神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

宍粟市・伊和神社(播磨国一の宮)。

2011年08月16日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
農工商業など諸産業繁栄・縁結び・病気平癒


伊和神社

(いわじんじゃ)
宍粟市一宮町須行名407


播磨国一の宮




国道29号線沿いに鎮座する、伊和神社の社叢。約1万7000坪(約5万5000㎡)もの広さを誇る。


〔御祭神〕
大己貴神
(おおなむじのかみ)

※ここでは伊和大神とも言われています


 播磨国の一の宮・伊和神社の御祭神である大己貴命は、神話において国土開発・産業の振興・医療の普及など国家の礎を築いた「国造り」の神として知られています。社伝によると、ここ播磨国に入った大己貴神は播磨各地を巡って国造りを行い、最後に伊和神社の鎮座する地に辿り着きます。その時「於和(おわ)(=我が事業は終わった)という言葉を発してこの地に鎮まった事から、人々がその偉業を讃え御神徳を慕って社殿を築いて奉斎したのが伊和神社の始まりとされています。もともとの社名も「伊和坐大名持御魂神社」、すなわち伊和の地に坐す大名持御魂神(おおなむじのかみ)の神社、という意味の名前となっています。

 創祀についてはこれとは異なる説もあります。144(成務天皇14)年(564(欽明天皇25)という説もある)の事、伊和恒郷公の夢に伊和大神より「我を祀るべし」との神託がありました。驚いた伊和恒郷公の目に飛び込んできたのは、一夜のうちに杉や檜が生い茂り、多くの鶴がその上を舞っている光景でした。この地に分け入った伊和恒郷公は、石の上で北向きに眠る2羽の大きな白鶴の姿を発見します。伊和恒郷公はこの石があった場所に社殿を築いて伊和大神を祀ったといわれ、伊和神社の社殿が珍しい北向きの社殿であるのは、この鶴にちなんだものだといわれています。これに関しても異なる説があり、出雲系の神とされる伊和大神を北向きに祀る事で、出雲大社の御祭神・大国主命が西向きに祀られている事と同様に、大和朝廷によって征服された神々が怨霊となって祟る事を封じ込める意味合いがあったのだという説もあります。





境内に入ると、大きな「両部鳥居」と呼ばれる鳥居(左)があり、その奥に随神門が立っています(右)。



 伊和神社に祀られている御祭神・大己貴神大国主命とも呼ばれ、ここでは伊和大神と同一神とされています。「播磨国風土記」には、出雲国からやって来た伊和大神(=大己貴神)が紆余曲折を経ながら播磨国を平定し、「国造り」を行っていく様子が描かれています。最初に現在の佐用郡辺りから播磨国入りした伊和大神は、やがて「宍禾の郡(しさわのこおり)」、現在の宍粟市周辺を本拠地に勢力を拡大していきます。ちなみに「宍禾」の名は、この地を訪れた伊和大神が鹿に出会った故事から生まれたといわれ、「鹿に会われた」→「ししあわ」→「しさわ」と転じ、現在の「しそう」へと変化していったと伝えられています。「宍禾の郡」を手中にした伊和大神は、南方の播磨平野へと進出して播磨国を制覇し、各地で国土の整備や諸産業の振興に努めていきました。播磨国の王として君臨した伊和大神は、国譲りを求めて攻め寄せた天日槍命の軍勢を退けるなど、自らが開発した播磨を死守していましたが、その後強大な軍事力を背景に進攻してきた大和朝廷の圧力に押されるように播磨平野を追われ、宍粟の山野へと押し戻されてしまいました。





真っ直ぐに伸びた御神木の杉(左)と、境内の西側に立つ神楽殿(右)。



 実際のところは出雲国の大己貴命伊和大神は同一のものではなく、異なった存在だったと考えられます。大和朝廷成立以前に各地を統べていた豪族たちは、次第に強力な軍事力を誇る大和朝廷に制圧されて臣従し、あるいは滅亡させられていきますが、その際に大和朝廷が各地の首長を神格化し、一つの神格として祀ったのが「大国主命」という存在でした。ここ播磨国でも同様に、宍粟を中心に播磨平野全体へ勢力を伸ばしていた伊和族の象徴である「伊和大神」が、大和朝廷の軍事力に屈して「国譲り」をし、宍粟へと後退した事によって大和朝廷より「大国主命」という神格の一部に組み込まれて同一神視されていったという事ではないかと考えられます。





