神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・高台寺。

2007年03月07日 | ◇京都府 -洛東


鷲峰山高台寺

(じゅぶさん こうだいじ)
京都市東山区高台寺下川原町526



名庭のある高台寺。参道の石組みも綺麗です。


〔宗派〕
臨済宗建仁寺派

〔御本尊〕
釈迦如来像
(しゃかにょらい)



 京都には日本を代表する素晴らしい日本庭園が多数あります。西芳寺桂離宮龍安寺など、名前を挙げていけばきりがありません。太閤豊臣秀吉公の菩提を弔うために正室だった北政所(ねね)が1606(慶長11)年に建てた高台寺も、そんな名庭を持つ名刹の一つです。




高台寺方丈。ここが名庭への入口です。



 1603(慶長8)年、北政所後陽成天皇より「高台院」の号を賜わります。寺院への入堂の意志を固めていた北政所は、すでに亡き両親杉原助左衛門旭日局の菩提寺として寺町に康徳寺を建てており、当初はそこに隠棲して亡き夫豊臣秀吉公の菩提を弔うつもりでいました。その気持ちを察したかのように新寺院の建立を勧めたのは、関が原の戦いに勝利し、次代のリーダーとしての地位を固めつつあった徳川家康公でした。

 関が原の闘いに勝ったとはいえ、依然大坂城には淀君豊臣秀頼公が健在。さらには豊家恩顧の諸大名がひしめく中で、彼らから「天下のおっかさん」として慕われた北政所の持つ影響力に対して最大限の神経を使っていた徳川家康公は、この寺院建立のときにも土地の選定から工事の手配まで財を惜しまずバックアップを行い、北政所に対する敬意を表しています。




一番最初に目にするのが遺芳庵と呼ばれる茶室です。



 徳川家康公は、大徳寺の開祖・宗峯妙超が修行を積んだという雲居院の跡地に建っていた岩栖院康徳寺の地へ移転させるなど、新寺院の建立に向けて手回し良く事を進めます。この地からは、淀君が亡父・浅井長政公の菩提を弔うために建てた養源院を見下ろすことが出来たそうで、北政所を一番に立てるという徳川家の姿勢を示す効果もあったと思われます。

 北政所の院号をとって「高台寺」と名付けられたこの寺院の建設には徳川家の大名だけでなく、北政所を実の母親の如く慕う加藤清正公や福島正則公など豊家恩顧の大名もこぞって助力を惜しまなかったといいます。

 豊臣秀吉公と過ごした思い出がたくさん詰まった伏見城化粧御殿や前庭などを移設してこの地に1605(慶長10)年に移り住んだ北政所は、1624(寛永元)年に76歳で亡くなるまでの19年間、この地を離れることはありませんでした。




方丈前の南庭。公式サイトのライブカメラでは、この庭の様子が楽しめます。



 曹洞宗の寺院として開かれた高台寺でしたが、住職がなかなか長続きしないこともあり、北政所は、兄・木下家定公とも昵懇だった建仁寺の名僧三江紹益を迎えて高台寺の開山となっていただく運びとなりました。兄の縁もありましたが、やはり和尚の大きな人柄に惹かれたというのが大きかったようです。

 臨済宗建仁寺から住職を迎えるということは曹洞宗からの転派を意味します。同じ仏教とはいえ、宗派を変えるということはやはり大変なことでしたが、1624(寛永元)年にようやく認められ、その年の7月に三江紹益和尚の入寺が行われました。




創建当初の名残りを伝える開山堂。重要文化財に指定されています。



 世に出ようとはせず、豊臣家とその子飼いの実の息子のような大名たちの行く末を見守りながら、静かな余生を送られていた北政所は、三江紹益和尚の入山を見届けるかのように危篤に陥り、2ヶ月後の9月6日に息を引き取ります。その亡骸は、甥の木下利房公や木下延俊公などに担がれて境内の御霊屋(おたまや)に納められました。豊臣秀吉公への追慕の思いから、その廟所に似た建物を建てたといわれています。



アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス206・207系統に乗車。「東山安井」にて下車、徒歩10分
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拝観料
・大人600円、中高生250円、小学生以下無料
 (隣の圓徳院と掌美術館との共通拝観券は900円)

拝観時間
・9時~17時(17時30分閉門)
 ※春の特別夜間拝観
 2008(平成20)年3月14日(金)~5月6日(火)
 日没後ライトアップ~21時30分まで受付(22時閉門)

公式サイト




新版 古寺巡礼京都〈37〉高台寺
小堀 泰巖,飯星 景子
淡交社