考えるのが好きだった

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役に立つ・役に立たない

2011年04月23日 | 教育
 「役に立つかどうか」が、何ごとに関してであれ判断基準になることが多い。英語が役に立つかどうか、とか、文法は役に立たない、とか。こういうときの「役」は、非常に多くの場合、というか、ほとんどが「そのときの欲望の成就」だろうな、と思う。
 英語を学んだとしたら、自分が学んだまさにその英語を使う場面になって初めて、「役に立った」「役に立たなかった」と言う。三角関数やベクトルが役に立つかどうかも同じような判断だろうから、自分が使っている携帯やナビに(よく知らないけれど、数学が使われていないはずないと思うけど。)そうした数学が使われていたとしても、使っている人は、「勉強をしても三角関数なんて役に立たない」と思うだろう。だって、「自分自身」は、三角関数なんか知らなくても携帯やナビの操作方法さえ知っていれば用が足せるから、自分がどんなに勉強をしても何の関係もないと思うのだろう。「満たす欲望」は、とにかく、「自分の欲望」であって、他人の欲望を満たすべきものと思わないだろう。だとすると、数学やその他諸々の勉強は、携帯やナビの制作に関わった人にとって「自分の仕事」あるいは「開発したいという欲望の成就」という側面で「役に立った」わけで、それ以外の使用者にとっては何の役にも立たないということになる。
 こう考えると、次に取り上げるべき課題は「他人の欲望を満たすということ」の位置づけ、意味するところである。
 端的に言って、間接的であるにせよ、自分が数学や英語などに取り囲まれている状況で、「英語や数学は勉強をしても自分にとって役に立たない」と言う人は、だったら、一人で生きろ、電気も携帯も瞬間湯沸かし器も何も使わずに生活をしたら良い、ということである。
 自分の欲望を自分が満たすことができるのは、他人様が勉強をしてそれらをかなえてくれたおかげである。もし、自分は彼らにそれなりの代価を払っているから責務を果たしている、と言うなら、いくらお金を積もうとも、原理も技術も何もなかったら恩恵も何もないと思えば理解しやすいだろう。現に、今現在も、未だ技術も考え方もないせいで、失われている生活や命があるだろう。「未だ、ない」から、我々は「ある」ことを知らないだけだ。100年前の人が高度な医療や携帯のある生活を想像できなかったように。未来の世界で多くの学んだ人たちのおかげで何百年後かに「戦争のない平和な暮らし」が成就されたとして、それを我々がまだ知らないように。
 人の行動は自分の欲望を満たすためだけで成立しないと思うことができるのは、人間が社会的動物だからである。自分自身が社会の一員なら、携帯を使うなら、医療の助けを受けるなら、それなりに「原理」の一つとしての数学や英語の勉強をしても良いのではないかと思う。少なくとも、子供のうちはやるべき義務があるだろう。
 たとえ初歩的なものにすぎなくても、自分のやっていることのずっと向こうに、自分が今使っている携帯や電子レンジや、文学や歌があるということを理解するためである。もし、この理解が「関係ない」「無用だ」とされるのは、想像力の欠如だと思う。こうした想像力という観点から鑑みると、「今の自分に役に立たない」「役に立つ」という観点でしか子供が勉強に向かわないのだとしたら、それは人間を止めようとしているのと同意だろう。人間とは、そういうものだ。今の自分、ここにいる自分だけでなく、自分のやっていること、知っていることの「向こう」を想像できるかが、その人を「人間」にするのではないかと思う。この意味で、子供たちが好きであろうと嫌いであろうと勉強をするのは、偏に「人間になるため」であろう。

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