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トリップワイヤーは侵略を抑止するか?

2021年11月22日 | 研究活動
先日、「領土の征服は過去の遺物なのか?」と題するブログで、尖閣諸島に対する挑戦国の侵攻を抑止する「トリップワイヤー」部隊の展開について取り上げました。尖閣諸島に小規模であれ部隊を展開すれば、それはトリップワイヤーとして抑止に貢献するのではないかという議論です。バーゲニング理論によれば、防御側に立つ我が国が尖閣諸島に自衛隊員を駐留させれば、それは同諸島を守る明確な決意を体現するシグナルとして挑戦国に伝わるので、抑止を弱める不確実性は取り払われると期待できます。

抑止の手段としてのトリップワイヤーは、もし理論通りに働くのであれば、少ないコスト(小規模の部隊)で大きな利得(領土保全)を見込める有望な外交術です。ただし、トリップワイヤーによる抑止理論の問題は、そのロジックが十分に吟味されたものとはいえないだけでなく、仮説の検証も不十分だということです。そこで、このブログでは、トリップワイヤーの抑止理論を正面から扱った最新の研究を取り上げて、その政策上の実効性について考えたいと思います。

トリップワイヤーは、直感的には、挑戦国の領土の征服を思いとどまらせるのに効果がありそうですが、実は、その抑止のメカニズムをよく検討してみると、ロジックとして怪しいのみならず、それを裏づけるエビデンスにも乏しいとの研究結果が提出されています。ダン・ライター氏(エモリー大学)とポール・ポースト氏(シカゴ大学)は、論文「トリップワイヤーの真実」("The Truth About Tripwires: Why Small Force Deployments Not Deter Aggression," Texas National Security Review, Vol. 4, Issue 3, Summer 2021) において、トリップワイヤーの抑止効果は誇張されていると批判しています。かれらによれば、トリップワイヤー部隊の展開は、抑止の威嚇の信頼性を実際には高めないのです。

ライター氏とポースト氏によれば、トリップワイヤーの抑止論理には欠陥があります。第1に、そもそもトリップワイヤーは、その部隊が挑戦国によって攻撃され兵士を犠牲にする有事になれば、防御側は挑戦国に報復する軍事行動をとると想定しています。しかしながら、防御側の指導者は必ず反撃するとは限りません。戦争を避けることに動機づけられた政策決定者であれば、トリップワイヤー部隊に犠牲者がでても、武力衝突がエスカレートして、さらなる犠牲者がでることを懸念して反撃しないかもしれません。もし侵略国が、抑止国の民衆は武力衝突による犠牲者の発生に敏感であり、そうした事態の回避を望んでいると信じている場合、防御側は軍事介入を行わないだろうとの結論にいたるでしょう。そうなると、トリップワイヤーの抑止としてのシグナル効果はなくなります。

第2に、侵略国は迅速にごく短期間で領土を征服するとともに、現状維持国の援軍が到来する前に小規模なトリップワイヤー戦力を打倒して、既成事実をつくってしまうかもしれません。そして、侵略国の領土の占領が、今度は、その防御的な力を強めることになります。たとえば、現状打破国が島嶼を武力で占拠すれば、その既成事実は当該国に地理的優位を提供します。そうなってしまうと、防御側が征服された島嶼の奪還を試みたとしても、侵略国はそれをはねのけられやすくなるのです。

トリップワイヤー戦力による抑止の擁護者は、その成功例として、冷戦期にソ連が西ベルリンへ侵攻しなかったことを引き合いにだします。しかしながら、新しい研究が明らかにするところでは、1948年にスターリンは西ベルリンに侵攻するつもりはなかったのみならず、フルシチョフも1950年代から1960年代初め頃にかけて、ベルリンで攻勢に出る計画を立てていなかったのです。トリップワイヤーによる「抑止」がうまくいったように見えたのは、そもそもソ連に西ベルリンを軍事的に攻略する計画がなったにすぎないということです。トリップワイヤーによる抑止は、「神話」だったということでしょう。

