HAYASHI-NO-KO

北岳と甲斐駒ヶ岳

ロマンチストの独り言-18 【旅】【足跡の幾つかを思いつくままに】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-18

【旅】 大学に入ってからは格段に広がった。

*   *   * 

大学生になってからの行動範囲は、ワンダーフォーゲル部に属したことも手伝って、格段に広がった。
高校時代、鉄道利用の際に利用出来る学生割引証を貰った記憶が無い。
大学に入ってからは、とにかく年間の発行制限枚数があった筈のその割引証を殆ど制限一杯まで使い果たしたし、
足りなかった分は違反だったけれど、利用しない同級生の分を譲り受けていた筈だ。

100㌔を超える乗車区間の運賃を半額に割り引いてくれるのだから、貧乏学生には有り難かった。
バイトで稼いだお金のほぼ全額を費やすことの出来たその四年間の「旅」は、断片も含めて、折に触れ記述している。
というよりも、「旅」のためにバイトに精を出していた。
最初の遠距離行は大学に入って初めての夏、二十時間近く列車に揺られての東北合宿の旅だった。

うだるような、と言う表現がピッタリだったその合宿出発の日、僕達は深夜の出発にもかかわらず、お昼過ぎに大阪駅中央コンコースに集合した。
出発予定日は折からの、お盆の帰省ラッシュの真っ只中。
大阪始発で、日本海に沿って北陸・羽越・奥羽本線を走り青森に至る急行「日本海」は
関西方面から東北地方に向かう唯一の夜行列車だったから、その混雑度合いは尋常では無く
座席確保の為の手段として何時間も前から並ぶことは、当時の風物詩(?)だった。

だが、発車までは10時間以上ある。
KUCWVの特大キスリングを乗車待ちの人の為にコンコースの端に記された目印にズラリと並べ、数名が交替でそれを見張る。
暑さにも、人ごみにもうんざりだったし、何為すことも無くただ待つだけの時間に、これ以上の無駄は無い、と感じた。
途中、余りの暑さに耐えかねて、交替の時間は氷水を食べに走ったことだけが鮮明である。
パチンコに走ったことはボンヤリだが覚えている程度だ。

夜十時過ぎだっただろうか。騒然とした雰囲気の中で乗車が始まった。
暑さは未だ残っていたし、長蛇の列の前の方に並んでいたとはいえ、貧乏学生は非冷房自由席。
超満員の列車内では特大キスリングの収納だけで全員汗だく状態。
おまけに、扇風機だけが車内の空気を掻き回すだけだった。
車窓の景色を愉しむ余裕も無く、一晩かけて走り続けても辿り着かない陸奥への旅立ちだった。

三等旧型客車の通路に新聞紙を敷いたり、四人掛け座席の下にもぐり込んだり、少しでも楽な姿勢で睡眠をと望んでも無駄なことに何度も挑戦したが結局無駄だった。
停車駅では必ず起こされるし、時折トイレに走る人達には怒鳴られるしで、完全な寝不足状態のまま二日目の午後になって
やっと下車駅である阿仁合線との分岐鷹ノ巣に着いた。

しかし、下車が又々大変な騒ぎになった。
帰省客もそれぞれ故郷への土産などを持っていたが、それでも手に提げられる程度の大きさ。
しかるに我がKUCWVご一行の荷物は、人一人分を横にしたくらいの特大キスリングでおまけに一人平均40kgに近い重量。
デッキからの下車は到底無理なことで結局ほぼ全員が、ザックを窓からホームに投げ出した後、自分達も窓から下車することになってしまった。

乗り換えの阿仁合線ディーゼルカーは隣のホームに入線していた。
僕は余裕でその先頭車まで歩き、キハ17を中心としたローカル車両をカメラに収めた。
(当時は、阿仁合線鷹ノ巣・阿仁合間と、角館線角館・比立内間とは南北に分断された行き止まり線だったが
阿仁合・比立内間が貫通延伸され線路が南北に繋がって、第三セクター・秋田内陸縦貫鉄道として運行されている。
同じく、大曲・田沢湖間の行き止まり線だった田沢湖線も延伸され、東北本線の盛岡と繋がっている。)

合宿は、しかし惨憺たる状況だった。
相当な遅れの上、途中足をけがしてしまった野瀬田と、何とか辿り着いた玉川温泉の夕食後に突然襲った猛烈な腹痛の為に、僕達はそこから急遽診断の為、陸中花輪に下山させられた。
今では立派な湯治場になっている玉川温泉も、当時は医院さえ無い鄙びた温泉だった。
陸中花輪の病院で、取り敢えずの抗生物質を投与してもらった後、
僕達は合宿の最終終結地に予定されていた田沢湖畔に先回りし、湖畔のテントサイトに幕営、一週間をのんびり過ごすことになった。
無為に過ごした日々だった。仲間達の到着が待ち遠しかった。
不思議だが、その一週間は田沢湖を離れて旅した記憶が無い。
ずっとその場所に滞在していたのだろうか。殆ど記憶に残っていない。

田沢湖線の田沢湖駅までバスで出て、そこから奥羽本線大曲駅へ。
同じ回生の仲間達はそれぞれ思い思いの旅程を組んでいたようだが、僕は差し当たっての予定も持たなかった為に、取り敢えず上り夜行列車で東京に出ることにしていた。
経緯は思い出せないくらい薄れてしまっているのだが、同じ列車に乗り込んだ、林と小嶋の三人で、途中福島駅で下車した場面から、記憶は鮮明になる。
林が、西宮時代の友人を訪ねる為に、福島で途中下車すると言い出したのは、大曲を午後に出た列車が、夕暮れの中を走っている時だった。
急ぐことも無かった小嶋と僕は、何のためらいも無くとっぷり日の暮れた福島駅に降りた。
目的があったのは林一人であり、二人は彼の足の向くままに駅の外に出て少し涼しくなったように感じる夜風に吹かれながら、見ず知らずの町を彷徨した。
彼が公衆電話から電話した相手は、幼馴染みの女性だと聞かされた。
運悪く不在だった。
しかし、この時も、別に僕達は失望することも無く、夾竹桃が整然と並んだ街路を辿り、少し驛の周辺を歩き回った後、福島駅に戻った。
少し空腹感を覚えながら、つい先刻下車した福島駅の薄暗い電灯の下で次の列車を待っているのであろう地元の人々でごった返している待合室に辿り着いた。
上り列車まではかなりの時間があった筈だ。
たぶん、夕食を取る場所を捜しに行ったのだろうと思うのだが、二人が待合室から消えて暫く経ってからのことだった。
この間の数分は、今も不思議なくらいの鮮明さで思い出せる。

『神戸商科大学の方でしょうか?』白い清楚なワンピースが直ぐ横だった。
「はい、そうですが」と答えながら僕はその女性が、福島県庁近くのボックスから、林が電話をかけた相手だと直ぐに理解した。
『林さんはいらっしゃいますか?』
「一寸待って下さい。捜して来ますから」
盗られる心配の無いくらい汚れた三つのザックを置きっ放しにして、僕は当ても無く二人を捜しに、駅の待合室周辺を探しまわった....。
本当に当ては無かったし、空腹状態は極限だった。
数分後、空しくザックを置いてある場所に戻ると、林が居る。
暫くして小嶋も戻って来た。
長江さんと紹介された女性は、お母さんと二人連れだった。
林と二人の会話は覚えていないが、結局その夜、僕たちは、長江和子さんの自宅に泊めて頂くことになってしまった。
この部分は、『幾つかの詩』の章に記述した。 

   眞實諦メタダヒトリ
   眞實一路ノ旅ヲユク
   眞實一路ノ旅ナレド
   眞實鈴フリ思ヒダス
         北原白秋「巡禮」

この白秋の詩は、ふとした偶然で手にすることの出来た磐梯吾妻スカイラインの旅の途中、ガイドさんが詠んでくれた詩。
その夏の一つの記憶を鮮明に蘇らせてくれる。

 翌年夏、僕は再度東北・大曲への旅に出、途中、東京に立ち寄って彼女と再会することになる。
新宿御苑での多くの会話の中に、林正朗から借りた『星の王子さま』の会話もあった。
懐かしそうに彼を思い出しながら、庄野英二の『星の牧場』を紹介してくれた。
丸い花壇の中には、キンギョソウが揺れていたし、台湾閣の池の周りには、花水木が見事だった。
この部分は『季節の花達』の章に記述した。 

