goo blog サービス終了のお知らせ 

カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

中国・北京(その2)

2013-02-20 | 中国
「正陽門」(前門)は、天安門広場の南に位置する北京の城門で、元の大都城の南面中央にあった門を、1420(明の永楽18)年に、南に移動して建造された旧:麗正門で、高さ42メートルと当時城内で最も高い建造物だった。南面にやや小さい城門「箭楼」があり、甕城と呼ばれる半円形の区画(東西108メートル、南北85メートル)で取り囲まれていたが、現在は東西に延びる大通り(前門大街)で分断されている。


昨夜は、北京に午後10時半過ぎに到着後、華潤飯店(China Resources Hotel)に宿泊し、今朝、最寄り駅の四恵東駅から地下鉄1号線に乗り、北京中心部にやってきた。これから「正陽門」そばのバスターミナルから「八達嶺」(はったつれい)へのバスツアーに参加することにしている。

チケット購入後、観光バスは、10分後の午前9時過ぎに出発した。バスは日本と同様の貸切観光バスで、約8割ほどの乗車率だった。最初に向かったのは、北京中心部から北に40キロメートルほど離れた天寿山南麓にある明王朝の第14代皇帝の万歴帝(在位:1573~1620)の陵墓「定陵」(面積1195平方メートル)で、約1時間で到着した。


ところで、明王朝の陵墓は、第3代皇帝の永楽帝(在任:1402~1424)が自らの陵墓「長陵」の建造(1409年築)に着手し始め、約200年後の王朝滅亡の1644年まで、歴代皇帝の陵墓が造られ続けた。天寿山エリアには、総面積約40平方キロメートルにわたり、13人の皇帝陵墓「明の十三陵」が存在している(初代、2代、7代、17代皇帝を除く)。現在では、永楽帝の陵墓「長陵」、万歴帝の陵墓「定陵」、第13代皇帝の隆慶帝の陵墓「昭陵」の3陵墓が一般に公開されており、その内「定陵」のみが1956年から1958年にかけて発掘され内部も公開されている。

バス降車後、広場の先の「棱門」をくぐると、見学者用の案内板があり、「稜恩門」「稜恩殿」と2つの豪華な御門が記載されているが、現在は、階段付きの礎石のみとなっている。


2つ目「稜恩殿」の階段には、皇帝の権威を示す、龍と鳳凰が浮彫された、御路にある御路石「御路石雕」(ぎょろせきちょう)が飾られ、礎石の上からは、櫺星門(れいせいもん)と微かに明楼を望むことができる。


櫺星門をくぐった先に、大きな横長の石「前卓」が設置され、中央に豪華に彫刻された石香炉が、左右に燭台一対、花瓶一対の石五供(五具足)が荘厳されている。その先には、城壁上に「定陵の正殿」となる「明楼」が聳えている。ちなみに屋根下の組木は石材の浮彫で造られているとのこと。
クリックで別ウインドウ開く

前卓の先に見える「明楼」前庭から、左側にある階段で城壁上まで上って行く。「宝城」と書かれた場所から円状に回り込む様に通路をしばらく進むと、地下宮殿に向かう階段がある。

地下宮殿は、深さ27メートル、地下9階、前中後左右(前殿、中殿、左配殿、右配殿、后殿)の5つの石築殿堂を連結して作られている。前殿側が正面となるが、発掘後の見学通路は、階段を降りた先の「左配殿」に通じている。左配殿は、床から壁面、天井に至るまで大理石が使われたトンネル状の高いアーチ(7~9メートル)で覆われた横長の広い空間で、中央片側に大きな台座が残り、廃墟といった様相である。

左配殿の中央にある大理石の扉をくぐると並行して「中殿」の中央個所に至る。中殿も左配殿と同様のトンネル状の高いアーチがある横長の空間となっている。こちらには、龍の飾りの付いた皇帝の王座や鳳凰の飾りが付いた皇后の玉座などが並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

