カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

中国・杭州

2013-02-19 | 中国
西湖(せいこ)の東北東側の湖畔に建つ「ハイアット リージェンシー 杭州(杭州凱悦酒店)」にチェックインをした後、遊覧バスに乗り湖畔沿いを南に向け進んでいる。前方に見える「湧金橋」の手前が、内湖(涌金池)で、その先に西湖が広がっている。このエリアは「西湖天地」と呼ばれ、柳の木が風にたなびく小さな公園で、レストランや喫茶店などが点在している。


西湖は、南北3.3キロメートル、東西2.8キロメートル、外周15キロメートルの、ややいびつな矩形をしている。遊覧バスは最初に、西湖の東湖畔沿いの「涌金公園」を過ぎ、次に、西湖十景の一つで「柳浪聞鶯」と呼ばれるエリアを過ぎ、最後に「学士公園」を通過して、西湖の南湖畔に到着した。

ところで、西湖がある杭州市は、中国八大古都(北京、南京、杭州、西安、洛陽、開封、安陽、鄭州)の一つで、国家歴史文化名城に指定されている。隋代以降、江南運河の終着点として経済・文化が発達し、「上有天堂、下有蘇杭」(上に天堂あり、下に蘇州・杭州あり)と称えられた。五代十国時代(907~960)には、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の都(1138~1276)、臨安府が置かれた。現在の杭州市中心部は、西湖の東側に隣接して広がっている。

さて、遊覧バスを降りた西湖の南湖畔は、やや前方に突き出た半島で、中央の「夕照山」に仏塔「雷峰塔」が建っている。塔の名称は、夕照山の山頂を雷峰頂と呼んでいたことから名付けられた。現在の建物は、西湖十景の一つ「雷峰夕照」を再現するために、2002年に復元された。


もともとは、975年、呉越王の銭弘俶が、寵妃(黄氏)が子を儲けたことを祝って「黄妃塔」として建てたのが始まりで、当初は五層八角形の煉瓦と木で造られた楼閣式の塔だった。その後、明時代の火災により煉瓦の塔身のみとなり、残った煉瓦も、心願成就に効果があるとされ持ちさられ、1924年に倒壊してしまう。

夕照山山頂までは、長い階段が続いているが、中央にはエスカレーターが設置されており、苦も無く塔の入口まで行ける。塔の土台部分には過去の煉瓦の遺構が残され見学することができる。塔はエレベータが設置された近代建築で、最上階の5階からの眺望が素晴らしい。


西湖は中国十大美景の一つとされ、中でも南宋時代には、西湖における10の美しい景観を「西湖十景」として、断橋残雪、平湖秋月、柳浪聞鶯、三潭印月、曲院風荷、蘇堤春暁、南屏晩鐘、双峰挿雲、雷峰夕照、花港観魚と定めている。

雷峰塔の最上階の天井には八角形の装飾天井「藻井(そうせい)」(ドーム)があり、アーチ型の龕に宝塔が納められた金の浮彫が無数に表現されている。そして、中央には金の花弁文様の飾りが取り付けられる等豪華なものとなっている。


