考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

教師とトレーナーとコーチ

2011年10月04日 | 教育
数年前、百ます計算が流行っていた頃、テレビでその様子が映し出されていた。小学校の先生が、ストップウオッチを持って児童が懸命に計算に挑む。両者とも、真剣そのものであったが、私は違和感を感じた。先生が訓練士のように見えたからだ。
 技術指導は重要であるし、読み書きそろばんといった基本的な学習も一朝一夕で身に付くわけでない。当然、訓練が必要である。「ドリル」がそうだ。しかし、学校の先生があまりにトレーナーのような様相を示すのは、一体、どうなのだろうかと思う。
 教師はトレーニングもさせるがトレーナーではないし、技術指導などをしても決してコーチではないと思う。トレーニングも技術指導も、本質的な職務ではないと思う。なんとなく、そんな気がする。もし、教師がトレーナーなら、トレーナーと名を改めれば良い。コーチならコーチと呼ぶようにすれば良い。(勉強とスポーツは違う、という話ではない。)しかし、教師と名が付く以上、教師は教師だろう。
 ピアノの先生や芸事の先生の仕事は教師の仕事に似ている。芸術性の高いスポーツの指導も似ている気がする。先生は、少しは自分がやって見せるが、口で、言葉で、あれこれ指導する。この際に使われる「言葉」は、「そうではない。君の行くべき道はあちらだ。」だろう。内田先生なら、「シリウスを目指せ」なのかな。「師匠と弟子」という間柄ではなくても、より高いところを目指させるのが教師ではないのかと思ったりする。トレーナーやコーチは、非常に具体的なところを目標とさせるような気がする。しかし、教師の本質は、もっと抽象的でわかりにくく、「学ぶ人たちがよくわからないところ」を目指すことを教えることだろう。
 この意味で、今は、何かというと「具体的でわかりやすい目標」を挙げる。これが、教師をして教師でなくならせてしまう元凶ではないかと思う。

 進路指導では、絶えず、「君は何がしたいのか」と問う。早く目標を決めることを求める。いわゆる「進路実現」というヤツであるが、本質的な部分抜きに、求められ続ける生徒は、かなり可哀想だと思ってしまう。より高いところの存在を強く知らされることがないからだ。