肥前諫早/春爛漫の花の色
--昭和40年春 一枚の色褪せた切符に--
入場券を手にして、諌早駅の改札口の前でツーちゃんは僕の持っている切符を見ながら笑顔で言った。
『ケンちゃん、切符交換しよう?! でも、この切符じゃ、鳥栖までしか、行かれへんネ』
一瞬曇った顔を感じながら僕は、ツーちゃんの入場券と諌早・鳥栖間の280円の切符を交換した。
駅員さんの怪訝な顔を気にする様子もなく、彼女はさっさと改札を入っていった。
肥前山口行きのディーゼルカーはすぐに到着し、軽いタイフォンの音を残して諌早駅を発車した。
しばらく、デッキで遠ざかる町の灯に3日間の諌早を思い出していた。
戯れに交換した切符は真ん中で折れていた。
* * *
諌早に彼女が引っ越したのは、昭和39年3月。
ただ、高校生活が1年残っていたため1年間はお姉さんと2人、神戸市兵庫区雪ノ御所町に住んでいた。
昭和40年2月高校卒業後、諌早へ帰り長崎・純心女子短大に入学した。
僕が初めて諌早を訪れたのはその春のことであった。
大学1年生の春、ワンダラーであった僕は初めてのスキーで真っ黒になった顔のまま春合宿に参加し、
2週間の「奄美諸島ワンデルング」を終え、奄美大島・名瀬港から直接神戸港には戻らず鹿児島港に上陸した。
奄美合宿前から計画していた訳ではないのだけれど、諌早に引っ越した彼女にふっと会いたいと思い
合宿の途中確か沖永良部島から絵はがきを送っていた。
鹿児島はその2年前高校2年の秋、修学旅行で立ち寄った所。
西鹿児島駅前の噴水も市電も健在だった。
友らと最後の乾杯を駅前の喫茶店?で済ませ、門司港行き普通列車で鳥栖下車、大村線経由の列車で諌早に入る計画を作り、
夕暮れまでの時間を独り城山に登った。
深夜の鳥栖駅は何故だか蒸し暑かった。
約1か月僕は旅に出ている。
大学生とはなんと贅沢な人種なのだろう。
2月後半、試験の後はバイトで旅費稼ぎ、白馬山麓の蕨平に遊び明石へ戻った翌日の夜、
神戸港発の船で奄美合宿に出掛けている。
そして又寄り道しながら明石へ帰ろうとしている。
時間はあっても少し金が心配になっている。
名瀬・明石の乗船・乗車券は持っていたから、鳥栖・諌早往復の運賃それに食事代だけあれば何とかなる、
まだ学校は始まっていないから彼女は間違いなく家にいるだろう、
などと、取り留めなく考えているうちホームのベンチで眠ってしまっていた。
鳥栖で乗り換えた深夜3時過ぎの車内はそれでもポツリポツリと乗客が居た。
列車は肥前山口駅を出ると長崎本線から分かれ佐世保線に入る。
停車時間は30分以上。
早岐駅からは佐世保線と分かれ今度は大村線に入り諌早に向かって南下する。
三角形の二辺を走るのだから当然時間もかかるのだが、時間があって金の無い貧乏学生には有り難い列車である。
大村線に入ったのは朝の6時を過ぎていただろう。
通勤・通学の人々で混んできた。
とにかく間断なく襲う睡魔との戦いだった。
諌早に着いたのは、朝8時を少し過ぎた頃だった。
雨が降っている。
改札を出てこぢんまりした待合室を通り過ぎ駅舎の外に出る。
雨が降っていた。
右手に郵便ポスト、左手に公衆電話ボックス。
間違いなく田舎の駅の典型、そう感じた。
そして明石の大久保と似ているなとも思った。
彼女が時々話してくれた「静かでのんびりしていて、空が広くみえる諌早の町」に僕は立っていた。
早速電話をした。
「もしもし、明石の中谷です」
電話口に出てくれたのは、彼女だった。
『ヒャーッ、ケンちゃん?? 今何処から?? 諌早駅?? よく来れたね??』と、一気に喋った。
きっと、彼女の特徴であった「拡大器で大きくしたような目」を一層大きくまん丸くしながら…。
『雨降ってるから、タクシーで来て。原口の官舎って言えば大丈夫やから』
僕は歩こうと思っていた。諌早の町をのんびり歩きたかった。
これから先彼女が暮らす町、いつ又来るか分からないけれどその時は電話もせずに「又来たよ」と言いたいと思ったし、
