城郭探訪

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・日野城跡(中野城跡)

2013年07月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

中野城の城址碑(蒲生氏郷の生誕した城)

     

蒲生氏の居城跡。中野城ともいいます。築城以前の蒲生氏の城は、音羽丘陵上にありましたが、蒲生定秀(がもうさだひで)により戦国時代に日野城が築かれました。築城にあたっては、既存の日野市街を城下町とし、城のある西大路付近を武家屋敷地帯、日野市街を町屋敷地帯としたといいます。

 明智光秀の謀反(本能寺の変)によって殺された織田信長の妻子が、身を寄せたのは日野城です。蒲生氏郷はこの城で生まれ、若くして戦国武将の器量を備えていたので、豊臣秀吉に抜擢されて伊勢12万石の領主となって日野城を去りました。江戸時代に廃城となり、付近の農民が開墾して城内はすっかり姿を変えました。城の遺構は、日野川ダムの建設により、現在ではほとんど見ることができませんが、ダム北畔に本丸跡石垣が少し残っています。

 ◆蒲生氏郷の生い立ち◆

 蒲生氏郷 銅像

近江氏郷公は、戦国の時代 日野町において誕生し、三重県松阪市や福島県会津若松市にて出世し100万石の城主になり国を治めました。
40才という短命で、もし長生きをしていれば天下を治めていたとも言われています。
日野町では、歴史的偉人をたたえ、昭和63年に銅像を再建しました。 

 

 

 中野城(日野城)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。

 定秀の子賢秀は信長に仕え、本能寺の変の際には安土城二の丸で留守を預かっていた賢秀は、秀郷と図って信長の妻女・女衆を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘には応じなかった。

 

 その後、秀郷(後の氏郷)は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正12年(1584)には伊勢松坂12万石の領主となり松ヶ島城へ移り、その後松坂城から会津黒川城42万石(後の若松城)に移封された。
 
 日野城には、蒲生氏あとに田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長8年(1603)には廃城となった。

この石垣は近世に積まれたようです。 

  

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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