HAYASHI-NO-KO

北岳と甲斐駒ヶ岳

キンセンカ(金盞花)ヒメキンセンカ(姫金盞花)

2023-03-17 | 冬 橙色系

▲ 突然思い出して、昭和40年春の記録があるだろう…と、このページに辿り着いた。▲

何十年も昔の話に繋がるキンセンカ。
1965年春の徳之島。
南の島では春の花だった。
その年の冬は信州・蕨平でひと月近く滑り転び真っ黒になり
明石に戻った翌日の夕方には、船で神戸から最初の春合宿に出掛けた後、
帰路には鹿児島本線鳥栖で深夜に途中下車、翌朝、春爛漫の諫早に立ち寄っている。




























(2020.12.28 立石)

唐突とこの2年前のページを開いた。
そして今日、明石公園でキンセンカの花を撮っている。










(2022.12.27 明石公園)

ハナズオウの冬芽を見つけると、この花色が同時に浮かんでくる。




キンセンカ(金盞花)
 キク科キンセンカ属 Calendula officinalis
(2023.01.21 貴崎町)










(2023.01.31 明石公園)














ヒメキンセンカ(姫金盞花) キク科キンセンカ属 Calendula arvensis
「フユシラズ」の名前の方がよく知られている。
(2023.03.15 南王子町)


▲ 昔の学校花壇の話 ▲1997.12

【1965年春の島旅の記憶 ロマンチストの独り言-20 からの抜粋 震災の年の暮れ1997.12に一気に書き上げた】
昭和四十年三月から四月の旅である。
南の島旅は、難行苦行の二泊三日の船旅から始まった。
神戸港からの春合宿の出発は夕方だった。
直前のオープンスキーに参加してくれた人々や、合ハイ仲間、薬大旅行部の人達の見送りがあった。
ともかく、山が主流だと思っていたワンゲル活動に春の島旅が加わったことに僕は感動していた。
事前の下調べ段階では、少しでも前提知識を増やそうと新聞に投書して
奄美地方出身の方から幾つかの情報を得たこともその合宿に対しての思い入れだった。
学生らしく?、学究に熱心だったのだろう。
早速僕達は、息苦しいくらい混雑していた三等船室で乗り合わせた人達との交歓に及んだ。
春休みに入っていたこともあって子ども連れも多かったから、僕達には格好の相手だった。
ゲームに興じることもあったが、家族連れをつかまえては風俗・習慣から言葉(方言)までをがむしゃらに聞き及んだ。
内海を走るのとは違い、沖縄航路の浮島丸は夜が明けてもどこを進んでいるのかさっぱり見当もつかない。
しかし、誰言うと無く四国の沖を航行しているらしいと情報が流れた頃
船首で遊んでいた連中から、イルカの群れが船と並走している…の報。
為すことも無く、船の中を行ったり来たりしているだけだった面々は、殆ど全員が船首に集合、暫くは歓声が響いていた。
結局、このイルカの出現だけが二泊三日の船旅の唯一の収穫になった。
二日目の夜は、狭く居心地の悪い船倉での就寝を諦めて、後部デッキでの夜更かしとなった。
満天の星とまでは行かなかったが、少し冷たさを感じる程度の風に吹かれながら、覚えた歌を片っ端から歌い続けた。
夜半から天気は崩れ始め、船は大きく縦揺れ横揺れを不規則に繰り返し始めた。