何よりも金が無かった。
地図では2~3キロ程度の距離にあるようだったが、雨が降っているし傘もささずに歩くのも少し億劫だし、
又々睡魔が襲ってくるし、で結局タクシーに乗ってしまった。
川沿いの道を走り、商店街を抜け10分足らず。
車は、雨に煙った赤煉瓦の長崎刑務所に横付けされた。
▲ ずいぶん前に諫早市原口にあったこの長崎刑務所は移転している。ツーちゃんの家は画面右手を入る。
汚いザックを担いだ僕は、刑務所左手の通用門から堂々と?所内に入っていった。
僕は彼女が明石に住んでいた頃、何度も大久保にあった「神戸刑務所」に行ったことがあるから
所長官舎が刑務所の敷地内にあることは知っていた。
だから当然、刑務所に入らなくても官舎に住んでいる彼女に会えることも知っていた。
にも拘らず何の疑問もなく、僕は刑務所の門を潜っていた。
おそらく思考力が落ちていたのだろう。
守衛詰め所で「どちらへ??」と呼び止められ、「所長の今村さんのお宅に行きたいのですが」と答える。
今考えても不思議なのだがどうしてその守衛さんが即座に
「今村さんの家は、そこですよ」と教えてくれなかったのかがわからない。
しばらく待たされた挙げ句「ご用件は?」と尋ねられ、
「所長の娘さんとは、兵庫県明石市にお住まいだった頃の友人で、奄美群島の旅の後、ここに立ち寄って、
ついさっき駅前の公衆電話で連絡をして、今着いたばかりで...」と、身の上話(?)を始めることになってしまった。
怪訝な周りの人達の気持ちは、確かに分からなくはなかった。
雨の降る朝8時過ぎに、ボサボサ頭、真っ黒な顔、野球帽を被った若者が泥んこのザックを担ぎ、
サトウキビを5本も括りつけ、傘もささずに突然の訪問である。
「面会時間とその心得」なんて冊子が目についた。
ややあって、女性が出てきた。
「ご案内しましょう」「???」
だったが、変なことを言ってまた時間がかかっても困ると思い「どうも有り難うございました」の言葉を残して門を出た。
雨に濡れた上にひどく汗もかいてしまった。
親切な女性の差し出す傘に左肩だけ入れて貰い..。
何とツーちゃんの自宅は、先刻タクシーを降りた直ぐ横だった。
『ヒャー、ケンちゃん!! ホントに来たんやね?!!』
何か月振りかの再会だった。
クルクルまわる大きな目はそのままだったし、優しい言葉遣いも高校時代のままだった。
広い玄関先で、到着直後の顛末を話す。
『私が迎えに行ったらよかったんやね。でも、ケンちゃんやったら一人で来れると思ったから』と又笑った。
『ここが、ケンちゃんの部屋。荷物はこれだけ??』と言いながら、玄関に置いてある汚れたザックを持ち上げようとした。
『ヒャーっ、何でこんなに重いん??、こんなん背負ってほんまに歩き回るん??、私なんか、無理やわねー』
ともう一度目がまん丸くなった。
ご両親もお姉さんもご不在だった。
久しぶり畳の感触も嬉しかったが、彼女の温かい口調と大きな瞳が懐かしく嬉しかった。
『こっちの牛乳はね、明石よりも美味しいんよ。それに、ほらッ、200ccも入っとるんよ』そう言って、
牛乳瓶とコップを持って来てくれた。
僕は、牛乳瓶から一気に飲み干してしまった。
『おなか、減ってない??』
その声が、ぼんやり聞こえたような気がした。
僕は、答えなかったようだ。
ほんの1時間前諌早駅に着いてからの出来事を振り返り、冷えた牛乳を飲み、
彼女の懐かしい声を聞きながら不覚にも居眠りしてしまっていた。
合宿の疲れ、夜行の疲れ、先程の緊張、そして何よりもツーちゃんの優しさの側にいることの安心感。
何時間も眠っていた気もするが、すーっと眠りから覚めたように感じたのは、
彼女が『セリティー、セリティー』と呼ぶ声がしたからである。
彼女も同じ犬年生まれだったせいもあって、大久保時代には「梨架」と名付けた犬をかわいがっていた。
交通事故で梨架が死んでしまった時『可哀想やから、もう犬は飼わへん!!』と言った事を思い出していた。
