野町出身の著名な高田敬輔(たかだけいほ)作の巨大な竜が荒れ狂うさまを描いた「雲竜(うんりゅう)」を中心に描かれた縦横11mの水墨画も見事です。

 

信楽院から南西の畑を越えたところの竹藪には、

蒲生貞秀(さだひで)廟所が――

殿

 

蒲生氏郷 遺髪塔(寄せ集め宝篋印塔)                                                      別物の寄せ集めで、下から宝篋印塔基礎・同塔身・無縫塔請花・五輪塔水輪・宝篋印塔笠・五輪塔空風輪の積み重ね

    

  

滋賀県日野町の信楽院は、奈良時代に聖武天皇の勅願により開創されたと伝えられているが詳細は不詳である。
中世この地の領主で、後に日野城主となった蒲生家の菩提寺として1349年蒲生高秀が再興している。
この地で生まれた蒲生氏郷は信長・秀吉の家臣として功なり、秀吉から松阪城主・会津城主となっている。
信楽院には氏郷の遺髪墓がある。

(1)寺名:信楽寺(しんぎょういん)                                                                         (2)住所:滋賀県日野町村井1500
(3)山号:佛智山                                                                                       (4)宗派:浄土宗
(5)開創:不詳                                                                                        (6)再興:蒲生高秀 1349年                                                                                (7)本尊:阿弥陀如来
  
1)本尊阿弥陀如来坐像:町指定文化財 室町時代
2)本堂:県指定文化財 1739年
3)蒲生氏郷遺髪塔
4)本堂天井絵雲龍図:江戸時代 高田敬輔筆
5)仏涅槃図:県指定文化財 南北朝時代

  中世に移築この地方を統治していた蒲生氏の菩提寺です。音羽城内・中野城内そして、安土・桃山時代に現在地に移されました。
 境内はそんなに大きくありませんが、県指定の文化財の本堂や書院などが目立っています。寺宝に、伝恵心(でんえしん)作の観音像があります。

蒲生氏が転封後は好配したようでです。これを憂いた旧家臣が、慶長2年(1597)現在の位置に移築・再興しました。

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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所在地 滋賀県蒲生郡日野町村井1500 【地図(GoogleMap)
アクセス公共交通機関 JR琵琶湖線「近江八幡駅」下車 バス 47 分 村井本町下車すぐ。
近江鉄道/本線「日野駅」下車 バス 9 分 村井本町下車すぐ。
名神高速八日市ICより国道421・307号で約20分。
新名神高速甲賀土山ICより国道1号で約20分。
駐車場 普通車8台
お問い合せ 信楽院
TEL:0748-52-0170

・仁正寺陣屋(西大路藩))

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町西大路  map:http://yahoo.jp/W2g8gq

別 称:西大路藩

区 分:陣屋・藩庁

現 状:運動場

築城期:江戸期 元和6年(1620)

築城者:市橋長政

遺 構:城跡碑・説明板・移築本殿

標 高:200m  比高差:ー

目標地:日野城(中野城)

駐車場:日野城(中野城)駐車場

訪城日:2013.7.6

お城の概要

西大路陣屋は中野城の城域にあり、案内板と共に石碑が建つだけで、陣屋の藩庁跡はゲートボール場となっている。

 唯一京都の相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築されている。

お城の歴史

 大永3年(1523)蒲生氏が日野の地に日野を築城した。賢秀の代に織田信長の臣下となった。天正12年(1584)蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降廃城となった。

元和6年(1620)市橋長政が越後国三条より2万石で入封し、日野城(中野城)の一部に陣屋を構えた。元和8年(1622)、長吉に2千石分知し、慶安元年(1648)、市橋政信の弟政直に1千石分知し、1万7千石となった。文久2年(1862)仁正寺を西大路藩に改称した。

以降江戸時代を通じて、市塙氏は日野を離れる事もなく10代長和の代に明治維新を迎えた。

仁正寺藩は、近江国蒲生郡仁正寺(現滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。別名を西大路藩とも言う。藩庁は仁正寺陣屋。

