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野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

日本人と切腹の「社会科学的分析」

2014年06月07日 | 日記
軍事や安全保障を研究していると、時々、旧軍人の切腹の話にでくわします。たとえば、「統率の外道」とみなしていた神風特攻をあえて実行した大西瀧治郎中将が、終戦時に「割腹自殺」したことなどは、その例です。

私は、「切腹」という苦痛に満ちた行為で自らの命を断つことについて、前々から不思議に思っていました。人間が合理的存在であるならば、「自殺」する場合、一般的には、なるべく苦しまない方法をとるはずでしょう。しかしながら、「切腹」は、わざわざ筆舌に尽くしがたい痛みを伴うやり方により、自害する行動なのです。明らかに、人間営為の逸脱事例でしょう。では、なぜ、「日本人」はそうようなことをするのか。その理由は何なのか。

千葉徳爾氏の『日本人はなぜ切腹するのか』(東京堂出版、1994年)は、このパズルに挑戦して、説得的な答えを導き出しています。



千葉氏の仮説はこうです。「ヒトが自分の真の心持を他に示そうとする具体的手段として、切腹という形式が発生し(日本で)伝承された」(221ページ)というものです。そして筆者は、この仮説を民俗学の知見と資料を駆使して、実証しようとしています。「これを事実にもとづいて証明しなければ科学とはいえない」と(142ページ)。つまり、本書は、日本人の切腹という行為を科学的に解明しようとした労作なのです。

本書によれば、日本人の「切腹」とは、単なる「自殺」の手段ではなく、自らの「名誉」や「節操」を守る「潔白証明」の方法だということです。すなわち、「日本人たちの解剖学的知識では、獣やヒトの内蔵は生命と精神との源泉であり、それを資格によって検討することが自他ともに本心・誠意を確認しあう手段と考えらた。そのためには腹腔を切開することが是非とも必要であ(る)…日本人の責任のとりかたの基本となるのは、このような思考法といえる」(142ページ)ということです。確かに、腸には神経伝達物質セロトニンの約90%が集中していると言われており、「第2の脳」と形容されることさえありますので、この思考は、単なる「妄想」でもないと言えるでしょう。

なお、本書を読んで驚いたことが、いくつかありました。全ては、私のは浅学によるのですが、それからは以下の通りです。

第1に、腹を刃物で横一文字に切ることは、解剖学的に、腹部の弾力や腹筋の抵抗などがあるため、そう簡単なことではない、ということです(同書、28-32ページ)。くわえて、「切腹は(大血管が通っていないため)それのみで直ちに出血死に至ることは稀」(34ページ)なのです。切腹のみでの死亡率は、わずか4%というデータも示されています(36ページ)。この事実は、多くの人達が抱く「切腹」のステレオタイプ的イメージとは、大きく異なるのではないでしょうか。

第2に、「切腹」の異文化理解に対する含意です。「切腹」は、欧米人にとって日本民族の「残虐さのシンボル」であった一方、日本人にとって「いさぎよさのシンボル」でした(156-157ページ)。同じ「切腹」という行為に対する理解が、欧米と日本では正反対だったと言ってよいでしょう。このことは、異文化ギャップを埋めるのが、そう簡単ではないことを示唆しています。

『日本人はなぜ切腹するのか』は、標準的な社会科学の方法が、民俗学の分野にも活用されていることや「切腹」に関する興味深い事実を私に教えてくれる、知的刺激に満ちた研究書でした。

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研究(者)のジレンマ(更新)

2014年02月05日 | 日記
若干30歳の若手研究者の小保方晴子氏(理化学研究所)が作りだしたとされる「STAP細胞」は、生物学や生命科学の常識を覆す「革命的な」発見であると、一時は世界的に高い賞賛を浴びました。もし、本当に「STAP細胞」が作成されたのであれば、これは、まさしく「専門家たちに共通した前提をひっくり返してしまうような異常な出来事」(トマス・クーン『科学革命の構造』みすず書房、1971年、7ページ)であり、文字通りの「科学革命」だったでしょう。

しかし、残念ながら、STAP細胞については、イギリスの科学誌『ネイチャー』が、小保方氏の執筆した2本のSTAP細胞の論文を撤回することになりました。再現実験もうまくいかない。さらに、STAP細胞の作成過程で、ES細胞が混ざった可能性も指摘されています(『読売新聞』ウェブ版)。結局、この研究は白紙に戻ったようです。

科学の世界において、「科学革命」は、極めて稀なことです。さらに、「科学革命」を追及することには、「機会費用」を伴います。「科学革命」と「通常科学」は、ある種のジレンマにあるということです。

このことを最も分かりやすく言っているのが、小保方氏の研究を手伝った若山照彦氏(山梨大学)ではないでしょうか。かれは、『読売新聞』のインタビューに、こう答えています。