そして奥のアーチ扉の先が、皇帝と2人の皇后の3つの木棺が納められた「后室」となり、宝冠や多くの副葬品などが発見された場所である。

「中殿」の手前は「前殿」となり、「前殿」の更に手前に、地下宮殿正面口の大きな壁「金剛墻」があり、内部が掘り返されない様に「自来石」(石のつっかい棒)や、煉瓦の層を積み重ねるなど厳重に塞がれていた。現在では金剛墻のアーチ扉内に埋められた煉瓦が方形状に取り外され通ることができる。


外に出ると、なだらかな上り坂で、明楼の後面に通じている。階段を上った明楼のアーチ中央には、石で造られた直方体の心柱が祀られ、上部に偉大な明を表す「大明」と、下部には「神宗顕皇帝の陵」の文字が刻印されている。


「棱門」手前の広場東側に面して建つ「十三陵博物館」には、地下宮殿から発掘された約2千点もの副葬品が所蔵、展示されている。万暦帝の治世は、周辺の諸民族の反乱や豊臣秀吉の朝鮮侵略に対する出兵など対外的な問題に加え、国内では反税、奴隷解放、反権力闘争などの社会問題が表面化し、明の衰退が表面化してきた時期でもある。しかし、民衆の困難をよそに、莫大な大金を投じて皇帝陵墓が造営されたことで、現在では、万暦帝は人民を収奪した専制君主として評価されている。


次に、再びバスに乗り20分ほどで、昼食会場に到着した。お土産屋もあり建物には「御鹿殿の扁額」が掲げられている。ちなみに、八達嶺ツアーでは、見学個所の多少異なる3種類のツアーが設定されていたが、どのツアーにもこちらの御鹿殿は入っていた。


昼食会場は、10名ほどの円形テーブルが、体育館ほどの広さにぎっしり設置されているが、多くのツアーバス到着しており、ほとんど満席状態。相席当然で、見知らぬ人通しが向かい合い、一斉に箸を突きあう姿は、予想していたとはいえ、多少厳しいものがあった。。唖然とする欧米系の参加者の姿も見られた。。


御鹿殿での滞在時間は70分で、食後、再びバスに乗車し出発した。30分ほど乗車した後、ツアー目的地「八達嶺」(はったつれい)の南駐車場に到着した。南駐車場のそばには「八達嶺熊楽園」がある。


園内には、地面を掘り下げて囲った、水場、階段や遊具等がある広い飼育場があり、その中に5頭ほどの黒熊が動いていた。餌を購入して与えることができ、数人が利用していた。その熊楽園の先にある遊園地のジェットコースターの様な乗り物に乗っていよいよ八達嶺長城に向かう(八達嶺長城チケット)。


ジェットコースターの長城側乗降口は、長城内に一定間隔毎に設けられた望楼の「北四楼」の斜面沿いにある。八達嶺長城は全長約3.7キロメートルあり、長城入口からは、南北(南一楼側と北一楼側)にルートが分かれているが、今回は、ジェットコースターで北側ルートに到着したことから、北五楼方面を中心に見学することにする。


ちなみに南北の長城の高部エリア(南四楼と北八楼)には、北駐車場からそれぞれ直接アクセスできるロープウェイが設置されている。また、日本のガイドブックでは、南側が急勾配な斜面であることから「男坂」と呼び、比較的傾斜が緩やな北側を「女坂」と呼んで紹介している。

「八達嶺長城」は、北方の異民族の侵攻を防ぐために、紀元前214年に秦の始皇帝によって建設された「万里の長城」(総延長6,259.6キロメートル)の一部である。歴代の王朝により、修築と移転が繰り返されるが、現存する大部分は、明王朝の第3代皇帝の永楽帝と、第5代皇帝の宣徳帝(在位:1425~1435)時代に建設されたもの。部材は、土壁(版築)や日干しレンガだった当初とは異なり煉瓦壁が中心となっている。
クリックで別ウインドウ開く

