★北河内路上通信-the Voice of VoICelESs on roadsides in EastOsaka

 北河内路上通信は大阪北河内において、同地域の野宿者と助け合い、共にあろうとする有志によって始められました。

★故 死刑囚・宮崎氏と私…など

2008-06-29 05:43:35 | Weblog
 ・・・あれは筆者が大学時代、高橋和巳も居たという北摂の労働者街で新聞を配っていた頃の事だった。夕刊を配っている時、筆者になついていた5歳くらいの寂しがり屋の女の子が、いつも通りまとわりついてしまったので、「ごめんね、お仕事やから、遊んであげられへんねん」と女の子の目線で言って振りほどくと、勝手に配達用の運搬自転車の、幾分か夕刊の残っている荷台に自力で登り、座っていた。「もう、行くから降りてね、また明日も来るからね・・・」と言いながらむずかるその女の子を荷台から降ろそうとしたところで、そこの父親に「お前何しとんねん、うちの娘に何するつもりや? お前の配ってる新聞の一面にかいたるコイツと一緒やんけ、警察いこけ?」と怒鳴られた。その時に紙面の一面には、6月17日に死刑執行されたという故 宮崎死刑囚の逮捕記事があった。過剰反応を示した父親による完全な誤解であったが、本人は配達中の筆者を駅前派出所(そこも顧客だったが)に突き出そうとし、警察に電話をかけ、その怒声で余計に泣きむずかる女の子を見て「お前のせいで、こんなにないとるやんけ、うちの子に何しょう思ってん?」と一層燃え盛る一方・・・諦めて開き直り謝る事にしたところ、この子の母親が現れ、「あんた、このお兄ちゃんは新聞配ってはるだけや、よぉこの子がまとわり付くからいつも困ってるはずやのに相手してくれたりしはんねんで。はよ新聞配らしたりや、あんたみたいに暇やないねんで!」と助け舟を出してくれて冤罪を免れた。駆けつけた警察も、何や終わったんかいな、という感じで帰っていった・・・ あの日の記憶とともによみがえるのが「今田勇子」の名とあの記事だった。精神鑑定で「問題あり」とされた彼にいつしか死刑が求刑され、確定し、執行された・・・あれから、少なくとも20年以上は過ぎた。その間、「視覚的娯楽としての殺戮行為をニュース映像として垂れ流す」湾岸戦争をはじめ、奴らは自らの支持するアメリカ国家の大量破壊と無差別殺戮行為を一方で正当化し、他方で「凶悪殺人者」を死刑や厳罰によって容赦なく断罪する意味不明を18年以上も続けてきたのだ。そして今、ブロイラー工場の鶏や、と殺場の豚や牛の「処理」を許すように次々と絞首台へと続く殺戮のベルトコンベアの回転を上げ、「凶悪犯罪抑止」のオゾマシイ念仏を唱える鳩山と法務省には殺戮ラインのベルトコンベアを止めよと言いたい。暴力の総元締めである国家暴力が、「暴力を自由に行使できるのはワシらだけや、管理支配される分際で暴力を自由にしようなんざ、考えたら、いてまうぞ」というあほらしさには、なお、暴力を相殺する暴力を否定しない抵抗を諦めるわけには行かない。「殺すナと言うなら、お前らこそが手本を示せ」・・・だ。ともかく、罪を償うことをスラ中断させた死刑に何の意味があるのだ? 志願して死刑になる個々人に何が犯罪抑止力か? 逆に我々民衆個々人は言わねばならない、「暴力の総元締めである国家暴力とその勝手なオキテこそが総てを民衆本位で清算した上で、絞首台で直ぐにでも執行されろ」と。