 その夜、僕は東京到着直後に入手していた「着席券」を持って、帰省客で大混雑だった急行「おが」に一人乗って上野から大曲へ向かった。
強行軍では無かったけれどあまり良く眠れなかった所為だろう、山形を過ぎ、湯沢・十文字辺りでは朝の光が眩し過ぎたこと
すれ違い列車待ちの長い停車時間に、ホームに降りて眠り込んだことを覚えている。 

大曲地方裁判所勤務だった大森政輔さんを訪ね、そこに暫く滞在して勉強する予定だった。
大森家の末娘、玲ちゃんは僕よりも前に大曲に着いていた。
何日間そこに居候することになっていたのか、別段了解を得ていた筈も無いのだが僕は、居心地の良さを良いことに
日中は分厚い原書と格闘し、疲れれば午後の惰眠を貪り、自転車を借りて時には駅前の本屋へ出掛け(何冊か購入した図書の中で「長征」と「中国の赤い星」だけは覚えている。まだ学生運動から抜け出られなかった頃だった)、時には暑さの中を構わずに上半身裸のままで雄物川の土手まで出掛けた。
途中の田んぼに青々と茂っていたトウモロコシの葉に渡る風が時には気持ち良く、暫くぼんやりしていたこともあった。
玲ちゃんとの会話は全く無かったわけでは無いけれど、食事の時くらいしか言葉は交わさなかった。
不思議な気がする。
政輔さんは仕事に出掛けていたから昼間は二人きりだったし、鈴蘭台では何の抵抗も無く交わせた筈の文学論も殆ど記憶に無い。

会話以外の記憶でも、大曲に到着したその夜、横手で開かれると言う花火大会に出掛けたこと(この日、途中で立ち寄った本屋で理論社刊の大判の「星の牧場」を見つけ、購入している)と、
明石へ戻る前日に田沢湖から乳頭山登山をしたことくらいしか残されていない。

前年夏、足跡を記した筈の秋田駒・乳頭山への登山は、政輔さんの提案だった。
早朝大曲を発ち、田沢湖高原までバス。麓に点在する鄙びた湯治場の一つ、黒湯からの登りだった。
玲ちゃんも元気だった。
山頂は生憎のガスの中だったから、田沢湖の展望は無かったが、山頂の残雪にかけたオレンジジュースの味が蘇ってくる。
下山の途中の田代平などの高層湿原では、鼻歌交じりののんびりムードに浸れたし、山麓の蟹場温泉だったかでは露天風呂にでも飛び込みたい気分になっていた。
東北旅行に出掛けていた、一つ年上の宏子姉さんの到着を待つつもりだった僕だが、結局その乳頭山登山をしおに、大曲を去った。
朝昼晩三食昼寝付きの贅沢な夏だった。
考えてみると、その後様々な場所に足を運んでいるのだが、秋田には一度も出掛けていない。
その、遠い秋田・大曲は、ほんの少しの記憶とちょっぴり苦い思いが交錯し、
一つ年上だった長江さんの優しい笑顔と、一つ年下だった玲ちゃんが作ってくれた、蓴菜入りのすまし汁、
乳頭山登山の折の残雪にかけたオレンジジュースの味と共に、懐かしい昭和四十年夏の旅の記憶として刻まれている。

  夏は、二年続きの秋田だが、冬は四年間、長野県北安曇郡小谷村だった。
冬場のワンゲル活動は、登山部との申し合わせで冬山登山は行わなかった為にスキー合宿が中心だった。
KUCWVの年中行事の一つに、オープンスキーがあった。
学内を中心に、参加者を募ってスキー教室を開いていた。
最初の冬、要領も全くわからないまま大阪駅からの北陸本線夜行列車(夏の、悪名高き急行日本海では無く普通列車)で、糸魚川下車。
凍てついたホームに足を取られながらの乗り換えで、大糸線に乗り継ぐ。
日本海まではかなり距離があったが、それでも海からの風がまともに吹きつけるその駅は
夏の北アルプス山行で名古屋回りを経験してしまった後は殆ど利用しなくなったのだが、安い費用が魅力だったオープンスキーでは必ず利用した経路だった。
ディーゼルカーの機関部分以外はすっかり雪に塗れて真っ白だったこと、下車した北陸線の牽引列車は大抵蒸気機関車だったから
その黒い巨体が吹き上げる煙の白さと、雪の白さが奇妙なバランスだったことが目に焼き付いている。
粗末な身なりだったし、長いソリを担いでの長旅は通常の合宿とは違って幕営用具の必要が無かった分、楽だった筈だが
「お客さま」を引率してのスキー行だったこともあって、楽しい旅とは言えなかった。

僕達がホームゲレンデとしていた、蕨平スキー場の最寄り駅は、大糸線の千国駅。
糸魚川寄りの南小谷や、松本寄りの白馬大池は立派な駅だったが、千国駅は当時無人駅だったから、
ホームはすっかり雪に埋もれているような雰囲気で、冬のスキーシーズンでも仮設のホームだった。
駅の前は直ぐに姫川沿いの国道だったし、蕨平地区はそこから徒歩で二十分以上の登りだった。
初めてそこを訪れたのは二月下旬だったがまたまだ底冷えのする日だったし、粉雪が待っていた。
辛うじて車がすれ違える程度の山道を辿って、石田守男さんの民宿に辿り着く。
汗が吹き出るほどに慣れない雪道の歩行は長く、辛かった。
KUCWV部員は、神戸から引率して来たスキー客のお世話を民宿の方々と協力して担当することになっていたが、日中はゲレンデでスキー教室に参加出来た。
蕨平スキー場は、白馬岳から派生する北東の支稜、栂池高原の端に位置していた。
稗田山の稜線の西側に、メインゲレンデが一本。稜線を越えて東は、池の田スキー場だった。
狭いゲレンデで、リフトも一本しか無かったし、何よりも民宿からの距離が2キロ近くはあったから、参加者は驚いたに違い無い。
しかし、僕達は意に介さなかった。
ゲレンデまでの歩行は、確かに疲れはしたが準備運動のつもりになれば、それはそれで気持ちの良い距離だったし、慣れてしまえば帰路、スキーを滑らすことも出来た。一回生の冬は遮二無二滑り、転び、騒いだ印象しか残っていないのだが、民宿の石田さん宅のお手伝いをしながら、夕食・入浴の仕事の後、二人のお嬢さん達と興じたゲームを時折思い出すことがある。
大学卒業の後も、東京勤務のメンバーは何度か、石田さんの民宿を拠点としてスキーを愉しんだと言う話しや、
僕自身も何度か出掛けた北アルプス山行の折、一度ならず立ち寄りたいと思ったことも覚えている。
しかし、岳都・松本には何度も足を運んだにもかかわらず、残念ながら千国までは足を伸ばしていない。

平成九年に開催された長野冬季五輪に出掛けた折、長野市からバスで白馬・乗鞍と言う名前に変わった、蕨平スキー場の直ぐ近くに泊まった。
ホテルにあったパンフレットで、蕨平・池の田・若栗と言う懐かしい響きのスキー場を総称して「白馬・乗鞍国際」などと言う、格好良い名前が付けられていることを知った。
気の遠くなるほど時間は経っている。
山の形や季節の移ろいは殆ど変わってはいないけれど、間違い無く集落の建物も取り付けられた道も、それ以上にそこでの日々の暮らし方も既に様変わりしているだろう。
あの狭いゲレンデに一軒だけあったレストハウスで、僕達が配っていた竹の皮に包んだ二個のおにぎりの味を覚えている人はどれくらい居るだろう。
このスキー行で気味悪いくらいに雪焼けした顔のまま、僕達はその数日後には神戸港からの貨客船・浮島丸に乗って、奄美諸島島巡りの合宿に出掛けた。南の島の陽射しはすっかり初夏で、黒さは一層増した。