――今や全国のヒロインとなった小保方さんに続く若手研究者は今後出ると思うか。
 「難しいかもしれない。……世紀の大発見をするには誰もがあり得ないと思うことにチャレンジすることが必要だ。でもそれは、若い研究者が長期間、成果を出せなくなる可能性があり、その後の研究者人生を考えればとても危険なこと。トライするのは並大抵の人ではできない」


全くその通りでしょう。

科学革命の古典的名著を残したトマス・クーン氏は、科学を前進させるには、既存のパラダイムを変革させるような「意義ある科学研究の値打ちは、間違いに導く危険を冒す賭けにあるのではないだろうか」(同上、114ページ)と言っています。もっともなことですが、しかしながら、それは、多くの研究者にとって、危険すぎることでもあります。なぜなら、多くの「博士」たちは、研究を続けること以前に、常勤の職につくことさえ、ままならないからです。大学院の博士課程を修了した少なからぬ「学者の卵」は、大学であれ研究所であれ、研究で生計を立てること自体が難しいのです(詳しくは、榎木英介『博士漂流時代』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年を読んで下さい)。だから、とりわけ若手の研究者は、自分の専門分野の慣行に従いながら、より多くの研究成果をだすことにより、アカデミックなポストを獲得しようとするインセンティブにかられるわけです。



くわえて、科学の通常の前進の仕方にも注意すべきでしょう。専門家・研究者たちは、自分たちが共有する前提やルールのようなものがあるあるから、日々の研究活動を能率よく進められるのです(もちろん、社会科学である国際関係論も同じです)。要するに、既存のパラダイムが研究を前進させる原動力になるのです。これを根底から覆す「科学革命」は、一般的な科学の研究と矛盾するとはいかないまでも、相容れないところがあるということでしょう。


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地球外生命体「エイリアン」とグローバル安全保障

2012年07月17日 | 日記
私が学部生の頃、ある授業で先生が、「宇宙人が地球を襲ってきた場合、諸国家は対立を克服して協力し合えるのではないか?」と言っていました。それを聞いて、当時、私は「なるほど」と思ったのを覚えています。確かに、国際政治の世界でも、いがみあっていた複数の国家が、発生した脅威に対して共同で対処することはよくありますし、外部の脅威が国家を結束させることもよく知られています。同じようなことは、地球外からの宇宙人の「脅威」に対する「人類」にも当てはまるかもしれません。

こうした架空のシナリオは、映画「インディペンデンス・デイ」で描かれています。映画の最後では、世界各国の軍隊が結束してエイリアンと戦います。ただし、そうした事態に各国が円滑に協力できるかどうかと問われれば、国際関係論は、映画ほど簡単ではないことを教えてくれるでしょう。すなわち、各国がエイリアンの侵略に対して共同行動をとることを阻害する要因がいくつもあるということです。リーダーシップの問題、集合行為の問題(とりわけ、フリーライド)、責任転嫁、相対利得問題など、さまざまです。実際の共同軍事オペレーションをとる段階になると、インターオペラビリティなどの問題が深刻化することでしょう。

閑話休題

さて、肝心のエイリアンは宇宙に存在しており、地球にやってくることや地球を攻めてくることなど、本当にあるのでしょうか?この問いは、だれもが一度は考えたポピュラーな疑問です。そして、これは単にお茶飲み話にとどまらず、科学の問題でもあります。これまで惑星科学者や数学者、統計学者たちが、この問題の解決に挑んでいますので、ここでは彼らの答えを紹介したいと思います。

数学者のジョン・アレン・パウロス氏(テンプル大学)は、UFOの目撃は、宇宙人が来訪したことではないと主張しています。

「(仮に生命のいる惑星があるとしても、第一に)私たちの銀河が非常に大き(く)、生命を持つ星から、もっとも近い別の生命を持つ星までの平均距離が、五〇〇光年ということになる。これは地球と月の距離の一〇〇億倍にあたる。…そこまでの距離は、おしゃべりをするためにちょっと立ち寄るには遠すぎる。…(第二に)進んだ生命形態が、平均して一億年間存続するとしても、これらの生命形態は、百二十億年から百五十億年といわれる銀河の歴史の中に一様に分散している。そこで、同時に(文明が)進んだ生命を持っている銀河内の星は、一万個以下になってしまうだろう。そして、隣人同士の平均距離は、二〇〇〇光年以上にも広がってしまう。第三(に、生命体が)私たちに興味を持つ可能性は低い」(パウロス『数で考える頭になる!』草思社、2007年、86-87ページ)。

