
縣神社

(あがたじんじゃ)
京都府宇治市蓮華72

宇治を訪れた人が一度は目にする大鳥居。この道を進むと縣神社に辿り着きます。
〔御祭神〕
木花開耶姫命
(このはなさくやひめのみこと)
JR宇治駅を降り立ち、宇治橋通商店街を抜けて茶の香り漂う平等院の表参道へと向かう交差点まで来ると、巨大な石造りの明神鳥居が圧倒的な存在感をもってそびえ立っています。車道をひと跨ぎし、隣接するビルにもあと少しで接するのではないかという大きな笠木を持つこの大鳥居は、平等院の南西に位置する古社・縣神社に連なる参道へと導いてくれます。


縣神社の石鳥居(左)と、参道の左手に並ぶ摂社(右)。東位稲荷大明神や天神社の
奥には「縣祭」で用いられる「梵天」が祀られています。
宇治を代表する古刹・平等院の裏鬼門の方角・南西に位置する縣神社は、山の神である大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘で、高天原より降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚して日嗣の皇子を産んだ女神・木花開耶姫命を御祭神に祀る神社です。神社名である「縣」の由来は2説あり、ひとつは木花開耶姫命の別名である「吾田津姫(あがたつひめ)」からついたという説、もうひとつは古代の行政区で朝廷の直轄地だった宇治県の守護神として祀られていたことから付けられたという説があります。

桧皮葺の本殿は江戸時代に再建され、拝殿は1936(昭和11)年に再建されました.。
神代の頃からの地主神だとされており、藤原道綱母が975(天延3)年ごろに書き上げたといわれる『蜻蛉日記』には宇治の「縣の院」に訪れたエピソードが書かれている事から、少なくとも1,000年以上の歴史を持つ古社だといわれています。1052(永承7)年に藤原頼通卿が父の遺した別荘・「宇治殿」を寺院に改めて平等院を開創した際には、宇治神社・宇治上神社の前身である「宇治離宮明神」と並んで鎮守社とされました。平等院の開山が三井寺(園城寺)のや天台座主も務めたことのある高僧・明尊上人だった関係から、明治維新に至るまでは滋賀県大津市にある三井寺円満院の管理下にありました。春の大祭には円満院の院主が毎年宇治を訪れて国家安康の護摩法要を行っていたそうですが、明治維新の後に出された神仏分離令によって三井寺から独立したそうです。


社殿の左手にある「木の花桜」(左)と、右手にそびえ立つ見事なムクノキ(右)。
縣神社は、「縣祭」と呼ばれる奇祭が行われることでも有名です。縣祭は江戸時代に始まったといわれるお祭りで、毎年6月5日の夜から6日の未明にかけて行われる事から「暗夜の奇祭」という別名を持ち、神が乗るとされる「梵天」と呼ばれる祭具を神輿に乗せて練り歩きます。当日は通りに露店が立ち並び、10万人を越える人々で賑わいます。しかし、現在は梵天の渡御を巡り、地元の人々が中心となって支える縣神社側と、大阪の堺や兵庫の姫路などの氏子たちが中心となって支える県祭奉賛会が対立し、それぞれが梵天を用意して分裂開催を行う残念な事態となっています。
もともと梵天は、宇治神社にある御旅所を出発し、縣神社で「神移し」神事を行って神さまをお乗せしたのち、宇治神社へと巡行。そして、最終的には縣神社まで帰ってきて神さまを戻す「還幸祭」を行う事になっていますが、2003(平成15)年の梵天渡御の際に「還幸祭」が行われなかった事から、以前からギクシャクしていた両者の対立が決定的となり、翌年から分裂開催となったそうです。また、旧宇治郡の氏神である宇治神社と旧久世郡宇治県の氏神である縣神社との御祭神を巡る長年に渡る対立や、南北朝の争乱期に平等院周辺を焼き払った楠木正成公や、応仁の乱の際に宇治を蹂躙した畠山勢など、歴史的に虐げられてきた宇治の人々が畿内勢力や他所者に対して持つ潜在的なアレルギーなども、地元以外の大阪・兵庫の人々で構成されている県祭奉賛会との対立に影響を与えているような気がします。


参道右手に立つ祖霊社(左)と、境内に住み着いているマイペースなわんこ(右)。
アクセス
・JR奈良線「宇治駅」下車、徒歩10分
・京阪電車「宇治駅」下車、徒歩7分

拝観料
・境内無料
拝観時間
・常時開放