 西大路陣屋は西大路藩市橋家1万7千石の陣屋で、元々仁正寺と記していたものを文久2年(1865)に改称したものである。

 西大路藩は元和6年(1620)市橋長政が野洲郡,蒲生郡などに2万石を封され、この地に入部し、築城したことに始まる。
市橋家は元々織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いや大阪両陣での活躍により、元和2年に越後三条に4万石をを封された。同6年3月藩主長勝が死去し、養子の長政は減封され近江国に移り、戦国期の蒲生氏の居城・中野城に注目し仁正寺陣屋を構えた。

 元和8年幕命により所領2千石を同族の市橋長吉に分与し、2代目政信は弟・政直に1千石を分与し、1万7千石となる。その後11代続き幕末を迎えた。明治4年の廃藩置県により西大路藩は廃された。

 陣屋は明治7年に朝陽小学校となり、建物はそのまま使用されたが、大正5年に小学校が移転・新築され陣屋の建物は京都相国寺の塔頭である林光院に移築された。

ゲットボール城の日野川(ダム)側は、土塁のとうです。

西大路陣屋は中野城の城域にあり、案内板と共に石碑が建つだけで、陣屋の藩庁跡はゲートボール場となっている。

蒲生氏城内に陣屋を設けて仁正寺藩を立藩した市橋氏は江戸中期の元禄14年(1701)に藩庁の裏鬼門あたるこの丘上に、藩の長久を祈願して伏見より勧請された稲荷社。



 唯一京都の相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築されている。

城郭の歴史 西大路陣屋は西大路藩市橋家1万7千石の陣屋で、元々仁正寺(にしょうじ)と記していたものを文久2年(1865)に改称したものである。

 西大路藩は元和6年(1620)市橋長政が野洲郡,蒲生郡などに2万石を封され、この地に入部し、築城したことに始まる。
市橋家は元々織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いや大阪両陣での活躍により、元和2年に越後三条に4万石をを封された。同6年3月藩主長勝が死去し、養子の長政は減封され近江国に移り、戦国期の蒲生氏の居城・中野城に注目し仁正寺陣屋を構えた。

 元和8年幕命により所領2千石を同族の市橋長吉に分与し、2代目政信は弟・政直に1千石を分与し、1万7千石となる。その後11代続き幕末を迎えた。明治4年の廃藩置県により西大路藩は廃された。

 陣屋は明治7年に朝陽小学校となり、建物はそのまま使用されたが、大正5年に小学校が移転・新築され陣屋の建物は京都相国寺の塔頭である林光院に移築された。

  「仁正寺藩誕生 -我ら天下の為に軍忠を励みしにあらずー」                                                                        戦国時代の終わり頃から江戸時代の初めの激動の時代を生き抜き次の時代へとつなげて行った二人の武将・市橋長勝と初代仁正寺藩主・市橋長政の歴史について、 特に、長勝には嫡子が居らず改易の危機となるが、長勝の関ヶ原の戦いや大坂の陣での功績など徳川家の信任が厚く、また家臣たちの熱意「・・・我ら天下の為に軍忠を励みしにあらず市橋の家を起こさんが為に各身命を抛って死生を君と共にす・・・」が認められ、長勝の甥である長政が相続することを許された。
亰 相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・音羽城跡(日野城/智閉城/智関城) 近江国(日野)

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

中野城以前の蒲生家の居城

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町音羽

別 称:日野城/智閉城/智関城
現 状:公園・山林
区 分:山城  
標 高:280m 比高差:30m
遺 構:土塁・堀・説明板
築城期:室町期
築城者:蒲生貞秀
⑩最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
訪城日:2013.7.6

お城の概要

音羽城は、北に、東西が谷となった半島状の丘陵先端部を利用して築かれた城だ。 現在、本丸・二の丸・南の丸を合わせた広々とした芝生の公園の公園となっている。
 城の遺構は、空堀が公園の北・東・南に良く残り、特に南から東にかけての空堀は見応えがある。 公園内南丸と南帯曲輪との間に低いが土塁があり、北側の虎口付近にも土塁がある。
 丘陵の北東先端部に北出丸がある。 ここにも土塁・空堀・虎口の遺構が良好な状態で残っていた。