長城は、山の地形をそのまま利用して造られていることから、山の尾根を上り下りしている感覚になる。両脇には低い壁が作られ、転落防止用の柵の役割と、一定間隔で壁に切り込みが入り銃眼の役割を果たしている。


内側から長城への登り口は各所に設けられ、非常時には、兵士がすぐ長城内に上ることができた。そして、200メートルから300メートル毎に戦闘時の拠点となる望楼が設けられ、八達嶺長城での最高地点となる北八楼(海抜1015メートル)にも、速やかに駆けつけることができた。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは「北五楼」付近から、南東方向を眺めた様子で、「北八楼」から長城は南側に方角を変えて延びている。龍の体の様に尾根を這う様に繋がる姿は大変雄大な景色である。
クリックで別ウインドウ開く

長城からの眺めが素晴らしく、持参したシャンパンを片手に、ゆっくりしすぎたのか、気が付くと、バスの集合時間が迫っており慌てて下山した。多少集合時間に遅れたが、問題ないだろうと高を括っていたら、既にバスは南駐車場を出発した後だった。しかたがないので、路線バスに乗り、北京市内に戻った。。夕食は、昨年食べて美味しかった朝陽区慈雲寺にある「鷺鷺酒家」(Lulu Restaurant)向かった。


レストランは、北京料理、上海料理、四川料理、広東料理、点心と幅広い料理があり人気がある。また、広いスペースがあり落ち着いて食事ができる。この日は、蟹肉、蟹みその豆腐煮込み、青椒肉絲、春巻き、北京ダック炒飯などを注文したが、どれも大変美味しく頂けた。


************************************

翌朝、天津名物の包子店「狗不理包子」に朝食に出かけた。「王府井駅」(地下鉄1号線)から北へ徒歩5分ほど歩いた所、王府井繁華街から東路地に入った北京ダックで有名な全聚徳の向かい側にある、1858年創業、150年以上の歴史を持つ老舗店で、清朝末期の西太后も絶賛したと言われている。


店構えは、赤を基調とし、格子天井に金灯籠がぶら下がり、金の龍の浮彫など派手な装飾が施されている。注文は、カウンター越しに、上部の看板を見ながら注文するシステム。日本語は通じない。


包子は9つが1単位で、スープがサービスで付いてくる。包子の皮は薄めでサイズが小さいので食べやすいが、お腹は一杯になる。味は正直言って普通。。この時間は混雑していなかったが、席も狭くテーブルもあまり綺麗ではない。庶民向けの地元の食堂といった雰囲気である。


これから、「頤和園(いわえん)」(北京市海淀区)の見学に向かう。「王府井駅」から地下鉄1号線で3駅目、「西単駅」から地下鉄4号線に乗り換え、北京市の西北約10キロメートル離れた「北宮門駅」で下車する。

頤和園は、清の第6代皇帝の乾隆帝(在任:1735~1796)が、母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝って「夏の離宮」(Summer Palace)として整備した約290万平方メートル(東京ドーム約62個分)の広大な敷地を持つ中国庭園で、園内の大部分を占める「昆明湖」と、高さ60メートルの「万寿山」を背景に建ち並ぶ豪華な建造群が特徴で、ユネスコの世界遺産(1998年)に登録されている(頤和園チケット)。


頤和園の「北宮門」から入園する(他に、西宮門、東宮門、新建宮門がある)と、最初に「蘇州街」が広がっている。こちらは、江南地方の蘇州の美しい風景に深く魅了された乾隆帝が、頤和園内に滞在する皇族たちの買い物の場所として蘇州の風景を再現し整備したもの。
クリックで別ウインドウ開く

東西約300メートル、雑貨屋、質屋、薬屋、骨董品屋、茶楼等60以上の商店が軒を連ね、蘇州の華やかさを演出している。街には、川に架かる橋、人一人しか通れない細く屈折した道や、川沿いのスリリングな道など、皇帝や妃たちが遊びながら街歩きできる工夫がされている。それでは、蘇州街の散策を終えて、次に、正面に架かる大きな石橋「長橋」を左側に向けて渡ることにする。
クリックで別ウインドウ開く