初日の記憶は、この目覚めから夕方まで途切れている。
その夕暮れ時。
『広い庭があるって、言ってたでしょ。行こう!!』と案内されて外に出た。
広い家の周りを取り囲むように、庭も広かった。
『これ、お父さんが貰って来た石楠花。三年目があぶないんだって』
『あれは、何んて木??枯れると、いやーね』と指さしたのは芭蕉だった。
『ケンちゃん、本当にいろいろ知っているんやね。私は、木瓜の花が好き』
そう言った後で、思い出したようにこう付け加えた。
『明日、公園に行こ??、今日は遅くなってしまったし』
お母さんが帰ってこられ、食事の準備を始められた。
セリティーは二人が庭の散歩から戻るのを待ちかねたように部屋中を走り回っている。
『レコードでも聞いて待ってよう』そう言って案内された「ケンちゃんの部屋」の隣は広い応接間だった。
『セリティーは、この曲聞くと静かになるんよ』と流しはじめたのは、雪村いずみの「約束」という曲だった。
不思議だったが本当に、走り回っていたセリティーはソファーの上に座ってしまった。
広い広い家である。
便所へ行くのも大回りになるからと部屋を横切って行く。
『お風呂場はここよ』と案内された風呂は廊下を2度も曲がった先。
先年の暑中見舞いはがきに書いてあった「部屋がものすごく多くてまるでお化け屋敷みたい」の表現がピッタリの家である。
暫くして初美姉さんも戻ってこられた。
久しぶりのまともな食事、気さくな人々との団らん、旅の土産話を幾つか話し込んでいると、
『お母さん、ケンちゃん可哀想だよ。もう眠たいんよねぇ、ケンちゃん??』と声をかけてくれた。
本当にそうだった。
喋っていないと居眠りしてしまいそうなくらいだった。
『私、お風呂の用意してあげるから、お母さん、お布団敷いといてね』
そう言って、長い廊下を案内して風呂場へ連れていってくれた。
「構へんよ。まだまだたくさん話しあるし…」と言う僕に
『あかんわ、喋りだしたら止まらへんから。それに、ケンちゃん、ほんまに眠そうやし。ゆっくり休んだ方が体の為よ』
大きな風呂に一人のんびりつかっていると、疲れた体も気持ちも温まってゆくようだった。
諌早訪問第一日、心に残るひと言を耳に僕は眠りについた。
『ケンちゃん、日記付けるんでしょ。ハイ、電気スタンド。朝は起こさへんから、ゆっくり休んでね。お休みなさい』
僕たちが高校生だった当時、幾度か「日記」が話題になった。
そのことを覚えていてくれたことが嬉しかった。
ほんの数行書いただけで、眠りに落ちていた。
* * *
翌朝、何時頃だったろう。
ごそごそと起き出して部屋の襖を開けるのと、彼女の『起きたの??』の声が同時だった。
顔を見合わせて大笑い。
『ケンちゃん、ひどい寝かたしとったでしょう?? 顔中筋が一杯やわ』
お母さんは今日も外出。
遅い朝食を頂く。
200ccの牛乳は昨日を思い出させてくれたし、目玉焼きには随分昔を思い出して、ひとりでに含み笑いが出てしまった。
「ツーちゃん、覚えてる? 拡大器で大きくした目、の事」
『覚えてるよ。チーコと二人、体育教室の横で写してくれた写真見て、ケンちゃんが言ったこと。
チーコもケーコもあれから大笑いするんよ。
私なんか、大憤慨してるのに。乙女心が傷ついたんよ』
と言いながらも、何処か遠くを見るような目にかわった。
懐かしい友を思い出していた。
目の話題になるだけで大笑い出来た事を、その体験が共通にあった事を思い出していた。 体育教室の西、グランドの横にあるベンチで写したこの写真を見て、拡大器で大きくした目やぁ~と笑ったのは、昭和37年秋のことだった。
残っている画像は幾つもあるのだけれど、やはりこの画像、手札サイズのが一番印象深い。
お昼にひょっこりと初美姉さんが帰って来られた。
「気分が良くないから休む!! これ、仕出し弁当。お昼はこれで済ませて頂戴。
