稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

剣道試合、確かに斬ったが旗は上がらなかったのだ。

2020年08月13日 | 剣道・剣術


剣道と剣術(居合を含む)の両方をやっていて疑問に思うことは多い。

若い頃に戸山流(故 徳富太三郎先生の関東戸山流)の手ほどきを受けたが、
巻き藁などを斬る場合、前進して斬っても、斬った瞬間は左足を引き付ける動作までで、
その巻き藁を抜けていくような事はしなかった。


(戸山流の師、徳富太三郎先生)
(徳富先生とは亡くなるまで年賀状を含めお手紙でのお付き合いが続いた)

剣道の試合でも同じ動きをしたことがある。
20年近くも前だが、相手が中途半端に大きく振り上げた右小手を、
左袈裟斬りのような体勢から左足前で刃筋正しく打ち込んだのだ。

それは見事な打ちで、私も一本を確信したし相手も参りましたという顔をした。
「ポンッ!」と軽い音が出るような小手では無い。
「ズバン!」という、日本刀ならば甲冑の籠手もろとも両断するような打ちである。
回りの観客からも「おお~!」という歓声が上がった。
しかし旗は上がらない。3人の審判の誰一人、旗を上げようとしなかった。

おそらく、据え物切りのような打ちで、その場で足を止めたこと、
竹刀の部位は中結部分だったこと(日本刀なら充分斬れる部分なのだが・・)、
しかも体勢は左足前でやや左に傾き、右足を伸ばしたままで引き付けてなかったことが原因だと思う。
おそらく審判の先生方からすれば、普段、目にしたことも無い動きだったのだろう。

小野派一刀流を稽古していても「これは剣道では使えないな」と思うことはよくある。
(根本的に反りの無い竹刀で小野派一刀流を再現するのは無理がある)(これはいつか書きます)
ここが剣術と剣道の乖離部分で、剣道がスポーツと言われる所以であると思う。

というか「試合」そのものが、本来、剣道になじめない部分なのである。
試合を見ていても、打った打たれたの競技性ばかりが目に付くことが多いもので、
「ああ、立派な試合だったなあ」と思えるような、気の練り合いのような試合は少ないものだ。
良い試合は「当たったかどうか」よりも、その前、つまり技前の攻防が見どころなのである。
(ここを誤解して「剣道はスポーツだ」と言う者は何もわかっていないことになる)(これもいつか書きます)

道場での地稽古が好きなのは、剣道形三本目のような「気位の勝ち」も(たまにだが)あるからで、
相手の、技前の無い早った面打ちを、咽喉や胸に剣先を付けて制した場合は剣道形三本目の「位詰め」に似ていると思う。
たまに制されたのに、そのままバンバン面を叩く御仁もおられるが、それはそれで(本人もわかっていると思うが)見苦しい。
つまりは第三者が判定を下せずとも、稽古をしている両者のみが優劣を感じているという場合も少なくない。

高齢者になれば、打ってから走り抜けるようなことも少なくなり、
その場で打って「さあどうだ?」的な剣風もよく見かけるようになる。胴打ちや小手打ちに多い。
しかし、これも一概に良いとは言えないのが難しいところ。
難剣の類の方もおられ、相手にお構いなしに奇抜な技を出しまくって、当ったら「さあどうだ?」という方もおられる。

相手を気で攻め、その起こり間際、技を出し尽くしたところ、
あるいは居付いたところを、刃筋正しく打てることであり、そしてそれは見事な技である。
やはり技前(技を出すまでのところ)が剣道の本質なのだ。
打ったあとに飛びぬける必要は無い。

私もいずれは足腰が弱り身体が動かなくなる。
動ける限りは若い頃から目指して来た剣道の動きを追い求めようと思う。
しかし、徐々に剣術の動きも取り入れて、無理無駄の無い剣風を作りたいものだ。

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