神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・綱敷天神社。

2010年01月28日 | ◆大阪府
学業成就・諸芸上達・筆法上達

綱敷天神社

(つなしきてんじんじゃ)
大阪市北区神山町9-11


通 称
喜多埜天神



梅田の中心街より東、庶民的な雑居ビル街の中に綱敷天神社が鎮座しています。


〔御祭神〕
嵯峨天皇
菅原道真公




 綱敷天神社の創建は、平安時代の843(承和10)年と伝えられています。822(弘仁13)年に嵯峨天皇が摂津国・難波兎我野の地に行幸され、現在綱敷天神社が建っている地に仮殿を構えて逗留されたという縁から、嵯峨天皇が崩御された後にその皇子で「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルともいわれた源融卿が遺徳を偲んで太融寺を創建。それと同時に嵯峨天皇をお祀りする神社として「神野太神宮」を創建したのが綱敷天神社の始まりといわれています。





手水舎(左)と、商売繁盛の神として崇敬を集める喜多埜稲荷神社(右)。



 それより半世紀ほど経った901(延喜元)年、無実の罪に陥れられて大宰府へと左遷される事となった菅原道真公がこの地を訪れます。失意の旅の途中、この地に咲き誇る梅の花に心を奪われて足を留めた菅原道真公は、船の艫綱を円座に敷いて休息を取り、しばらく美しい紅梅を堪能したといわれています。この時菅原道真公は、都からずっと付き従ってきていた「白大夫」度会春彦公の一族に「汝らはこの地に留まり、いつしか私が戻ってくる日まで待っていて欲しい」との言葉を残して大宰府へと旅立っていきました。菅原道真公から「白江」の姓を賜った一族はその言葉に従ってこの地に留まり、菅原道真公が愛でた紅梅の木の下に小さな祠を営んで「梅塚天満宮」と名付け、主君の御霊をお祀りしました。この「梅塚」が「梅田」という地名の由来となったといわれています。





戦災で焼失した後、1956(昭和31)年に再建された社殿。



 その後、菅原道真公の怨霊の脅威に大きな畏怖を感じた朝廷は、993(正暦4)年に冤罪を認めて菅原道真公に「正一位」の位階を追贈し、その名誉回復を行います。さらに、ゆかりの土地であった梅塚天満宮のあるこの地に改めて社殿を建立してその御霊を慰める事となりました。その結果、神野太神宮梅塚天満宮は合祀されて「北野天神社」として新しく生まれ変わります。この「北野」は「喜多埜」とも「北埜」とも表記されていましたが、ここが「北野」と名付けられた理由には、嵯峨天皇が愛していた京都の北野の地名から付けられたという説や菅原道真公が祀られている北野天満宮から採ったという説など諸説がありますが、確かなことは分かっていません。とにもかくにもこの「北野」が現在の梅田の繁華街の別名である「キタ」の語源となったといわれています。この北野天神社は、菅原道真公が綱を敷いて休息を取られた故事にちなんで綱敷天神社と称されるようになりました。





北野村から日清戦争へ出征した氏子の無事を祈念して建立された従軍紀念碑(左)。
右は菅公ゆかりの狛牛と、元々は喜多埜稲荷神社の裏手に鎮座していた白龍社。


 1874(明治7年)に大阪駅~神戸駅間に鉄道が開業し、それと同時に大阪駅が建てられると、それまでのどかな田園風景が広がっていた梅田も関西の交通の要衝として急速に都市化が進みました。それにともなって綱敷天神社も「キタの氏神」としてさらに崇敬を集めて発展していきましたが、1945(昭和20)年6月1日に起きた大阪大空襲によって境内は炎上、社殿や文献などが悉く焼失の憂き目に遭います。特に、社殿の裏手にあった「神山」と呼ばれる小山は激しい爆撃によってその形を留めぬほどに吹き飛びましたが、奇跡的な事に菅原道真公が座ったとされる御神宝の御綱と御影は難を逃れました。その後、綱敷天神社は氏子の皆さんを中心とした熱意によって復興が進められ、再び「キタの氏神」として人々の崇敬を集めるようになりました。なお、梅田駅のすぐ近くの茶屋町には綱敷天神社御旅所が、そして綱敷天神社の北西の角田町には境外末社である歯神社が鎮座しています。





社殿前の、丸みを帯びた独特の形をした灯篭(左)と、ともに「三筆」と「三蹟」の一人として
賞賛された書の大家・嵯峨天皇と菅原道眞公にちなんで建てられた筆塚(右)。


アクセス
・JR「大阪駅」下車、東へ徒歩15分
・阪急電車「梅田駅」下車、東へ徒歩15分
・阪神電鉄「梅田駅」下車、東へ徒歩15分
・大阪市営地下鉄谷町線「中崎町駅」下車、南へ徒歩10分
綱敷天神社地図  綱敷天神社公式ホームページより転載

拝観料
・境内無料

拝観時間
・6時~日没まで(祈祷受付は9時~16時)

公式サイト