そうそう、千鶴。外に出たついでで構へんけど、模造紙と、消しゴム買って来て」
それだけを一気に喋って消えた。
あっけにとられている僕に困ったような顔をして尋ねた。
『お昼やけど、これだけで構へん??』
二人で食べようとした時、又ひょっこりお姉さんが現れる。
「私も食べる」と、弁当を一つ手に部屋を出ていった。
とにかく気さくで明るい人である。
「後片付けは私やるから、千鶴、ケンちゃんに何処か案内してあげなさいよ」
『昨日、諌早公園に行く約束してたから、行こう?!』
「模造紙忘れんといてね」と言う事になり、勝手口から僕たちは柔らかな春の日差しが一杯の昼下がりの散歩に出掛けた。
『一寸大きいかも知れへんけど、お父さんの下駄履いて!!』
勝手口から裏庭を抜けると、刑務所の赤煉瓦塀に突き当たる。▲ 諫早二日目の午後の散歩は車が止まっている辺り(勝手口)から出て赤煉瓦の塀を手前に辿り左折した。▲
土は黒々としているし、空は少しぼんやりとしているけれど日差しは柔らかな諌早の午後。
昨日の雨に洗われて、樹々の緑も春の花達の彩りも鮮やかだった。
僕よりも背が高かったツーちゃんは、塀に沿った盛り土の上に飛び乗ったり溝を跳び越したり、
彼女はもう何年もそこに居る人の様に少し緩やかに下っている野の道を鮮やかに駈けていった。
僕は少し遅れて、のんびりとはっきりと自分の記憶にこの春爛漫の諌早と彼女の明るい姿を切り取りながら後を追った。
途中で何度か道は二つに分かれる。
『右? 左? どっちでもいいんよ!』そう言って右左に折れた。
所々に残っている水溜りは朝の光を写して白い。
連翹が、雪柳が、椿の花や彼女の好きな木瓜の花が両側に咲きこぼれていた。
緩やかな下り坂。
田のあちこちに残る菜の花の黄色も明るかったけれど、
伸び伸び咲く花達や芽吹きの頃の樹々はのどかな田園風景を一層のどかにしてくれた。▲ 本明川 眼鏡橋が移築された諫早公園は右手の木立の中。▲
諌早駅から市街を流れる本明川を経由して刑務所官舎のある原口町までは、
昨朝タクシーで通ったのだが散歩のルートは全く違っていた。
僕ののんびりペースに全く合わそうともせず、どんどん先を歩く彼女。
しかし、途中で引き返して来た。
『ケンちゃん、もっと速く歩いてよ』
「僕は、諌早の春を満喫したいよ」
『ふーん。やっぱり、ロマンチストやね』
30分近く歩いたろうか。
昭和32年(だったか?)の台風の豪雨で大水害を起こした後、本明川から移設された「眼鏡橋」のある諌早公園に着く。▲ 昭和33年だったかの台風でこの橋桁に流木が集まり市内に水が溢れたそうだ。▼
『大きいでしょ。長崎のよりも大きいんよ』
池の水は濁っていたが、大きな鯉が群れていた。
半円形の石橋である。
下駄履きだったから、滑って歩きにくい。
『ケンちゃん、端を歩けば大丈夫!!』
と言いながら自分はしっかり真ん中を歩いている。
悔しいから真ん中を歩いたが、滑る度に笑われてしまった。
城山に登る。
詩人・伊東静雄の碑などが石段のあちこちに点在する。
『もう少しすると、ツツジがすごくきれいんよ。お弁当持って来たいね』
彼女は、そのころまで、僕が諌早に居ると思ったのだろうか。まさか…。
かなりの急坂があったりして、久々に登る感触を味わった。
『こんなん、ケンちゃんやったらなんでもなく登るでしょ…』と心の内を見透かされてしまった。
展望台に出る。
遠く薄く山並みを見はるかす。
『あの辺りが、雲仙方面、やと思う。詳しいことは余り知らんねん。
手前の、ほら、煙が見えてる辺りが刑務所のある所…』
1時間近く明石の話をしていた。
下りでもこんな会話があった。▲ ひとつき近く経った頃に貰った分厚い手紙にもここのツツジの事が記されていた。▲
『ほら、みんなツツジ。お弁当持って来たい所でしょ…』
帰路、商店街を抜ける。
少し上り坂になった商店街は、古いお店が軒を連ねている。▲ 画像は刑務所側からのものだから、下り坂になる。三日目の長崎見物の後夕食を頂いた後、
