稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№116(昭和63年1月10日)

2020年05月21日 | 長井長正範士の遺文


話をしたり用事を頼むといった具合でした。総長も勿論このことを充分承知の上で計画を立てられたのは言うまでもありません。

さて、総長は予めA先生に伺いをたて、実は私どもの大学の校務員に、それはそれは素晴らしい人物がおりまして、校務員にしては勿体ないくらい立派な哲学者で、常々私が尊敬している人物であります。それで一度先生のご都合のよい日に、果してどれだけの人物かお試し願いたいのです。と申し上げ、又ご参考の為にと、本人の人物像のよい所ばかりを詳しく説明申し上げ、尚且つ本人は相当耳が遠いので手真似で問答して頂ければ有難いのですが、とお願い致しましたところ、先生の快諾を得ましたので、早速日時も相談の上決める事が出来ました。

約束の日は一週間ほど先のことでありますので、時機を見て総長は校務員室に行きまして、実は来週の水曜日の午後、偉い先生が、こちらに来られることになった。それは常日頃、君が体が不自由にも拘らず、大変よく働いてくれ、私はいつも君に感謝し、尊敬している。そんな立派な人物ですと先生に話をしたら、先生は、そんな立派な校務員さんと、お話させて貰うことは、むしろ私の方が光栄に思います。是非とも寄らせて頂きたく、よろしくとの事だ。さあそこでだ、先生と話をするのに君は耳が遠いので話しにくいと思うから、口でなにも喋らず、みんな手真似で応答してほしい。絶対口でもの言わないようにしてくれ、頼む。ただ一つだけ心配なのは、君は立派な素直な、いい人間だが、話の最中に何か自分の癇にさわるち、すぐカッとなって、腹を立ててどなることだ。これだけは絶対するなよ。だから始めから、しまいまで、ぐっと我慢して、手真似で問答してくれ、頼む。と懇々と言って聞かせました。

彼は判ったのか、判らぬのか、わかりませんが、兎に角、ふんふんと耳を傾けて頷いておりました。その日はそのくらいでおきまして、いよいよ先生が来られる前日になりまして総長はもう一度念を押して打ち合わせしておかなくては、と思い、再び校務員室にやって来て、彼の機嫌をそこねないように、気をつかい乍ら、前に言ったことを話しますと、彼は案外素直に、よし判っとる、一寸やそこらで腹立たへんさかいに安心しな、俺にまかしときと、ポンと威勢よく胸をたたいたので、総長もやれやれと胸を撫でおろし、明日を待ったのであります。

一夜明けまして、いよいよ当日、さあ大変です。朝から玄関や総長室、廊下それに校務員室は勿論のこと大学のキャンパスの目立ったところはすべて綺麗に清掃されました。総長はただ偏屈の校務員だけが気がかりでなりません。今日は晴れの日、いつもよれよれの菜っぱ服じゃなしに、よそ行きのキチンとした服装でもして来たかな、と様子を見に校務員室に来ましたが、よそ行きの洋服どころか、いつものよれよれの菜っぱ服で、その上、今朝からの大掃除で顔もドス黒く、すすけて、まるで乞食同然の姿に、総長もただあきれるばかり、漸く声を出して、顔でも洗ったら、顔がすすで真っ黒だと言いますと、こんでええんや、何もよそゆきの顔せんかてええやろとどなられて、あわてて総長室に逃げられた。やがて掃除も万端片ずき、昼食後、いよいよ先生がお越しになるのを今や遅しと待ち受けてますと、丁度約束の午後一時、玄関に車が着きました。総長自ら鄭重に出迎えまして、ひと先ず総長室へ招き入れ、その労をねぎたって暫く懇談いたしまして、さあ、それでは先生、よろしくお願いしますと、事務職員に案内して貰って先生はしずしずと校務員室に向われたのであります。

以下次回へ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 転載「新型コロナウイルス感... | トップ | 何もないので猫の写真15枚(2... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長井長正範士の遺文」カテゴリの最新記事