ふりかえれば…まろ

まろやパンダは最近露出が減ってますが、時折更新されてます。

言葉が必要な理由

2005-01-20 | 
「大人になってから好きになったもの。そしてソフト麺のこと。」から波及して。どうして好きになるんだろう。嫌いになるんだろう。そんなエピソードを語るのが楽しいです。話はさらに深まっていきます。

「テルミンチク」のマキさんが、「それぞれの理由」の中で書いています。
「好きなものに理由をつけるのは難しいし、必要も無いだろうが、嫌いな物に関しては、幾らでもその理由を述べる事ができる。」
そしてマキさんが同記事のコメント欄に書かれた疑問。
「どうして嫌いなものには理由が必要か?」

以前、「言葉が必要ない毎日」という記事を書きました。

 嬉しいときや楽しいときには詩や文章はほとんど書いたことがない。
 反対につらくて悲しいときにはどれだけ言葉を綴ってみても足りない。
 なんでだろうね?

 ある人が答えをくれました。
 嬉しいときには言葉が必要ないんだよ。
 悲しいときにはそこから抜け出すために言葉が必要なんだ。

好き嫌いの気持ちもおんなじようなことなんじゃないかな。
そんな風に思うのです。

気持ちが正や肯定の方向を向いているときと違って、気持ちが負の方向を、否定の方向を向くときに、その状態を維持し続けるのは本当はとてもしんどいことだと思うのです。
たとえば、食べ物の好みごときに「負の方向?」って思うかもしれない。
けれども「食べられないものが多い」ということは、それだけ生理的に本能的に生きにくいってこと。生物にとってそれは致命的なこと。
嫌いなもの、食べられないものが多いことは、無意識のレベルでは身体はとってもつらがっているんじゃないかな。

それでも好きになれないなら、そんな状態を維持するだけの材料が必要。
そして、自分の納得できる材料が必要。
特に食べ物の場合にはアレルギーもあるから、食べられない理由を脳に覚えさせておくのも必要。
もっと云ってしまえば、食料危機に陥ったとき、どのラインに来た時に嫌いなものを食すのか、そのラインを自分の中で決めておくための材料が必要。
嫌いなものに出会ったときの身体へのダメージを防ぐために、言葉が、理由が、必要。

もうひとつ。
あらゆることの好き嫌いに理由が必要なのは。
人間は社会的な生き物だから。

自分が嫌いなものにできるだけ出会わないようにして、いやな気持ちを、負の感情を少しでも味わうことにならないために、嫌いなものはできるだけ遠ざけたい。けれど自分だけが気をつけるだけじゃ足りない。自分の周りにいる人たちにも協力してもらわなくちゃ。
自分だけじゃなく、周りの人にも納得してもらうための言葉が、理由が、必要。

そんな風に思ってみたんですけれど。

マキさんにどうでしょう?のTBですよ。