つまり、トリップワイヤー戦力の展開は必ずしも抑止を向上させるわけではないことが分かります。抑止というのは、シグナルの信ぴょう性以上のものを必要とするのです。

では、抑止力を高めるには、どうしたらよいのでしょうか。かれらは、部隊の展開が局地的なバランス・オブ・パワーを侵略国にとって不利にするのに十分でなければならないと主張しています。このような条件では、挑戦国が侵攻を成功させる可能性は低くなり、少ないコストで迅速な勝利を収めるのも難しくなります。ジョン・ミアシャイマー氏(シカゴ大学)の古典的な通常戦力の抑止研究が実証しているように、抑止は挑戦国が素早い勝利を収められると期待している場合、効きにくくなりますが、そうでない時には機能しやすいのです。抑止を失敗させる原因は、侵略国が防御国のコミットメントの信頼性を疑うことにあるというより、むしろ、その能力の評価にあるということです。ライター氏とポースト氏は、こうしたトリップワイヤーによる抑止失敗の仮説を朝鮮戦争や第一次世界大戦の事例で検証しています。ここではスペースの制約上、前者の事例だけを簡単に紹介します。北朝鮮は、1949年時点では、韓国に大規模な米軍の兵力が駐留していたために、朝鮮半島におけるバランス・オブ・パワーは不利だとして、韓国への侵攻を思いとどまっていました。この時点では、抑止が成立していたのです。ところが、その後、アメリカは韓国から大部分の兵力を撤退してしまいました。これにより、朝鮮半島のバランス・オブ・パワーは北朝鮮有利に傾いたのです。北朝鮮の金日成は、これで韓国を短期間で迅速に征服できると確信しました(くわえて、韓国で親共産主義の人民蜂起が起こると信じていました)。ソ連のスターリンも金の南侵計画にゴーサインをだしました。その結果、北朝鮮は韓国への電撃的な侵略を実行して、抑止は破綻しました。韓国に駐留していた小規模な米軍の部隊は、トリップワイヤーとして機能しなかったのです。



この研究が尖閣防衛に示唆することは、同諸島にトリップワイヤー部隊を展開するだけでは、局地的なバランス・オブ・パワーにほとんど影響しないので、抑止を高めることには、あまり期待できないということです。尖閣諸島をめぐる局地的なバランス・オブ・パワーを防御側に有利にすることが、抑止を成立させるには必要なのです。そこでライター氏とポースト氏は、以下のような政策提言をしています。

「東シナ海の尖閣(釣魚)諸島における日本とアメリカの部隊の事前展開ならびに平時における両国の合同軍事演習は、中国が当地で既成事実化を企図した攻撃を始めるのを思いとどまらせられるだろう」(52ページ)。

トリップワイヤー戦略は、費用便益計算の面では魅力的なのですが、この最新の研究は、その効果に疑問を呈しています。「安上がり」の抑止に幻想を抱くのは危険ということでしょうか。アメリカは公式には日米安保条約が尖閣諸島に適用されるといっていますが、ホンネでは、中国に対するカウンター・バランシングを日本にバックパス(責任転嫁)して、「オフショア・バランサー」として振舞おうとしているのかもしれません。そうであれば、今後、アメリカは上記のような尖閣諸島を積極的に防衛するための軍事協力にためらうことも予測されます。幸い、本年3月の日米安全保障協議委員会では、日米防衛当局者が、尖閣諸島有事を想定した両国の共同訓練を実施することで意見が一致しました。ただ、気になるのは、報道によれば、「米側にはどこまで関与するか慎重な意見があった」とのことです。

ライター氏とポースト氏の政策提言は、理論的には、尖閣諸島への侵攻を抑止する方法として魅力的です。また、日米両国が、こうした政策提言を実現する方向に動いていることは、東シナ海における抑止の強化に寄与するでしょう。他方、中国の相対的な軍事力の向上が継続するのであれば、それだけバランス・オブ・パワーは日米に不利になっていくので、米側の尖閣防衛へのコミットメントに対する慎重な意見が増すことも予想されます。日米中のパワー分布の変化が、抑止を少しずつ弱めてしまう懸念は残りそうです。

*中国の尖閣諸島に対する戦略については、Alession Patalano, "What Is China's Strategy in the Senkaku Islands," War on the Rocks, September 10, 2020 が詳しく分析しています。

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