ドームの下部にあたる小壁には、仏陀の生涯をテーマにした木製のレリーフが360度にわたり取り付けられている。こちらは、涅槃図が高浮彫の技法で表現されている。弟子たちの表情や、木々の葉一枚一枚に至るまで、繊細に彫り進められており、更に光があたることにより、陰影がより強調され作品に深みを増している。
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展望台から西湖が一望できるが、今日は、やや靄(もや)がかかっている。中央の島が西湖で最も大きな島「小瀛洲」で「西湖十景」の一つ「三潭印月」と呼ばれている。そしてすぐ北側には「阮公墩」と「湖心亭」の二つの小島がある。その先にも小島「孤山」があり、孤山の東側から北東側湖畔にかけて「白堤」が延び、内側が「北里湖」となっている。西側には、南北に「蘇堤」と、その奥に「楊公堤」とがあり西湖は、「西里湖」、「南湖」、「岳湖」と細分化されている。以上の様に西湖は「一山、三堤、三島、五湖」から構成されている。
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雷峰塔の南側には、高さ131メートルの「南屏山」があり、麓に「浄慈禅寺」がある。日没時に響き渡る鐘の音を聞きながら眺める夕景が「南屏晩鐘」と呼ばれ「西湖十景」の一つとされている。北宋の画家、張択端が描く「清明上河図」の「南屏晩鐘図」により広く知れ渡った。954年創建で、日本曹洞宗の開祖である道元(未詳~1253)の師、南宋の曹洞宗の僧「天童如浄」(1163~1228)が住持を務めた禅宗五山の一つでもある。
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東側は、雷峰塔の建つ周辺が、半島状に突き出ていることから、入り江となっている。湖畔手前の建物群は、ツーチャン シーツー ホテル(浙江西子賓館)で、対岸が遊覧バスで通過した「学士公園」になる。そして、北東方向が杭州の中心街だが、街並は靄でかすんでいる。東側には「呉山」があり、春秋時代に呉国の境目となった山になる。その呉山の山頂には「城隍閣」(じょうこうかく)が建っている。
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城隍閣は、もとは元代創建の城隍神を祭祀する為の廟所で、高さ41.6メートルあり、羽を広げて飛翔する鳳凰を彷彿させる様な建築が特徴的な7層の楼閣で「新西湖十景」の一つ「呉山天風」と称されている。新西湖十景とは、1985年に杭州市が新たに選んだ十景のことで、玉皇飛雲、呉山天風、阮墩環碧、満隴桂雨、龍井問茶、九渓煙樹、黄龍吐翠、虎跑夢泉、宝石流霞、雲栖竹径と定めている。

再び、遊覧バスに乗り、次に西湖の北側に向かうことにする。バスに乗ると、最初に、西湖游船の乗り場を通過する。湖畔に龍の大きな顔が特徴的な豪華な楼閣船が停留している。


遊覧バスは、西湖の南北2.8キロメートルに延びる人口堤「蘇堤」を通り、西湖の北西岸に到着した。東西に延びる西湖沿いのメインストリート「北山街」に面して建つのが、南宋の武将・岳飛を祭る廟「岳王廟」で、多くの観光客が多く訪れる西湖の名所になっている。


岳飛(1103~1142)は臨安(現在の杭州)出身の南宋の武将で、女真族の金に対して多くの戦績を挙げたが、岳飛らの勢力拡大を恐れた、高宗の宰相、秦檜ら講和派により謀殺され、不本意な生涯を終えている。秦檜の死後は、冤罪が晴れ「鄂王」と称され、岳飛の死から約80年後の1221年、智化寺に岳廟が建てられた。1918年に再建され、文化大革命中に破壊されるが、1979年に「岳王廟」として新たに再建され、現在に至っている。


壮麗な大門を入ると、いくつかの建物があり、正殿には金龍が刺繍された紫紺の衣を羽織った「岳飛」の像が祀られている。敷地内には、岳飛と岳雲(岳飛の養子)の墓があり、彼らを陥れた秦檜と妻の王氏が縄でつながれ正座させられている銅像がある。現在は禁止されているが、かつて唾を吐きかける習慣があったとのこと。


夕食は「岳王廟」から10分ほど歩いた、西湖の北部分にある島「孤山」の「孤山公園」そばにある「楼外楼」で浙江料理を頂くことにした。「楼外楼」は、杭州で一番有名な店とも言われ、150年の歴史を持つ老舗店である。2階建ての大きな楼閣風の建物で、店内はかなり広い。飲み物は、ビールと紹興酒を注文した。

こちらは、雌鶏の腹に詰め物をして蓮の葉でくるみ泥で包んで蒸し焼きにした名物料理「叫化童鶏」で、鶏自体の味が良い上に、身も柔らかく、蓮の香りが染み込み大変美味しい一品。そのむかし、乞食(叫化子・叫花子)が鶏に泥を塗り、地面に穴を掘った即席竃で焼いたことから「乞食鶏」とも呼ばれている。


