野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

国際コミュニケーション学部創設10周年

2015年10月28日 | 日記
私の勤務する群馬県立女子大学国際コミュニケーション学部は、今年で10年目になります。

そこで、学部創設10年を記念して、学外から、明石康氏(元国連事務次長)、福嶌香代子氏(UN Women 日本事務所所長)、瀬谷ルミ子氏(日本紛争予防センター理事長)をお迎えして、シンポジウムを11月17日(火)に開催いたします。テーマは、「これからの国際社会で活躍するために」です。



ちなみに、シンポジウムのパネリストである瀬谷ルミ子氏は、群馬県の前橋女子高等学校のご出身です。

なお、この行事は、国連アカデミック・インパクトの一環として行われます(県女は、群馬県内で唯一の参加大学です)。


入場無料、申し込み不要です。皆さまのご参加をお待ちしております。

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留学、ワーホリと「国際人」

2014年07月15日 | 日記
日本の「国際化」が声高に叫ばれた1980年代に大学生活を送った私は、良い意味でも悪い意味でも、「国際人」という言葉に特別の響きを感じます。「国際人」なるものには、常に「あやふやな期待」がともないます。加藤恵津子『自分探し」の移民たち―カナダ・バンクーバー、さまよう日本の若者―』彩流社、2009年は、それを明確にしてくれる文献でした。

『「自分探し」の移民たち』は、バンクーバーへ留学や働きに来た日本の若者に対する、長年のフィールドワーク研究の成果です。著者の加藤氏がバンクーバーで参与観察を行っていた2008年、私も同市のブリティッシュ・コロンビア大学に長期研究滞在をしていたこともあり、同書を興味深く読みました。



同書に綴られているバンクーバーでの日本の若者の「実態」に、私は少なからず驚きました。当時、私はバンクーバー郊外のブリティッシュ・コロンビア大学で主に活動しており、ダウンタウンには、ほとんど行きませんでした。そのため、ダウンタウンに集中する日本からの若者の情報に触れることは、ほとんどありませんでした。同書で詳細に紹介されている、日本からのバンクーバー渡航者の「成功」とは異なる経験は、不覚ながら、これまで知ることがなかったゆえに、私は大きな興味を覚えました。表からは見えにくい、バンクーバー滞在者の「コインの裏側」です。こうした情報は、留学やワーキング・ホリデーなどを考えている、日本の若い人たちにも、広く提供されるべきでしょう。

それはさておき、私が同書で最も印象に残ったのは、「国際人」や「地球市民」に対する加藤氏の深い洞察です。仕事柄、私は、これらの言葉に触れる機会が多く、また、この2つの用語を様々な用途で使っていましたが、加藤氏の以下の指摘は、こうした概念には、もっと注意深くなるべきだと言っているようです。

「『地球市民』という語には、(本来)『権利をもらう』というよりも『責任を担う』というニュアンスがつよい…、『地球市民』の場合、何らかの『権利』を『ギブ』してくれる政府は、特にない。(中略)『国際人』のイメージ(は)、『国と国の間』を浮遊し続けることが理想であるかのような勘違いをさせ、若者の、どの地にもコミットしない状態を長引かせかねない…これは若者たち自身にとっても、延々と『自分探し』を続けなければならない苦しい状態といえるだろう」(同書、291、305ページ)。

「地球市民」や「国際人」に付随する違和感があるとすれば、加藤氏の説明ほど、この「違和感」なるものを明らかにしたものには、私は、出会ったことがありません。簡潔で分かりやすい見事な指摘です。

同時に、『「自分探し」の移民たち』に、疑問がないわけではありません。第1に、加藤氏は、バンクーバーに渡航する日本人若者の男女の比率が相対的に女性に傾いている事実を指摘したうえで、このことを日本の家父長制に結びつけています。そして、家父長制が残る中国や韓国からは、女性とほぼ同数か、それ以上の男性がカナダに渡っていることから、日本の家父長制の強固さをほのめかしています(同書、第五章)。もちろん、こうした分析は説得的なのですが、代替仮説も立てられます。すなわち、上記のアジア各国の政治体制や地政学上の変数が、男女比の差に作用しているということです。これは単なる個人的な経験による推論にすぎませんが、この2つの変数の因果関係は、かなり強いように思います。