別の分析も見てみましょう。肝心のエイリアンの存在については、惑星科学者として地球外知的生命との交信計画に携わったカール・セーガン氏が「現在のところ、地球以外の場所に生命が存在するという説得力のある証拠はまだない」(セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか(上)』新潮社、1997年、147ページ。同書は、カール・セーガン、青木薫訳『悪霊にさいなまれる世界』早川書店、2009年として再販)と断言しています。証拠がないものを信じるわけにはいきませんね。



統計学者のジェフリー・ローゼンタール氏(トロント大学)は、エイリアンの存在確率について、セーガンと同じような結論に達しています。

「四〇年にわたって高性能の電波望遠鏡で徹底的に系統的な探索を行ってきたというのに、宇宙のどこかに生命が存在する証拠は一つも見つかっていないというのが厳しい現実だ」(ローゼンタール『運は数学にまかせなさい』早川書店、2010年、206ページ)。ただし、彼は同時に「かつて火星に生命が存在したというのが事実なら、宇宙のどこかに知的生命体が存在する確率が劇的に高まる」(207ページ)とも言っています。これに関連するニュースが昨日、発表されました。アメリカのNASAは、火星における過去の生命存在の可能性を探るために、過去最大の火星探査機「キュリオシティー」を来月早々にも火星に着陸させるとのことです(NHK Newsweb)。調査結果が楽しみですね。

エイリアンの脅威が存在するとすれば、それは「グローバル安全保障」の問題であり、安全保障研究を専攻する私としても、無視することはできません。しかし、セーガン氏の以下の主張は、私が研究領域をこの「グローバル安全保障」まで広げる必要性を否定しています。

「宇宙人が本当に何百人もの人を誘拐しているのなら、事態は一国の安全保障どころか、地球の全住民の安全にかかわる問題だ。それに対して、知識もあり証拠も握っている人たちが、誰一人として声を上げず、宇宙人ではなく人間の側に立とうとしないなどどいうことがあるのだろうか?それもアメリカだけでなく、二百ほどある世界各国のすべてで?」(『人はなぜエセ科学に騙されるのか(上)』179-180ページ)。

近年、安全保障研究は、その対象領域をやたらと広げていますが、そこに「地球外知的生命体(エイリアン)の脅威」からの安全保障という新たな項目を追加する必要は、今のところ、どうやらないようです。

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英語は大切だけど…

2012年02月01日 | 日記
『読売新聞』2012年1月28日(朝刊)の記事「英語『将来役立つ』7割、でも…」は、ある意味、衝撃的な内容でした。

文部科学省の調査によれば、中学3年生の7割が、英語の勉強は将来の仕事に役立つと考えているそうです。にもかかわらず、英語を生かした仕事をしたい、と答えた(と強く願う)生徒は、わずか11%にとどまり、43%が「英語を生かした仕事をしたくない」とのことです。

同記事には、この調査結果を分析した研究者の「(英語を)勉強したくない、面倒との思いが強い」ことを反映しているとのコメントが紹介されていました。確かに、語学の習得には、地道な勉強の積み重ねが必要です。何百、何千の英単語を覚えることに苦痛を感じる気持ちは、私もよく分かります。人間は「合理的な」生き物ですから、面倒なことを避けようとするのは、むしろ当然なのかもしれません。問題は、英語が必要なスキルであり、有用であることを知っているにもかかわらず、それから逃げようとしていることです

以前のブログで言及しましたが、私の研究分野では、日本語にくわえ、英語のみならず中国語やコリア語など、3ヶ国語を自由に操れる若手研究者が増えています。中学生と学者を比較するのはナンセンスかもしれませんが、こうした学界の動向と上記の調査結果は、あまりに鮮やかなコントラストを描いており、思わず考えさせられてしまいました。もう一つ、私が奉職する国際学科は、英語教育を1つの柱にしています。記事にある中3の世代が大学に入学する頃には、英語教育プログラムのより一層の工夫が必要になることを予感させられた次第です。


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リベラルアーツ教育の復権を考える

2011年09月13日 | 日記
現在、日本の大学界では、いわゆる「リベラルアーツ(教養)教育」が復活しています。早稲田大学には国際教養学部が設立されましたし、教養そのものを大学名に付けた国際教養大学がつくられました。そのほか、「グローバル教養」「リベラルアーツ」などといった名前を付けた学部や学科が、あちこちの大学に設立されました。今、日本の大学は一種の「リベラルアーツ」ブームにあります。

実は、私が奉職する東海大学の所属学部も、教養学部です。ただし、その歴史は古く、設立は40年以上も前のことです。東京大学教養学部、埼玉大学教養学部、国際基督教大学教養学部と並んで、日本の中では、伝統と歴史のある教養学部の1つです。

