神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・服部天神宮(豊中市)。

2008年04月10日 | ◆大阪府
健脚の神さま・学業成就・商売繁盛

服部天神宮

(はっとりてんじんぐう)
大阪府豊中市服部元町1-2-17

阪急沿線三天神めぐり





〔御祭神〕
少彦名命
(すくなびこなのみこと)
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)



 古代、中国大陸や朝鮮半島からは戦乱を避けるためなど様々な理由で日本に渡ってきた人々がいました。百済から渡って飛鳥に根をおろした阿知使主を始祖とする東漢氏(やまとのあやうじ)、『論語』や『千字文』を伝えた王仁を中心に河内国に本拠を構えた西文氏(かわちのあやうじ)弓月君を始祖として山城国を本拠地に各地へ勢力を伸ばしたした秦氏(はたうじ)など多くの人々が日本へ渡来し、帰化していきました。秦氏は『日本書紀』では百済から来た氏族だと記述されていますが、最近の研究では新羅系だという説が有力になっています。




鳥居をくぐると、「健脚祈願」の幟と提灯が迎えてくれます。



 土木開発や養蚕、機織りなどに高い技術を持っていた秦氏は、5世紀前半の允恭天皇の頃に「機織部」に任じられるなど大和朝廷の中で様々な役割を果たしていました。そんな秦氏が定住したことから、この地には「機織(はたおり)」が転じて「服部(はっとり)」という地名がついたといわれています。服部の地に根を下ろした秦氏は、自分たちが信仰していた少彦名命を祀る小さな祠を建てました。これが服部天神宮の始まりといわれています。




境内にある豊中えびす神社。



 時代は下って平安時代のこと。藤原四兄弟の中のひとり、藤原房前卿の五男として生まれ、称徳天皇の強力な後押しによって皇位を狙ったという説のある弓削道鏡を排除したことでも知られる藤原魚名卿は、光仁天皇桓武天皇の厚い信任を得て左大臣の要職にあった藤原魚名卿は、782(延暦2)年に氷上川継の乱に関与したという濡れ衣をかけられ、無実の罪で大宰権帥として左遷されてしまいました。

 失意のうちに西へと向かった藤原魚名卿は、服部の地にさしかかったところで病に倒れます。この報に接し藤原魚名卿を不憫に思った桓武天皇は、罪を赦して京都へ戻ることを許しましたが、重篤な状態の藤原魚名卿は服部から動くことが出来ずにそのままこの地で亡くなりました。亡骸は少名彦命を祀る祠のすぐ傍に丁重に葬られました。




少彦名命を祀る社殿。朱色が鮮やかです。



 藤原魚名卿の非業の死から1世紀以上経った901(延喜元)年、同じように讒言によって太宰府へと無念の旅を続ける貴人がこの地を訪れます。無実の罪で左遷された菅原道真公は大宰府への道の途中、服部に差し掛かったところで持病の脚気が悪化して歩を進めることが出来なくなりました。これを聞いた地元の人々の勧めに従って「医薬の神さま」としても知られる少名彦命の祠に参拝した菅原道真公は、祠の脇に自分と同じ境遇に陥ってこの地で斃れた藤原魚名卿の塚があることを知ります。今の自分の姿を重ね合わせ、その悲運に大いに同情した菅原道真公は、その冥福を祈って懇ろに供養を行ったといいます。少名彦命藤原魚名卿の霊験によって脚気が全快した菅原道真公は、無事に大宰府まで辿り着くことが出来たといわれています。

 その後、全国的に高まった天神信仰を受けて菅原道真公が祀られるようになり、この時期から「服部天神宮」と呼ばれるようになりましたが、脚気が全快したという伝説に因んで「足の神様」として厚い崇敬を集めるようになりました。江戸時代、服部能勢街道の宿場町として発展しましたが、脚気の全快や無事に旅を続けられることを祈願する人々で服部天神宮は大いに賑わいをみせました。




菅原道真公の坐像。




アクセス
阪急電車宝塚線「服部駅」下車、東へ徒歩2分
阪急バス9・10・13・63・160系統「服部」バス停下車、徒歩2分
服部天神宮地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
無料

拝観時間
常時開放

公式サイト
  足の神様・服部天神宮のホームページ



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