二度目の夜が明けても、やっと奄美大島の南部、加計呂間諸島の間を進んでいるに過ぎなかった。
雨なのか波飛沫なのかわからないがデッキはぐっしょり濡れている。
天気は一向に回復しそうに無い。
狭く、息苦しい船倉でごろ寝しているしか無かった船酔い組みも
時折自分達の位置を知るべくデッキには出てくるが、ますます気分が悪くなりすごすごと船倉へ下るしか無かった。
僕は瀬戸内での釣り舟に何度も乗っていたから、さほど気分も悪くならなかったが回りの状況は最悪だった。
僕達の最初の上陸地は、当時の日本の最南端、与論島の予定だった。
イルカと戯れた一日前が嘘のように、浮島丸はピッチング、ローリングを不規則に繰り返し、
部員の大半は船倉でグッタリとなっていた。
荒れ模様は結局丸一日続き、船が与論島へは立ち寄らないことになってしまったことで
僕達の下船も一つ手前の沖永良部島に変わった。
残念だったがとにかく早く下船したい…と言うのが、船酔いメンバーの切なる声。
しかしこの安堵も束の間、隆起珊瑚礁の沖永良部島、島の南部にある知名港には浮島丸は接岸出来ず
沖で渡し舟に乗り移ると言う難事業(?)が待っていた。
今でこそ、大型船着岸の為に立派に整備されているであろう港の設備も当時は未完成だった。
知名港沖合いに錨を下ろした浮島丸に渡しが到着した時
それまで一刻も早く上陸したいと騒いでいた船酔い組みでさえ
そのまま沖縄へ連れて行って欲しいと言い出した気持ちは、実体験しなければわから無いだろう。
回復しつつあるとは言っても、前夜来のうねりは大きく渡し船を翻弄している。
本船のデッキから小さな渡し船へは、文字通り飛び降りる、と言った表現がピッタリだったろう。
高低差はあるものの、うねりが頂点に達し、浮島丸との差が最小になった時を狙って飛び移る。
島影が近くに見えているとはいえ乱暴な話しである。
一時間以上はかかったような気がする。
全員が沖永良部島知名港に足跡を記したのは夕方になっていた。
長い、奄美諸島ワンデリングの最初は、急遽変更された沖永良部から始まった。 

知名小学校の校庭では薄暗さの中での幕営。
一年先輩の村山さんはこの島の出身だった。
お父さんが島で採れる芋類を材料にした「モチ」を差し入れに訪問された。
正直、食べ慣れない食感に誰もが二つ目に手を出さなかった。
小学校は春休みに入っていたが、目敏く異様な集団だった我々を見つけて大勢の悪童が集まって来た。
人懐っこい彼らは、一様に浅黒く健康そのものだったから、校庭を走りまわったりしながら僕達を遠巻きにしていた。
彼らの家族には京阪神へ出ている人たちもいたから「神戸から来ました」の言葉が、親近感を覚えさせたのかも知れない。
合宿の行程、日々の記録はKUCWV部誌「やまなみ」に詳しいが、幾つかの印象深いエピソードを記しておく。
知名から、島を時計回りに一周することが予定のコースだった。
翌日、島の南端知名小学校からのスタートは、約40kgにもなるザックの重量と
二日間の船旅の疲れが重なって暫くはどた靴の音だけが響く無言の行進になった。
しかし、騒ぎは直ぐに起こった。
事前のコースには無かったが、未整備の鍾乳洞に「探検」に出掛けることになった。
水蓮洞と地元では呼ばれていると聞かされたその鍾乳洞は案内板があるわけでも無く
辛うじて入口付近に縦看板があっただけの、外観からはただの洞穴だった。
しかし、奥深さと異様な湿気と何よりも未開の鍾乳洞らしく
歩行用の通路など無かったからあちこちで躓き、頭を打ちつけることになった。
懐中電灯の明かりが照らし出す景観は、歩行可能な部分しか辿らなかったけれども気味が悪いくらいの黄土色だった。
前提知識の中にどれくらい鍾乳洞があったのか、それでも博学の先輩達の講釈は愉快だった。
見事な石筍もあったし、かすかな流れが所々で澱み水溜を作っている。
何処まで歩行可能なのか、地図など無いその場所で僕達は探検家気取りで奥へ奥へと突き進んでいった。
途中、ポッカリと天井が抜け、深い樹林を見上げる場所もあった。
行き止まりまで辿り着き、なおその先に狭い空間を見つけて生温く澱んだ水に浸かって「調査」に出掛けたメンバーも居た。
二時間近くの寄り道だった。
その日は、島の西側になる住吉地区泊まりだった。 