そもそも、少し前まで「リベラルアーツ」教育は、絶滅する恐竜のような存在だったと思います。バブルが崩壊する90年代初頭までの厳しい大学受験競争が存在した時には、いわゆる一般教養教育を担う教養部はさまざまな批判にさらされました。なぜなら、1つに、「高校で学んだようなことをまた大学で勉強するのか」、「早く専門教育に触れて知的刺激を受けたい」といった学生の声があったからです。その結果、多くの大学が教養教育より専門教育の充実に力を注ぐようになりました。その結果、教養部は次々に改組改編の波にのみ込まれて行きました。

以下は、1999年に出版された大学関係の本からの引用です。

「基本的にリベラル・アーツ教育は終わりを告げたと言える。学部4年間では徹底した専門教育を実施し、その訓練を即戦力にする…リベラル・アーツ教育では個性化は発揮できないし、専門性を養成することもできない」。

当時、確かに、こうした認識は大学関係者間で広く共有されていたのではないでしょうか?しかし、その一方で、大学の専門教育と企業のミスマッチもありました。日本の大企業の管理職(部長・課長)に対する調査結果は、このことを示しています。それによれば、管理職の職能と大学の専攻の相関は弱く、しかも、最終学歴(大半は大学学部)の教育内容が「かなり役に立った」と答えた管理職は、1割強に過ぎないということです(猪木武徳『大学の反省』NTT出版、2009年、65-69ページ)。

現在、社会が大学に期待する1つの役割として、「社会人基礎力」の育成があります。この社会人基礎力とは、「職場や地域社会の中で多様な人々とともに仕事する上で必要な基礎的な能力」であるとされています。これは、これまでのいわゆる「専門知識」とは、明らかに大きく異なります。そして今では、多くの大学が、この「社会人基礎力」の育成に力を注ぐようになりました。しかし、よく考えると、これまでも日本では、就職後の企業における教育訓練が大きな役割をはたしていたわけですから、その土台づくりを大学が担うというのは、自然なことかもしれません。

では、今話題のリベラルアーツ教育は、この社会人基礎力とどう関係するのでしょうか?リベラルアーツ教育で養う力の1つとして、「判断力」があります。この判断力とは、さまざまな選択肢の中で、重要性の優先順位をつけることを意味します。これは「社会人基礎力」のカテゴリーでいえば、「実行力」+「課題発見力」+「計画力」のベースになる力かもしれません。さまざまな情報を整理して把握し、問題点を明らかにする。その問題を解決するための的確な目標を設定する。内外の環境の制約下、目標を達成するための選択肢に優先順位を付けて実行する。そのための力と考えると、これは戦略論に通じそうです。

秋山真之は、帝国海軍の名参謀戦略家として名高い人物です。『坂の上の雲』の主人公として、ご存知の方も多いでしょう。その秋山が、次のような言葉を残しています。

「人間に頭の上下などない。要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ」(司馬遼太郎『坂の上の雲(2)』文藝春秋、1999年版、230ページ)。

要するに、秋山は、物事の優先順位をつけられるかどうかで、頭のよしあしが決まると言いたいのでしょう。その秋山の恩師の1人が、高橋是清です。高橋は財政の専門家というイメージが強いかもしれませんが、優れた教育者でもありました。その高橋は蔵相として、陸軍の軍事費の増額要求に、こう抗いました(その後、凶弾に倒れてしまいます)。

「およそどの職場で働く者でも、その必要とするいわゆる常識は、中学校で涵養されるべきものだ。…その常識を欠いた(陸軍)幹部が政治にまで嘴を入れるというのは言語道断」(猪木『大学の反省』169ページに引用。ここでいう中学は旧制中学のこと)。

教養教育とは、ここでいう「普通人としての常識の涵養」にほかなりません。しかし、このことは、猪木武徳氏が言うように、「やさしそうに見えて実は一番難しい。『普通であること』の難しさは、自省の念を込めつつ身辺を見渡せば明らか」(前掲書、169ページ)でしょう。そして、猪木氏は、教養教育には、古典が重要であることを強調しています。古典というと、「難しそう」という反応が返ってきそうですが、古典が人間の営為にとって大切なものであるのは、間違いないでしょう。猪木氏の以下の比喩は「なるほど」と思わせるものですので、最後に引用して結ぶことにします。

「書物は精神の食べ物だと考える。…その中でも、古典は…栄養豊かなどっしりとした食べ物のように思える。口にやさしい甘さはない。調理の要らないインスタント食品でもない。急いで飛び込めば、すく差し出されるファーストフードのような便利さもない。しかし栄養豊かな食物をわれわれは必要としているのだ」(前掲書、145ページ)。



シラバスやカリキュラムというレシピにおいて、古典という食物をどう位置づけ、どう活かすのか?ファーストフード世代の学生たちに、その栄養の大切さをどうやって伝え、どう食べさせるのか?教養学部の末席を汚す私も、「シェフ」としての力量が問われているような気がします。

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