第2に、これは純粋な疑問ですが、物価の高いバンクーバーで、これほど多くの若者が、どうやって経済的に生活できるのだろうか、というものです。なんでも、たとえば「バンクーバーの不動産価格は北アメリカ最高クラス」(『ニューズウィーク日本版』2014年7月29日、18ページ)だとか。同書で参与観察の対象となった若者たちは、比較的裕福な家庭からバンクーバーに渡ったのでしょうか。

いずれにせよ、『「自分探し」の若者たち』は、日本の文化人類学者の力量を私に感じさせる1冊でした。


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日本人と切腹の「社会科学的分析」

2014年06月07日 | 日記
軍事や安全保障を研究していると、時々、旧軍人の切腹の話にでくわします。たとえば、「統率の外道」とみなしていた神風特攻をあえて実行した大西瀧治郎中将が、終戦時に「割腹自殺」したことなどは、その例です。

私は、「切腹」という苦痛に満ちた行為で自らの命を断つことについて、前々から不思議に思っていました。人間が合理的存在であるならば、「自殺」する場合、一般的には、なるべく苦しまない方法をとるはずでしょう。しかしながら、「切腹」は、わざわざ筆舌に尽くしがたい痛みを伴うやり方により、自害する行動なのです。明らかに、人間営為の逸脱事例でしょう。では、なぜ、「日本人」はそうようなことをするのか。その理由は何なのか。

千葉徳爾氏の『日本人はなぜ切腹するのか』(東京堂出版、1994年)は、このパズルに挑戦して、説得的な答えを導き出しています。



千葉氏の仮説はこうです。「ヒトが自分の真の心持を他に示そうとする具体的手段として、切腹という形式が発生し(日本で)伝承された」(221ページ)というものです。そして筆者は、この仮説を民俗学の知見と資料を駆使して、実証しようとしています。「これを事実にもとづいて証明しなければ科学とはいえない」と(142ページ)。つまり、本書は、日本人の切腹という行為を科学的に解明しようとした労作なのです。

本書によれば、日本人の「切腹」とは、単なる「自殺」の手段ではなく、自らの「名誉」や「節操」を守る「潔白証明」の方法だということです。すなわち、「日本人たちの解剖学的知識では、獣やヒトの内蔵は生命と精神との源泉であり、それを資格によって検討することが自他ともに本心・誠意を確認しあう手段と考えらた。そのためには腹腔を切開することが是非とも必要であ(る)…日本人の責任のとりかたの基本となるのは、このような思考法といえる」(142ページ)ということです。確かに、腸には神経伝達物質セロトニンの約90%が集中していると言われており、「第2の脳」と形容されることさえありますので、この思考は、単なる「妄想」でもないと言えるでしょう。

なお、本書を読んで驚いたことが、いくつかありました。全ては、私のは浅学によるのですが、それからは以下の通りです。

第1に、腹を刃物で横一文字に切ることは、解剖学的に、腹部の弾力や腹筋の抵抗などがあるため、そう簡単なことではない、ということです(同書、28-32ページ)。くわえて、「切腹は(大血管が通っていないため)それのみで直ちに出血死に至ることは稀」(34ページ)なのです。切腹のみでの死亡率は、わずか4%というデータも示されています(36ページ)。この事実は、多くの人達が抱く「切腹」のステレオタイプ的イメージとは、大きく異なるのではないでしょうか。

第2に、「切腹」の異文化理解に対する含意です。「切腹」は、欧米人にとって日本民族の「残虐さのシンボル」であった一方、日本人にとって「いさぎよさのシンボル」でした(156-157ページ)。同じ「切腹」という行為に対する理解が、欧米と日本では正反対だったと言ってよいでしょう。このことは、異文化ギャップを埋めるのが、そう簡単ではないことを示唆しています。

『日本人はなぜ切腹するのか』は、標準的な社会科学の方法が、民俗学の分野にも活用されていることや「切腹」に関する興味深い事実を私に教えてくれる、知的刺激に満ちた研究書でした。