お昼過ぎの到着後、荷物を校庭に置いて島で一番の標高を持つ大山にある米軍レーダー基地を訪ねた。
有刺鉄線に囲まれ、山の頂きを占拠している大きなドームとその周辺の建物は一様に白塗りだった。
初めて見るその施設はまるで映画の世界だった。
戦争の後遺症なのだと、学生運動ではしっかり標的にしていた筈のその米軍の施設を前にして
すっかり感激している自分自身の気持ちの矛盾は、しかしさほど感じなかった。
通訳を介すること無く、僕達は大きな地図上に点滅するランプと、正確に周期をもって回転する直線をただ眺めているだけだった。
その見学の戻り、当時唯一観光客用に遊歩道が整備されていた「昇龍洞」に立ち寄った。
町の観光課の管理になるのだろう、しっかり入場料を取られた。
前日無断で入り込んだ水蓮洞とは比較にならないほど規模も大きかったし、遊歩道の明かりと手摺り階段が有り難かった。
何が起きるか心配しながらの探検では無く、安心して鍾乳洞の不思議を体験出来た。
ただ、観光地に有り勝ちな特徴的な場所にはこじつけられた余計な呼称、説明書きが気になった。
僕達のテントは校庭の端、戦争犠牲者を悼んで建てられていた「忠魂碑」の下だった。
そこは見事なくらい緑濃い下草に覆われていた。
島のどの小学校にも植えられていたのだが、住吉小学校の校庭にも大きなガジュマルの樹があった。
翌朝、出発前の準備体操の頃には、その樹の周りに集まってきた子ども達に取り囲まれた。
島旅の行程は、一日せいぜい20キロ程度だったから、ただ歩くだけでは無く寄り道が続いていた。
山歩きとは違って、その南の島の風俗・習慣に触れることも合宿の目的になっていたからだ。
前日ピストンした大山付近は、幾つもの窪地がありその中には鍾乳洞もあった。
その一つに又々僕達は入り込み探検に出掛けた。
島のほぼ中央部辺りを抜けて、島の西海岸に出る途中、サトウキビの刈り取り作業に出くわした。
僕達は先を急ぐ旅でも無く、全員がその作業の手伝いをした。
蒸し暑さの中での作業はしかし笑い声の中だった。
労働奉仕の報酬として頂戴して手頃な長さに切ったそのサトウキビをかじりながら、僕達は島の北端・国頭を目指した。

国頭は下膨れ風の沖永良部の北東の先端部に位置し、今はそこに空港がある。
テントでは無く集会所が僕達の宿になった。
近隣の青年団との交歓会がその夜催された。
たわいないと言えるゲームに興じ、多少馴染んだとは言っても、早口だと全く理解出来ない島言葉に悩みながらも
「神戸」を中心とした話題が沸騰したその夜の交歓会は
板張りの集会所の建物と共に、今も不思議なほど鮮明な映像として残っている。
ここでも例のモチが出されたし、何と黒砂糖を塗して食するのには閉口した。

空港予定地は集落から国頭岬への途中だと聞かされた。
岬へのワンデルングは青空の下だった。
周辺は永良部百合の広大な栽培地で、道の両側はフリージャの花盛りだった。
パイナップルに似た実をつけていた樹がアダンと言う名だと教えてもらったのは、国頭岬に近い浜辺で大騒ぎをした時である。
地元の女子中学生が、学生服姿で遊びに来ていた。
午後の引き潮に、珊瑚礁の浅瀬に取り残された原色をまとった熱帯の魚類がのんびり昼寝していた姿
島旅の帰路に立ち寄った諫早にも残した、幾つかの珊瑚を拾ったのもこの浜である。
僕はそこで十九歳を迎えた。
沖永良部島を一周し、もう一つの港、和泊港から次の目的地、徳之島に渡った。