そして、浙江料理を代表する名物「東坡肉(トンポーロー)」を注文した。北宋の詩人、「蘇軾(そ しょく)」(号:蘇東坡)が考案した料理で、皮付きの豚三枚肉を紹興酒、砂糖、醤油で煮込み、小さな容器に肉片一つと野菜を入れ、茶わん蒸しの様に蒸し上げて完成する。こってりとした肉の旨味にも関わらず、脂っこくないのが特徴。蒸しパンに挟んで食べる。
そして楼外楼の名物の一つ「宋嫂魚羹」(宋姉魚のスープ)で、桂魚と呼ばれる淡水魚の切り身に、金華ハム、椎茸、葱、生姜などを煮込んだスープで、やや酸味がある。


他にも、青梗菜とシイタケ炒めや、高級食材とされる「葱焼海参」(ナマコとネギの炒め)を注文してみたが、ナマコは思ったほどの感動はなかった。。

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翌朝、昨夜夕食に訪れた「楼外楼」のある島「孤山」に再びやってきた。これから、楼外楼から東に300メートル行った中山公園にある「浙江省博物館」に向かう。

「浙江省博物館」は、1929年に開館した歴史ある博物館で、文化財が10万件余りと浙江省最大の規模を誇っている。1990年末に改装し中国式庭園を持つ建築様式を採用している。主に青磁、書画、河姆渡(かぼと)文化の遺跡(前5000頃~前4500頃、浙江省に存在した新石器時代の文化)と良渚文化(りょうしょぶんか)の遺跡(前3500頃~前2200頃、長江文明における一文化)からの出土品を所蔵している。

良渚文化では、1986年に反山の貴族墳墓群から出土した玉礼器群が見所の一つで、特に「玉琮王」の神の徽章(写真はオブジェ)が刻まれた礼器は特に印象深いものがある。この日は、「瓷典」(磁器)の特別展が開催されており、草花で美しく装飾されたお椀、皿、花瓶などが数多く展示されていた。
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3階からは、博物館の正面口越しに西湖が望める。小さな島は「湖心亭」で、重なる様に、その先に、「三潭印月」の「小瀛洲」があり、対岸には、幽かに夕照山の「雷峰塔」が見える。

1時間ほど見学した後、浙江省博物館を出て、柳の木のそばで湖畔を眺めながら遊覧バスの到着を待つ。すぐ隣には遊覧船の乗船口もある。


次に、遊覧バスに乗り、島「孤山」の東側「平湖秋月」を離れ、真っ直ぐに西湖を貫く様に延びる「白堤」を東方面に向かう。その「白堤」は、西湖を南北に分け、北側の内湖を「北里湖」としている。その北里湖の対岸には「宝石山」が望め、山頂には「保叔塔」が建っている。
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保叔塔とは、呉越時代の960年頃に、高さ45.3メートル、七層六角形の煉瓦造りで建てられたが、現存する塔は1933年に明時代様式で再建されたもの。保叔塔が建つ宝石山は、火成岩から形成され、光が当たると宝石の様に輝くことから、新西湖十景で「宝石流霞」と呼ばれている。

白堤は、途中、錦帯橋を渡り、「西湖十景」の一つ「断橋残雪」で知られる「断橋」まで約1キロメートルを渡り終えると、湖畔に美しい並木道が続く「北山街」となる。西湖周辺には、至る所に蓮畑があり、蓮の花で彩られる西湖は、杭州の夏の風物詩ともなっている。


西湖の北東部「湖浜公園」にさしかかると、「天書楼」の前に、ヴェネツィア共和国の商人で「東方見聞録」の作者で知られる「マルコ・ポーロ」(1254頃~1324)の彫像(馬可・波羅塑像)が飾られている。彼は、杭州のことを「世界で最も美しく、最も華やかな街」と称えた。
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西湖の東湖畔で遊覧バスを降り、昼食は「西湖天地」にある「西湖翡翠花園酒家」(Xihu Crystal Jade Garden)で頂くことにした。西湖天地は世界遺産のモニュメントが設置され、周囲には季節の花が咲き、自然の景観を生かした小さな公園で、カフェ、喫茶、レストランが緑の中に点在している。


