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ふりかえれば…まろ

まろやパンダは最近露出が減ってますが、時折更新されてます。

生きていくこと

2010-03-18 | 
またもや。おひさしうございます。もう春ですね。

池田香代子さんの講演を聴く機会に恵まれました。
最近は講演を聴くなんていう時間をつくれないでいたので、本当に久しぶりのことでした。
『ソフィーの世界』の翻訳などで有名な池田さんですけれども、『世界がもし100人の村だったら』がベストセラーになって活動の幅をぐんと広げられたそうです。


このタイミングで聴けて良かったなと思うお話がありました。
それは次の言葉です。

「人権を向上させていく上で最も必要なことは、死なないこと」

例えば、女性や子どもが「おんなこども」と軽んじられてきたのは、歴史的に出産・誕生のリスクによって女性や子どもが短命だったからだと池田さんはおっしゃいました。
つまり、女性や子どもの命の重さを軽んじることによって、失われた命の悲しみを少しでも和らげようとしたのではないかと。

だから。死んではいけない。と。

男女、年齢、地域など関係なく、何処かで誰かに何かの支援をするとしたら。
死なないための方法をまず示すことから始めなければならない。と。


死なないこと。

生きていくこと。

そうなんだよな。


実は、私は今、生まれて初めて、おなかの中にひとりの命を抱えています。
まだ4ヶ月目に入ったところなのだけど、既におなかぽっこりです。
安定期を迎えるにはもう少し週数が必要だけれど、もう隠しておける状態ではありません。
周りのすべての人に「おめでとう」と云ってもらえて、本当にうれしく思っています。

でも、私自身は嬉しさよりも不安の方が大きくて、例えば自分の体型が変化していくことに喜びを感じるよりも、スーツが着られなくなったことや自己管理がうまくできないことに苛立ちを感じていたりします。
ひとりの命を抱えているというのに、わたしときたら、自分のことばかり考えているのです。
そんな自分は母になる覚悟も資格もないのではないかと、自己嫌悪で仕方がありませんでした。

だけども、今日、池田香代子さんのお話を伺っていて、前向きに今の自分とおなかの命に向き合おうと、改めて思うことができました。
何が理由かと問われると、上手く言葉にできないのだけれども。

半年後には、皆さんにも良い報告が出来るといいなと思っております。

赤い色はひとりの色

2005-03-17 | 
青い色が好きって何度も書いている(例えば「好きな色は何色ですか?」「青色が好きな理由」)けれど、実はときどき赤いモノに惹かれることがある。

ひとつは赤いキッチン。
それともうひとつ。赤いソファ。

大切なことは、いずれもそこにいるのは私ひとりだということ。
キッチンに立つのも私ひとり。
そして赤いソファも2人がけや3人がけじゃなくて、ひとりがけ。

私の中では赤はすごくパーソナルな色みたいだ。

ひとりがけの赤い椅子に座ってみたい。
深く深く身体ごと包まれてみたい。



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青色が好きな理由

2005-02-03 | 
最初に書いておきますが、今日のお話はちょっぴり憂鬱になりますよ。
書きますって宣言していたから書いちゃいますけど、あまり面白くないので読まなくてもよいんですよ。


「好きな色は何色ですか?」のコメント欄で家鴨さんが教えてくださった。

好きな色の好きな理由ってのはですね。
あなたが人からどう思われたいか。 なんですってよ。


それで、もう一度、好きな理由を考えてみることにした。

ひとことで青色が好きと書いたんだけれど、厳密に言うと、少し白色がかったり灰色がかったり緑がかったりした中間色が好き。たぶん単体としての青色が好きというよりも青系のグラデーションが好きなのだと思う。

青い色が好きなのは・・・

冷静だから。
(これはあたりだ。冷静な人って見られたい。それは私がお天気屋さんなことの裏返し。アコガレ。)

青空にしろ海にしろ青い環境は、果てしなく遠く広くて奥深いから。
(これもあたりなのかも。謎が多い、つかみどころがないって思われて興味が持たれるならそれは嬉しい。すぐに「あなたってこういう人よね」なんて決めつけられたらきっと面白くない。)

素敵な青空の日に干したお布団はお日さまのにおいがするから。
(これはどう考えたらよいの?青空がシアワセなことのひとつに繋がっている→青は幸福の象徴→シアワセな人と見られたい???)

