稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.64(昭和62年6月5日)

2019年08月28日 | 長井長正範士の遺文


○臍下丹田に力を入れることを知っていても、ぬくことを知らない。
自然体の剣道には陰陽上下がある。この事は大変大切であるからあえて加筆しておく。
これに関連した項目は№8.9.10.24.30を見て頂きたい。

○呼吸についても以前お話したように(№6. №30)大切なことなので、もう少し具体的に述おく。
呼吸には吐き息、吸う息、含み息がある。(№10)剣道の最高の呼吸は含み息である。
含み息は胸式や腹式での呼吸をするのではなく殆んど呼吸していないように見えるが、
実は空気を含んでいる口の中だけで呼吸する。これを含み息というのである。

だからフッと出られるのである。このことを先師から習い長年研究して来たのであるが、
これは竹刀剣道で相手を打とう打とうと思って力んでおっては到底含み息で打てない。
一刀流のハッとした瞬時の応じ技の時、思わず打って出た時にのみ含み息で打っている
ことに気がついて、この含み息こそ最高の呼吸だと此頃になって感じている。

但し初めて一刀流を習う時、ともすると先に攻めることを忘れ、
相手が打って来たら、その起こりがしらを打ってやろうと思い、
どうしても待ちの稽古になりやすい。

待ちの稽古は心ばかり動いて迷ってしまう。
これは一刀流の切落の精神に反するもので、含み息どころではない。
一刀流の「一つ勝」は最も高度な先々の先で切落されているのである。
この切落は三年で出来ると小川忠太郎先生は仰ったが、
ひるがえってみると、愚鈍な私は一刀流をやり出してから17年経つが
未だに満足出来る切落が竹刀剣道で表現出来ないでいる。

ただ1年に2~3回、ハッとした瞬間、思わず打って出た無意識の面なり甲手の技を、
あとになって、なんであんな技が出たのであろうと自分でも不思議に思うことがある。
こんな時は恐らく含み息でフッと出たのであろうと思っている。
これを良いことにして再び切落の技を出してやろうと考えていると絶対に出来ないのである。

さて世間でよく言われる言葉に、含みのある人(慈愛のある人)だ、
何事もよく弁えて(わきまえて)心大きく包み入れてくれ、含蓄のあるお方だと言う、
この含みのある人という言葉は剣道から来た言葉である。

次に止め息であるが、これは相手が攻めて来て、打ちを出そうと瞬間、
それに対して応じ技が出ない時、即ち瞬間打たれやしないかと心が動きハッと受け身になり、
己れが竹刀をあげた時は必ずと言って息を吸うている。
こうなるときまって打たれるのである。

この時迷わずハッと瞬時息を止める。
そうすると無意識に竹刀の先を相手の、のど元へつけて構えている姿勢になっている。
言いかえれば迷えば瞬間止め息をすることである。
然しいつまでも止め息で力んでは技も止まり、そのあとに打たれる事必定、
止め息ははあくまで瞬間で迷いの心をぐっと押さえるに用いるのである。
その他の場合には止め息はしない。

○剣道は自分の修養のために行うものである。
ことは前回№63に述べたが、修養のためには自己を減却して修行しなければならない。
スピードと力で叩くことばかり考えて練習することが剣道を考えているのは間違いである。
もう少し守りを中心に考えねばならない。
あらゆる形は皆、己を守るために作ってある
(この守りは打たさないようにする受け方の意味と勘違いしないように)
この形を中心にして竹刀剣道の修錬を積めば、自らその眞理をつかむ事が出来るであろう。終り
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