考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

学校と実社会がくっつきすぎ!

2012年03月27日 | 教育
 立教大学の吉岡総長による大学院卒業式の式辞は、大学は徹底的に考えるところだということ、「考える」という営みは本質的に反時代的・反社会的な行為である、と言う内容だった。内田先生のtwitter by平川克美さんから知った。

 私の感想としては、「考える」という行為の反社会性は、何も大学や大学院に限ったものじゃない。本当に「考える」ということをしたら、小学生であろうと、中学生、高校生であろうと、同じだ。ただ、私が思うのは、「反社会的」というより「非・社会的な営為」と言った方が良いように思う。
 そのそのも、一般の実社会では「前提を疑って徹底的に考える」などという非効率的なことはしない。「前提をそのままに対処する、その対処法」は、かなり真剣に考えるだろう。しかし、「前提」を疑ったり再確認することはないから、徹底的に考える行為は、「非」社会的であると思うのだ。

 しかし、学校の勉強というものは、そもそも、間違えずに行おうと思ったら、自分自身の思考の前提が本当にそれで正しいかどうかを自ら疑い、さらに、徹底的に検証をするというプロセスを踏まないと、間違えてしまうものである。で、生徒は、これをしないから、間違える。「出来る子」というのは、こうした手順を踏んで学習に取り組む生徒である。

 ということは、世の中というのは、失礼な言い方だが、「元・出来る子」より「元・出来ない子」の集まりから出来ている。ということは、考えることについての訓練が不十分なままに人は世に出る。で、元来、「考えない」習慣で成り立っている社会に送り込まれるのが、また更に、考える訓練が十分でなかった人たちだから、考えるはずがない。
 しかも、これに追い打ちを掛けているのが、ここ数年来の「考えない子供たち」である。「ゆとり教育」の生徒たちは、「考える力」を身につけるための教育を受けてきたはずであるが、実のところは、学問的なことに関して考える力が非常に弱い。いわゆる世渡り的な「考える力」、その場巧く取り持つ力やプレゼンテーションの力はかつての世代より高いかもしれない。しかし、思考の根源になる力は、私はどう見ても弱いように思う。少なくとも、論理性に関して弱い。自分の趣味やその場限りの好みのような感覚的な判断力はあるだろうが、前提から論を構築してものごとを見極める力は弱い。あるいは、もの凄く偏狭だったりする。次元と言う言葉を使うと、非常に低いというか、何というか。
 時代がこんなのだから、大学の先生が、しかも、大学院ではじめて「考える」ということが問題になるのだろう、と逆説的に思う。小学校から、きちんと順序よく考える習慣を身につけた上で上級学校に進学していたら、何も、あえて大学院でこんなことを発言しなくて良いはずだ。いかに、「学校」が「考えること」を行わない場所になってしまったか、という証左のようにさえ思う。

 今の学校教育は、とにかく、「考えさせない」教育を施している。
 と書くと、やれ、ディベートだと小論だのの指導が、授業を双方向的にすべきだ、など、(あえて書くが)「見当はずれ」の発言が幅を来たし、ますます、考えることが阻害される。
 「考える」というのは、ちょっと友達同士で議論すれば身に付くような代物ではない。どこからか、マスコミでも、口コミでもなんでも、人さまの口から出た言葉をつぎはぎすればできることではない。学校のちょっとした勉強であっても、「考える」ことはとても難しい。でも、それをどこかで身体化して体得しなければ、学習事項は身に付かないのである。(だから、たいていの人は正しく身につけないまま卒業をする。)

 と、だらだら書いても仕方がない。
 小学校から1+1の計算から、「あいうえお」から、もっと丁寧にきちんと学習すると、「考える」力も、身に付く。
 面倒になったから端折るけれど、ま、そんなものだと思う。

 きちんと学習をすれば、時間はかかっても、だれでも、きちんと出来るようになる。それを端折って「効率よく」身につけようとするから、身に付くものも身に付かない。どこかの体操の指導者が言っていた。オリンピック選手の卵を育てている人だった。正しい方法で行えば、誰でもできるようになる。ただ、子供によっては時間がかかるだけだ、と言っていた。サーカスの人も、運動神経が特別良いわけではないらしい。子供の時からの訓練などで、育っていく。何か、そんなところが関係するのではないか。でも、今の学校の勉強のやり方は、違う方向を向いているのだろう。オリンピック選手やサーカスには「決して通用しない」やり方に違いないと、私は感じてやまない。

 なぜ、そうなってしまったかって?

 学校に実社会の価値観が入り込んできたからに他ならない。
 教育は、学校は今のままではだめだ、と言われ続けた。批判の根底には、一般社会における価値判断で練られた対策がある。しかし、そのあげくの結果がこうだったということだ。

 と、近年の高校生および学校の様子を見て、つくづく思うのであります。

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