仲良し家族のスポーツ日記

我が家は4人家族。皆がスポーツ大好きで、特にアメフトを愛し、アサヒ飲料クラブチャレンジャーズを応援しています。

あれから21年

2016-01-17 16:42:55 | 思い出
車の車検のためトヨタのディーラーにいるポッキーです
早いものでアクアに乗り換えてからあっという間に3年が経ちました。お陰様で免許取得以来、無事故を続けることが出来ています。これからも冷静で慎重な運転に努めたいと思います。

先日のスキーバスの事故は、本当に悲惨な事故でしたね。若くして命を落とした方々のご冥福を心からお祈りしたいと思います。規制緩和も必要ですが、人の命を預かる分野については、もっとしっかりとしたチェックや指導が必要ですよね。

さて、今日で阪神淡路大震災から21年となりました。
経験したことのない激しい揺れに飛び起きて、子供たちの2段ベッドを押さえながら、揺れが収まるのを待ったあの日を、ついこの間のことのように思い出します。

あの震災で亡くなられた多くの方々にのをご冥福をお祈りするとともに、記憶を遠ざけないで防災への意識を常に持ち続けるようにしたいと思います。

また、人生何が起きるかわからないので、1日1日を大切に生きようと思ったあの日を忘れないように、しっかり生きていきたいと思います。


母親

2015-06-19 08:34:44 | 思い出
昨夜もノンアルコールビールで凌いだポッキーです(^O^)
錦織選手頑張ってますね。ウインブルドンに向けて調子を上げていってほしいです!

昨日は母親の15回めの命日でした。
自宅で3日ほど風邪で寝込んでいたのですが、急に脳出血で亡くなりました。父親が気付いた時にはもう呼吸がなかったようです。
慌てて皆で大津に向かいましたが、全く間に合いませんでした。

当時は年に数回しか帰ることができず、これといった親孝行もできなかったことが、たいへん心残りです。
大津にいるときは毎朝、お仏壇にお参りして皆を見守ってくるようにお願いしています。

あれから15年、父親は一人で良く頑張ってくれています。
最近、父親に少しあたってしまうことがあるので、改めたいと思います。

高校時代

2014-01-26 13:44:42 | 思い出
昨日は、高知マラソン3週間前ということで長めに走ろうと思い、それなりに調子も良かったので20キロを2時間5分で走ることができたポッキーです風邪をひかにように気をつけたいと思います。

毎月一回父親の受診に同行していますが、その時は時間休を取り、薬をもらってJR膳所駅まで歩いて行き電車で職場に向いますが、その途中に母校の高校があります。10数年前に新しい校舎ができ、とてもきれいになりました。


先日紹介しましたが、高校時代はラグビーに少し取り組みましたが、その後今時々大津で一緒に飲んでいる親友にに誘われて「演劇班」に入らせてもらいました。母校ではクラブ活動を班活動と呼んでいました。

舞台に立つことなど全く考えておらず裏方をしようと思っていましたが、2年生の秋の公演は、フランスのロマンローラン原作の「ピエールとリュース」で、日本語台本のタイトルは「また逢う日まで」という反戦をテーマとしたものに決まり、思いがけず私が三郎役を演じることになりました。

設定は第二次世界大戦の日本で、恋愛関係にあった二人が戦争で引き裂かれ、最後は出征する三郎を見送りに来てくれるはずの蛍子(けいこ)が空襲で命を落とし、三郎は「どうして来てくれないのか」と彼女の名前」を叫んで幕が下りるという物語でした。

1時間を超える大作で、セリフもかなり多くて練習もたいへんで、文化祭の公演前には毎晩深夜まで、体育館で練習をしました。文化祭当日は、体育館一杯に集まった多くの生徒の前でかなり緊張しましたが、何とか無事に公演を終えることができ、たいへん大きな達成感を味わうことができました。

高校時代あまり目立たない存在でしたが、私にとってはとても大きな貴重な経験であり、3年生の文化祭でもクラスのなかで短い一人芝居をさせてもらいました。

それ以来、舞台に立ったことはありませんが、演劇は好きなのでこれからも機会があれば、歌舞伎や狂言なども含めて観劇を楽しみたいと思います。




あれから19年

2014-01-18 10:56:51 | 思い出
今日はアクアの1年点検で西宮のディーラーに来ているポッキーです
昨日は異業種の方々との飲み会があり、とても楽しい時間を過ごさせてもらいました。定例会をしようということになり、これからが楽しみです。