「長橋」を渡り、左右を松に囲まれた「松堂」の階段を上ると、正面に、チベットに建立された最初の仏教僧院サムイェー寺(桑耶寺)を模した「四大部洲」が現れる。四大部洲とは、中央に世界の中心にそびえるスメール山(須弥山)を現した本堂を置き、その四隅の東西南北にお堂や仏塔を配し四大大陸に見立てる様式のことで、仏典に説かれる立体曼荼羅をイメージしている。
クリックで別ウインドウ開く

その「四大部洲」の伽藍に建つ3つの塔の右後方に見える四角形の建物は「智慧海」と呼ばれている。

「四大部洲」の広い石畳の前庭から、側面の階段を上って、伽藍の後方に出ると、右隣(西側)の「智慧海」に到着する。仏説無量寿経の「如来の智慧海は、深広にして涯底なし」(如来の智慧は海のように深く広く、かぎりがない。)から名付けられた建物は、木造建築と異なり、煉瓦と石材から造られ、外壁には、千体仏の浮彫タイルが施されている。こちらの「智慧海」の建物が「万寿山」の山頂になる。


その「智慧海」から「万寿山」南斜面の中腹に、頤和園のシンボル「仏香閣」が建っているが、通路は一旦東側に迂回し、大きく西側に回り込み階段を下りて行く。階段沿い左側には「昆明湖」が望め、手前に、皇帝と皇后が読経し祈祷する2階建ての寺院兼経蔵「転輪蔵」が建っている。そして、その先隣り(西側)が「仏香閣」で、高さ20メートルの大きな台座の上に、周囲を回廊で囲まれた矩形の敷地内に建っている。


「仏香閣」は、高さ約40メートル、欄干付回廊が三層と四重の屋根と庇を持つ、八角形の重量感ある楼閣である。瑠璃色の瓦には軒反りがあり、庇下には色彩豊かな装飾が施されるなど、豪華絢爛な造りとなっている。清の第6代皇帝の乾隆帝が母の健康と長寿を祈願し、杭州の六和塔を模して建築したと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

しかし、現在の「仏香閣」を始め頤和園の建造物の大半は、乾隆帝の時代から約100年後の1860年に、アロー戦争(第二次アヘン戦争)(1856~1860)で、イギリス・フランス連合軍に焼き払われ廃墟となってしまう。頤和園を再建したのは、第9代皇帝の咸豊帝(在:1850~1861)の妃、西太后(慈禧太后)(1835~1908年)である。西太后は、咸豊帝の第2夫人で「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称である。咸豊帝の死後1861年から亡くなる1908年までの約50年に亘り、皇太后として清朝末期の宮廷、紫禁城の主として隠然たる権勢を誇ったのである。

一層目の南側が「仏香閣」への入口となり、その上には「雲外天香」(礼拝の香が天外まで流れて行く意)の扁額が、二層目には「気象昭回」、三層目には「式延風教」が飾られている。


楼閣内には、8本の朱色の円柱が天井を支えており、中央には、明代の第14代皇帝の万暦帝(在位:1572~1620)時代の1574年に鋳造された高さ5メートルの「千手千眼観世音菩薩銅像」が祀られている。像の後ろには、仏陀像や天女が舞う仏教世界が描かれ、上部には、美しく彩られた格子天井が華やかに楼閣内を荘厳している。


「仏香閣」の南側にある回廊門からは「昆明湖」を俯瞰することができる。真下には、清朝時代の壮大な伽藍が、湖畔際に建つ鳥居門「雲輝玉宇」まで続いている。そして、その先に広がる昆明湖には、多くのボートや遊覧船で遊覧する様子が見える。昆明湖の中央には、不老不死の仙人が住むと伝えられる東方の三神山(蓬萊、方丈、瀛州)の「蓬莱」を模して造られた「南湖島」があり、湖の袂と石橋で繋がっている。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、中国庭園とは、古くから、池・石・木・橋・亭と五つの要素を組み合わせて仙土、桃源郷を具現化させることにある。このことからも頤和園はその5つの要素を取り入れた、中国庭園史上最大規模を有する名園とされている。

