渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ストリッパー

2021年09月23日 | open


沢田研二の「ストリッパー」は曲が
いい。沢田研二本人作曲。
すべてを脱ぎ捨てないと始まらない
ショーの始まりさ、という三浦徳子
の歌詞もいい。

だが。
ストリップの芸としての存在とスト
リッパーの職業を否定する訳では
ないのだが、スッポンポンになる
事に全ての性的堪能を全ての男が感
じるかというと、決してそんな事は
ないのよね。
これ、女性にはどう逆立ちしても理
解できないだろうと思う。
着ているからこそいい、という世界
も男の精神世界には存在するのよ。
だからこそ、男という馬鹿な生き物
は丸出しよりもパンチラに感激した
りする面も誰もが持っている。
ある映像で、「パンチラでいいの?
中学生みたいね」と女性が言うシーン
があった。
これ、シナリオ書いた奴、もしかす
ると女かも。全く解ってない。
全裸は一糸纏わぬ美しさというもの
はある。
しかし、仄かな残り香が芳(かぐわ)し
いように、着衣状態が残存する状態
のほうがそこに美とエロスを喚起さ
せる事があるのも確かなのだ。
スッポンポンより、たった一つ白い
靴下を履いているだけのほうが良い
と感じる事もある男の精神構造を
そのシーンを書いた脚本(ほん)書き
のモノカキは全く理解していない。

脱がずに着ているままがいい、と
思う気持ちがどこかにある男はかな
り多い。
スッポンポンの丸見せは、「なんか
それ違う」という精神局面はあるの
だ。
ある有名なキモノデザイナーがイン
タビューの答えで名言を残した。
「究極のキモノとは何ですか?」と
の質問に対して。
それは、「まだ作り出せてないが、
脱がせてみたくなるキモノが究極だ」
と。
これは、無論、スッポンポンになる
事が目的の主軸にない。着衣段階に
こそ核心の精神世界がある。
かと言って、完全着衣状態の事を言っ
ているのではない。そこに「変化」と
いう動的な「希望予測」を抱いている。
しかし、ストリップのようにスッポン
ポンにさせることではない。片肌脱ぐ、
という状況をこそ想起させるのだ。
スッポンポンではなく白足袋は履いた
まま、というのに近く。
この機微。

これ、残念ながら、女性には理解でき
ないだろうと思う。
男女は別な生き物だ。
男女が同権であるのは、社会的な権利
や義務の連鎖において成されるべきも
ので、元々体力的にも身体構造も異な
る。それの人体的な性と心が合致して
いないと「障がい」と見做される。
それもどうかと思う。それを「障が
い」と呼んでいいのか、と。それなら
それでいいじゃないか、とする社会
を作るほうが大切なのでは、と。
そうである人の生きる障壁を取り除
く構造の社会であるべきだ、と。
どんな価値観や感性をも受け容れる
社会を作るほうがいい。(人が人を傷
つけて踏みにじる事をよしとする社
会は絶対にダメ)

ま、部分的着衣状態やスッポンポン
ではないほうが良い、という男性心
理という特殊な精神は男にはあるの
です。
これはなにも性的行動欲求とは別に。
女性のうなじを見ただけでハッとな
ったり、白魚のような指先見たら
居着いたりとか。
それってね、「あの人の笑顔が好き」
という「笑顔」と同じなんだよね。
でも、こういうのは、論理で理解し
ようとしても、それは表層理解だけ
になる。感覚的に自覚として感知で
きないと本物の理解にはならない。
視覚だけだなく声なんてのもそうだ
よね。堪らなく好きな声質とかは
人にはそれぞれあったりする。

そうしたもの全てを全否定したり、
一的価値観でタガを嵌めて人に
感性や思惟の強制と矯正を為す事
を人や国家がやってはならないのよ。
それをやったのがナチスであり、戦
前戦中の日本の体制であり、今の北
朝鮮だったりな訳で。
それ、人類史で最悪の悪事なんだよ。
その理由は、ごく一部の者の意向に
沿わなければ人を抹殺することを正
義とする体制を社会全般に浸透させ
る暗黒社会であるから。それは、価
値観とかの見えない物だけでなく、
人の殺生与奪権も一部の者たちが掌
握する光の無い社会だから。

パンチラ論、チラリズムの精神論、
着衣欲情論、ストリップという脱
衣芸如何の考察は、あながち与太で
はないのよ。

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