さて昨日で、阪神淡路大震災から19年が経過しましたね。当時は子供達は7歳と4歳で六軒の連棟に住んでいました。当日の5時46分、経験したことのない揺れに飛び起きた私は、子供達が寝ていた2段ベッドを何が起きたのか分からないままに、必死で押さえていました。箪笥の上の人形ケースが落ちてガラスが割れるなど、2階の部屋はぐちゃぐちゃになりました。

揺れが収まり、1階に降りようとしましたが、階段も上に積んでいたの物が散乱し、何とかかき分けて降りると、台所もめちゃくちゃな状態で、大型冷蔵庫が1mぐらい移動していたのに本当にびっくりしました。。
お陰様で妻も子供達もケガはなく、近くに住んでいる妻の両親家に行くと、両親も無事でほっとしました。

それからは、私も妻も公務員ですのですぐに出勤しなければならず、家はそのままにして妻の両親に子供達を託して自転車で職場に向かいました。
職場に着いてからは、私の部署の役割であった避難所への物資支給の業務などを大混乱のなかで、手探りで始めることになり、初期は交代で泊まり込みもしながら、3~4か月にわたる災害対応を行うことになりました。

大津の父親も心配してすぐにこちら向かってくれました。何とか京阪電車が淀屋橋まで動いていたようで、淀屋橋からはタクシーで家に来てくれて、家の中の片づけをしてくれたこと本当にありがたかったです。

あの時は、つくづく人生って何が起こるかわからないと感じ、何よりも皆が無事であったことに心から感謝しました。震災はいつ起こるかわからないですし、改めて皆で備えを確認するととともに、1日1日を大切にして生きていきたいと思います。


北海道旅行

2013-10-09 06:06:08 | 思い出
朝から大きな蜘蛛をみてぞくっとしたポッキーです
楽天のマー君、今シーズンは負けなしの24連勝、本当に凄いですね。台風はかなりそれたようで、今日の午前中の理事会は予定通り開催できそうです。

昨日の記事は、時間がなかったので慌てて書いてしまい多くの誤りがありました。たいへん失礼しました。

さて、昨日事務局を訪ねてくれた友人は、大学時代からの親友で、京都市内に勤めていることもあって、最近は年に1~2回は出会って美味しいお酒を飲んでいます。
就職してからはなかなか会うことはできませんでしたが、本当に大切な友人であり、結婚式ではお互いに司会をしあいました。

彼との大学時代の一番の思い出は、2回生の夏に二人で約2週間の北海道旅行に行ったことです。二人とも免許取り立てでしたが、車で敦賀から小樽行きのフェリーに乗り、キャンプやユースホステルに泊まりまがら、ほぼ北海道を1周しました。

印象に残っているのは、雨竜沼湿原、礼文島の桃岩ユース、知床半島での釣り、然別湖などですが、本当に感動する景色ばかりで、あっという間の2週間でした。

それから北海道には、父親を連れての家族旅行と江別市の友人のお世話で研修の同窓会で2回の計3回訪れています。また機会があれば雄大な景色と美味しい食べ物を楽しみに行きたいと思います。

写真は、我が家のとてもかわいい熱帯魚です。10年ほど近くの川で子供達が獲ってきた魚を飼っていましたが、残念なながら死んでしまい、最近息子の提案で飼うことになりました。頭の近くがブルーに光っていて、見ているだけでほっこりします。




人生いろいろ③

2013-09-21 11:09:43 | 思い出

昨日はお彼岸の入りで父親を連れてお墓参りに行ったポッキーです
実は先ほど、かなり長い文書を書いてそろそろ投稿しようとしていた時に、ESCに触れたせいか、ほとんどの文書が消えてしまい泣きそうになりました。気を取り直して、もう一度頑張ります。

写真は、大津駅前に設置されている10月12日に宵山、13日に曳山巡行を迎える「大津祭」の宣伝用の提灯です。ミニ祇園祭といった感じですので、お時間があればぜひ大津にお越しください。

31年前に保健所に配置された私は、当時精神衛生事務を担当していた予防係に席を置いていました。しかし2週間ほど後に、次長がこれからの業務を考えると、一緒に相談や訪問活動を行う保健師だけの係である保健係に移ったほうがいいだろうということで、女性6人の係に席を移すことになりました。

5月の一ヶ月間は、県立精神衛生センターで研修をさせてもらいました。初めての専任の相談員ということもあってか、たいへん丁寧に指導をしていただき、夜もよく飲みに連れて行ってもらいました。その後もいろいろ相談に乗っていただくなど、たいへん貴重な研修期間でした。