さて、壁沿いに左右の瑠璃色の瓦の欄干が施された折り返し階段を下りて行くと、真下に広がる「徳輝殿」に至り、更に、絢爛豪華な装飾が施された折り返しの回廊階段を降りて行くと「排雲殿」の後庭に連結されている。
クリックで別ウインドウ開く

「排雲殿」は、清の第6代皇帝の乾隆帝が建てた「大報恩寿寺」を、清の光緒12年(1886年)西太后の誕生日を祝うため、清国海軍の経費を流用して立て直した、頤和園の正殿で、とりわけ贅を尽くした建築物である。「排雲殿」の正面入口の両側には東・西配殿が並び、左右側面には「芳輝殿」「紫香殿」が設けられ、中央に中庭が形成されている。
クリックで別ウインドウ開く

排雲殿正面入口には大勢の人が集まっている。西太后は、頤和園で執務をとる際は、この排雲殿を使用しており、室内には、椅子や、調度品が並べられている。
クリックで別ウインドウ開く

排雲殿の手前向かい側には、前門となる二宮門があり、更にその前にも排雲門があり、二つの門の間の東西両側には、玉華殿、雲錦殿があり、回廊が渡されている。そして、中央には、池が造られ、石組りの「金水橋」など庭園添景物が飾られている。

昆明湖畔の鳥居型の門「雲輝玉宇」の手前まで下り、振り返ると、北に向かって、石橋、排雲門、二宮門、排雲殿、徳輝殿、仏香閣の代表的な建築群が、中軸線上に続いている。ちなみに、排雲殿の左右は、木に覆われて見えないが、東隣に介寿堂と東西殿が、西隣に清華軒と東西殿が建ち並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、重要建築物が南北一直線上に並ぶ考え方は、中国の礼治思想にある、天子は中心にあり、北を背にして南を向く、に基づいたもので、都と同じく建造物を配する中軸線を採用している。

昆明湖の北岸、万寿山の南の麓を西側に沿って長い長い回廊道「長廊」が延びている。全長728メートルあり、上部の梁には、花鳥画、風景画、歴史画など「蘇州式彩色画」が八千幅にわたり描かれている。こちらも1860年、第二次アヘン戦争で焼失したが、西太后により再建された。
クリックで別ウインドウ開く

清王朝は、少数民族の女真(満州人)であったが、漢民族の明朝の制度や統治機構は基本的に残し、巧みに大多数の漢民族を支配した。第6代皇帝の乾隆帝は、領土を最大に拡張し、四庫全書の編纂など文化事業にも力を入れ、安定した統治を実現したことにより、清朝の最盛期を創出した。「長廊」には、三国志演義、封神演義、西遊記、説岳全伝など中国の古来からの漢民族の歴史や文化などが、美しい色彩で多数描かれており、清朝の統治の巧みさが、この回廊にも表れている。

「長廊」を西に300メートルほど歩いた北隣に「聴鸝館飯荘」がある。乾隆帝時代に建設され、1892(清の光緒18)年に再建された食堂で、乾隆帝や西太后の娯楽や宴会用のための施設だった。現在は、正統派宮廷料理を提供するレストランとして公開していることから、早速頂くことにした。


コース料理は、意外にリーズナブルな値段で、味も値段並みといったところだが、レストラン周囲の建築物が素晴らしい。切妻屋根の木造建築が回廊で結ばれ中庭を形成し、その中庭に宮廷演劇を行う2階建ての豪華な舞台楼がある。1階の舞台には真紅のカーペットが敷かれ、組木天井には「長廊」同様に絵画や草花の幾何学文様の装飾が施されている。タイミング的に来訪者がいなかったこともあり、舞台に座り、周囲の景色を堪能することができた。
クリックで別ウインドウ開く