▲ 沖永良部・和泊港近くの雑貨店で野球帽を買った折のお釣りには百円札だった。▲

徳之島は大きな島だった。
沖永良部では殆ど同じコースを歩いた二つのパーティは、ここでは最初の上陸場所である亀徳港から
南西回りと北東回りに分かれた。
僕は北東回りの方だった。
終結地は島の北西に位置する、平土野で当時既に空港があった。
鄙びた民家が点在するだけの集落を幾つか抜けて、辿り着いた最初の幕営地では
校庭では無く春休み中とあって教室が提供された。
テント設営の苦労が無い分、有り難いことではあったが時間を持て余す結果ともなった。
教室では連絡担当になって頂けたであろう先生方との懇談があったりもしたが
一様に僕達のワンゲル活動そのものへの関心が高かった。
山での体験とは比較にならないほど人との係わりの多い春合宿の島旅は、翌年は四国の山歩きに変わったが
三回生の時には再び壱岐・対馬、屋久島、五島列島が候補地に上るほどに
その後の僕達のワンデルングに影響を与えた。 

島の東海岸の中ほどに、母間と言う集落がある。
粗末な観光ガイドしか持っていなかったが、そこにあった母間の特徴ある家々の佇まいは
南からその集落に入る峠道から見下ろす景観そのものだった。
写真のような、の表現がピッタリだったその集落は、忘れ去られたように残された萱葺き屋根と
大島絣の機織の音と入り組んだ路地、漆喰で固められた石垣の集合体だった。
僕たちは島を去る前日にもう一度その集落を訪問している。
母間の集落から程無い距離に、海岸に突き出すように小山があった。
帽子状の特徴的無その山は宮城山と書かれていた。
「みやげぐすくやま」と呼ぶその山の裾は、白砂広がる見事な弓状の海岸。
暫くその浜辺で砂に戯れていた。
島の北端部に出るまでにあと二度、校庭にテントを張った。
金見岬と言う場所は東北端に位置し、奄美大島の島陰も見渡せる位置だと聞いていた。
展望台に登り強風の中で、トンバラ岩と名づけられた岩礁と、
何と無くそれらしき島影を見た記憶、その先には奄美大島があった。
その付近の道すがら見つけた蘇鉄の並木や、バナナの並木(?)に紛れ込んで
めいめい思い思いのポーズで記念撮影したことがボンヤリと浮かんでくる。
まだ青かったけれど見事に実ったバナナの房を両手で引っ張りながらカメラに収まっていた若者達は、海岸に沿って西に続く道を歩き続けた。

島の西北端の、岩礁はムシロ瀬と呼ばれていた。
晴れていたのか曇り空の下だったのか、暗い印象しかない。
そこからは、海岸を離れ山道が続いた。
浅間にある空港付近はそのまま海に向かって西に広がる平坦地だった。
不思議なことだが、空港周辺の設備の記憶が無いのだが、僕達は滑走路を横切って海岸まで出て記念撮影をしている。
注意された記憶も無いから、一日に一便も飛んでいなかったのかも知れない。
吹き流しが、遠く寝姿山と称された山を背景に揺れていた。
僕達はその低い山並みを北から南に越えてきたことになる。