総合しますと「冷静沈着で謎多きシアワセそうな人」。
んー。なんかおかしな人だぞ。

以前買った本も、もう一度、読んでみることにした。
●ウイリアム・H・ギャス(須山静夫、大崎ふみ子訳)『ブルーについての哲学的考察』論創社、1995年(原書は1976年)。
●小林康夫『青の美術史』ポーラ文化研究所、1999年。

家鴨さんが赤を好きな理由をいくつか書いてくださった。すごい。みごとに私の青好きの理由とは正反対だ。そう思った。
そして、マキさんがご自身のブログのそれぞれの理由PART2のコメント欄で青が好きな理由を「2番手だから」と書いてくださった。
ああ。そうなんだな。私は納得した。
たぶん。これが一番の理由だ。青レンジャーと一緒で私も2番手でいたいんだ。
上の2冊の本の内容がすぅっと胸に入り込んできた。

青は環境の色。実在しないかのような天空の色。空間の色。距離を示す色。
つまり「あいだ」を示す色。

大学に入って間もなく高校時代の友人がモネの睡蓮のポストカードを送ってくれた。
「きくちゃんみたいって思ったんだよ。」

モネを含む印象派は、色彩が、モノの色なのか、あるいは見る人の見方なのかということの間をさまよって探求し続けた人たちだと云われている。青色はその代表的な色だと云えるんだろう。

私はゆるゆる漂っている・・・。実体がない・・・。
上に書いた奥深くてつかみどころがないっていうのは、きっとそういうことなんだと思う。
見られたい自分とはちょっと違う気がする。
でも、これこそが深層心理なのかなぁ。

ね。なんだかブルーな気持ちになってくるでしょ?(笑)

言葉にしたい理由

2005-01-28 | 
「言葉が必要な理由」を書いたあと、これを受けてマキさん「それぞれの理由PART2」を書いてくださった。
お返事がてら、またつらつらと考えている。

そもそも言葉の誕生は、経緯をたどれば、生存のためだったろう。
だから私たちが言葉を語るとき、その理由はすべて、究極的には生存と結びついていた。

でも。言葉を失うときがある。
逆説的に見えることだけれど、それも生きるためのひとつの方法なのだと思う。
だけどそれは過程だ。浄化という過程。
私たちは言葉をとりもどす。

言葉だけでなく、表情など感情を顕にすること自体も、生存と関わっている。
胎児はおなかの中にいる時から笑う練習をしているという。
それは以前にも書いたことだけれど、生きるためなのだ。
赤ちゃんは愛されなくては生きてゆけないから可愛く生まれてくる。

「言葉が必要な理由」で、嬉しいときには言葉は必要ないと書いた。
確かに必要ない。
でも、私たちは嬉しい時にだってたくさん言葉を発する。
同記事のコメント欄に祐さんが、まずいときは「まずい」と云うのに美味しいときは何も云わない。と書いてくれた。
私はそれに「嬉しいから言葉にすることもある」と書いた。
そう。私たちは嬉しいからこそ言葉にすることもある。
嬉しいからこそ、その思いを言葉にすることもある。

冒頭で「私たちが言葉を語るとき、その理由はすべて、究極的には生存と結びついていた」と過去形で書いたのは、一度誕生した言葉は独り歩きを始めるからだ。
人は言葉を獲得して、それをただ生存するためだけでなく、使うようになる。
きっとそれが、「嬉しいから言葉にすることもある」ということだと思う。
たぶん、それが、「生存」というなんだか感情を排除したがる硬い言葉と、「生きる」といういろんな響きのこもった言葉の間にある違いだと思う。

私たちはおんなじようなことを言葉を変えて何度も云っているのかもしれないですね。マキさんにTBです。

好きな色は何色ですか?

2005-01-26 | 
藍染に惹かれるのは、その独特の深みもあるけれど、もともと私が青い色が好きだからだと思う。
きっかけは覚えていないけれど、中学生になった頃から青色が好きだった。
ある日、好きな色を聞かれて「青」と答えたら、「青色ってなんだか嘘っぽくない?」と返された。

 青色は嘘っぽい→そんな色を好きな私は人として嘘っぽい?

ヒトとして嘘っぽいってどんな感じ?
いつでも嘘ついてそうなウソの塊みたいな感じ?
存在がココにあっても実体がなさそうな感じ?

どうしてかわからないけれど、青がウソっぽいと言った人にその真意を問いただすことができなかった。
中学生の私は、自分の中で予想もしていなかったことを云われて、どう反応したらいいかわからなかったのかもしれない。

青色に囲まれてるのは心地いい。
部屋のファブリックも青が基調。
そんな私は今も嘘っぽいかな(笑)。

言葉が必要な理由

2005-01-20 | 
「大人になってから好きになったもの。そしてソフト麺のこと。」から波及して。どうして好きになるんだろう。嫌いになるんだろう。そんなエピソードを語るのが楽しいです。話はさらに深まっていきます。

「テルミンチク」のマキさんが、「それぞれの理由」の中で書いています。
「好きなものに理由をつけるのは難しいし、必要も無いだろうが、嫌いな物に関しては、幾らでもその理由を述べる事ができる。」
そしてマキさんが同記事のコメント欄に書かれた疑問。
「どうして嫌いなものには理由が必要か?」

以前、「言葉が必要ない毎日」という記事を書きました。

 嬉しいときや楽しいときには詩や文章はほとんど書いたことがない。
 反対につらくて悲しいときにはどれだけ言葉を綴ってみても足りない。
 なんでだろうね?