城跡を歩くと大手門の石垣跡、壮大な堀切、いまも水が涌く井戸跡などが残り、過ぎ去りし往時における音羽城の堅固さを彷彿とさせてくれる。

お城の歴史

音羽城は、応仁の乱当時、蒲生貞秀が築いた山城。 蒲生氏は、日野谷を領した豪族で近江守護佐々木(六角)氏に仕えた。 音羽城は、明応五年(1496)、文亀三年(1503)に激しい合戦の舞台となった、守護六角高頼を助けての戦いの舞台となった。その後、大永2年に蒲生秀紀と高郷との間に相続争いが起き、叔父蒲生高郷に攻められた蒲生秀紀は、3年に渡る籠城戦の末に、守護六角高頼の裁定により降伏し和議が成立した。  この和議により、音羽城は廃城となり蒲生秀紀は鎌掛城へと移り、蒲生宗家を継承した高郷・定秀は、その後居城を日野中野城へと移した。いずれも蒲生氏の勝利となったが、大永二年(1522)に起こった一族の内訌により落城、音羽城は廃城となった。

伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。

 貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を、高郷は中野城を居城とした。                          秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。

 

 

伝本丸

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、、パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明

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・日野城跡(中野城跡)

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

中野城の城址碑(蒲生氏郷の生誕した城)

     

蒲生氏の居城跡。中野城ともいいます。築城以前の蒲生氏の城は、音羽丘陵上にありましたが、蒲生定秀(がもうさだひで)により戦国時代に日野城が築かれました。築城にあたっては、既存の日野市街を城下町とし、城のある西大路付近を武家屋敷地帯、日野市街を町屋敷地帯としたといいます。

 明智光秀の謀反(本能寺の変)によって殺された織田信長の妻子が、身を寄せたのは日野城です。蒲生氏郷はこの城で生まれ、若くして戦国武将の器量を備えていたので、豊臣秀吉に抜擢されて伊勢12万石の領主となって日野城を去りました。江戸時代に廃城となり、付近の農民が開墾して城内はすっかり姿を変えました。城の遺構は、日野川ダムの建設により、現在ではほとんど見ることができませんが、ダム北畔に本丸跡石垣が少し残っています。

 ◆蒲生氏郷の生い立ち◆

 蒲生氏郷 銅像

近江氏郷公は、戦国の時代 日野町において誕生し、三重県松阪市や福島県会津若松市にて出世し100万石の城主になり国を治めました。
40才という短命で、もし長生きをしていれば天下を治めていたとも言われています。
日野町では、歴史的偉人をたたえ、昭和63年に銅像を再建しました。 

 

 

 中野城(日野城)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。

 定秀の子賢秀は信長に仕え、本能寺の変の際には安土城二の丸で留守を預かっていた賢秀は、秀郷と図って信長の妻女・女衆を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘には応じなかった。

 

 その後、秀郷(後の氏郷)は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正12年(1584)には伊勢松坂12万石の領主となり松ヶ島城へ移り、その後松坂城から会津黒川城42万石(後の若松城)に移封された。
 
 日野城には、蒲生氏あとに田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長8年(1603)には廃城となった。

この石垣は近世に積まれたようです。 

  

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・蒲生氏郷の足跡・・・「遺族を無事守ることこそ忠節」

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

氏郷は父従い、近江をめぐる合戦に参加し、戦国武将への道を歩んだ。

天正四年(1576)、 信長は日野の近くにある安土山に築城を行い、蒲生賢秀に留守居役を命じた。                                   そして、氏郷が父に替わって日野城主となった。
 天正十年、信長は宿敵武田勝頼を倒し、中国の毛利氏討伐軍を発するなど着々と天下統一を押し進めていた。

