考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「すること」と「あること」その2

2009年07月12日 | 教育
 今の時代は「すること」ばかりが重視されている気がする。だから、ハウツー本が流行るのかなあ。
 他方の「あること」は蔑ろにされている。

 臓器移植が問題になるのも、臓器を提供する側の「あること」は無視され(だって、まだ「温かく在る」のだから。)、提供を受ける側の「すること」が大事にされることになる。「すること」が十分に増えるのだから。そのために、臓器が必要なのだから。以前使っていた英語の教科書に、この手の話が出ていた。教えるのがもっとも嫌だったのは、家族が悩んで結論を出したあとの1文だけの段落、「次の日、手術が行われた。」だった。
 どのような手術かなんて、何も書かれていない。手術室に入る前の「患者」と出てきたときのその人のもの凄い大きな違いは、高校生のレベルで多分に想像し得ないだろう。だから、単に「手術が行われた」とだけ書いてある。私は筆者の偽善を思った。授業では、それとなく、「○○さんが手術室に入る前と出てくるときにどんな様子になっているかは、書いてないよね」とだけ言った。
 私はこの件についての是非を述べているわけでない。社会現象の一例として挙げたつもりはあるが、それ以上の意図はない。

 「すること」重視の考え方は、教育全般に、学校教育にも入り込んでいると思う。今の子供が気の毒に思われるのはだからだ。
 彼らは、「あること」の前に「すること」を求められている。「ある」のは全人的な営みに関わると思うが、「する」には、多分に部品的なというかシステムの一つとしての営みとして機能する気がする。その「システム」は、例えば「喰う、寝る」なら、自分の身体というシステムの維持に関わるだろうが、「役割」としての仕事をするとなると「社会」というシステムに合わせていると言うことだ。(だからといって、それがいけないと言っているわけではない。)
 子供は、まだ一人前として「在る」わけではないから、「あること」の感覚というか、何だろう?自分の足でしっかりと自分は立って存在をしているのだ、という感覚の育成が人間として生きていくのに最も大切なことだと思うのに、それ以前に、学力だの何だのの言わば「付加価値」こそが大事だという教育を、おそらく、家庭でも学校でも受けているのではないのかなぁ、と思うのだ。ここで言う「子供」は、小学生辺りをイメージしているが、高校生であっても、うっすら、「在る」という感覚が希薄だったり、非常に弱かったりする生徒が存在するから、私はそう思うのである。

 「すること」はあくまでも「あること」の上に立つものでなければならない。この原点に立ち返る必要があるように思う。

思考の次元

2009年07月12日 | 教育
 この間、管理職と個別に話をしていたとき(全員としているもの)、「そう、そう」と言って、ある写真を示してくれた。義務教育の管理職対象の雑誌のある記事に添えられた、鉛筆を持って書き物をしている児童の写真である。文章の内容とは全く関係がない。
 その管理職の意図がわかった。写っている少女の鉛筆の持ち方が変なのである。ほぼ全員が進学する今の学校でも、クラスに何人かは必ずそういう持ち方の生徒はいる。
 「カメラマンは、鉛筆の持ち方が変だと思わなかったのでしょうね」ということになった。(う~む。それとも、カメラマンは、わざとその情景を撮ったのか? だったら、そのカメラマンは義務教育、その管理職連中をひどく皮肉っていることになるだろうね。)
 椅子にきちんと座れずに、鉛筆をきちんと持たずに、勉強なんて、できるようになるわけがない。

 学力低下云々を論議する前に、もっとやるべきことがある。土台が固まったら、学力なんて、自然にあがるさ。
 みんな「目出つ仕事」をしたいだけだと思う。