 ある人が答えをくれました。
 嬉しいときには言葉が必要ないんだよ。
 悲しいときにはそこから抜け出すために言葉が必要なんだ。

好き嫌いの気持ちもおんなじようなことなんじゃないかな。
そんな風に思うのです。

気持ちが正や肯定の方向を向いているときと違って、気持ちが負の方向を、否定の方向を向くときに、その状態を維持し続けるのは本当はとてもしんどいことだと思うのです。
たとえば、食べ物の好みごときに「負の方向?」って思うかもしれない。
けれども「食べられないものが多い」ということは、それだけ生理的に本能的に生きにくいってこと。生物にとってそれは致命的なこと。
嫌いなもの、食べられないものが多いことは、無意識のレベルでは身体はとってもつらがっているんじゃないかな。

それでも好きになれないなら、そんな状態を維持するだけの材料が必要。
そして、自分の納得できる材料が必要。
特に食べ物の場合にはアレルギーもあるから、食べられない理由を脳に覚えさせておくのも必要。
もっと云ってしまえば、食料危機に陥ったとき、どのラインに来た時に嫌いなものを食すのか、そのラインを自分の中で決めておくための材料が必要。
嫌いなものに出会ったときの身体へのダメージを防ぐために、言葉が、理由が、必要。

もうひとつ。
あらゆることの好き嫌いに理由が必要なのは。
人間は社会的な生き物だから。

自分が嫌いなものにできるだけ出会わないようにして、いやな気持ちを、負の感情を少しでも味わうことにならないために、嫌いなものはできるだけ遠ざけたい。けれど自分だけが気をつけるだけじゃ足りない。自分の周りにいる人たちにも協力してもらわなくちゃ。
自分だけじゃなく、周りの人にも納得してもらうための言葉が、理由が、必要。

そんな風に思ってみたんですけれど。

マキさんにどうでしょう?のTBですよ。

トシ・カザマの撮り続ける命

2004-11-25 | 
先日、「いのちの尊さを考える~米国少年死刑囚を撮り続ける写真家の講演~」に参加してきました。講演は写真家のトシ・カザマ(トシ・風間)さん。アムネスティインターナショナル金沢グループの企画。風間さんによる死刑囚の写真を見ながら、風間さんが思いのままにお話をされました。

どの国にも様々な問題があるけれど、少年死刑囚には米国の抱えるあらゆる問題が凝縮されているといいます。人種問題、貧富の差が生み出す持つ者と持たざる者の差。それは生活のあらゆる場面に及んでいます。あわせて司法制度の問題も。冤罪の死刑判決も多いといいます。冤罪で死刑囚にされてもそれを免れる術を持たない弱者。そして冤罪で死刑が執行されてしまったのでは犯罪被害者もうかばれない。

少年死刑囚の撮影許可をとるまでのご苦労をのりこえて得た刑務所長との心の琴線にふれるような交流。死刑を執行し続けることに疲れ果てている刑務所職員たち。

写真におさめられた少年たちの中には既に死刑が執行された方もいます。生前ミドルネームも含めてフルネームで呼ばれ続けた死刑囚が、執行後は刑務所内の墓地にUnknownとして埋められる。
一度しか会ったことのない少年死刑囚に執行に立ち会ってほしいと頼まれた。だけど悩んだ末に行けなかったこと。確実にひとつの命が奪われていく瞬間がわかっているのに、それを止める術の無い感覚。それはどんな言葉でも表現しがたい。
私たちは執行代理人にボタンを押させているだけで、本当は殺しているのは私たち自身だということ。

自らも犯罪被害者である風間さんの語り口は、時に強く時に穏やかで、心を揺さぶります。
風間さんが襲われた現場に居合わせた自分の子供。トラウマに苦しみカウンセリングを受け続ける我が子に、自分を瀕死の状態に追いやった犯罪者のことを憎み続けてほしくない。そんなことに人生を費やさせたくないといいます。

憎しみの連鎖を断ち切るということが必要な事は既にわかっていること。でも実際に当事者になったときに自分にできるかどうかわからない。だけど。それでもやっぱり、わたしたちは語り続けなくちゃいけない。見ないふりをしてはいけない。感情的になることを乗り越えて語り続けていかなくちゃいけない。そうして痛みを感じる人が少しでも減っていき、新たな痛みを生み出さないような方向に踏み出していかなくちゃいけない。強く優しくあることを改めて思いました。