ところが、六月二日の未明、 信長は明智光秀の謀叛により京都本能寺で横死した。

ついで、光秀は安土城に向かった。                                                                             留守を守る蒲生賢秀は、討死を決意 したが、城兵の逃走する者が多く、「遺族を無事守ることこそ忠節」と、 日野城に遺族を届け、氏郷とともに日野城を固めた

氏郷ゆかりの地

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氏郷の足跡MAP

 

この和歌は、文禄元年(1592)に、文禄の役に参陣するため会津から京へ向かう途中、近江国武佐にて、鈴鹿山脈を遠くに見ながら故郷日野を偲んで詠んだ和歌として、知られています。異郷にあってもいうも故郷の日野への思いを忘れませんでした。文禄・慶長の役 - Wikipedia

 

 

蒲生氏

 

対い鶴/三つ巴
(藤原氏秀郷流)

 近江国蒲生郡には、古代蒲生稲置がおり、相当の名族で、蒲生郡開拓の主体であったとみなされている。蒲生氏は、この蒲生稲置の後裔と考えられる。が、一般には秀郷流藤原氏、すなわち俵藤太秀郷の後裔とされている。おそらく、いつの時代にか蒲生稲置の後裔が、藤原姓を名乗るようになったのだろう。
 いずれにせよ、藤原秀郷が、はじめ近江国田原に住んで田原藤太と称し、秀郷の次男千晴より六代の子孫惟俊が蒲生郡を賜わり、蒲生太郎を称したのが始まりといわれる。その子俊賢は源頼朝に仕え、俊賢から六代の孫秀朝が、建武年中(1334-1338)足利尊氏に従って軍功があった。
 貞秀の時、嫡男秀行は惣領ということで将軍家に、二男高郷は佐々木六角氏に、三男の音羽秀順は細川氏にそれぞれ出仕させたという。ところが秀行死後、その子秀紀が跡を継いだが、高郷との間に内紛が生じた。
 この争いは六角氏と将軍家の争いを根底に持ちながら、六角定頼の家臣となっていた高郷が弟の秀紀を攻めたもので、大永三年(1523)三月のことであった。六角定頼は自分の家臣である高郷の側にたち、秀紀の音羽城を攻め、以後、音羽城は廃城となった。戦国大名による城割りの先駆とされるものである。以後、蒲生氏の嫡流は高郷の系統へ継がれていった。このころの名乗りをみれば、定秀は六角定頼の"定"であり、賢秀は六角義賢の"賢"であり、六角氏の家臣となっていたことがうかがわれる。
………
家紋にみえる蒲生氏の「対い鶴」紋

蒲生氏縁りの地を訪ねる

・応仁の大乱期に蒲生貞秀が築いた、要害堅固な典型的山城─音羽城址。
・天文二年(1533)蒲生定秀が本格的に改修した日野城址。
・西大路藩主市橋氏の菩提寺、祥雲山清源寺。もとは蒲生定秀の別邸桂林庵が没後に寺に。定秀の位牌が安置されいる。
・古くから日野の名水「落葉の清水」松原山興敬寺。信長に反攻した一向衆の寺院。

・蒲生氏の菩提寺、佛智山信楽院。本尊の阿弥陀仏は、蒲生貞秀が戦いに出るとき、阿弥陀仏を槍の先にひっかけ念仏を唱えながら戦ったことから「槍かけ本尊」ともよばれる。                                                                    ・蒲生氏郷の遺髪碑が境内墓地に遺されている。

                                                                             ・千利休七哲の一人だった蒲生氏郷が茶の湯に使ったという「若草清水」                           

・蒲生貞秀・定秀らの墓所が 

・蒲生氏も篤い信仰を寄せ、一族の氏神として庇護を加えた「馬見岡綿向神社」も見逃せない。

 

 

 

蒲生氏、織田信長の配下に

 
賢秀は六角義賢の六老臣(守護代)の一人に数えられるほどだった。           しかし、永禄十一年(1568)、織田信長が六角義賢を観音寺城に攻めた時、蒲生賢秀は妹婿神戸蔵人のはからいで主家を離れ、信長の 配下に入った。そしてその証として十三歳の鶴千代を人質として差し出したのである