珍しい北向きの社殿。創祀の際の白鶴の故事に由来するとも、怨霊封じのためともいわれています。



 伊和神社は、859(貞観元)年に従五位勲八等の神階から従四位下に格上げされ、881(元慶5)年には正四位下に、そして991(正暦2)年には、最高の正一位の神階に叙せられています。さらには927(延長5)年に編纂された「延喜式神名帳」においては「伊和坐大名持魂神社」の名で名神大社に列せられています。また、伊和神社は度々火災に見舞われて社殿炎上の憂き目に遭いますが、その都度再建が行われてきました。1249(建長元)年4月には社殿が炎上、この時は朝廷によって再建が行われました。1392(明徳3)年には赤松義則公によって再興され、1562(永禄5)年には長水城の城主・宇野村頼公によって再建されています。1816年(文久元年)には入母屋造の社殿を再建、1852(嘉永5)年2月に炎上した際には播磨国の一の宮である事から播磨国中より再興資金や資材などが集められ、まず1858年(安政五年)に拝殿や幣殿などが再建され、1862(文久2)年には領主である小笠原信濃守によって本殿が造営されています。





拝殿内にある神楽太鼓(左)と拝殿奥の幣殿(右)。拝殿には多くの絵馬が飾られています。



 立春から数えて210日前後は台風襲来の特異日といわれていますが、ここ伊和神社ではその210日の前の8月26日に「風鎮祭」を行っています。別名「油万燈祭」とも呼ばれるこのお祭りでは、210日の風を鎮めて五穀豊穣と家内安全を願う神事が行われ、日暮れとともに境内に並べられた油灯明に火が灯されて幻想的な雰囲気に包まれます。また、例年10月15・16日には秋季大祭が行われます。特に16日の神幸祭では神輿の渡御が行われ、5台の屋台による練り合わせの後に神輿を中心に100人近くの神職や奉仕者の方々による渡御行列が御旅所に向かって行われ、大いに盛り上がります。

 さらに、伊和神社では21年に一度「一つ山祭」が、そして61年に一度の甲子の年には「三つ山祭」が行われています。菅原道真公の編纂によって892(寛平4)年に完成された「類聚国史」には「斉明天皇四年秋、百済の葛海をして伊和山に猟せしめられしに山頂鳴動し、一毛も得ずして帰りぬ。一少年ありて語るに、『神山なり猟なきは神の御心なり』と。これにより即時の祭を始め給う」と記されていますが、伊和神社一つ山祭はこの故事に因んで始められたといわれています。祭礼の際には宮山に近い御旅所である「篳篥の宮」から神祠を遥拝し、伊和神社でも神事が行われます。三つ山祭では、揖保川の河原にある御旅所で白倉山高畑山花咲山の伊和三山の磐座を祀る神事を執り行います。次回の一つ山祭は2024年、三つ山祭は2044年に開催予定です。





本殿の東側には御霊殿・五柱社・播磨十六郡神社(東8郡の神々を祭祀)が並び(左)、本殿右手には
播磨国の西8郡の神を祀る播磨十六郡神社があります(右)。ちなみに本殿の奥には、創建の故事に
記されている2羽の白鶴が留まって眠っていたといわれる「鶴石」があります。



アクセス
・JR山陽本線「姫路駅」より神姫バス山崎行にて終点下車。乗換ののち神姫バス曲里・戸倉行にて「一の宮伊和神社」バス停下車すぐ
伊和神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

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1 コメント

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コメントについて (きみー(管理人))
2013-06-15 21:36:46
コメント頂くのは有難いことですが、このブログは神社・仏閣などの歴史を通じて地域の魅力を再発見してもらえたら、と思って運営させて頂いています。
それに関連するコメントは大歓迎ですが、ごく個人的な政治的主張は控えて頂きたく思います。
ましてや、匿名で他人のフィールドに土足で上がり込み、好き放題に主張するだけして去るという行為は、管理人の最も忌み嫌う行為です。二度とこのブログに立ち入らないで頂きたい。
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