ツーちゃんと二人でこの坂を走るように下って、諫早駅に向かった。
文房具店で模造紙を買う。
『ここのお芋、すごく美味しいんよ』
と言いながら立ち寄ったお店で焼き芋を買い、意外に早く家に着いた。
お姉さんは少し体調が回復したそうで、焼き芋をしっかり食べてしまった後
すっかり元気になっていそいそと出かけてしまった。
又々二人になってしまった。
沖永良部島で刈り取りを手伝った時貰ったサトウキビと、徳ノ島で土産に貰った黒砂糖の塊を少し分ける。
南の島旅の徒然を断片的に話したり、思い出したように明石の思い出を話したりしていた。
時間はいくらでもあったし、話は尽きなかった。
僕たちの関わりは、クラブ活動を通じての昭和37年秋から昭和39年春までの1年半。
先輩・後輩の関係よりも、不思議な親近感と、信頼で結ばれていたような気がする。
彼女には憧れの人がいたし、僕にもマドンナがいた。
真面目に、男女間の友情はあり得るか等と議論し合ったりもした。
初美姉さんから、異性を意識せずに付き合うなんて無理なことだと言われ猛反発した事もあった。
そんな懐かしい話題もあったが、彼女の関心事は間近に控えた大学への夢であった。
南の島で拾った珊瑚や、貝殻をテレビの上に飾りながら、
『こんなに貰ってもええのん?』と言いながら本当に嬉しそうに笑った。
* * *
3日目の朝、顔を洗っていたらお母さんから『今日は、千鶴と長崎見物に行ってらっしゃい』と勧められた。
突然訪問し、のんびりと2日も泊めてもらったのだし、そろそろ帰らなければと思っていたので、一寸考えたが、
『ケンちゃん、行こう!!私がガイドしてあげるから』と返事した
彼女の弾んだ声に、思わず「楽しみにしていました」と答えてしまった。
車を呼びましたから、の言葉に又々驚いた。
何と、僕たちは運転手付での長崎行きとなったのである。
車を待つ間の、玄関先での愉快な会話。
「ケンちゃんの部屋」の直ぐ外に、大きな花蘇枋が赤紫の花を咲かせていた。
「ズオウがきれいだね」と言った僕の言葉を受けた後で、少し遅れて出てこられたお母さんに向かって
さも得意気な弾んだ声で尋ねる。
『ねぇ、お母さん、この花の名前知ってる?!』
そう言ってから、一寸困ったような顔をして僕に向かって小声で尋ねる。
『ケンちゃん、何んて名だっけ?!』と、今度は笑い転げた。
ハナズオウ、と小さな声で耳打ちした。
にやりと笑った後、お母さんの方に向いて
『そう、ハナズオウって言うんよ』
楽しくてたまらない、という様子のツーちゃん。
初日、官舎へ案内して下さった女性も含め、何人かの見送りを受けて僕たちは長崎見物に出かけた。
よく喋った。
いろいろ教えて下さる運転手さんのガイドよりも二人で喋っていた。
途中、長崎水族館あたりだっただろうか。
「途中下車したい位だね」と言う僕に、意地悪そうに笑いながらこう言った。
『降りたら、きっと帰られへんよ』
日見峠を越えて、長崎市街に入る。
初めての長崎。
彼女の優しさと心に沁みる言葉遣いの幾つかを、今日も直ぐ近くに感じながらの気ままな旅。
どこをどのように巡ったかは今正確には思い出せない位、方々を案内してもらった。
思案橋、丸山界隈の路地を抜け、崇福寺、長崎の眼鏡橋、諏訪神社、西坂公園、松山町、浦上、如己堂、片足鳥居、
南山手、大浦天主堂、十六番館、グラバー園。
崇福寺では誰にも合わなかった。
奇妙な形のお墓の間を歩いた。
『支那寺とも、赤寺とも言うんよ。ほら、赤い色の門でしょ?! お墓に特徴があるんョ』
『ほら、あそこに見えるのが、長崎の眼鏡橋。やっぱり諌早の方が大きいでしょ?』
『おくんちっていうお祭りがあるんやけど、よく知らんねん』
西坂公園の26聖人殉教碑と記念館の中では、突然沈んだ顔色になってしまったツーちゃん。
「どうしたん?」とも、声を掛けるのがためらわれるような、全く知らない一面を見た。
『原爆記念館へ入るのよそうのね。気持ち悪くなる』
