城郭探訪

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新村城(志村城) 近江国(能登川)

2013年07月20日 | 平城
新村城(志村城)
新村城(志村城)のあったされる場所 
 
所在地:東近江市東新宮町(旧神崎郡能登川町東新宮)  nap:http://yahoo.jp/2rbtEV
別 名:志村城
区 分:平城
遺 構:新村城主の墓だという伝わる宝篋印塔が一基
築城者:志村氏
城 主:高橋氏、志村氏
目標地:乗蓮寺
駐車場:乗蓮寺
訪城日:2013.7.8
 
 
 乗蓮寺は新村氏の菩提寺ともいわれ、この寺の本堂には “輪違い紋” が掲げられている。これは志村氏が改姓する以前の高橋氏時代の家紋であったという。ちなみに志村氏の家紋は揚羽蝶紋である。
 新村城は愛知川の左岸、東新宮町の浄土真宗本願寺派 花鳥山浄蓮寺の東側一帯が新村城とされる。
 
新村城城主の墓と伝わる宝篋印塔乗蓮寺の前、道路脇には新村城主の墓だという伝わる宝篋印塔が一基残されている。
 
新村城主・志村氏は、元々は高橋氏がこの地に移って志村氏を名乗ったとされる。
六角氏について織田信長と戦い敗れた時に 670人が打ち首になったといい、子供や孫達は静岡に逃がしたと伝えられる。

 なお、乗蓮寺は新村氏の菩提寺ともいわれ、この寺の本堂には “輪違い紋” が掲げられている。これは志村氏が改姓する以前の高橋氏時代の家紋であったという。ちなみに志村氏の家紋は揚羽蝶紋である。
 
 
 
 東新宮【正源寺】(揚羽蝶紋)
西新宮【京勝寺】(揚羽蝶紋)
 
 
【新村城について】
 新村城は、元亀2年に織田信長により落城します。
新村城の城攻めは、町史・近江源氏などにかかれています。志村左衛門忠資は、永禄 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると石山本願寺の第11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし織田信長に宣戦布告(石山合戦)する。
 
 この顕如の檄に対して、近江の一向一揆衆は金ヶ森城(金森道場)を中心に、志村城や小川城に楯籠もって信長に対抗するが、元亀2年(1571)に信長軍に攻められ落城する。

 
 新村城の攻防について、「信長公記」の元亀二年の項に記述があるので、紹介する。
------------------------江南鎮定  しむら攻め干さるるの事

 9月1日、信長公は佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の四名に命じて志村城を攻めさせた。四将は城を囲んで四方より取り寄せ、城壁を乗り破って乱入し、首数六百七十余を挙げて城を落とした。この猛攻のさまを目にした隣郷の小川城主小川孫一郎は戦慄し、人質を差し出して降伏を申し入れてきた。信長公はこれを受諾した。
 そののち信長公は常楽寺①に滞留し、9月3日軍勢を一向一揆の立てこもる金が森城②の攻略に向かわせた。金が森を囲んだ織田勢は、城方の作物をすべて刈り取ったうえ四方に鹿垣をめぐらせて諸口を閉ざし、城を完全に取り込めてしまった。城方はたまらず人質を供出して降伏した。信長公はこれをも受け入れた。

 金が森攻略後、信長公は旗下の軍勢に南方表へ進撃する旨の軍令を発した。そうして大兵を率いて西上し、11日瀬田の山岡玉林斎景猶館に着陣した。
 しかし、攻撃先は南方ではなかった。

 ①現滋賀県安土町内(前出) ②現守山町金森

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元亀2年、信長は佐和山城にすすみ、丹羽のもとに泊まりました。9月1日に新村城を攻めさせました。攻撃は、佐久間信盛など、4人に命じ数千の兵で、四方から攻め寄せ670の首数を討ち取りました。お墓は、今もある法筐印塔だといわれています。新村城落城後は、秀吉は新村の地四百石を福谷藤介に、給与しています。
 
 城祉については、神埼郡史、江戸時代の古城取調書、にも記されています。
 
年表
弘治(1555~1558)宮西村ができる
永禄 江波が川南村になる
永禄2年新村伊豆守が木を寄付する
元亀1年寶満寺兵火で焼失
元亀2年(1571)8月信長が新村城を、攻略・670人余りが討首に
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、お城のとびら等
 

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