昭和四十年三月から四月の旅である。
南の島旅は、難行苦行の二泊三日の船旅から始まった。
神戸港からの春合宿の出発は、夕方だった。直前のオープンスキーに参加してくれた人々や、合ハイ仲間、薬大旅行部の人達の見送りがあった。
ともかく、山が主流だと思っていたワンゲル活動に、春の島旅が加わったことに、僕は感動していた。
事前の下調べ段階で、少しでも前提知識を増やそうと、新聞に投書して奄美地方出身の方から幾つかの情報を得たことも、その合宿に対しての思い入れだった。
学生らしく、学究に熱心だったのだろう。
早速僕達は、息苦しいくらい混雑していた三等船室で、乗り合わせた人達との交歓に及んだ。
春休みに入っていたこともあって、子ども連れも多かったから、僕達には格好の相手だった。
ゲームに興じることもあったが、家族連れをつかまえては、風俗・習慣から言葉(方言)までをがむしゃらに聞き及んだ。
内海を走るのとは違い、沖縄航路の浮島丸は、夜が明けてもどこを進んでいるのかさっぱり見当もつかない。
しかし、誰言うと無く四国の沖を航行しているらしい、と情報が流れた頃、船首で遊んでいた連中から、イルカの群れが、船と並走している…の報。
為すことも無く、船の中を行ったり来たりしているだけだった面々は、殆ど全員が船首に集合、暫くは歓声が響いていた。
結局、このイルカの出現だけが、二泊三日の船旅の、唯一の収穫になった。
二日目の夜は、狭く居心地の悪い船倉での就寝を諦めて、後部デッキでの夜更かしとなった。
満天の星とまでは行かなかったが、少し冷たさを感じる程度の風に吹かれながら、覚えた歌を片っ端から歌い続けた。
夜半から天気は崩れ始め、船は大きく縦揺れ、横揺れを不規則に繰り返し始めた。

二度目の夜が明けても、やっと奄美大島の南部、加計呂間諸島の間を進んでいるに過ぎなかった。
雨なのか、波飛沫なのかわからないが、デッキはぐっしょり濡れている。
天気は一向に回復しそうに無い。
狭く、息苦しいくらいの船倉でごろ寝しているしか無かった船酔い組みも、時折自分達の位置を知るべくデッキには出てくるが、ますます気分が悪くなりすごすごと船倉へ下るしか無かった。
僕は瀬戸内での釣り舟に何度も乗っていたから、さほど気分も悪くならなかったが回りの状況は最悪だった。
僕達の最初の上陸地は、当時の日本の最南端、与論島だった。
イルカと戯れた一日前が嘘のように、浮島丸はピッチング、ローリングを不規則に繰り返し、部員の大半は船倉でグッタリとなっていた。
荒れ模様は結局丸一日続き、船が与論島へは立ち寄らないことになってしまったことで、僕達の下船も一つ手前の沖永良部島に変わった。
残念だったが、とにかく、早く下船したい…と言うのが、船酔いメンバーの切なる声。
しかしこの安堵も束の間、隆起珊瑚礁の沖永良部島、島の南部にある知名港には浮島丸は接岸出来ず、沖で渡し舟に乗り移ると言う難事業(?)が待っていた。
今でこそ、大型船着岸の為に立派に整備されているであろう港の設備も、当時は未完成だった。
知名港沖合いに錨を下ろした浮島丸に渡しが到着した時、それまで一刻も早く上陸したいと騒いでいた船酔い組みでさえ、そのまま沖縄へ連れて行って欲しいと言い出した気持ちは、実体験しなければ解から無いだろう。
回復しつつあるとは言っても、昨夜来のうねりは大きく渡し船を翻弄している。
本船のデッキから小さな渡し船へは、文字通り飛び降りる、と言った表現がピッタリだろう。
高低差はあるものの、うねりが頂上に達し、浮島丸との差が最小になった時を狙って乗り移る。
島影が近くに見えているとはいえ、乱暴な話しである。
一時間以上はかかったような気がする。
全員が沖永良部島知名港に足跡を記したのは夕方になっていた。
長い、奄美諸島ワンデリングの最初は、急遽変更された沖永良部から始まった。 

知名小学校の校庭での幕営。
一年先輩の村山さんは、この島の出身だった。
お父さんが、島で採れる芋類を材料にした「モチ」を差し入れに訪問された。
正直、食べ慣れない食感に、誰もが二つ目に手を出さなかった。
小学校は春休みに入っていたが、目敏く異様な集団だった我々を見つけて大勢の悪童が集まって来た。
人懐っこい彼らは、一様に浅黒く健康そのものだったから、校庭を走りまわったりしながら僕達を遠巻きにしていた。
彼らの家族には京阪神へ出ているものも居たから「神戸から来た」の言葉が、親近感を覚えさせたのかも知れない。
合宿の行程、日々の記録の概略はKUCWV部誌「やまなみ」に詳しいが、幾つかの印象深いエピソードを記しておく。
知名から、島を時計回りに一周することが予定のコースだった。
翌日、島の南端、知名小学校からのスタートは、約40kgにもなるザックの重量と、二日間の船旅の疲れが重なって、暫くは無言の行進になった。
しかし、騒ぎは直ぐに起こった。
事前のコースには無かったが、未整備の鍾乳洞に「探検」に出掛けることになった。
水蓮洞と地元では呼ばれていると聞かされたその鍾乳洞は案内板があるわけでも無く、辛うじて入口付近に縦看板があっただけの外観からはただの洞穴だった。
しかし、奥深さと異様な湿気と何よりも未開の鍾乳洞らしく、歩行用の通路など無かったからあちこちで躓き、頭を打ちつけることになった。
懐中電灯の明かりが照らし出す景観は、歩行可能な部分しか辿らなかったけれども気味が悪いくらいの黄土色だった。
前提知識の中にどれくらい鍾乳洞があったのか、それでも博学の先輩達の講釈は愉快だった。
見事な石筍もあったし、かすかな流れが所々で澱み水溜を作っている。
何処まで歩行可能なのか、地図など無いその場所で僕達は探検家気取りで奥へ奥へと突き進んでいった。
途中、ポッカリと天井が抜け、深い樹林を見上げる場所もあった。
行き止まりまで辿り着き、なおその先に狭い空間を見つけて生温く澱んだ水に浸かって「調査」に出掛けたメンバーも居た。
二時間近くの寄り道だった。
その日は、島の西側になる住吉地区泊まりだった。 

お昼過ぎの到着後、荷物を校庭に置いて島で一番の標高を持つ大山にある、米軍レーダー基地を訪ねた。
有刺鉄線に囲まれ、山の頂きを占拠している大きなドームと、その周辺の建物は一様に白塗りだった。
初めて見るその施設は、まるで映画の世界だった。
戦争の後遺症なのだと、学生運動ではしっかり標的にしていた筈の、その米軍の施設を前にして、
すっかり感激している自分自身の気持ちの矛盾は、しかしさほど感じなかった。
通訳を介すること無く、僕達は大きな地図上に点滅するランプと、正確に周期をもって回転する直線をただ眺めているだけだった。
その見学の戻り、当時唯一観光客用に遊歩道が整備されていた「昇龍洞」に、立ち寄った。
町の観光課の管理になるのだろう、しっかり入場料を取られた。
前日無断で入り込んだ水蓮洞とは比較にならないほど規模も大きかったし、遊歩道の明かりと手摺り、階段が有り難かった。
何が起きるか心配しながらの探検では無く、安心して鍾乳洞の不思議を体験出来た。
ただ、観光地に有り勝ちな特徴的な場所にはこじつけられた余計な呼称、説明書きが気になった。
僕達のテントは校庭の端、戦争犠牲者を悼んで建てられていた「忠魂碑」の下だった。
そこは、見事なくらい緑濃い下草に覆われていた。
島のどの小学校にも植えられていたのだが、住吉小学校の校庭にも、大きなガジュマルの樹があった。
翌朝、出発前の準備体操の頃には、その樹の周りをぎっしりと子ども達に取り囲まれた。
島旅の行程は、一日せいぜい20キロ程度だったから、ただ歩くだけでは無く寄り道が続いていた。
山歩きとは違って、その南の島の風俗・習慣に触れることも、合宿の目的になっていた。
前日ピストンした大山付近は、幾つもの窪地がありその中には、鍾乳洞もあった。
その一つに又々僕達は、入り込み探検に出掛けた。
島のほぼ中央部辺りを抜けて、島の西海岸に出る途中、サトウキビの刈り取り作業に出くわした。
僕達は、先を急ぐ旅でも無く、全員がその作業の手伝いをした。
蒸し暑さの中での作業は、しかし笑い声の中だった。
労働奉仕の報酬として頂戴した、手頃な長さに切ったそのサトウキビをかじりながら、僕達は島の北端、国頭を目指した。