 信長は鶴千代を一目見て気に入り、翌年、岐阜城において自ら烏帽子親となり 鶴千代を元服させ、娘婿としたこのとき、 鶴千代を改め忠三郎賦秀と名乗った。同年八月、信長は伊勢の北畠氏攻略の軍を発し、大河内城を攻めた。氏郷も父に従って参に戦、戦国武将氏郷の初陣であった。

 以後、氏郷は父従い、近江をめぐる合戦に参加し、戦国武将への道を歩んだ。天正四年(1576)、 信長は日野の近くにある安土山に築城を行い、賢秀に留守居役を命じた。 そじて、氏郷が父に替わって日野城主となった。

 


 天正十年、信長は宿敵武田勝頼を倒し、中国の毛利氏討伐軍を発するなど着々と天下統一を押し進めていた。ところが、六月二日の未明、 信長は明智光秀の謀叛により京都本能寺で横死した。ついで、光秀は安土城に向かった。留守を守る賢秀は、討死を決意 したが、城兵の逃走する者が多く、かつ「遺族を無事守ることこそ忠節」と論され、 日野城に遺族を届け、氏郷とともに日野城を固めた。
 光秀は安土城から、日野城に迫った。その時、秀吉軍が京に迫るとの報が入り、光秀は軍を京に帰し、 京都山崎においてて秀吉軍と合戦したが敗れ、坂本城に逃げ戻る途中土民の手であえなく殺害された。

 

 氏郷は直ちに京に上り、信長の遺族が無事であることを秀吉に報告した。秀吉は氏郷の手をとり「信長公の婿とは申せ、 異心なくよく忠節をつくされた」と激賞し、三千石を与え、さらに、清洲会議で一万石を 加増した。こうして氏郷は、秀吉の覚えも厚く大名に列することになった。

 

 天正十一年四月、秀吉は織田家中における最大のライバル柴田勝家を賎ヶに破り、越前北ノ庄で自刃させた。ここに、秀吉が信長の後継者たることが決した。翌年、秀吉は信長の三男信雄と不和になり、信雄は徳川家康と結び小牧長久手の 戦いが起こった。伊勢も戦場となり、なかでも松ヶ島城の攻防は熾烈を極めた。氏郷は兵を二分し、 自らは小牧の戦いに参加し、松ヶ島城攻めは坂源左衛門に任せた。 戦後、氏郷は松ヶ島城主に任命され、十二万石の大名に引き立てられた。

 

 以後、秀吉の天下統一の戦いに尽くして、各地を転戦した。結果、秀吉の高い評価を得たが、その大器を秀吉から警戒されることもあったようだ。
………
蒲生氏の軍旗

会津少将-氏郷の無念

 天正十八年、小田原の役が終わった後、氏郷は東北の押さえとして会津四十二万石を与えられた。

 

このとき、氏郷は広間の柱に寄りかかり涙ぐんだという。それを見た朋輩が感涙を流していると思いこみ「ありがたく思われるのはごもっともなことでございます」と声を掛けると、「そうではない。小身ではあっても、都の近くにいれば、一度は天下に号令する望みもある。いくら大身のものでも、雲を隔て海山越えた遠国にいては、もはや天下人への望みもかなわぬ。わしはすでに不要な者になったかと思うと、不覚の涙がこぼれたのだ」と答えたという。

 


 また、秀吉は近習の者に「氏郷は奥州に行くことをどう思っているのか」と問うた。「大変迷惑がっております」と答えると、「いかにももっともなことだ。氏郷をこちらに置いておくと、恐ろしい奴なので、それで奥州につかわすのだ」と言ったとも伝わっている。このことからも、秀吉が氏郷の存在に対して決して心を許していなかったことがうかがわれる。いずれにしろ、氏郷は野心横溢な人物であったことは間違いない。
 しかし、その野心に相応しい能力の持ち主だったことは、伊達政宗の監視役として会津に居を構え、煙たがった政宗が暗殺者を送り込んだことからも知られる。そして、氏郷は会津の大守として葛西・大崎一揆の鎮圧や、南部の九戸政実の乱などに持ち前の軍略を遺憾なく発揮し、秀吉から与えられた重大な任務を全うし、加増されて文禄二年(1593)には九十万九千三百石を領する大大名になった