『ケンちゃん、長崎の鐘、知ってるでしょ?! 歌ってョ。あれが浦上天主堂』
『この近くに、私の行く大学があるんョ。純心って言うけど、行く人はジュンシンじゃないワ』
『あの坂が、オランダ坂。登ってゆくと活水短大がある。赤レンガの建物』
『残念ね。ここから中へは入られへんのョ。でも、外からでも見えるわ』
大浦天主堂では中には入らなかったのだが、何故入れなかったのか今もわからない。
『絵はがき? これでいい?? 記念にネ』
大浦天主堂の入り口近くで、そう言って20枚組みの絵はがきを買ってくれた。
この長崎行きでの幾つかの会話の断片は残っているけれど、
手許に残っていたはずの20枚組みの絵はがき、グラバー園、十六番館、26聖人記念館の入場券は今は無い。
僕たちは少しばかり歩き疲れ、十六番館を最後に長崎を離れた。
帰路の車内での会話も残っていない。
諌早に戻ったのは夕方だった。
その夜諌早を発ち、鳥栖で急行「しろやま」に乗り継ぐ計画を立て、
車のトランクに汚いザックを積み込んでもらっての長崎見物だったのだが、
諌早帰着が早かったためもう一度官舎に戻ることになった。
駅弁でも食べてのんびり帰路につくつもりだった僕を、
『一寸早過ぎるし、家へ帰ろ?』と引き止めてくれた彼女の親切。
時間的な余裕だけはあり余る位に持っていたが、のんびりしすぎて帰りたくない気持ちになってしまう心配と、
彼女の優しさを独り占めにすることの明石の友らへの気恥ずかしさ。
「悪いから、駅で降ろしてよ」の言葉を、
『そんなに早く帰らんでも、誰も怒られへんでしょ』のひと言で遮った。
結局、夕食を頂くことになってしまった。
最後の2時間は、瞬く間に過ぎた。
3日間の親切に感謝し、一度もお会いすることが出来なかったお父さんにくれぐれもよろしく伝えて頂きたい、
などと柄にもなく丁寧に挨拶する僕の横で、ツーちゃんは又々笑い転げている。
『へんやわー。ケンちゃん。他人みたい。間に合わへんょ、早く!!』の言葉にせかされて玄関を出る。
又々大勢の見送り。
『さよなら! 私も明石まで行って来ま~す』
「その大きなリュックに入れてもらいなさいよ!運賃タダになるかも知れへんから」
『さよなら~!!、 早く、ケンちゃん早く!!』と、大慌ての別れだった。
* * *
まさか、駅まで彼女が送ってくれるとは思っていなかったから、
のんびりと20~30分歩くつもりでいたが商店街を抜ける辺りで
『一寸無理かも知れへん!』の言葉にタクシーを拾う。
『私も、駅までついて行く!!』
本明川沿いに車は走り、駅に着いたのは、予定していた列車の発車20分位前だった。
『ちょっと、早過ぎた、ね?』
『間に合ったね。歩いてたら、無理やったょ、きっと』
「そんなにあるかナァー」
『あるょ。すごく。それに、この荷物。ケンちゃん可哀想やし』そう言って汚いザックを指さして笑った。
僕の大好きな笑顔。
「拡大器で大きくしたようなツーちゃんの目」が、ずっと笑っていた。
もう夕暮れて涼風が吹いていた。
夜の諌早駅待合室には、幾人かがそれぞれ自分達の位置を占め、談笑し新聞を読んでいた。
僕の旅が終わる。
そんな感慨が胸一杯に湧き、切ない気持ちが薄靄の中に浮かんできた。
『また、来てね。何もおかまい出来なかったけど』そう優しく親しみ深く笑った。
「本当にごめんね。のんびりしちゃって。でも、楽しかった」
『言っといてね。明石の皆に。諌早は田舎じゃありませんよ、って。皆、田舎だ、田舎だって、馬鹿にするんよ』
「田舎でいいよ。静かでのんびりしていて、花が一杯咲いてて。本当に、もう一度長崎、行きたいね」
『いつでも案内するよ。いいとこでしょう?!!』そう言って、又嬉しそうな笑顔を見せた。
その笑顔が、一層僕の心を切なさで一杯にした。
もう、この人は諌早に住みついてしまうのだろうか。
長崎の町をこんなにも自慢している。
そう思った僕の耳に、何故か昔の声が聞こえてきそうな気がした。