その研修終了後は、3ヶ月ぐらいかけて兵庫、大阪の精神病院廻りを集中的に行いました。精神病院を訪れたことがなかった私にとって、長期入院者の閉鎖病棟は、衝撃的な光景でした。その病院訪問のなかで、多くのPSWの方々に出会うことができ、その後の入院相談などで、たいへんお世話になりました。顔と顔が見える関係はたいへん重要ですよね。

2年目には、千葉県市川市にある国立精神衛生研究所での3週間の現任者研修に参加させてもらいました。経験の短い私にとっては、本当に貴重な機会であり、相談員の仕事に情熱を持って真剣に取り組んでおられる大先輩の方々のお話を聞くことができました。

5年目には、神奈川県の国立久里浜病院のアルコール依存症に関する研修にも参加させてもらいました。アルコール依存症の方やその家族からの相談もたいへん多く、アルコール専門病院に入院同行などでよく行きましたが、たいへん対応が難しかったです。

このように、保健所での9年間は、保健師などの職場の先輩、心の病に悩む方やその家族、精神病院や精神科クリニックのドクターやPSW、兵庫、大阪を中心に全国の行政関にの相談員などの多くの方々との出会いがあり、その方々に支えていただき何とか無事に相談員としての仕事をすることができました。

なかでも市内で開業されていたある診療所のドクターには、受診拒否をしている方の家に往診に行っていただいたり、様々な場面で相談に乗っていただいたりとたいへんお世話になりました。この先生がおられなければ、私の仕事はできなかったといっても過言ではありません。

たいへん残念ながらこの先生はは2年前にお亡くなりになりましたが、先生をはじめ支えていただいた多くの方々への感謝の気持ちを忘れずに、これからも頑張っていきたいと思います。
 

人生いろいろ②

2013-09-13 06:45:29 | 思い出
今日は休みをもらって、山梨の入院中の叔母をお見舞いに行くポッキーですもちらん父親も一緒にいきます。明後日帰って来る予定です。

先日、就職初日のエピソードを紹介しましたが、今日は少し子供の頃のことと、大学受験のことを思い出したいと思います。

七代目で初めての男子として誕生した私は、祖父母と父母の5人家族のなかで育ちました。母も祖母も一人っ子で、ずっと養子を迎えてきた家です。

小学校の低学年で読んだ「野口英世物語」が今でもとても印象に残っており、その頃は将来は医者になって、人の役にたちたいと考えていたように思います。

地元の小中学校を卒業し、第一志望の高等学校に入学し多くのとても優秀な同級生に囲まれながら、自分なりには勉学に励みましたが、徐々に理数系が苦手になり、学力的にも医学部は諦め、3年生で文系クラスに進みました。

親に経済的な負担はできるだけかけたくないとの思いから、国公立大学への自宅通学を
目標とし、受験校を考えるなかで、京都の公立社会福祉学科を第一志望とすることにしました。

その他は、私立で学費が一番安い学校の法学部と、共通一次試験が始まる前年でしたので、二期校は国立の教育学部を受験することにしました。学部がバラバラというのも私らしいと思いますが、何よりも第一志望である社会福祉学科への進学を望んでいました。

そして、お陰様で私立には合格しましたが、公立は不合格という人生で初めて大きな挫折を味わいました。それで元気がなくなり、私立の法学部に進学することを決め、教育学部は受験しませんでした。

私立に前期の授業料も収めて準備をしていた3月末に、公立から「補欠合格となりましたので、入学されるのであれば至急に手続きをしてくだい。」との連絡がありました。
すでに支払ってもらった授業料のこともあり、どうしたものかと父親に相談したところ、「自分の一番進みたい学校に行けばいい」と言ってくれましたので、そうさせてもらうことにしました。

そして今があります。補欠合格がなかったら、まったく違う人生を歩んでいたかもしれません。こうした人生の重要ポイントでどちらに転ぶのかは、まさに神のみが知ることではありますが、これからも自分らしく、誠実に、前向きに、一生懸命歩んでいきたいと思います。

では、山梨に行ってきます。

人生いろいろ

2013-09-05 06:09:32 | 思い出
昨夜は久しぶりに早く寝て、涼しさもあいまってぐっすり眠れたポッキーです連日の関東での竜巻、西日本では豪雨と毎日たいへんですね。

さて、写真は昨日の朝の京都タワーで、空には秋の雲が見られ良く晴れていましたが、天気は急変し夕方までよく降りました。京都駅から職場までは歩いて15分程度ですが、何となく前職での初めてづくしのいろいろなことを思いながら歩いていましたので、少しずつ紹介させてもらいたいと思います。