国頭は下膨れ風の沖永良部の、北東の先端部にある。
今はそこに空港がある。

テントでは無く、集会所が僕達の宿になった。
近隣の青年団との交歓会がその夜催された。
たわいない、と言えるゲームに興じ、多少馴染んだとは言っても、早口だと全く理解出来ない島言葉に悩みながらも
「神戸」を中心とした話題が沸騰したその夜の交歓会は、板張りの集会所の建物と共に、今も不思議なほど鮮明な映像として残っている。
ここでも、例のモチが出されたし、何と黒砂糖を塗して食するのには閉口した。

空港予定地は、集落から国頭岬への途中だと聞かされた。
岬へのワンデルングは、青空の下だった。
周辺は永良部百合の広大な栽培地で、道の両側はフリージャの花盛りだった。
パイナップルに似た実をつけていた樹が、アダンと言う名だと教えてもらったのは、国頭岬に近い浜辺で大騒ぎをした時である。
地元の中学生が、学生服姿で遊びに来ていた。
午後の引き潮に、珊瑚礁の浅瀬に取り残された原色をまとった熱帯の魚類が、のんびり昼寝していた姿
島旅の帰路に立ち寄った諫早にも残した、幾つかの珊瑚を拾ったのもこの浜である。
僕はそこで、十九歳を迎えた。
沖永良部島を一周し、もう一つの港、和泊港から次の目的地、徳之島に渡った。


▲ 沖永良部・和泊港近く雑貨店で野球帽を買った折のお釣りには百円札があった。

徳之島は大きな島だった。
沖永良部では殆ど同じコースを歩いた二つのパーティは、ここでは最初の上陸場所である、亀徳港から南西回りと北東回りに分かれた。
僕は北東回りの方だった。
終結地は島の北西に位置する、平土野。
当時既に空港があった。
鄙びた民家が点在するだけの集落を幾つか抜けて、辿り着いた最初の幕営地では、校庭では無く、春休み中とあって教室が提供された。
テント設営の苦労が無い分、有り難いことではあったが、時間を持て余す結果ともなった。
教室では連絡担当になって頂けたであろう、先生方との懇談があったりもしたが、一様に僕達のワンゲル活動そのものへの関心が高かった。
山での体験とは比較にならないほど人との係わりの多い春合宿の島旅は、翌年は四国の山歩きに変わったが、三回生の時には再び五島列島が候補地に上るほどに、その後の僕達のワンデルングに影響を与えた。 

島の東海岸の中ほどに、母間と言う集落がある。
粗末な観光ガイドしか持っていなかったが、そこにあった母間の特徴ある家々の佇まいは、南からその集落に入る峠道から見下ろす景観そのものだった。
写真のような、の表現がピッタリだったその集落は、忘れ去られたように残された萱葺き屋根と
大島絣の機織の音と、入り組んだ路地、漆喰で固められた石垣の集合体だった。
僕たちは島を去る前日にもう一度、その集落を訪問している。
母間の集落から程無い距離に、海岸に突き出すように小山があった。
帽子状の特徴的無その山は、宮城山と書かれていた。
「みやげぐすくやま」と呼ぶその山の裾は、白砂広がる見事な弓状の海岸。
暫くその浜辺で砂に戯れていた。
島の北端部に出るまでに二度、テントを張っただろう。
金見岬と言う場所は、東北端に位置し、奄美大島の島陰も見渡せる位置だと聞いていた。
展望台に登り、強風の中で、トンバラ岩と名づけられた岩礁と、何と無くそれらしき島影を見た記憶、その先には、奄美大島があった。
その付近の道すがら見つけた蘇鉄の並木や、バナナの並木(?)に紛れ込んでめいめい思い思いのポーズで記念撮影したことがボンヤリと浮かんでくる。
まだ青かったけれど見事に実ったバナナの房を両手で引っ張りながらカメラに収まっていた若者達は、海岸に沿って西に続く道を歩き続けた。

島の西北端の、岩礁はムシロ瀬と呼ばれていた。
晴れていたのか曇り空の下だったのか、暗い印象しかない。
そこからは、海岸を離れ山道が続いた。浅間にある空港付近は、そのまま海に向かって西に広がる平坦地だった。
不思議なことだが、空港周辺の設備の記憶が無いのだが、僕達は滑走路を横切って、海岸まで出て記念撮影をしている。
注意された記憶も無いから、一日に一便も飛んでいなかったのかも知れない。
吹き流しが、遠く寝姿山と称された山を背景に揺れていた。
僕達は、その低い山並みを北から南に越えてきたことになる。

この空港付近では、快晴の下で惰眠を貪った所為で、全員が間違い無く真っ黒になった。
その海岸では、思いのほか子安貝が拾えた。色とりどりのその貝殻は、帰路立ち寄った諫早のツーちゃんの家のテレビの上に残して来た。
島を二分して歩いて来た二つのパーティが終結する予定の平土野町天城小学校は、高台にあった。
集落が見渡せるその小学校の周辺は、春の花達に囲まれていた。
僕は今でもその周辺の春爛漫と、諫早の春爛漫を良く覚えている。
濃い緑の中に、金盞花が乱れ咲いていたから、間違い無く春先の淡路島の風情を思い浮かべていた。
奇妙な形のルピナスが花壇のあちこちにスックと立っていた。
桜は既に散っていたのだろうか、余り記憶に残っていない。
地元の人達のガイドで、製糖工場の見学と、景勝地・犬の門蓋(いんのじょうふた)を訪れた。
東シナ海に面して、断崖の続くその景勝地は、犬に食べさせるエサにさえ事欠いた飢饉の際、そこから海に投げ捨てたと言い伝えられていると聞いた。
僕には、先の戦争の終末近く、多くの人々が身を投げたと聞かされていた沖縄の、幾つかの岬の伝承とダブッた。
その後、秋利神川の近くに残されていると言う、風葬跡の洞窟に案内してもらった。
付近には何一つ目印も無い細道、茂るに任され道を覆っている雑草を掻き分けて辿り着いた、丘陵地の中ほどにあるその洞窟には
近隣の人達が手向けたであろう花が枯れ残り、骸骨が無造作に入口の方を向いて並べられていた。
洞窟の下方遙に、秋利神川と思しき流れが見渡せた。
その無造作な安置のされ方に一瞬、気味の悪さも感じはしたが、驚いたのは足元に散らばっている人骨だった。
敬虔な仏教徒では無いにしても、自分の足元で時折音立てているのが人骨の一部だと知った時は、正直動転した。
懇ろに手を合わせたにもかかわらず、その骸骨を取り上げカメラに収まる猛者も居た。

天城小学校が、僕達の春合宿の最後だった。
そこを最後に僕達のワンデルングは終わり、バスで亀徳港に出て、船で奄美大島に渡り、沖縄航路に乗り継いで神戸に戻ることになっていた。
花に囲まれた天城小学校からバス停留所へ下る僕達に、何と校庭に立っていた大きなスピーカーから別れの挨拶が聞こえて来た。
「神戸商大の皆さん、お元気で」だったと思う。
簡単な言葉だったけれど、突然響き渡ったスピーカーの大音量に間違い無く近隣の方々は驚かれたことだろう。 

僕達は、そのまま亀徳に直行の予定だったか、当初からの予定に組み込まれていた記憶にないのだが、往路でかなり長時間付近を散策した母間で途中下車。
島歩きの性格上、高山は無く、この合宿では一度も山らしい山に登っていなかったこと、700メートル程度だったが、徳之島には井之川岳という山があることを五万図で知っていた上級生達は、奄美までの連絡船の出航までに充分時間があることを確認した上で、登山道のある母間での途中下車だった。

