城郭探訪

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仁正寺陣屋(西大路藩) 近江国(日野)

2013年07月14日 | 陣屋

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町西大路  map:http://yahoo.jp/W2g8gq

別 称:西大路藩

区 分:陣屋・藩庁

現 状:運動場

築城期:江戸期 元和6年(1620)

築城者:市橋長政

遺 構:城跡碑・説明板・移築本殿

標 高:200m  比高差:ー

目標地:日野城(中野城)

駐車場:日野城(中野城)駐車場

訪城日:2013.7.6

お城の概要

西大路陣屋は中野城の城域にあり、案内板と共に石碑が建つだけで、陣屋の藩庁跡はゲートボール場となっている。

 唯一京都の相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築されている。

 京都相国寺の塔頭 林光寺の本堂に陣屋御殿を移

お城の歴史

 大永3年(1523)蒲生氏が日野の地に日野を築城した。賢秀の代に織田信長の臣下となった。天正12年(1584)蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降廃城となった。

元和6年(1620)市橋長政が越後国三条より2万石で入封し、日野城(中野城)の一部に陣屋を構えた。元和8年(1622)、長吉に2千石分知し、慶安元年(1648)、市橋政信の弟政直に1千石分知し、1万7千石となった。文久2年(1862)仁正寺を西大路藩に改称した。

以降江戸時代を通じて、市塙氏は日野を離れる事もなく10代長和の代に明治維新を迎えた。

  

仁正寺藩は、近江国蒲生郡仁正寺(現滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。別名を西大路藩とも言う。藩庁は仁正寺陣屋。

 西大路陣屋は西大路藩市橋家1万7千石の陣屋で、元々仁正寺と記していたものを文久2年(1865)に改称したものである。

 西大路藩は元和6年(1620)市橋長政が野洲郡,蒲生郡などに2万石を封され、この地に入部し、築城したことに始まる。
市橋家は元々織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いや大阪両陣での活躍により、元和2年に越後三条に4万石をを封された。同6年3月藩主長勝が死去し、養子の長政は減封され近江国に移り、戦国期の蒲生氏の居城・中野城に注目し仁正寺陣屋を構えた。

 元和8年幕命により所領2千石を同族の市橋長吉に分与し、2代目政信は弟・政直に1千石を分与し、1万7千石となる。その後11代続き幕末を迎えた。明治4年の廃藩置県により西大路藩は廃された。

 陣屋は明治7年に朝陽小学校となり、建物はそのまま使用されたが、大正5年に小学校が移転・新築され陣屋の建物は京都相国寺の塔頭である林光院に移築された。

藩史

元和6年(1620年)、市橋長政が近江国蒲生、野洲両郡と河内国内に合わせて2万石を与えられたことから、仁正寺藩が立藩した。長政は元和8年(1622年)1月、幕命により市橋長吉(三四郎)に2,000石を分与したため、所領は1万8,000石となった。長政は徳川家光のもとで奉行として功を挙げている。慶安元年(1648年)に長政が死去すると、後を長男の市橋政信が継ぐ。このとき、弟の市橋政直に1,000石を分与したため、1万7,000石となった。政信は徳川家綱、徳川綱吉のもとで功を挙げている。その後の藩主は第5代藩主・市橋直挙が第8代将軍・徳川吉宗に認められた教養人であるということくらいで、特筆すべき事柄はない。

幕末期、最後の藩主であった市橋長和は幕末の動乱の中で国防のために火薬の製造、武芸奨励などに尽力した。文久2年(1862年)4月28日には仁正寺を西大路と改名したため、以後は西大路藩と称された。長和は当初は佐幕派であったが、次第に新政府側に傾いてゆき、明治天皇が東京へ行幸するときには天皇の奉送や京都守衛などで功績を挙げている。

現存する建物

  • 旧藩邸の大半は大正初年に京都相国寺の塔頭林光院として現存。
  • 旧藩邸の勘定部屋は町内に移築。現在大字西大路衆議所として使用。
  • 市橋家の菩提寺である清源寺書院は文久元年の新築前の藩邸の一部を移築。
  • 大字西大路聖財寺、法雲寺も藩邸の一部が移築または部材が転用されている伝承がある。