公務員になりたいと思ったのは、人の役に立つ仕事をしたいと思い社会福祉を学び、それを活かして社会福祉分野で直接サービスや制度設計等に関わりたいとの思いからでした。

国家公務員をはじめ、多くの採用試験を受験しましたが、なかななうまくいかないなかで、お陰様で何とかA市とB市の採用試験に合格することができました。希望していた地元の県、市は、残念ながら共に不合格でした。

私にとって合格した市は、これまで何の繋がりもなく、たぶん訪れたことさえありませんでした。どちらを選択するか悩むなかで、決め手となったのは、人事課の採用担当者の方との面接で聞かされた「君には特別な仕事が準備しておあるから、ぜひ来て欲しい」との一言でした。

そして、31年前の1982年4月1日、当時の市長から採用辞令、局長から配置命令書をいただき、配属先はC保健所であることがわかりました。

迎えに来ていただいていた保健所の次長から、保健所に向かう車のなかで仕事内容について聞かされたのは、「君には、本市で初めての専任の精神衛生相談員(現在の精神保健福祉相談員:PSW)として頑張ってもらいたい。非常に難しい仕事であり、経験の積み重ねも必要なので、一般行政職(事務職)ではあるが、10年は頑張って欲しいと思っている」とのことでした。

私は、全く想像していませんでしたので、本当にびっくりすると共に大きな不安のなかで、公務員としての初日を終えました。そして9年間、その保健所で働くことになりました。

今日はここまでで、続きは、ぼちぼち紹介していきたいと思います。

「少年探偵団」

2010-08-23 23:21:07 | 思い出
帰り道に京都駅近くの特養の夏祭りに少し顔を出し、その施設が京都市からの指定管理によって運営されていることを初めて知り、びっくりしたポッキーです

さて先週の金曜日の夜は、尼崎市に就職した当初から、たいへんお世話になった方々に声をかけていただき、とても楽しい時間を過ごさせてもらうことができました。

私達が結婚したのは1987年の6月ですが、新婚旅行から帰ってすぐに、「少年探偵団」と称するこの皆さんが中心となって、結婚披露パーティを企画運営していただきました。
職場の先輩や同僚をはじめ、当時の仕事の関係から保健所で支援をしていた精神障害者やそのご家族、仕事でお世話になっていた精神科医療機関のドクターやソーシャルワーカーなど、本当に多くの方々にご参加をいただき、とても印象に残る、素晴らしいパーティを開催していただきました。本当にありがたく思っています。

あれから、早いもので23年が経過しましたが、こうして集まって当時のことを思い出し、保健福祉の現場で何が必要か、何が大事かを議論し、そしてお互いに励ましあえることは、本当に素晴らしいことであり、これからも末永く、この皆さんとのお付き合いを大切にしていきたいと思います。

写真は、日曜日の琵琶湖ランニングの際に撮った、近江大橋と比叡山です。最近は、暑いなかを週末は頑張って走っています。


長崎の思い出

2010-08-09 23:39:51 | 思い出
今週は、尼崎から通勤しているポッキーです

今日は、長崎の原爆記念日ですね。
今から、17年目前になりますが、総務局総務課時代に、長崎市に出張に行きました。当時は、総務局総務課が、災害対策本部関係事務や、他の局に属さない事務ということで、平和運動、核廃絶、原発問題といった分野を所管していた関係で、原爆被災地であり、大きな水害を何度も経験し、防災システムの先進地ということで、視察に行くこととなりました。

平和公園、原爆資料館を訪れ、原爆の悲惨さや平和の大切さを改めて感じ、長崎市役所の防災担当の職員さんから、とても親切に防災システムや施設の案内をしていただいたことを覚えてます。「長崎くんち」がとても素晴らしいと聞きましたが、まだ見ることができていませんので、近いうちにぜひ再び訪れてみたいと思います。

今年の6月には、初めて広島の原爆ドーム、原爆資料館も訪れることができ、今年の平和式典にはアメリカ、イギリスなどの核保有国の代表も初めて参加したとのことで、核兵器廃絶に向けて世界全体が動いていくことに期待をしたいと思いますし、自分なりに何ができるか考えていきたいと思います。

写真は、京都で今開催中のイベント「京の七夕」のチラシです。15日まで、堀川会場と鴨川会場で、様々なイベントが開催されています。そして、16日には、「五山の送り火」を迎えます。