沖永良部での米軍レーダー基地のあった大山は、山とは名ばかりの丘だったから、久し振りの山登りで、誰もが喜んだ。
しかし、猛毒を持つハブの存在だけが不安だった。
沖永良部には生息せず、徳之島には生息すると聞いていたその蛇だが、実物は見た事がなかった。
風説では、遭遇した最初の人間ではなく、二人目を襲うのだとか、大声を出しながら歩けば大丈夫だとか、勝手なことを喋りながら
それでも密かにその登場を期待しつつ、霧状の小雨に濡れながら井之川岳の細い登山道を駆け上った。
ぐっしょりと濡れ鼠状態になって着いた頂上には、大きな岩があった。
そこからの展望は曇天のせいで冴えなかった。
しかし、眼下にぼんやりと海岸線と思しき曲線と、鬱蒼とした樹林が広がっていたことだけは覚えている。
母間の集落に駈け下り、ザックを残していた神社の境内で昼食を摂った。
騒ぎ(?)を聞きつけた近所の人達が、物珍しそうな面持ちで寄って来た。
その中の一家族から、お土産にと子安貝を加工して作ったキーホルダーと、黒砂糖を頂いた。
そこから亀徳の港まではやはりバスに乗り継いだと思う。 

奄美への連絡船は、途中の天候不良の為に又々大幅な遅延だった。
山での小雨は本降りになっていた。
合宿の最後、溜まりに溜まっていた疲労と、何時来るかも知れない船を待ちくたびれ、傘を持たない僕達は
何と港に並んでいた土管の中に入って、ありったけの山の歌を歌い続けた。
船が入港したのは夕方だった。
その日の夜遅く、僕達は奄美大島・名瀬港に着いた。
幕営許可は取ってあったが、深夜の到着で結局ここでも教室を提供頂いた。
眠い目を無理やり開いての反省会は結局完徹になった。
薄暗さの中の反省会だったから少し気を抜くと睡魔が襲ってくる。
しかし、上級生の厳しい監視下だったから僕達一回生は殆ど機能しなくなった頭脳と、うつろな目を空間に投げ出したまま果てしない反省会の中に居るしかなかった。
水分を含んだ上に天日干しがままなら無かった為に異臭を放ち始めたシュラフを諦めて、エアマットを板張りの教室に敷いていたが
少しでも横になろうものなら、ユニフォームのままの姿で死んだように眠りこけた筈である。
解散の日の朝は、快晴だった。
沖縄航路で神戸に戻るメンバーも、直接神戸に戻らず鹿児島経由で旅を続けるメンバーも、もう一度南に旅立つ(ビザを取得し、沖縄に行くことになっていたのは、林と江崎だった)メンバーも、取り敢えず全員が名瀬港に下った。
港は、春休みを故郷で過ごした人達でごった返していた。特に、神戸に向かう乗船客は長い列を作っていた。
僕達は、その名瀬港で、神戸在住の女性と出会った。
見送りに来ていた弟、真之介くんと言う名前だけを不思議に覚えている。 

鹿児島回りで戻ったメンバーが誰々だったかは正確には覚えていないが、同じ回生の野瀬田と浜田が居た。
乗船した高千穂丸だったかは、翌日午後になって開聞岳を見ながら鹿児島湾に入り、日が西に傾く頃にやっと接岸した。
市電に乗り、国鉄西鹿児島駅に着いた筈だ。
覚えているのは、駅前の噴水の回りで最後の大騒ぎを繰り返したことと、鹿児島本線の上り列車に乗り、途中鳥栖で下車し、諫早に向かうコースを
駅の中の交通公社で立てた後、ブラブラと城山に登ったことくらいである。 
城山を降りる途中、薄暗くなった石段の両側に店開きしていた植木市で売られていた、シャコバサボテンの花が不思議なくらい記憶にあるのは何故なのだろう。
西鹿児島発の鈍行列車に乗ったのは、途中、鳥栖下車で諫早に寄り道する為だった。
僕はそこから一人旅をし、間違い無く今でも最も心に残る三日間を過ごすことになった、春爛漫の花の色に包まれた地に出掛けている。
その詳細な記憶は、一枚の切符に凝縮され残っている。
そして僕はその『真ん中で折れている一枚の切符』が残された旅の記憶を綴り始めたことがきっかけで、今もこの「ロマンチストの独り言」を綴っている。

▲ 何度も登場する「真ん中で折れた一枚の切符」

暖かい奄美・長崎の旅の直後、鉢伏高原に出掛けている。
その場面も、既に記憶からは薄れつつあったが、辛うじて一つの章として記述出来ている。 

僕の大学生活は、山行きとその前後のさしたる当ても無い旅で満たされていた。
特別目的を持って訪れた場所では無く、大抵、途中下車の寄り道だったから、印象深い記憶は無い。
ただ、記憶の中では無為に過ごした時間とは区別して残されている場所の大部分は、そのような途中下車の寄り道である。
そのようにして人は自分自身の行動範囲を拡大して行くのだろう。
その意味で、大学生活の四年間に旅した多くの場所には、間違い無く今も旅したい場所が含まれている。
旅先で袖摺りあった人々にも、旅の記憶が残るように、僕自身にも忘れがたい人々の記憶が残っている。
そのような、例え当時は意識しなかった筈なのに、今も記憶の中から消えてはいない旅の記憶。
しかし、大学生活の後に旅した多くの地は、何故にさほど多く残っていないのだろう。
時間的にも、何倍もの記憶が残されていなければならない筈のそれらは、残念ながら余りにも貧弱だ。
社会人としての幾つもの柵は、記憶を意図的に消しているのだろうか? 

社会人何年目かに、僕は突然大学時代の山仲間、吉田秀夫に誘われて、二つの山行を経験する。
昭和四十六年秋の、後立山・爺が岳~針ノ木岳の縦走と、伯耆富士・大山登山である。
前者は、同行のメンバー(吉田の命名になる、ザ・ズボリアンズ)から絶賛された(?)紀行文、「秋色山行/爺・針ノ木」に詳しい。
その冊子は、粗末な紙に謄写版印刷だったから、たぶん残っていたとしても読みづらいだろう。
出来ればこのような形にして、復刻しておきたいものだと思っている。
大山登山はその秋色山行の報告会がきっかけで実現した初冬の山行だったが、直後に椎間板ヘルニアを患う直接のきっかけとなってしまった、苦い記憶の残る旅。
結局その山行から、約二ヶ月に及ぶ手術前後の記憶の悉くは、苦いものばかりになっている。
後に吉田と結婚する北出佳英子の印象だけは今も鮮明なのだが。 

その大手術の後、翌年には性懲りも無く又々僕は、山旅に出掛けている。
会社の同僚だった、池田文雄、吉村清美の二人は山登り未経験者だったにもかかわらず、夏山だったら大丈夫だろうと
無謀にも、小屋泊だったが、唐松岳から針ノ木岳に至る、後立山縦走に出掛けた。
後半部分に、懐かしい爺~針ノ木の稜線を盛り込んだのは、僕の思い入れに他ならなかった。
三泊四日のその山旅は、二人の初心者にとっても貴重な体験になったのだろう。
その後三人で、白山縦走、南八ヶ岳縦走を経験し、池田とは白根三山縦走、吉村とは大山縦走を経験している。