 

氏郷の肖像
 ところで、氏郷が勇将であったことの挿話として、「主将たるもの人を使う時は自ら先頭に立たねばならぬ。後ろから、ただ、かかれ、かかれというだけではうまくはいかぬ」と言い、新参者には「わが旗本には銀の鯰尾の兜をいただき、先陣に進むものがいるから、この者に劣らぬ働きをせよ」といわれた。     それは一体誰だろうと思っていると、まさにそれは氏郷自身であった。まさに知勇を兼備した武将、それが氏郷であった。
 しかし、そのような氏郷に対して天命は冷たかった。氏郷は秀吉に先立つこと三年、文禄四年(1595)四十歳にならずして没してしまった。氏郷の死を聞いた人々は、秀吉が毒殺したのだと噂し合ったという。氏郷の辞世は

 限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風

というもので、天命の無情に対するかれの無念が感じられる一首ではある。
 氏郷の死後、秀行が家を継いだが若年のため、宇都宮十二万石に減封されたが、関ヶ原の功で会津六十万石に返り咲いた。しかし、秀行の死後、子忠郷も没し、次男忠行にも嗣子なく蒲生家は断絶してしまった。

【参考資料:戦国大名家系譜綜覧/蒲生町史/近江日野町志 ほか】

 

 ■参考略系図
・蒲生氏系図は、『蒲生郡誌』『会津四家合考』『近江日野町志』などのものが知られる。ここでは、『近江日野町志』所収系図を底本に作成したものを掲載。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・清源寺(定秀の別邸桂林庵・西大路藩/仁正寺藩主市橋氏の菩提寺) 近江国(日野)

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

仁正寺藩1万8千石の藩主市橋氏の菩提寺として三藩主の廟塔や数々の仁正寺藩史料を伝えるこの寺はもと蒲生氏郷の祖父に当る定秀の別邸桂林庵であったものを、元和6年(1620)初代藩主市橋長政が菩提寺と定め元禄期に臨済宗永源寺派の寺とし、宝永元年(1704)清源寺の寺号を称した。境内墓地には約200人に及んだ藩士の墓石が並んでいる。なお町内唯一奥山半僧坊がこの寺に祀られている。(現地説明板)

 天正7年(1579)、蒲生定秀の別邸桂林庵がこの地に設けられたのが始まりと伝えられてます。                                            定秀没後は、寺院となり、蒲生定秀の位牌が安置されました。

蒲生定秀の位牌

近江の国の奥ふところ、近江商人発祥の地の1つ日野の町外れにあるお寺。日野は蒲生氏郷出身の地でもあり小さな町にしては多くのものが凝縮していて、それはこのお寺にも感じることができる。

臨済宗永源寺派の禅寺である祥雲山清源寺は、江戸時代のこの地の領主、西大路藩主市橋公代々の菩提寺として栄え、藩主の廟堂をはじめ藩士の墓、西大路藩に関係する数々の資料を伝えている。もと蒲生氏郷の祖父に当たる蒲生定秀の別邸である啓林庵がこの地設けられたのが始まりであるとされ、定秀没後に寺とした。元和六年(1620)に蒲生氏の旧城内に藩庁を設けた市橋長政が菩提寺とし、以後禅宗の寺となった。(現地説明板)

清源寺の住職さんより清源寺と市橋氏とのつながり、歴代の藩主のこと、お墓のことなど詳しく。

 

近世日野の領主仁正寺藩市橋家の菩提寺。境内には3代・6代・8代藩主の墓があり。歴代藩主の肖像画を伝える

  

なお、駐車場の一角に「蔵人屋敷」が存在した・・・http://yahoo.jp/l9Yhrq

【臨済宗永源寺派】清源寺 蒲生郡日野町西大路1758

0748-52-2728

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!