この空港付近では、快晴の下で惰眠を貪った所為で全員が間違い無く真っ黒になった。
その海岸では思いのほか子安貝が拾えた。
色とりどりのその貝殻は、帰路立ち寄った諫早のツーちゃんの家のテレビの上に残して来た。
島を二分して歩いて来た二つのパーティが終結する予定の平土野町天城小学校は高台にあった。
集落が見渡せるその小学校の周辺は、春の花達に囲まれていた。
僕は今でもその周辺の春爛漫と、諫早の春爛漫を良く覚えている。
濃い緑の中に金盞花が乱れ咲いていたから、間違い無く春先の淡路島の風情を思い浮かべていた。
奇妙な形のルピナスが花壇のあちこちにスックと立っていた。
桜は既に散っていたのだろうか、余り記憶に残っていない。
地元の人達のガイドで、製糖工場の見学と景勝地・犬の門蓋(いんのじょうふた)を訪れた。
東シナ海に面して断崖の続くその景勝地は
犬に食べさせるエサにさえ事欠いた飢饉の際、そこから海に投げ捨てたと言い伝えられていると聞いた。
僕には先の戦争の終末近く、多くの人々が身を投げたと聞かされていた沖縄の、幾つかの岬の伝承とダブッた。
その後、秋利神川の近くに残されていると言う風葬跡の洞窟に案内してもらった。
付近には何一つ目印も無い細道、茂るに任され道を覆っている雑草を掻き分けて辿り着いた丘陵地の中ほどにあるその洞窟には
近隣の人達が手向けたであろう花が枯れ残り、骸骨が無造作に入口の方を向いて並べられていた。
洞窟の下方遙に秋利神川と思しき流れが見渡せた。
その無造作な安置のされ方に一瞬、気味の悪さも感じはしたが、驚いたのは足元に散らばっている人骨だった。
敬虔な仏教徒では無いにしても、自分の足元で時折音立てているのが人骨の一部だと知った時は正直動転した。
懇ろに手を合わせたにもかかわらず、その骸骨を取り上げカメラに収まる猛者も居た。

天城小学校が、僕達の春合宿の最後だった。
そこを最後に僕達のワンデルングは終わり、バスで亀徳港に出て船で奄美大島に渡り、沖縄航路に乗り継いで神戸に戻ることになっていた。
花に囲まれた天城小学校からバス停留所へ下る僕達に、何と校庭に立っていた大きなスピーカーから別れの挨拶が聞こえて来た。
「神戸商大の皆さん、お元気で」だったと思う。
簡単な言葉だったけれど、突然響き渡ったスピーカーの大音量に間違い無く近隣の方々は驚かれたことだろう。 

僕達はそのまま亀徳に直行の予定だったか、当初からの予定に組み込まれていた記憶にないのだが、往路でかなり長時間付近を散策した母間で途中下車。
島歩きの性格上、高山は無く、この合宿では一度も山らしい山に登っていなかったこと
700メートル程度だったが、徳之島には井之川岳という山があることを五万図で知っていた上級生達は
奄美までの連絡船の出航までに充分時間があることを確認した上で、登山道のある母間での途中下車だった。
沖永良部での米軍レーダー基地のあった大山は、山とは名ばかりの丘だったから、久し振りの山登りで誰もが喜んだ。
しかし、猛毒を持つハブの存在だけが不安だった。
沖永良部には生息せず、徳之島には生息すると聞いていたその蛇だが実物は見た事がなかった。
風説では遭遇した最初の人間ではなく二人目を襲うのだとか、大声を出しながら歩けば大丈夫だとか、勝手なことを喋りながら
それでも密かにその登場を期待しつつ、霧状の小雨に濡れながら井之川岳の細い登山道を駆け上った。
ぐっしょりと濡れ鼠状態になって着いた頂上には、大きな岩があった。
そこからの展望は曇天のせいで冴えなかった。
しかし、眼下にぼんやりと海岸線と思しき曲線と、鬱蒼とした樹林が広がっていたことだけは覚えている。
母間の集落に駈け下りザックを残していた神社の境内で昼食を摂った。
騒ぎ(?)を聞きつけた近所の人達が、物珍しそうな面持ちで寄って来た。
その中の一家族からお土産にと子安貝を加工して作ったキーホルダーと、黒砂糖を頂いた。
そこから亀徳の港まではやはりバスに乗り継いだと思う。 

