城郭探訪

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信長の千種越え

2013年07月06日 | 講座

 

 

千種街道

信長が馬を繋いだと云われる松元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、信長は蒲生氏配課の「桜谷の佐久良城城主・小倉右京亮実房の道案内」で千種越えで美濃の岐阜城に帰陣する。千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云われる松が甲津畑の速水氏宅にある。


「対岸の信長を狙撃」事件の「善住坊のかくれ岩」

\\\\\\\信長公記 三巻  遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事\\\\\\\\

 5月19日、浅井長政は鯰江城(東近江市・愛東鯰江)に軍勢を入れ、同時に市原(旧永源寺町)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(旧永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離(約22~24mほど)まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

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杉谷 善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)

生年不詳 - 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。

鉄砲の名手であったという以外の人物像は不明であり、出身については織田家に滅ぼされた武家、甲賀五十三家の一つである杉谷家の忍者、雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている。                                                                                         信長を狙った理由も、近江を追われた六角氏からの依頼、信長への個人的な恨み、鉄砲名人としての腕試しなど諸説ある。

元亀元年(1570年)4月、越前朝倉氏攻めの途中で浅井長政に挟撃され一時京都に逃れていた(金ヶ崎の戦い)信長は、翌5月に岐阜城への帰還の途についていた。5月19日、善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江の千草越(千草街道)を通過していた信長を狙撃するが失敗に終わった。12-13間(20数m)の距離から2発撃ったとされるが、信長はかすり傷のみで済んだ。

その後は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。                                                 その結果、近江高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、近江高島郡の領主である磯野員昌に捕縛される。                                        織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。                                                                                               なお『フロイス日本史』にも、名前不明ながら「ある仏僧が立ったまま生き埋めにされ小さなノコギリで首を切断された」事件のことが記されている。それによれば、この仏僧は書状でもってある1つの城を信長に敵対させようとしていたとのこと。

・八風街道(菰野町田光から八風峠を越え永源寺町杠葉尾までの「八風越え」)

・千種街道(菰野町千種から根ノ平峠を越え現滋賀県永源寺町甲津畑までの「千種越え」)

 

八風街道が桑名と近江の八日市を結ぶ最短距離の道であるならば、その南の千草街道は、四日市と近江の日野を結ぶ交通路であった。この道は一般に千草越え、あるいは甲津畑越え、根の平越えとも呼ばれ、現在でも菰野町千草から滋賀県永源寺町甲津畑に通じている。中世には、鈴鹿峠を避けてこの峠道が八風峠とともに最もよく利用された通商路であった。

この千草越えも八風越えと同様、近江六角氏の庇護の下にあった保内(山越)商人(近江商人の発祥=東近江・今掘の)が流通路の独占を図っていた。根の平峠の下、千草街道に面して千種城があり、天文9年(1540)、近江の六角氏に属して以後その被官となった千種氏は、在地領主として城下を通る交易商人に対して多少の関料を取り立てていたようである。

千種氏から峠の流通独占権を認められていた保内商人は、その見返りに役銭を支払っていたわけで、このような役銭の支払による通行及び営業圏の独占は近世初頭まで続いた。

近江の保内商人(近江蒲生郡得珍保内の今堀・蛇溝・中野・今在家などの諸郷の商人で、鈴鹿山脈を越える山越商人)が独占していたようです。約一,〇〇〇点にも及ぶ滋賀県八日市市の「今堀日吉神社文書」中の永禄二・三年(一五五九・六〇)の「保内商人申状案」によると、保内商人が八風・千種越えで、千草氏から両峠の流通独占権を認められ、その見返りとして役銭を支払っていたことがわかります。

織田信長もここを越えている。『信長公記』の元亀元年(1570)5月の記事によれば、信長は京都から岐阜への帰途、千草越えの途中、佐々木承禎に頼まれた杉谷善住坊によって狙撃されたが、弾丸は身体をかすめただけであったとある。

 

 

千種街道の杉峠千種街道、杉峠

 杉峠には、名前の由来を示すかのように杉の木が何本かあります。


参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・・blog 等々

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