「聴鸝館飯荘」のすぐ西隣、万寿山西麓の昆明湖畔には、全長約36メートル、2階建ての石造りの船「清晏舫(せいあんほう)」(石舫)が飾られている。大半は、大理石だが、船楼部分には木材や浮彫煉瓦が使用され、乗船部には連続アーチやステンドグラスなどが採用された精巧華麗な西洋式楼閣船である。西太后のお気に入りの場所で、しばしば豪華な宴会を催されたと言われている。


清晏舫は、天下泰平を意味する、禅語「海晏河清」(かいあんかせい)(黄河の水は清く澄み海は穏やかである)から名付けられた。清王朝の栄華は揺るがず、沈まない船の願いを込めて建設されたが、栄華を極めても必ず終わりが来ることを、後世への教訓として伝えている様である。。

昆明湖に浮かぶ3島のうちの一つ「南湖島」に渡し舟で渡る。島には龍王を祀る「龍王廟」と銘木「香樹」が植えられている。


昆明湖からは、仏香閣を中心とした中央建造群が見渡せる。南西側からは、万寿山頂上に建つ智慧海や、中腹に建つ仏香閣が巨大な基壇により前にせり出している様子も確認することができる。左側の建物群が「聴鸝館飯荘」がある場所で、湖畔沿いに続く「長廊」で繋がっている。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、清の第6代皇帝の乾隆帝と西太后が整備した頤和園は、もともとは明王朝第10代皇帝の弘治帝(在位:1487~ 1505)時代に、甕山(現:万寿山)を背景に円静寺(後に廃寺)を建立したのが始まりで、第11代皇帝の正徳帝(在位:1505~1521)時代には、湖畔に行宮「好山園」を建設し、舟遊びのため行幸をしている。当時の湖や甕山は現在と比較すると大分規模の小さいものだったと言われている。

南湖島の「龍王廟」から、周囲の景観を堪能した後、「十七孔橋」を渡って頤和園の中心部に戻ることにする。十七孔橋は、杭州の西湖十景・断橋残雪(白堤)を模したものとされ、湖畔に建つ「廓如亭」側と、南湖島との150メートル間を、湖面に虹がかかる様な華麗な姿で繋いでいる。欄干には544匹の獅子像が刻まれている。


「十七孔橋」を渡り終え、廓如亭から湖畔沿い北側に向かう。振り返ると、八角形の亭、柳の木、湖に架かる橋とが揃い、まるで水墨画を思わせる様な風景が広がっている。


すぐ先には、湖を見守る様に「銅牛」が飾られている。夏王朝の創始者・禹が鉄牛によって水害を鎮めた故事に由来して1755年に鋳造された。背中に篆刻書体が刻まれている。更に、湖畔沿いを北に700メートル歩き城門型建築「文昌閣」のアーチ門をくぐり、知春亭の東側にある「文昌院」に向かう。文昌院には、陶磁器、玉器、金銀器、陶磁器、漆器など、歴代の皇室の財宝や珍品、約1000件を所蔵する博物館である。


館内では、清代の彫刻作品を中心にさらさらっと見学した。こちらは、チベット仏像の名品で、宝石がちりばめられた金銀のホワイトターラ。漢訳では、多羅菩薩(白度母)のことで、密教経典に登場する。日本では、曼陀羅の諸菩薩として描かれることが多い。


青玉(翡翠)に、英雄豪傑などが活躍する様を「龍の雲を得る如し」で浮彫表現したブラシ クリーナーで、清の第6代皇帝の乾隆帝時代の作品。玉(ぎょく)の浮彫と言えば、台北市の国立故宮博物院に収められた翠玉白菜や、玉髄の彫刻肉形石など清朝皇帝がこよなく愛する名品が多い。