奄美への連絡船は、途中の天候不良の為に又々大幅な遅延だった。
山での小雨は本降りになっていた。
合宿の最後、溜まりに溜まっていた疲労と何時来るかも知れない船を待ちくたびれ、傘を持たない僕達は
何と港に並んでいた土管の中に入って、ありったけの山の歌を歌い続けた。
船が入港したのは夕方だった。
その日の夜遅く、僕達は奄美大島・名瀬港に着いた。
幕営許可は取ってあったが、深夜の到着で結局ここでも教室を提供頂いた。
眠い目を無理やり開いての反省会は結局完徹になった。
薄暗さの中の反省会だったから少し気を抜くと睡魔が襲ってくる。
しかし、上級生の厳しい監視下だったから僕達一回生は殆ど機能しなくなった頭脳と
うつろな目を空間に投げ出したまま果てしない反省会の中に居るしかなかった。
水分を含んだ上に天日干しがままなら無かった為に異臭を放ち始めたシュラフを諦めて
エアマットを板張りの教室に敷いていたが、少しでも横になろうものなら
ユニフォームのままの姿で死んだように眠りこけた筈である。

解散の日の朝は、快晴だった。
沖縄航路で神戸に戻るメンバーも、直接神戸に戻らず鹿児島経由で旅を続けるメンバーも
もう一度南に旅立つ(ビザを取得し、沖縄に行くことになっていたのは、林と江崎だった)メンバーも、取り敢えず全員が名瀬港に下った。
港は春休みを故郷で過ごした人達でごった返していた。
特に、神戸に向かう乗船客は長い列を作っていた。
僕達は、その名瀬港で、神戸在住の女性と出会った。
見送りに来ていた弟、真之介くんと言う名前だけを不思議に覚えている。 

鹿児島回りで戻ったメンバーが誰々だったかは正確には覚えていないが、同じ回生の野瀬田と浜田が居た。
乗船した高千穂丸だったかは、翌日午後になって開聞岳を見ながら鹿児島湾に入り、日が西に傾く頃にやっと接岸した。
市電に乗り、国鉄西鹿児島駅に着いた筈だ。
覚えているのは、駅前の噴水の回りで最後の大騒ぎを繰り返したことと、鹿児島本線の上り列車に乗り
途中鳥栖で下車し、諫早に向かうコースを駅の中の交通公社で立てた後、ブラブラと城山に登ったことくらいである。 
城山を降りる途中、薄暗くなった石段の両側に店開きしていた植木市で売られていた、シャコバサボテンの花が不思議なくらい記憶にあるのは何故なのだろう。

西鹿児島発の鈍行列車に乗ったのは、途中、鳥栖下車で諫早に寄り道する為だった。
僕はそこから一人旅をし、間違い無く今でも最も心に残る三日間を過ごすことになった、春爛漫の花の色に包まれた地に出掛けている。
その詳細な記憶は、一枚の切符に凝縮され残っている。
そして僕はその『真ん中で折れた一枚の切符』が残された旅の記憶を綴り始めたことがきっかけで、今もこの「ロマンチストの独り言」を綴っている。


▲ 「真ん中で折れた一枚の切符」 ▲

たぶん、阪神淡路大震災が無ければこの切符一枚で何ページにもなる記憶を綴ることも無かっただろう。
昨今流行の「自分史作り」が、マスコミなどの喧伝の影響だと感じつつ斜に構えてしまうのも
人が自分の生きた証を残したところで、所詮は無意味なことだと覚っているからだ。
人がいなくなって残るものは実態では無くその人の印象でしかないし、現実でも無くなる。
だからそのことを覚えている人がいるだけで充分なのだと思っている。
人の記憶と言うものは、本人が幾ら正しく現実のこととして記録したところで
どこかで誤謬に満ちていたり、改竄されていたりするものだし、誰もそれを正せない。

こんな感慨?をつらつらと書けたのは
震災で幾つもの記録を失くしてしまった30年近くも昔のことだ。
平穏無事な安穏とした生活の中では人は何事にも無関心になっている。

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キンセンカ 去年の秋から今年の冬 フユシラズ

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