後立山縦走は、白馬岳を南下するルートだが、天狗の大下りと不帰の難所通過が困難だと、途中の唐松岳からの短絡ルートにした。
八方尾根は、途中までゴンドラ、リフトが利用出来ることも初心者パーティには有利だった。
初日の八方では、早速残雪を食べ過ぎて(?)池田が体調を崩し、せっかくの唐松岳登頂を果たせなかった。
唐松小屋の西に沈む夕陽の中に見た、剱岳のシルエットは近くに見える、五龍岳のボリュウムに圧倒されそうだったが、懐かしい姿だった。
翌朝の爽やかに済んだ空気の中でも、同じように懐かしい佇まいを見せてくれた。
ルートはしっかりしていたし、混雑も余り感じなかった。唐松岳から見た、圧倒されるほどの五龍岳だが、その頂上は縦走路からは少し外れていた。しかし縦走の最初の顕著なピーク、しっかりと頂上を踏んだ。
次のピーク鹿島槍ヶ岳への登りに入る前には、八峰キレットを通過する。
随所に架けられたクサリや鉄梯子には緊張させられたし、時間もかかった。
その難所を越えると、正面の鹿島槍ヶ岳は見事な双耳の頂きを見せて凛々しかった。
その先に連なる筈の懐かしい爺から針ノ木に延々と続く稜線。夏の陽射しは容赦無く照りつけていたが、縦走路は快適なまでに整備されていた。
鹿島槍の北峰には巻道がつけられていたから割愛し先を急いだ。
南峰との鞍部にはお花畑があり、かなり強い風が北から南に吹きぬけていた。
日溜まりには残雪があった。
鹿島槍南峰から二日目の宿泊予定である、冷池小屋への下りで、雷鳥の親子に遭遇している。
這松の中を飛び回る様子が愉快だったし、何よりも高原状ののどかな下り道、夕方までに間違い無く小屋に着けることへの安心感が足取りを軽くしてくれた。
暮れ行く鹿島槍、翌朝見た朝の清々しさの中での凛々しい佇まいは、見事なカラー写真で残されていた。
三日目の朝も見事な快晴だった。
爺が岳の長い尾根に取りついた直後、緑の山裾が一旦黒部渓谷に沈んだ後に再び隆起して連なる、立山・劔の稜線が、遙に見渡せた。
黒部渓谷までの距離がかなりある為に、何時だったかの秋に見た、蝶ガ岳から常念岳への縦走中、槍沢を挟んで対峙する槍・穂高の屏風ほどにはスケールは大きく無いけれど、それでも見事な稜線が続いていた。
爺が岳の山頂からは、二度目の足跡が記されることになる。
懐かしい三角屋根の種池小屋、テントサイトに利用した棒小屋乗越にある小さな池を過ぎ、岩小屋沢岳への登り。
ビッシリと這松に覆われた稜線に飛び出した時見た剱岳の勇姿と、あの時のメンバー全員の大感激の面持ちを思い浮かべる。
そこから始まる、長い長い針ノ木岳までのダラダラとした稜線歩き。
同じ道を何年か前に「句読点の無いお喋り」を続けながら歩いた友らを懐かしみながら辿った。
岩屑だらけのスバリ岳頂上から指呼の間だった針ノ木岳は、さすがに冷池から一日のコースではキツかった。
一旦鞍部に下っての上りでは、すっかり疲労困憊。
やっとの思いで辿り着いた山頂には、あの日と同じように累々と積み重ねられた石の間に粗末な山頂標識があった。
狭い鞍部にある針ノ木小屋は超満員だった。
峠から南望は、北アルプス南部の山塊、北は超えて来た懐かしい山並みが薄霞の中だった。
新越乗越小屋や、種池小屋の夕餉の仕度も始まっていた。
翌朝早く、最後のピーク、蓮華岳へのピストンに出掛けた。
疲れていた所為だろう、稜線上に飛び出してから東の端に位置する三角点までは思いの他時間がかかった。
朝焼けの中で、辿って来た鹿島槍、爺が岳、岩小屋~赤沢・スバリと続く長い長い稜線が懐かしかった。
チングルマが既に花を散らせ、その名の由来通り稚児車様の種子を付け始めていた。
峠からの下りには、幅は狭くなっていたけれど、針ノ木大雪渓の名残があった。
初めての本格的山行だった二人が大はしゃぎだったこと、台風の為に車中泊を余儀無くされてしまった秋色山行のフィナーレとは違って、最後の最後まで余裕たっぷりだったことが懐かしい。 

白山縦走では、登山道で出会った谷本親子との愉快な思い出。
山頂直下の室堂宿舎で同室となったことは思いも寄らぬ偶然だったし、同室の他の宿泊客からかなりの剣幕で叱られるほどの大騒ぎを、翌日まで繰り返すことが出来たあの元気さは、二十代の若さ故なのだろう。

翌朝、それでも疲れを知らない僕達は真っ暗闇の中を、山頂まで登りご来光を待った。
谷本家の由美、由里姉妹では無く、いとこの谷本里美ちゃんと田中謙一くんだった。
とにかく寒かったこと、ご来光の後駆け下りた宿坊の前で、それでも「お茶」を忘れなかったこと
広場でのラジオ体操の後も、日が昇り急に辺りが騒々しくなる頃まで谷本一家との大暴れを続けていたタフさ。
谷本一家との別れは、食堂での朝食の後だった。
あっけない別れだった。
長女の由美ちゃんの一言。
「先に帰るワ。さよなら」
その朝の大騒ぎの現場を目撃した東大阪在住の岩田さんは、何と我が超快速部隊に加わって、岩間源泉までの長い縦走路を駆け下ることになった。
この展開も間違い無く僕達の大騒ぎの所為である。
この山行の詳細は、手書き原稿をコピーし、B4版湿式コピーの手書き地図と共に小冊子の形で残されている。
谷本家とのお付き合いは、その山行の後一年以上続いた。
何度か大阪市と門真市の境界に近い(だから交通手段は、大阪環状線・京橋駅前から、大阪市営バスの茨田大宮行きで終点下車、徒歩十分の距離だった)、門真市大字三ツ島の谷本邸を三人で訪問した記憶も残っている。
桜田淳子ファンだった由美ちゃんに特大のポスターを持参した時の大騒ぎや、ご両親達との徹夜マージャンの翌日、どうしても勝負したいとせがまれてフラフラになりながら遊んだバドミントンの過激さを遠くに思い浮かべる。 