『第一の故郷は、どこかわかりませんけど、第二の故郷は間違いなく、明石です』
お父さんの勤めの関係で、あちこちと転宅した彼女が明石から諌早へ引っ越す日に送ってくれた手紙にあった言葉。
僕たちは、明石で邂逅し別れたのだから今でも一番大切な町だと思っている。
待合室の人々は、時折僕たちの方に視線を向け(僕の格好は汚く、それだけで十分衆目を集める対象だった)、
不思議そうにする人も中には居たけれど、殆どは自らの時間の中に僕たちの存在を無視した。
『ケンちゃんは、あちこち行くんやね。私、たくさん兄さんいるけど、ケンちゃんみたいな兄さんはおらへん』
そう言って、僕も一人の兄さんの中に入れてくれた。
「ツーちゃんはいいね。故郷が2つ出来て。明石と、長崎と」
『でも、明石の方が好きだよ。ケンちゃんがいるからね』
僕は何か言いたかった。
うまい言葉を見つけて、何か言いたかった。
しかし、何も言えなかった。
早春の夕暮れ、涼しい風が寂しそうに吹き抜けた。
寂しい..と感じたのは僕のロマンチシズムのせいだ。
発車5分前になって、やっと改札が始まる。
その時だった。
『ケンちゃん、切符交換しよう?! でもこの切符じゃ、鳥栖までしか行かれへんネ』
ふと、泣き虫の頃のツーちゃんを思った。
決して、僕たちは、別れに涙することはなかった。
けれど、別れて、諌早の町の灯が遠くなったと感じた頃、僕は涙を感じた。
* * *
翌年夏、彼女は明石を訪れ、夕暮れの公園を散策し、「立原道造詩集」を携えて加古川行きのバスに乗り込んだ。
その時以来、僕はツーちゃんの「拡大器で大きくしたような目」を見ていない。
色褪せて、真ん中が折れた一枚の切符にその当時の記憶も凝縮され、封じ込められてしまっているのだろう。
僕はその後、2度も諌早を訪れたが彼女には会っていない。
* * * * * *
[覚え書き]
1.切符
鳥栖・諌早間は、100.4Kmだった。
乗車区間は、鳥栖・肥前山口・早岐・諌早のルートだったから実距離は131.9Kmだったが、途中下車せず諌早迄行けば早岐回りの料金でなく、最短料金で済んだ。
だから、切符の表示料金280円を、往復支払うことで名瀬・明石間の切符に繋げる事ができた。
その名瀬・明石間の切符はアルバムに貼った記憶だけが残っている。
金額は2225円だった。
勿論、100Km以上は5割引という、当時の学割のお陰である。
2.官舎
確かに、所長官舎は刑務所の塀の外である。
地図では、所長官舎の南に道は書かれていないが、官舎の中を東西に一本の道路が走っていた。
僕がタクシーから降ろされたのは、その道と刑務所の塀沿いの道の交点だった。
3.奄美諸島の土産
土産を持参するほどに僕は金銭的な余裕はなかったから、南の島で拾い集めた貝殻や珊瑚をお土産代わりに残した。
彼女はそれを居間のテレビの上に載せてくれた。
砂糖きびも黒砂糖も、歩き回った島々で頂いたものだった。
結局、僕が諌早の3日間で使ったのは、鳥栖・諌早の往復運賃と初日のタクシー、電話代だけだったことになる。
それに引き換え、何と大きな土産を諌早・長崎の3日間で貰ったことだろう。
4.200ccの牛乳瓶
僕は、記念にと1本その瓶を持ち帰った。
しかし、明石まで持ち帰らなかったようだ。
途中下車した記憶もないから、恐らく夜行列車の中でに置き忘れたのだろうと思っている。
5.諌早公園のツツジ
この旅の直ぐ後、長崎・純心女子短大に通学を始めたツーちゃんから、10円切手を何枚も貼った長い手紙を貰った。
その長い便りの終わりにも『城山のツツジが今満開です。皆でお弁当持って行こうと言ってます。ケンちゃんにも是非見せたいナ』と、記してくれた。
結局、僕はそのツツジは見ていない。
6.立原道造詩集
この翌年、夏休みを待ちかねたように第二の故郷を訪れた時の事。
確か、飯貝昭子と三人で明石公園を散歩しようということになった。
