⑧ 仁和2年の除目・讃岐国司へ
長岡天満宮の碑。道真公の人柄を簡潔に表しています。
886(仁和2)年1月16日、毎年恒例の除目(人事異動)が行われました。名門に生まれ、着実に出世を重ねていることへの嫉妬や中傷など、様々な波風を掻き分けながらも10年近くの長きに渡って文章博士を務め、式部少輔や加賀権守などの任に就いて精力的に活躍していた菅原道真公にしてみれば、42歳を迎えてそろそろ中央の要職への沙汰がある頃合いではないかと密かに期待していた除目でした。
しかし、この年の除目で菅原道真公に下った辞令は、「讃岐守の受領に任ず」、つまり都を離れて讃岐国(現在の香川県)に赴任し、国府のトップとして内政に当たれというものでした。想像だにしていなかったこの転勤の決定を聞いた菅原道真公の受けた衝撃は非常に大きく、「菅家廊下」の躍進を妬む他の学閥勢力が仕組んだことなのか、藤原氏以外の者の出世を快く思わない貴族たちの差し金かと疑心暗鬼に陥り、すっかり落胆してしまいます。今でいえば、東京の本社でエリートコースを歩んでいた者が、働き盛りの年齢になっていきなり地方支社への単身赴任を余儀なくされるという感覚でしょうか。当然、再び本社に戻れるのか、何か落ち度があって左遷されたのではないかなど、様々な不安に駆られたことは想像に難くありません。
予想外の辞令に落ち込む菅原道真公は、衝撃の除目から5日後に行われた新春を祝う宮廷行司・「内宴」に足取り重く列席します。そこで菅原道真公は、太政大臣・藤原基経卿から「明朝の風景、何れの人にか属けむ(明日からの新しい赴任地での風景が、きっとあなたの詩興をかきたててくれるでしょう)」"前向きに頑張ってきなさい"、という暖かい励ましの言葉を受けます。時の権力者の優しい気遣いに、菅原道真公は感激のあまり嗚咽するばかりで言葉を発することが出来なかった、と自ら「菅家文草」で述べています。よほど菅原道真公の憔悴ぶりが気になったのか、藤原基経卿は内宴の10日ほど後にもわざわざ私邸に菅原道真公を招いて送別の宴を開いてくれました。その心遣いに感謝しつつ、菅原道真公は新しい任地へと向かう心構えと切ない気持ちを「相国東閣餞席」という漢詩に乗せて詠みあげています。
藤原基経卿による餞の宴の後、菅原道真公のあとを受けて文章博士の座に就いた学友・藤原佐世卿も日を改めて激励の宴席を設けてくれました。讃岐国は都に近く人口も多いなど国力のある「上国」とされ、中央政界で出世街道を進む者が地方行政を学ぶステップとして赴任する地だと位置付けされていました。しかしながらこの頃の讃岐国は厳しい財政状況に陥って国力の低下が甚だしく、一刻も早い国政再建が求められていました。これまで讃岐国司に就任した者のほとんどが四位以上の貴族だったことを考えると、従五位上という身分の菅原道真公がこのポストに任じられたのは決して左遷でも何でもなく、前例を無視してでも有能な官吏を抜擢して財政再建事業にあたらせたいという朝廷の危機感と菅原道真公の能力に対する大きな期待の表れだったのではないかと考えられます。しかし菅原道真公にとっては納得のいかない人事だったようで、藤原基経卿の開いた宴席とは異なり、肝胆合い照らした気の置けない友である藤原佐世卿の前では、ついつい正直な寂寥の気持ちを漢詩に詠んでいます。
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大阪の中津に富島神社があるのですが、最近そこをテーマに取り上げました。そこも菅原道真公が祀られていて、「へーこんな神社にも」と思っていたのですが、きみーさんはちゃっかりお調べになっていたのですね。それもかなりくわしく。さすがですね。また、のぞきに来ます。