「郵便局の方から」

　昼寝しようとソファーでうつらうつらしていたら、玄関のチャイムが鳴った。出てみるとセールスである。人の都合も考えずと気分を害し、要らないと一言で断った。部屋に戻ってまた横になり、少し邪険すぎたかなと一人苦笑いをした。

　目を閉じていると、ゆくりもなく学生時代に訪問販売のアルバイトをした記憶が甦ってきた。

　師走に入って間もなくのことだった。友人に誘われて、サイドビジネスで表札販売の代理店をしている喫茶店のマスターに会った。商品は当時よくあった、世帯主を筆頭に家族全員の名前が入ったプラスチック製の表札である。代金先払いで、後で名前を入れ込んで注文主に送るのである。たしか値段は１，１００円だったと思う。一枚売るごとに私には１００円のマージンが手に入る。私は口下手だがやってみることにした。

　最初は京都市郊外にある新興住宅地での飛び込み販売であった。マッチ箱を縦に並べたような密集住宅のすごさに驚きながら、一軒一軒回り始めた。いかにも郵便事業と関係があるかのような団体を名乗り、腕章をして家々を訪問するのである。事前の説明で、どこからと聞かれたら郵便局の方から来ましたと言えとレクチャーを受けた。

　セールストークなど学校で教わるはずもなく、初めての経験でなかなか上手くいかないのは仕方がない。そのうち入った一軒では近所の小母さんたちに取り囲まれた。隣家が以前に注文した時は、今日の値段よりも１００円高かったと文句をつけられた。

　前に誰かがここで商売したことは分かったが、値下げした理由なんぞ知るわけがない。そうこうしていると、あんたに言っても仕方がない、あそこにいる監督が悪いのだからと放免された。見ると私たちを連れて来た喫茶店のマスターが鵜匠よろしく、少し離れた場所でこちらを窺っている。

　ある家では玄関に入るなり年寄り夫婦が出てきて、お前が来るのを待っていた、さあ上がれと茶の間の炬燵に座らせられた。何でもこの手の表札が欲しかったらしい。思いもかけず歓迎されて嬉しくなり、出されたお茶と菓子をご馳走になった。

　注文票に書いて貰いながらしばらく世間話をしていたが、こちらは一枚売って幾らのアルバイトである。次第に腰が浮いてきた。しかし中々帰してもらえそうにない。終いには逃げるようにしてお宅を後にした。

　二日目は郊外の落ち着いた住宅地を回った。まだ自然も残っており、景色も楽しんで売り歩いた。新築して間もない家を訪問すると若奥さんが出て来た。いま北海道と長距離電話中だから、申し訳ないが少し後で出直して欲しいという。当時は固定電話である。こちらこそ相済みません、後ほど伺いますと言って一旦辞去し、３０分ほど後に再訪した。二つ返事で買ってもらった。

　学生時代はあまりアルバイトはしなかったが、これは面白い仕事であった。最初は口上の仕方さえ分からなかったが最後は立て板に水で、見本の表札に唾を飛ばしながら日が暗くなるまで売り込んだ。家の様子を見ただけで、買ってもらえるかどうか大体の見当がついた。残念ながら立て板に水は商売上だけで、実生活では相変わらず口下手だったが。

　初日は４、５枚しか売れなかったのに、三日目は４０枚を超す売り上げがあった。当時のバイト代の３日分を一日で稼いだことになる。割のいいバイトだった。しかし私は３日で辞めてしまった。マスターが教えた「郵便局の方から」という口上に胡散臭さを感じたからである。

　その後、クリスマスパーティに呼ばれ一度は出向いて行ったが、マスターとはそれきりになった。　　　　　　　

　　　　　　　　フリーフォトより