神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・三宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月14日 | ■神戸市中央区
交通安全・商売繁盛・知恵授け


三宮神社(生田裔神八社)

(さんのみやじんじゃ)
神戸市中央区三宮町2-4-4


生田裔神八社





大丸神戸店のすぐ傍に鎮座する三宮神社。都会の喧騒をしばし忘れさせてくれます。


〔御祭神〕
湍津姫命
(たきつひめのみこと)



 神戸の中心地・三宮。その「三宮」という地名の由来となったのが、今回ご紹介する三宮神社です。大丸神戸店のすぐ傍にある神社だといえば思い当たる人も多いはずです。一般に「三宮」といえば、律令制時代の国における3番目の格式を持つ神社の事を指しますが、神戸元町にある三宮神社は、生田神社に所縁のある神々を祀る「生田八裔神社」のうちの3番目の神社という位置付けで、航海・交通安全と商売繁盛に御利益があり、知恵授けの御神徳のある神社としても知られています。
 三宮神社は、かつては西国街道に面していました。田園風景の中にひときわ目を引く深い森が広がり、アヤメが植えられ、境内に清水が湧き出す井戸があるなど、まさに文字通り「オアシス」として旅人たちの渇きを癒していたそうです。御祭神が宗像三女神の一人・水の神様である湍津姫命だというのもうなずけます。三宮神社の井戸から湧き出す上質の清水は、開港間もない神戸港を出入りする船舶の飲料水としても重宝されたそうです。





「神戸事件」と同時代に使われていたという大砲(左)。並ぶように手水舎があります(右)。



 三宮神社に関しては、古い史料が残されていないため創建時期は明らかではありませんが、社伝によると三韓征伐からの帰途に神功皇后が巡拝された神社だといわれています。そうだとすると、西暦200年以前には既に祭祀の場が存在したという事になりますが、あくまで伝説の域を越えません。江戸時代には尼崎藩の領地であったために代々の尼崎藩主が厚い崇敬を寄せ、1748(寛延元)年の銘がある石灯籠は尼崎藩主の奉納したものだと伝えられています。また、境内には1732(享保17)年の銘のある石鳥居や手水鉢も残されています。
 旧八部郡神戸村の鎮守社とされ、人々の崇敬も厚かった三宮神社の御祭神で、天照大御神素盞鳴尊の誓約により生まれた五男三女神のうちの娘神、いわゆる「宗像3女神」の1柱である湍津姫命は年に一度、兄神にあたる二宮神社の御祭神・天忍穂耳尊と御対面をされるといわれ、それにちなんだ神事が行われています。 





三宮神社の社殿。



 境内の南西には「神戸事件発生地碑」が建てられています。「神戸事件」とは、1868(慶應4)年2月4日(旧暦の1月11日)に起きた岡山藩兵と外国兵との衝突事件で、新体制へと移行した維新政府が初めて直面した外交事件といわれています。当時は新体制を不服とする旧幕府勢力と明治新政府との間で戊辰戦争と呼ばれる軍事衝突が起き、神戸を所管していた兵庫奉行・柴田日向守戊辰戦争勃発に恐れをなし、任地を捨てて早々に逃亡してしまっていたために、神戸の町は一時統治機能が麻痺した騒然とした状況に陥っていました。そんな中、徳川方である尼崎藩の牽制のために新政府から西宮の警備を任ぜられて西国街道を東上していた岡山藩兵と、開港直後の居留地に赴任していた欧米各国の水兵たちとの間で「神戸事件」が発生しました。

 三宮神社付近に差し掛かった岡山藩兵の隊列の前を、横切ろうとしたフランス兵やアメリカ兵たちに対し、岡山藩第3砲兵隊長を務めていた滝善三郎正信公が槍を持ってこれを制止(大名行列など、武家の隊列を横切る事は「伴割」と呼ばれる大変無礼な行為とされていました)。しかしながら、言葉も通じず風習も当然ながら把握していなかった欧米の水兵たちがそのまま通行しようとしたため、滝善三郎正信公が槍で突きかかって軽症を負わせた事から事態は急変します。
 これに驚いた水兵側が拳銃を持ち出した事から岡山藩兵が発砲。これに外国兵が応戦し、さらに現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスによる要請を受けたアメリカ海兵隊・イギリス警備隊・フランス水兵が神戸港に停泊中だった軍艦から上陸して岡山藩兵を追撃し、生田川の川原での銃撃戦に発展します。まもなく岡山藩家老より射撃中止と撤退の命令が出された事から、双方に死者が出る事なく戦闘は終結しました。

 諸外国側は居留の自国民保護の名目で付近一帯を軍事占拠し、日本側に対して謝罪と責任者の処罰を要求。とき折りしも欧米列強における植民地政策が進められていた時代で、文化の違いから起きた不幸な衝突とはいえ一歩間違えれば本格的な戦争や長期間にわたる軍事占領が続くなどの重大な外交問題になり兼ねない状況の中で双方による交渉が行われ、最終的に責任を一身に背負った砲兵隊長の滝善三郎正信公が兵庫・永福寺において見事切腹して果てることで最悪の状況を回避、事態の収拾が図られることとなりました。





社殿脇に鎮座する三宮稲荷・安高稲荷(左)と、その東に鎮座する河原霊社(右)。



 境内には、源平合戦の折に生田の森に拠って堅い守りを固めていた平知盛公率いる平家軍に対し、勇敢にも先陣を切って斬り込んでいった河原太郎高直公と河原次郎盛直公兄弟を祀る霊社も鎮座しています。もともと、生田神社の馬場先のやや西に河原兄弟を祀る塚が築かれていましたが、神戸港の開港などで町並みが急速に変わるうちにその跡は失われてしまいました。
 これを憂えた地元・三宮町3丁目の有志の方々が、1922(大正11)年に河原霊社を建てて遺徳を顕彰しましたが、神戸市の都市計画の影響で1958(昭和33)年4月に少し北に遷されます。1971(昭和46)年12月になって、再び市街地整備のために三宮神社の境内に遷されて現在に至ります。





震災の影響か、一部傷ついた狛犬(左)。北側から見ると、大丸神戸店の近くだと良く分かります(右)。


アクセス
・地下鉄「旧居留地・大丸前駅」下車、徒歩1分
・JR「元町駅」下車、徒歩3分
・阪神電車「元町駅」下車、徒歩3分
三宮神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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