日野町を舞台にした探訪「蒲生氏郷の足跡を訪ねて~中野城と城下町~」
蒲生氏郷は近江日野出身の武将。近江守護六角氏の家臣であったが、父・賢秀が織田信長に従い、以降織田家の家臣として信長の天下統一に参加していく。
探訪では、氏郷の居城中野城の城下町として発展した日野町を散策しながら、今も残るゆかりの地を巡る。
お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町西大路 map:http://yahoo.jp/pwCfLV
別 称:日野城
区 分:平城
現 状:山林
築城期:室町期 大永年間(1521~1528)
築城者:蒲生貞秀
遺 構:廓・石塁・空堀・門跡
城 域:650m×860m
目標地:中野城
駐車場:中野城の駐車場
訪城日:2013.7.15
お城の概要
中野城は蒲生氏郷の生まれた城として知られている。
城址は昭和40年日野川ダムの建設時に多くの土塁が壊され、本丸の北側半分を除いて大半が水没し、現在では稲荷山と石垣及び空堀の一部が残されている。
中野城の北には、隣接して西大路藩市橋家1万7千石の西大路陣屋(仁正寺陣屋)がある。
お城の歴史
文亀3年(1502)10月、伊庭出羽守貞隆が守護佐々木六角高頼に背いたので、高頼は兵を出して伊庭氏を討ったが、却って敗れ、高頼は音羽城に逃れた。
伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。
貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。その子秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。
貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を高郷は中野城を居城とした。
秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。この後、高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。
定秀の子賢秀は信長に仕え、本能寺の変の際には安土城二の丸で留守を預かっていた賢秀は、秀郷と図って信長の妻女を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘には応じなかった。
その後、秀郷(後の氏郷)は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正12年(1584)には伊勢松坂12万石の領主となり松ヶ島城へ移り、その後松坂城から会津黒川城42万石(後の若松城)に移封された。
日野城には、蒲生氏あとに田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長8年(1603)には廃城となった。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア(Wikipedia)、現地説明板
本日の訪問ありがとうございす!!
日野城
日野城 | |
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別名 | 中野城、(仁正寺陣屋) |
城郭構造 | 平山城 |
築城主 | 蒲生定秀 |
廃城年 | 1600年 |
指定文化財 | なし |
日野城(ひのじょう)は、滋賀県蒲生郡日野町にあった日本の城。
江戸時代は、日野城跡の一部に仁正寺藩市橋氏が仁正寺陣屋を構えた。
歴史的には日野城というが、日野町には中世蒲生氏が築いた音羽城と区別する必要もあり、日野の地域名をとって中野城とも呼ばれる。
概要
蒲生定秀が天文2年(1533年)から3年ほどかけて日野の地に本格的に築城した。
蒲生氏は蒲生賢秀の代に織田信長の臣下となり、天正10年(1582年)、本能寺の変が起こった時には、賢秀とその子蒲生氏郷は織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れた。
天正12年(1584年)氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い以降廃城となった。
元和6年(1620年)市橋長政が中野城跡の一部に陣屋を構え仁正寺藩の陣屋として明治維新まで続いた。
遺構は、日野川ダムの建設時に大部分が破壊されたが、涼橋神社と稲荷神社の周辺に一部石垣や堀が残っている。遺構の残る主郭部の近くには、「蒲生氏郷公産湯の井戸」がある。また、仁正寺陣屋の建造物は、明治時代に西大路小学校校舎として使用された後、大正7年(1918年)に京都・相国寺の塔頭・林光院に移築され、方丈・庫裏として現存している。
近 江 敏 満 寺 跡 |
近江敏満寺跡(近江胡宮明神)
参考文献:「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006:(当ページの大部は左記参考文献による。) ★近江敏満寺塔婆の概要 古代・中世には敏満寺三重塔(五重塔)、南谷西福院多宝塔、西谷西迎院多宝塔の3塔があったことが文献で確認できる。 ★敏満寺の創建 聖徳太子、あるいは慈証上人、あるいは敏満童子などと云われるが、東大寺水沼荘と関係する敏満童子説が有力と云う。 ★中世の敏満寺 ●「平等院坊下史」
上記の「坊政所下文案」に敏満寺の四至が示されている。 ●東大寺・俊乗坊重源
金銅一尺三寸五輪塔:重文・胡宮神社蔵 ●白河院舎利 ●「敏満寺堂塔鎮守目録」(「敏満寺縁起」<元徳3年(1132)と云われる。>所収)
●多賀社参詣曼荼羅
「参詣曼荼羅2」
上掲:多賀社参詣曼荼羅2・・・モノクロ図(全図)、多賀社参詣曼荼羅2・・・色彩図(右部分図) ※参詣曼荼羅:多賀参詣曼荼羅は多賀明神及び中世敏満寺を描いた貴重な絵図で、 ★中世末期の敏満寺 ●「福寿院由来記」
⇒その後、敏満寺の兵火による荒廃を記し、その直後の再興の状況を記す。
⇒「新谷氏伝譜系図」では永禄5年(1562)の淺井長政による兵火があったとする。
★近世以降の敏満寺 永禄5年の戦火で本尊大日如来は西麓の宝寿院に遷座、慶長年中には礎石が彦根城普請のため運び去られると云う。 2008/09/24撮影: |
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。
楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。