八ヶ岳へ登ったのも、夏だった。
茅野からのタクシーを降りた美濃戸口から八ヶ岳へのアプローチは、快適なハイキング気分だった。
のどかな午後の散歩。
そんな気分の内に、横岳直下の山小屋に着いた。
小屋の前を流れるせせらぎにしばし戯れるほどの余裕、シーズンオフでも無いのに合計四名しか居ない客の為に、山菜の天婦羅は食べ放題だった。
小さな尾根を一つ越えて、目指す八ヶ岳の主峰、赤岳に向かっての登りは、暫くは樹林帯の中だった。
天気は崩れそうだったが赤岳と阿弥陀岳との鞍部では晴れ間がのぞき始める。
気分の良い道が、阿弥陀岳に向かって延びている。
目指す赤岳とは逆方向だったにもかかわらず、僕達は迷わずに阿弥陀を目指した。
標高はかなり低いけれど、西の美濃戸側から見ると、赤岳同様にドッシリした山容である。
ワンピッチ足らずの登りで三人がゴロ寝をするに充分な位、踏み固められた平坦な頂上に立った。
赤岳から横岳に続く大きな山塊と、右手に権現岳に続く大きな切れ込みが屏風状に広がっていた。
山の名前にさほど興味が無い二人は、ガイドブックを取り出したものの、山の形と名前が一致しない。
自分が居る位置を中心とした方角さえ分かれば何のことは無いのだが。
迷ガイド・池田の説明を上の空で聞いていた吉村も、それがデタラメと解かったのだろう、それまでの山行で覚えていた山の歌を歌い出す。
気分の良い山頂だった。
鞍部へ下り、小さなコブを越えて本格的な赤岳へり登りは、阿弥陀への登りとは違って累々たる岩屑道。
途中からガスが発生し、小雨模様になった。
わずかな時間での天候の急変は、夏山でも事故に繋がる為、慎重な行動が必要だが、山頂小屋にさえ辿り着けば、と少しペースを早めた。
意外なほど早く、稜線に飛び出し取り敢えず三角点のある八ヶ岳最高地点で深いガスの中の記念撮影をし、小屋へ飛び込んだ。
お昼を少し過ぎた頃だった。
結局その日は天候の崩れも気がかりで、山頂小屋に泊まることになる。
宿泊者割引のコーヒで暖を取るほど、冷え込んでいた。
しかしまだお昼過ぎ。
翌日通過する予定の横岳まで、時間潰しのピストンに出掛ける。
途中の岩場では、咲き遅れた駒草があちこちに残っていた。
やはり途中で雨に降られた。
そのピストンから戻った小屋の中は、天気の所為だろう、大勢の登山客が既にそれぞれの場所を占めていた。
仕方なく僕達はフトンが置かれている場所に陣取り、翌日のコースを検討した。
距離は残されていたが充分に一日で下山出来ると判断し、渋の湯泊か思い切って茅野まで戻るかを議論した。
実は、このやり取りを直ぐ横で聞いていた、松本からの女性三人組が、何と翌日のコースに同行することになってしまったのである。
夕方になった次第に天気は回復し、夜には下界の灯がキラめくほどになった。
山小屋のザコ寝は、経験したもので無いと解から無いのだが、どんな態勢でも睡眠出来る術を持っていないと大変である。
この夜の八ヶ岳頂上小屋はしかし、意外に平穏だった。
翌日の長いコースが気懸かりだったが騒々しい小屋の混雑を嫌って僕達は、就寝前の小一時間、持参していた花火を持ち出し、小屋の前で楽しんだ。
部屋で直ぐ横に休んでいた女性三人のパーティが見物客だった。
下界でも本物の花火大会が催されているらしく、時折営みの明かりとは違った明かりが見下ろせた。
翌日、すっかり日が昇ってからだった。
富士山が小屋の肩越しに薄霞みの中に浮かんでいる。
手前にある筈の、南アルプスの山塊は、雲海の下だった。
同じように遅い出発だったのだろう、昨晩の花火大会の、唯一の見学者達三人が途中まで同行したいとの申し出で。
僕達が二つ返事だったのは言うまでも無い。
急造近所迷惑六人組が、飛び跳ねるように山頂小屋から、横岳石室小屋へ駆け下った。
高山植物の最盛期を少し過ぎていたけれど、それでも咲き残っている花達は多かった。
悪天候の所為で、花や景色まで愛でる余裕の無かった昨日の横岳とは違って、今日は少し騒々しいけれど女性同行の愉快な縦走。
余裕たっぷりの横岳の登りでは早速、咲き遅れた風情で登山道の脇に残っているコマクサを見つけた。
横岳からの南望は見事だった。
八ヶ岳の主峰・赤岳と、相似様に右に控える阿弥陀岳との鞍部越しに、八ヶ岳南端の山々。
騒々しい記念撮影だったけれど、数多いこの山行の写真の中でも、白眉である。
幾つもの顕著なピークを越えて行くこの八ヶ岳南部の縦走は、主脈がほぼ南北に連なり急峻な西側となだらかな東側のいずれからも多くの登山道が拓かれている。
横岳を越えた夏沢峠もその一つで、同行した松本市の三人組は、その峠小屋で昼食を摂りそこから下山の予定だった。
僕達は、彼女達の持っていたサンドイッチなどを何の遠慮も無く頂き、そこでさよならのつもりだった。
しかし、愉快な会話と余裕のワンデルングに気を良くした三人組のリーダー格、高橋峰子の一言で結局は僕達の宿泊予定である渋の湯からの下山に変更してしまった。
天狗岳が最後だった。
累々と岩が無造作に転がっている苔が一面を覆う道を過ぎ、途中の小屋で大休止。
渋の湯への下りで見つけた、鬱蒼たる樹林は意外な発見だった。
僕達の、渋の湯での宿泊は当初からの予定だったが、彼女達は随分遅くなってしまったにもかかわらず「一風呂浴びて」松本に戻ることにした。
僕達は宿泊手続きをし、汗を流した。
突然の混成パーティだったけれど、とにかく愉快な仲間との山行は忘れ難く
翌日塩尻経由で神戸まで直行予定だった僕達も、急遽予定変更し松本見物にお邪魔することにしてしまった。
連絡先は、松本市深志、割烹料亭「粋月」だった。
翌日の松本は曇天だったけれど、駅前の喫茶店「道」での再会から、松本駅での別れまでの半日、八ヶ岳での大騒ぎと同じように笑い声が絶えなかった。
高橋峰子は都合がつかず不参加だったけれど、清田早苗、小沢通子の二人は、歩き過ぎて傷めていた筈の足を庇いながら、松本駅まで見送ってくれた。
僕は、その山行と松本見物の顛末を、やはり一冊に纏め、笑い声が聞こえそうな写真と共に松本に送った。
夏の終わりの台風がその年は頻繁に到来した。
詳しい話しは知らないが、翌年三人の内の誰だかが結婚することになっていたのだろう、「仲良し三人組の、最後の楽しい山行になった」のだと、その翌年夏の暑中見舞いに書かれていた。
 

当時、国鉄兵庫駅の南にあった喫茶店「輪」は、僕の休息場所の一つだった。
マスターの覚さんは、僕達とほぼ同年代。
けいちゃんと呼んでいたのは彼のお姉さんで、店には二人のウェイトレスが居た。
仕事の合間や、仕事が終わってからの殆どをそこで過ごしていたから、山の話しも何度もしていた。
八ヶ岳の山行も、会社の同僚二人との山行だったから、直ぐに話題になっていた。
必ず持参していた写真を、そこで開いて自慢した翌日、僕は会社の中で女子社員につかまった。
「何で女の子と山に行ったん?」その数日後、あろうことか僕は、
「私達にも登れます」と宣言された会社の同僚達(それも女性だけの五人組)を引率して、秋の大山に登る計画を作ることになってしまった。
勿論、この山行の記録も頼まれて小冊子に纏めた形で、同行者の手許に残されている(筈だ)。 

一体、何度大山に登ったことだろう。
夜行列車の車内で、小林町子がコンタクトを無くしてしまうと言うハプニングから始まったこの山行は、しかしそれまでとは何もかも違って女性陣にすっかり掻き回された山旅になった。
今でも、翌日詣でた出雲大社の境内の、大国主命とウサギの像の前での喧騒を思い出してしまう。
社会人になってから、再度山行きに目覚めてしまうきっかけとなった、吉田秀夫を思い出していた。
彼も、会社の同僚だった岡本和恵、北出佳英子と、岸野千恵子の引率に、僕達を引き込んだのだった。
だから、僕もこの大山山行の引き金になった、八ヶ岳山行の同行者、池田と吉村を引き込むべきだったのだろう。
翌朝、小雨交じりの米子駅に着いた。
慣れない夜行列車の旅で寝不足のようだったが、それでも華やかな女性陣に囲まれた山行に少しうきうきしていた。
バスで夏山登山道の起点、大山寺・博労座駐車場に到着した時点では、小雨になっていた。
ブナ林の中に、夏山登山道となっている北西稜がガスに煙って見え隠れしていた。
準備体操もそこそこに、南光川原の橋を渡り、舛水高原に続く自動車道と分かれて、しっかり固められた山麓径に踏み入った。
暫く続く石段は、雨に濡れて滑りやすい状態だったが、足慣らしには格好の勾配で、少しずつ急になって行く。
初心者には歩きやすい小径が続いた。
休憩は、約三十分に一度と決めてはいたが、そこは女性の強み。
黙々と、遅々とした歩みも、休憩時間には突然大騒ぎの状態に戻ってしまう。
この繰り返しに少し辟易し始めた頃、ガスの切れ間に元谷を挟んで対峙するように、三鈷峰の姿が見渡せた。
しかし、多少回復したとは言ってもまだまだ晴天は望めそうに無かったし、雨に濡れた縦走路の足場の悪さを考慮すると、主脈を縦走して三鈷峰まで行くのは無理だと感じた。
そう判断すると、今度はさほど急がなくても充分午後の早い時間に下山出来ることになる為、休憩時間も長めに取れることになった。
とにかくお喋りと、食欲とは一向に衰えない五人組みだった。
おまけに、頂上小屋に着いた時には見事な青空さえ広がり始め小屋の外での暖かい陽射しを浴びながら、小林町子のお母さんが作ってくれたおにぎりの昼食で元気回復のメンバーは指呼の距離に見える剣が峰への縦走を希望した。
しかし、風も強く途中の足場の悪さを懸念して、大休止の後下山することにした。
下山路には、舛水高原へのルートを取った。
違った角度からの大山も見たかったし、夏山登山道の混雑を避けたかった。
ただ、勾配に任せての下りは、翌日以降の足へのダメージとして語り草になる。
下るにつれて、傾斜は緩やかになり、スキー用のリフトの架かる辺りまで下りきってからの、背丈の高い草原での記念撮影は大笑いの連続になった。
足の痛みもあったのだろうが、誰も笑いの中で隠し通していた。
舛水高原から、博労座経由で米子に下るバスの車内では、さすがに疲れが出たのだろう、全員が静かになった。
米子駅前の米吾で遅い昼食を摂り、下り列車で宿泊予定の出雲市へ。宿は駅前の「紙屋旅館」だった。

