稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.23(昭和61年1月15日)白雲自去来=禅の教え

2018年09月10日 | 長井長正範士の遺文


○白雲自去来=禅の教え
人間はすべて迷いの雲にかかって、かすんでいる。
修養すれば白雲は自ら去ると禅で教えてある。剣道もその通りである。
迷わぬ心を作りあげる為の剣道であるにもかかわらず、
いつまで経っても生死の間に入って打とうか、
打たれやせんかと心ばかり働いて迷い乍ら叩き合いしている。
これは剣道ではなく、しない競技である。
(しない競技は間がいらぬ。間に入って当てればそれでよいが)
剣道精神は切落しの精神なり。よくよく心得の事。

○一休和尚の話
或る日、弟子達に、見事な五葉松の盆栽を見せ、
『この曲げた五葉松をどう見たら真っすぐに見えるか』と質問した。

皆が数日、この問題を考えてみたが判らない。
愈々(いよいよ)答えの日が来て、夫々(それぞれ)答えた。
或者は大自然の松を小さな盆栽によくまとめ現してあるとか、
何十年経ったであろうが生々として手入れがゆき届いているとか、
枝ぶりがよいとか等々答えたのであるが皆正解ではない。

その時末席に居った若弟子が『よくいがんでいます』と答えた。これが当りー。
然し一休和尚は「今丁度この辺りに蓮如上人が来ておられると聞く。
この答えは蓮如上人様以外は答えられない筈である。
お前、上人様に聞いたのであろうと言われ、若弟子は「その通りです」と頭を下げたと言う話。

即ちありのままを見る。これが正しい。曲がったものを真直ぐ見るのはいかぬ。
剣道もその通りである。居並ぶ弟子達は成程と悟ったと言う。

○悟りの道はスカッとして人間のアカヌケしたものである。
悟りとは相手の暗示がキチンキチンと当てはまっている。
この世の自然体が即人間であらねばならぬ。
私は高僧が禅の話をされる時、いつも剣道家として剣に置きかえて拝聴している。
そうすると、剣道の修業に大変プラスになる。

○剣道はあらゆるものに生きてゆく。
自然の恩恵に感謝する。そして錬ってゆく=剣禅一如、このところ大切。

○本当のよろこび=苦しい時にもよろこびがある。
苦しい時にもよろこぶ。本物。

○剣道の本当の奥義は、かけず、かからず、表はれず、本当の奥は説明も出来ず。

○相手を打った時の手の内について
ぐっと握りしめて、パッと開くと手の内が白くなる。
これは瞬間血が止まっている。ここが大切。そしてサッと流れる。
これが身体のたんれんにつながるのである。
血液の循環がパッと止まり、サッと流れる。
このくり返しが身体のたんれん上大切である。
この項終り
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