二人とも僕よりも随分背が高かったから『ケンちゃん、美人二人に囲まれて大満足でしょ?!』と言われた時、
「もう一寸背が低いとネ」等と切り返して『ふん!!』と、ソッポ向かれた事があった。
門限時間に縛られていたため、7時過ぎ別れたがその時僕がツーちゃんに贈った詩集。
共通の話題だった『星の王子さま』は、英文を紹介した。
7.その後
昭和43年秋、或る偶然で大阪・堺に転居していることを知った。
10月の或る夜、僕達は電話を通して1時間40分喋った。
懐かしさとともに、この3日間を時折思い出していた。
そして、翌月彼女は結婚した。
新居は、広島市郊外。その後ご主人の転勤で大阪に戻り、現在は豊中市に住んでいると聞く。
その後、風の便りだけれど富士宮に転居したと聞いた。▲ 長崎・純心短大に入学したツーちゃんは暫くの間、諫早・長崎を列車通学した。その当時の国鉄・長崎駅。▲
▲ 島原鉄道「本諫早」駅に止まっていたディーゼル車
* * *
[蛇足的な後書き]
ワンゲル時代に、三回生の春合宿で天草を歩いた後、雲仙三山を歩きそこで一泊。
翌日長崎大学寮に一泊する予定の日にもう一度諫早を訪れている。
社会人になってから、会社の同僚・中村静雄さんの兄さんが事故で亡くなりその葬儀に諫早・有喜を訪問した折にも刑務所にも立ち寄っている。
この小文は、平成7年暮れに一気に書いた。
その年の正月、ふるさと兵庫県南部を襲った大地震の為に 明石にある実家も被害を受けた。
倒壊こそ免れたものの、震源地からの実距離は20キロもなく、海岸に近い砂礫層の上にかろうじて建っていた古い木造住宅は、
日ごとに傾き結局その年の5月には取り壊しを決断せざるを得ない状態になった。
近隣の住居も損傷の差こそあれ、ダメージは残った。
震災の年の夏、全てを取り壊して一旦更地にし、土地改良を施した後に年老いた両親だけが住まうにはなんとかなる程度の住居を建て直した。
その旧家屋取り壊しの際、雑品を放りこんであった物置は殆ど 一瞬のうちにブルドーザーで瓦礫の山となったそうだ。
残していたさまざまな幼年時代からの雑品は跡形もなくなった。
直後に、現在の住まいである藤沢に来るとき荷物にしていた二つのダンボールを見つけた。
中身は、高校時代の趣味の一つだった「鉄道切符」だった。
残していたことは覚えていたが、開けてみることは20年近くなかったそのダンボールに詰まった切符の一枚、それがこの小文を綴るきっかけとなった。
色褪せて、真ん中で折れていた「諫早・鳥栖間280円」の切符だけでこのような小文が綴れることに、
自分自身半ば呆れながら、そして又、直後に大久保の自宅に戻っていた幸ちゃんを訪ねて、
高校時代と変ることのない、親しみ深い温かさをもらったことも手伝って「ロマンチストの独り言」と題して記憶に残る限りの記憶を綴りはじめた。
OCNブログ人 2006-12-16 01:03:10
☆ ☆ ☆
▲ 1960.4.16 諫早での三日間を過ごした後に貰った手紙にはやは「城山のツツジ」のことが書かれていた。▲
▲ 1961.10.14 翌年明石を訪れあちこちを巡った後、諫早に戻ってから送ってくれた手紙の最後のページ。▲
アアァ~~~ こんなストーリーが有ったんですか。学生時代 懐かしいですね42年前ですが・・・・
ケンチャンは(林の子さん)は文学の才覚があるし、草花の記憶がいい 凄い。
3丁目の夕日の文学少年(男はつらいよの みつお役)の様かな いや 文学少年よりケンチャンのほうが素晴らしい 踊り子の小雪にほれている文学少年 続編では、さてさてどうなるか
三丁目には幼馴染のギタリストが住んでて、先日もギター抱えて
私の大好きなヴィラ・ロボスを聞かせてくれた。
明石は、やっぱり旧いままだけど私には住みよい町…。
そうですぇ~、もう四十二年も前なんですね、タマちゃん。
それでも、震災が無ければ「切符」も出てこなかったかも
知れないし、こんな物語も書かなかったかもしれない…、なんて思います。