深夜のトランプ占いも、翌朝の大広間での食事も懐かしい。
カニの横ばい、と称された筋肉痛の足を庇っての歩みは、一層の笑いを誘ったし、出雲大社参詣の道中でも「句読点の無いお喋り」は果てしなかった。
八ヶ岳登山の写真を見せてしまったことを大いに後悔したのだが、それでも愉快に事には変わり無い。
しっかり朝食を摂ったにもかかわらず、「出雲ソバ」を食する豪快さ。
参道を占拠しての記念撮影、大国主命と白兎の像の前での喧騒は写真の中でも声が聞こえそうなくらいだった。
現在は廃止されてしまった、大社線の終点・大社駅は、出雲大社からかなりの距離だったが、そこまで重い足を引きずって、しかし笑い声を撒き散らしながら歩いた筈だ。
出雲市駅からの特急「やくも」乗車も大変な騒ぎだった。
自由席に、難なく乗れる積もりでのんびりおみやげ物漁りに出掛けている間に、改札口には信じられない位の行列。
たまたま、改札口の真ん前に荷物を置いていたことが幸いして、入場の際には何と最初にホームに入ることが出来た。
自由にならないくらい重くなった足が、その時だけは不思議なくらい動いたのだろう、大西純子の頑張りを思い出すと今でも苦笑してしまう。
超満員の車内でしっかり全員が座席を確保し、岡山まで辿り着いた。
新幹線で西明石、在来線に乗り換えてそれぞれの自宅へ戻る途中の明石駅で途中下車し、最後の夕食を笑いの中で済ませた。
とにかく神戸駅集合から、明石駅解散まで一時も笑いが絶えたことの無い山行は、初めての体験だったし、二度と出来ない体験になった。
 

国鉄兵庫駅の南にあった職場は、その後神戸一の繁華街、三ノ宮に移転した。
しかし、僕にとっては最初の仕事場だった兵庫駅南側周辺での様々な体験や、そこで騒ぎあった人達との関わり合いの方が印象深い。
社会人としての「旅」の記憶も、この騒々しい山行を最後に、途切れてしまっている。
その意味でも、印象深い旅だったし不思議なきっかけで誕生したメンバーだった。
そのメンバーの一人、小林町子が翌年会社を辞めることになった時、全員で送別会をと言うことになり僕も呼ばれた。
唯一人、同じ職場では無かった、塩田イツ子も久し振り顔を見せた。
お喋りが半年振りに広がった。
神戸・元町の「神仙閣」と言う中華料理店での二時間は、送別会とは名ばかりの近所迷惑五人組同窓会だった。
このような華やかな集まりは、その時以降一度も経験が無い。
小倉加容子からは、今も年賀状が届く。
芦屋に嫁ぎ、平成七年の震災では大きなダメージを被った様子だが、暗さは知る由も無い。
現在は落ちついたのだろう。当時と同じように、アッケラカンとして暮らしているのだろう。
飼っているペット達との日々の奮闘振りを知らせてくれる。
だから、いつもその年賀状が届くと、出雲大社大鳥居からの参道一杯に手を繋いで写した記念写真が思い出される。
どこかに残っていれば、この喧騒の大山登山と、出雲大社行きは小冊子に詳しい。

 

【足跡の幾つかを思いつくままに】 -- ここに記したキーワードから、まだまだ何編かを綴れそうに思う。

播州赤穂 夏 G連との最後の夏

糸魚川 冬 真っ暗闇の海岸 雪の砂浜

萩 真夏 吹き出してくる汗 指月城址からの展望 特急まつかぜ

稚内 五月のダルマストーブ

詫間 何気無くタクシーを走らせた漁村

碌山美術館 遠い夏の便り 信州大学 別の秋 花梨

渋谷 井の頭線 駒場東大前 夏 

渋谷 道玄坂 宮益坂 沖縄復帰

高田馬場 西武新宿線乗り換え階段付近の夏の出会い 新宿御苑の散策 百日紅

松江 宍道湖畔のゴズ釣り 武家屋敷の百日紅 八雲記念館の瑠璃柳 幾つかの木橋 係留されていた漁船

津山 鶴山公園のツツジ 姫新線C58

河内山本 信貴山ドライブウェイ 団地の前のお好み焼き屋

十文字 酷暑の夏 駅堤の生温い飲み水

野町 白山登山口への電車 ラーメン屋

土山 別府鉄道 ススキの原 田園の中の無人駅 鶴林寺に続く不確かな記憶

石ノ宝殿 累々たる岩山 奇妙な姿の松、醤油会社見学

高安 近鉄南大阪線電車区

三沢 雪 米軍基地 特急はつかり

亀山 亀山駅前郵便局 峠越えの印象

米子 夏 湊山からの中海 見えなかった大山 早春の梅 大谷町への小径

北鎌倉 円覚寺座禅 喫茶「門」 磨り減った浄智寺の石段 

志賀島 連絡船乗り場 「へび少女」

宮島口 481系電車特急撮影行 瀬野八越え

八幡浜 港の突堤と潮の香 松山

長門市仙崎 夏 眩しい朝日 釣人達

尾道 九州の戻り 文学の小道 春霞

倉敷 同じ春 柳の芽吹き 別の夏の紅蜀葵と白壁

兼六園 厳冬

欅平 豪雨 又別の秋の、最後の山行

淡路島松帆 急流と潮の香 江崎灯台 林立するアンテナ群 練成合宿

雲仙三山 春 天草の帰りに 妙見 国見 普賢岳 白雲池 帰路の諫早 長崎

大和三山 耳成香久山畝傍山 秋 橘寺への散策 文化の日 岡寺の石段

吉野 水分神社 大峰への 又別の秋 大峰からの道すがら 吹き溜まりの木の葉

城崎 円山川沿いの柳並木 御影石の橋

神戸月見山 銀行の角 鷹取散策

鈴蘭台 土筆採り 春のライラックと秋の金木犀 神戸電鉄のガード

長崎 崇福寺山門 西坂公園の砂塵

徳島北川 小説「氷点」 山深い里 剣山の霧氷 ほらがいの滝

京都大原 寂光院と三千院の秋 緋毛氈 又別の春 おだまきの花

京都 鷹が峰光悦寺の竹林 植物園の梅

京都 南禅寺 銀閣寺 八坂神社 紅葉の 秋と疎水 別の秋 哲学の道

神田 前田書林 小鍛冶 うな正 白い山吹の花

上野 不忍口 東北線普通電車 115系

歌敷山 舞子公園から高丸丘への途中 愛徳学院への急坂 振り返れば海

相原 横浜線片倉へ続くのどかな里山

北八王子 八高線D51の煙 富士山

大久保町森田 官舎 梨架 雲楽池 神姫バス停

東二見 港の松 地蔵尊 海に下る土塀沿いの細道 沈丁花の蕾

神戸市垂水区伊川谷町漆山 櫨谷 前開秋色に染まった田畑の中の集落 卵の殻に囲まれ残菊 

塩屋 鉄拐山からの下り 晩秋の西日の中

兵庫区浜崎通 関電社宅 喫茶「輪」

斑鳩 法隆寺 C58 くすんだ夏の陽射し

福良 海峡の春 海峡の冬 観潮船

日奈久 谷あいの駅 

裏磐梯五色沼 吾妻小富士 夏 

飛騨高山 富士登山断念の錦秋の頃

玉津 夏のタチアオイ ワグナーのオペラ

奥畑 甲山 ニテコ池のほとり 深い緑の森 狭い脇道 

名古屋駅太閤口 看護学校に寄宿していた小学校時代の友 遠い夏 一冊の詩集


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