歴代藩主

市橋(いちはし)家

外様。2万石→1万8,000石→1万7,000石。

  1. 市橋長政(ながまさ) 元和6年(1620年)藩主就任-慶安元年(1648年)2月11日死去
  2. 市橋政信(まさのぶ) 慶安元年6月4日藩主就任-宝永元年(1704年)1月1日死去
  3. 市橋信直(のぶなお) 宝永元年2月29日藩主就任-享保5年(1720年)3月26日死去
  4. 市橋直方(なおかた) 享保5年4月26日藩主就任-元文元年(1736年)5月25日隠居
  5. 市橋直挙(なおたか) 元文元年5月25日藩主就任-宝暦8年(1758年)11月24日隠居
  6. 市橋長輝(ながてる) 宝暦8年11月24日藩主就任-天明5年(1785年)10月6日死去
  7. 市橋長昭(ながあき) 天明5年12月7日藩主就任-文化11年(1814年)9月27日死去
  8. 市橋長発(ながはる) 文化11年11月29日藩主就任-文政5年(1822年)1月30日死去
  9. 市橋長富(ながとみ) 文政5年9月1日藩主就任-天保15年(1844年)10月7日隠居
  10. 市橋長和(ながかず) 天保15年10月7日藩主就任-明治4年(1871年)7月14日藩知事免官

幕末の領地 近江

    • 野洲郡のうち - 3村
    • 蒲生郡のうち - 27村
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア
  本日の訪問ありがとうございす!!

楢埼(ならさき)氏の菩提寺 近江国(多賀)

2013年07月14日 | 居館
楢崎(ならさき)城
佐和山城の移築門は、敷居ない(馬で駆け抜けるため)
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町楢崎 map:http://yahoo.jp/fYrh5J
現 状:寺院・宅地・森林
区 分:平城
遺 構:土塁・石垣・水堀・大堀・佐和山城より移築門
築城期:室町期
再興期:江戸期
築城者:楢崎氏
再興者:彦根藩主 井伊家の家老、脇家・宇津木家
目標地:高源寺
駐車場:高源寺駐車場3台
訪城日:2013.7.13
 
:佐和山城から移築門
 
 
裏には、水堀が2重に(灌漑用溜池か)現在も確認できる。
西は、大横堀、南は2重の水掘、東は犬上川…北の守のみ!(自然の地形に横堀・水掘の防御備え)
 
お城の概要
 この寺は鎌倉時代に創建され、もとは天台宗に属し十福寺と呼んでいました。当寺の裏山には近江源氏・佐々木氏の四天王寺の一人として活躍した樽崎氏の館の跡が残っている。
 高源寺は、元楢崎氏の菩提寺の十福寺で廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
 発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
 楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
 
墓地の突き当り勝楽寺城の東裾大横堀
 
移築門は、敷居ない(馬で駆け抜けるため)高源寺の背後尾根、前面の段築
 
 
歴史
 樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にもその名が記されている。
 永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
 江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。

 平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。
発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
 江戸初期の慶長年間に京都妙心寺の高僧禿翁禅師を招き開山として、脇・宇津木両家の菩提寺としました。そして脇五右衛門豊久禄高三千石(法号 天徳院殿徹岩善随居士)宇津木治部衛門久豊禄高千五百石(法号 高源院殿良山全長居士)両氏の院号にちなんで、天徳山高源氏とし、臨済宗妙心寺派に属し現在に至っています。最盛時には大寺院で学僧五十有余が住した湖東における名刹でしたが、明治九年五月八日未明の火災により、総門だけはまぬがれましたが、他の伽藍はすべて灰燼となりました。
 総門は石田三成の居成であった佐和山城の裏門を移したもので文化財としての価値も高いといわれています。
 
鎌倉時代に創建された寺で、もとは天台宗に属し、十福寺と呼んでいた。
近江源氏・佐々木氏の四天王の一人として活躍した楢崎氏の菩提寺として当院が創建されたたものと推定されている。織田信長によって、佐々木氏が滅亡するや楢崎氏もこの地を離れ、それ以後廃寺になった。これを再興したのが、彦根藩主井伊家の家老の脇家、宇津木家の両家。両氏の院号にちなんで、天徳山高源寺とし、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至る。
 〔大寺院で湖東における名刹であったが、しかしながら明治9年(1876)火災により、総門だけは災を免れたものの他の伽藍はすべて灰となった。総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門をうつしたものである。明治14年(明治の神仏分離令)多賀にあった正覚院、般若院、不動院を移した。
  また、茶人、井伊大老が始めたと伝えられる石州流直弼派‘一会流’の「茶筅(せん)塚」がある。塚は75センチ立方の台座の上に75センチの茶筅が置かれ、ともに御影石製。
  当院には、井伊直弼を助けた「村山たか女」の肖像画がある。「村山たか女」は、多賀大社の近くの生まれで、多賀大社境内にあった般若院に出入りをしていたころに 井伊直弼と当院で出会ったと言われている。〕
源氏物語明石之巻襖絵・地蔵菩薩半跏像など
【その他】
「村山たか女肖像画」「絹本著色源氏物語明石之巻襖絵」300円
高源寺 高源寺
高源寺 高源寺

・村山たか女肖像画   ・絹本著色源氏物語明石之巻襖絵
村山たか女肖像画   絹本著色源氏物語明石之巻襖絵
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布、多賀教育委員会、近江の城、淡海の城、 
 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。