風間さんの写真は穏やかで優しいのです。たぶん風間さんのまなざしが優しいから。手錠がなかったら。刑務所の中とは思いません。

ヒートウェイブのROCK'N ROLL ASS HOLEにトシ・カザマさんについてのリンクが充実しています。

そこに暮らす人々

2004-09-18 | 
まろをブログのタイトルに入れているということで、まろつながりなおはなし。今日はマロマロ村というところのおはなしです。

わたしはアレルギー持ちなこともあって文鳥くらいしか飼ったことがないのですけれど、何か飼っている方は多いですよね。犬、猫は云うにおよばず、お魚とか爬虫類とか…。
おさかな…アクアリウムも人気ですね。

こんにちのわたしたちの暮らしは、世界中のいろんなところからやってきたモノたちであふれているのですけれども、アクアリウムも例外ではありません。
アクアリウム産業を支えている国のひとつにフィジーがあります。このうち、ライブロックを採取しそれを売って生計をたてているところに、マロマロ村というところがあります。

***ライブロックとは、珊瑚などの死骸によってできた石灰岩で小さな穴がいくつも空いています。そしてそこに住んでいるバクテリアたちが海水をろ過してくれます。アクアリウムの中をひとつの物質循環系として成立せしめ、環境をととのえるのに重要な役割を果たしているんですね。もちろん見た目もカラフルなので人気があります。***

マロマロ村では、ライブロックは漁業と並んで生計をたてるために重要な手段とされています。沿岸領域は従来、村の集落などによって自主的に管理されてきたのですが、乱獲によってマロマロ村沿岸の環境の悪化が心配されるようになりました。採取しすぎれば、ライブロック資源そのものが枯渇し、マロマロ村のライブロック産業、ひいては漁業がなりたたない環境になってしまいます。

そこで、資源の枯渇や環境の悪化に陥ったりしないように、資源が再生産しつづけられるような環境を守りつつ、マロマロ村で生活する人々が生計をたて続けることができるような法制度づくりがすすめられました。法制度をつくるにあたってはWWFなどが調査を行ったりワークショップを開催したりしながら進められました。

このプロジェクトにかかわったWWFなどが重視した点のひとつに、環境を守りながら採取する仕組みを実践するのはあくまでそこで生活していく人たちだということです。毎日、海にふれ関わっていく人たちが、実践できないような制度は意味がないのです。

それぞれの場所には、そこに暮らしている人々がいます。固有の歴史があり文化があり、形成された考え方や風習があります。フィジーだけじゃない。日本国内にも地域によって違いがたくさんあります。方言だってあるし食べ物だって多様性があります。

わたしたちは、たとえばライブロックのような自然の分け前をあずかるとき、同時に地域ごとのもつさまざまな多様性の分け前をあずかっています。そして地域のもつ多様性は、そこに暮らす人々の生活そのものにつながっているのです。

毎日の生活とつながっていること

2004-08-15 | 
フェアトレード商品を扱うお店で、一目惚れして買ってしまいました。藍染にしぼりの入ったワンピース。
インドのムラ・コレクティブで働く人々によって作られたものです。貧困から抜け出し安定的に収入が得られる生活を支援するフェアトレードの取り組みの一貫。フェアトレードでは、生産を維持できる公正な価格の支払いや代金の前払いやを通じて生産者を保護しています。

私たちは、日々の生活の中で安価で良品なものを求めがちです。景気が回復しない毎日の中で(回復傾向にあるといってもそれをほとんど実感できない人が大多数の昨今で)、安くていいものなら、それにこしたことはないようにも思います。だけど、その「安い」ものはどんな風に生産されているんだろうかということに思いを馳せるとき、そのジレンマに苦しんでしまいます。

単に国外の貧困問題に心痛めることだけに問題はとどまりません。私たちが安いものだけを買えば買うほど、国内の産業は人件費が容易に買い叩ける国や地域に流出して、国内産業は空洞化します。流出した国内産業は衰退するし技術も継承されない。衰退した産業の労働力人口分、他の産業で吸収できなければ、国内の景気はますます悪化する…。

生活のためと言いながら、安易に安価な商品を買い求める消費者の行動は、実は自らの首をやんわりじわじわと絞めていくことになりかねません。「安価」はどうやって実現された安価なのか、(もちろん「安価」な商品のすべてが悪いという意味ではなく、「高価」なものが適正とは限らないので)「安価」の中身を知る努力をしなければならないし、商品の価格がどうやってどういう中身で決定されているのか、疑問を持ちながら物を選びたいものです。

テーマサロンの「平和のためにできること」は、他人事じゃなく、私たちの毎日の生活とつながっていることの発見からはじまるんじゃないかなあ。平和なように見える場所の中に、その原因が眠っていたりするってこと。

ムラ・コレクティブなどのフェアトレード商品を扱っているPeople Tree