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群馬県立女子大学に移籍しました

2014年04月01日 | 日記
「エイプリール・フール」の冗談ではありません(笑)。

長年にわたり在籍した東海大学国際学科を去り、本日より、群馬県立女子大学国際コミュニケーション学部に移籍しました。この場を借りで、これまでお世話になった東海大学の関係者にお礼を申し上げるとともに、群馬県立女子大の関係者の皆様には、ご指導・御鞭撻の程、お願い申し上げる次第です。

移籍先の大学は、比較的小規模な公立大学ですが、教育スタッフの充実や教育成果などは、同大学同学部が英語やグローバル社会を学ぶのに素晴らし環境であることを示しています。英語教育に関して、TOEICの在学中の点数の上昇は眼を見張るものがあります。海外の著名大学で、Ph.D.(博士号)を取得している教員も多数在籍しています。

私はわたしで、新しい教育・研究組織において、先生方と協力しながら、自分にできることを地道に行っていきたいと思っております。


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研究(者)のジレンマ(更新)

2014年02月05日 | 日記
若干30歳の若手研究者の小保方晴子氏(理化学研究所)が作りだしたとされる「STAP細胞」は、生物学や生命科学の常識を覆す「革命的な」発見であると、一時は世界的に高い賞賛を浴びました。もし、本当に「STAP細胞」が作成されたのであれば、これは、まさしく「専門家たちに共通した前提をひっくり返してしまうような異常な出来事」(トマス・クーン『科学革命の構造』みすず書房、1971年、7ページ)であり、文字通りの「科学革命」だったでしょう。

しかし、残念ながら、STAP細胞については、イギリスの科学誌『ネイチャー』が、小保方氏の執筆した2本のSTAP細胞の論文を撤回することになりました。再現実験もうまくいかない。さらに、STAP細胞の作成過程で、ES細胞が混ざった可能性も指摘されています(『読売新聞』ウェブ版)。結局、この研究は白紙に戻ったようです。

科学の世界において、「科学革命」は、極めて稀なことです。さらに、「科学革命」を追及することには、「機会費用」を伴います。「科学革命」と「通常科学」は、ある種のジレンマにあるということです。

このことを最も分かりやすく言っているのが、小保方氏の研究を手伝った若山照彦氏(山梨大学)ではないでしょうか。かれは、『読売新聞』のインタビューに、こう答えています。

――今や全国のヒロインとなった小保方さんに続く若手研究者は今後出ると思うか。
 「難しいかもしれない。……世紀の大発見をするには誰もがあり得ないと思うことにチャレンジすることが必要だ。でもそれは、若い研究者が長期間、成果を出せなくなる可能性があり、その後の研究者人生を考えればとても危険なこと。トライするのは並大抵の人ではできない」


全くその通りでしょう。

科学革命の古典的名著を残したトマス・クーン氏は、科学を前進させるには、既存のパラダイムを変革させるような「意義ある科学研究の値打ちは、間違いに導く危険を冒す賭けにあるのではないだろうか」(同上、114ページ)と言っています。もっともなことですが、しかしながら、それは、多くの研究者にとって、危険すぎることでもあります。なぜなら、多くの「博士」たちは、研究を続けること以前に、常勤の職につくことさえ、ままならないからです。大学院の博士課程を修了した少なからぬ「学者の卵」は、大学であれ研究所であれ、研究で生計を立てること自体が難しいのです(詳しくは、榎木英介『博士漂流時代』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年を読んで下さい)。だから、とりわけ若手の研究者は、自分の専門分野の慣行に従いながら、より多くの研究成果をだすことにより、アカデミックなポストを獲得しようとするインセンティブにかられるわけです。



くわえて、科学の通常の前進の仕方にも注意すべきでしょう。専門家・研究者たちは、自分たちが共有する前提やルールのようなものがあるあるから、日々の研究活動を能率よく進められるのです(もちろん、社会科学である国際関係論も同じです)。要するに、既存のパラダイムが研究を前進させる原動力になるのです。これを根底から覆す「科学革命」は、一般的な科学の研究と矛盾するとはいかないまでも、相容れないところがあるということでしょう。


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