城郭探訪

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◆蒲生氏郷の生い立ち◆

2013年02月12日 | 武将
  ◆蒲生氏郷の生い立ち◆
 室町幕府は応仁の乱後、現地に新たな支配を固めつつあった戦国大名や国人に、指導権を奪われて
有名無実となり、世はまさに戦国動乱の坩堝と化していた。蒲生氏郷はこうした戦国期の弘治二年
(一五五六)、近江商人発祥の地として知られる近江国(滋賀県)の日野城において生まれた。城主は
祖父の定秀で四十九歳。父はその嫡男賢秀で二十二歳。母は近江守護職佐々木氏の重臣後藤賢豊
の娘であった。祖父定秀は日野城を築き、日野の城下町をつくった人であったから、蒲生様の御孫に男子
誕生ということで城下の喜びに沸き返るなか、幼名を鶴千代と命名された。
 蒲生家は大職冠・藤原鎌足より出、百足(むかで)退治伝説で有名な俵藤太秀郷を遠祖に持ち、父の
右兵衛太夫賢秀は近江の守護大名佐々木六角氏に仕えていた。
 その頃、織田信長は岐阜城にあって、時の風雲児として天下覇者への道を驀進し始めていた。
 永禄十一年(一五六八)六月、越前朝倉氏のもとに身をよせていた将軍足利義昭は、岐阜の信長を頼り、
一方信長は、これを幸いとして美濃西庄立政寺に迎え入れ、七月になると将軍上洛という大義名分を掲げて
京都への道を進み始めた。これを迎え討とうとしたのが近江の守護職佐々木六角氏である。佐々木氏は
本城の観音寺城に依っていたが、有力配下の武士たちの間では主家に離反する者相次ぎ、一支城が
信長軍の猛攻の前にあえなく落城するや、佐々木氏自身恐れをなして逃げ落ち、観音寺城は戦わずして
落城してしまった。その翌日、信長の軍門に降った蒲生賢秀は、観音寺城に入った信長にまみえて、
本領安堵の教書を受け、人質として嫡子鶴千代(氏郷)が差し出されたのである。このとき鶴千代十三歳、
町野左近を附人として岐阜城へと送られたのである。
 その頃の岐阜城には、信長の軍門に降った諸国の武将から送られてきた多くの人質たちがいた。信長は
岐阜城で鶴千代をひとめ見たとき、その目付き、物腰、受け答えなどに感じ入り、「この少年ただ者ならず」
と思うようになった。人質の身分ではあったが近習に取り立て、自分の一翼を担わせるに足る人物として
自分の娘と娶わせることを約束した。
 ある夜岐阜の城内で、信長を主座として、夜の更けるのも忘れ軍談に花を咲かせたことがあった。その頃
美濃三人衆の随一とうたわれた軍学者の稲葉伊予守一徹(貞通)がふと見ると、信長の近習である十三歳
の少年鶴千代が目を輝かせ、大人たちの語る軍談を一語も聞き洩らすまいと身を乗り出して耳を傾けている。
他の少年ならば眠気を催す時刻なのに、この少年の態度は全く異なっている。その姿を見た一徹は、「蒲生
の子は稀な器量人だ。やがて大軍を率いる武勇の将になるだろう」と予言したという。
 こうして信長の目にとまった鶴千代は、岐阜の名刹瑞竜寺の禅僧南化和尚(玄興)に師事させることになり、
儒・釈の道を学ぶのであるが、この南化和尚のはからいで谷宗養・里村紹巴からは連歌・茶道を学んだほか、
斎藤利三の奨めによって武芸をみがくなど、文武両道の武将となる素地は、少年の頃からすでに磨かれていた
のであった。こうして鶴千代十四歳のとき、信長は自ら烏帽子親となって元服させ、弾正忠信長の「忠」の
一字を与えて「忠三郎賦秀」と名乗らせ、天下布武の大業の一翼を担わせることになるのである。
※ 藤原秀郷
 俵藤太秀郷と言った方がよく知られた平安朝時代の武将である。“俵”とも“田原”とも書かれている。
 近江の瀬田の唐橋で、大蛇に身を変えていた琵琶湖の竜神に頼まれ、三上山を七廻り半もする大百足を
退治したという“三上山伝説”の主人公として知られる。この百足退治の伝説は『俵藤太絵巻』に出てくる話
だが、実際には天慶三年(九四〇)、ときの朝廷に刃向かって乱を起こした平将門の天慶の乱を鎮圧し、その
大功によって鎮守府将軍に任ぜられている。

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