「竹根彫群仙」と名付けられた清時代の名品。山林に集う仙人が超絶技法で竹の根から彫り出されている。中国では、明、清時代に入ると、潮洲木彫や東陽木彫などの木彫が盛んになり、様々な流派が登場した。従来からの木造建築、仏教彫刻などに加え、花鳥、故事、歴史、神話伝承などの題材も多彩になり、家具、屏風、置物などにも広がって行った。竹根彫の大家として知られる金陵派、嘉定派などが登場したのも明、清時代である。


次に向かう「仁寿殿」は、文昌院の北側にある「仁寿門」の奥(北側)に位置している。ちなみに仁寿門の東側は、頤和園の東宮門(入園正門口)になる。仁寿門をくぐると、前庭には大きな銅製麒麟(1937年に円明園から移設)が飾られている。仁寿殿は論語の「仁者の長寿を祈願する」を由来とし、西太后を褒め称える意味も含まれている。乾隆帝の時代には勤政殿と呼ばれたが、1886年光緒年間に再建された際に、現在の名称に変更された。西太后や清の第11代皇帝の光緒帝(在位:1875~1908)が大臣の謁見を行うなど頤和園内での政務を務める場所だった。
クリックで別ウインドウ開く

「仁寿殿」の西側で昆明湖の畔にある「玉瀾堂」は清の第6代皇帝の乾隆帝の書斎で、後の光緒帝の寝宮となった。その光緒帝は、西太后の甥子で、若くして西太后から政権を委譲されるが、その後も傀儡政治が続く。意に反した光緒帝は、立憲君主制による近代化革命を目指して、変法派と共に光緒24年(1898年)に改革を宣言(戊戌の変法)するが、西太后は先手を打って変法派を弾圧してしまう。玉瀾堂は、光緒帝の幽閉場所となり、全ての通路を煉瓦で塞ぎ遮断されたと言われている。


玉瀾堂の北東側には3階建ての戯楼「徳和園」があり、1階には、舞台と楽器が並んでいる。「紫禁城(故宮)」にある「暢音閣」を模して建てられたもので、1895年、芝居好きの西太后のために造られ、京劇などが演じられた。

昆明湖の畔に佇む「楽寿堂」は、西太后が60歳を過ぎてからの日常の住まいとしたお堂である。堂内には、玉座、御卓、掌扇、屏風などが並んでいる。お堂の前には、銅製の鹿、鶴、大瓶が飾られているが、これは、3つの中国語の発音が天下泰平を願う「六合太平」に似ており、縁起を担いで設置されている。前庭中央には巨大な霊芝の形をした岩「青芝岫」が、楽寿堂の照壁(目隠しの独立塀)として設置されている。


「水木自親」名付けられた桟橋からは、玉瀾堂の西隣に建つ切妻屋根の「夕佳楼」が望める。湖の畔にある夕佳楼からは、美しい夕焼けが見られる。以上で頤和園の見学は終了である。滞在時間は聴鸝館で食事をしたこともあるが、合計5時間半に及んだ。清王朝のスケールの大きさに感服させられた。
クリックで別ウインドウ開く

今夜の夕食は、王府井にある、北京ダックの名店「ダードン(北京大董烤鸭店)」(Beijing DaDong Roast Duck Restaurant)で頂くことにしている。


料理は、丸皿の中華食器だけでなく、四方皿や長角皿なども使われ、盛り付けもフレンチのコース料理の様に洗練されている。


中華くらげを花の形にした「飾り切り」など、華やかで手が込んでいる。他にも、ほたてとカシューナッツ炒め、タケノコの炒め物、牡蛎のから揚げなどを注文した。


こちらの北京ダックは脂っこくなくパリッとして大変美味しい。付け合せの薬味なども種類が多く、包みもクレープ以外にバンズなども用意されている。量が多かったので、残りはテイクアウトにしてもらった。


翌朝は、早朝にホテルを出発して、北京国際空港で朝食を食べて、 午前9時半発便に乗り込んだ。
(2008.6.15~16)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中国・北京(その1) | トップ | 中国・蘇州 »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。