西湖翡翠花園酒家は、広東料理のレストランで、この日は、北京ダックや、ピータンの野菜炒め、小籠包、海老餃子、じゅんさいスープなどを頂いた。店内はオリエンタルモダンな雰囲気で、料理の味付けも洗練されており、大変美味しい。


食後は、西湖を離れて、「六和塔」(りくわとう)にやってきた。杭州市街の南、銭塘江沿いの西湖区月輪山に建っている。高さ59.89メートル、敷地面積約890平方メートル。チケットを購入して、階段を上ると途中に牌坊型の入場ゲートが現れる。検札が終わると、引き続き階段を上って行く。六和塔内の階段は、急階段で手摺につかまりながら上って行く。


最初の建築は、北宋の開宝3(970)年、銭塘江の逆流を鎮めることを願って、篤信家として知られる呉越国主の第5代の銭弘俶の尊崇を受けた「智覚禅師」(永明延寿)(904~976)によって建てられた。当時は九層八角だったが、その後内乱で破壊され、南宋の紹興22年(1152)年に再建される。現在の外層は、清の光緒26(1900)年に木造の外層が造られたものだが、内部の磚(レンガ)造りの塔身は南宋時代の再建時のままである。

六和塔は、 天地と四方とを合わせた六合の「六」と、平和の「和」の二文字を合わせて名付けられている。また、塔の明かりは、川を行きかう船のための灯台の役割も果たしていた。


展望台からは、「銭塘江(せんとうこう)」が見渡せる。仙霞嶺山脈を源として前方の東方向に100キロメートルほどで杭州湾に至る。流路が激しく蛇行していることから、浙江、折江、曲江などとも呼ばれており、潮流の関係で、海から激しく河水が逆流し、大潮の時期には激浪になって川をさかのぼる海嘯(かいしょう)現象がしばしば発生する。


「銭塘江」は、隋の時代には大運河で「長江」と結ばれた。紹興8(1138)年には、南宋が都を臨安(現在の杭州市)としたことから、銭塘江流域は大きく発展することになった。他にも、銭塘江河畔には、上海や寧波を擁しており、中国沿海部でもっとも発展する地域の一つとなっている。

銭塘江の南北に架かる橋は「銭塘江大橋」で、滬杭甬、浙鉄道につながる交通の要となっている。中国での初めての鉄道、公道両用の二層橋梁近代的大橋として、1937年に建設されたもので、幅約6メートル、全長約14キロメートルの規模を誇り、現在まで数回にわたり修築されている。


次に「杭州宋城」にやってきた。西湖風景区の西南に位置し、北は「五雲山」、南は「銭塘江」に接している。杭州宋城は、北宋の画家、張択端が描く「清明上河図」に基づいて再現されたテーマパークである。


九竜広場、城楼広場、宋塊広場、酒屋など宋の時代の特徴ある建物が集まり、また、職人役や庶民役など当時の衣装をまとった人々がパーク内を越劇しながら歩いている。馬、牛車、駱駝に乗ってパーク内を巡ることもできる。


これから、「宋城千古情」(宋城ロマンティック・ショー)と名付けられた大型演劇を鑑賞することにしている。一日に数回公演が行われるが、夕方からの最終公演を狙ってやってきた。宋城千古情は、地元では、音楽舞踊の世界三大演劇と呼ばれ、宋の時代へタイムスリップ感を体験できるとのこと。


開演時間となり無事着席して鑑賞した。「宋城千古情」は全四幕で構成されている。最初と最後の二幕は、西湖や杭州を背景に、華麗な衣装に身を包んだ踊り子たちが、歌い、踊り、噴水や花火などが打ちあがる豪華な内容であった。そして、中間の二幕は、北宋末期の開封の防衛義勇軍に参加し、軍功を挙げ頭角を現した「岳飛」の活躍と、白蛇の化身の女性が西湖の「断橋」の袂で人間の男性と出会う恋物語「白蛇伝」が演じられた。

ショーが終了した後の劇場前は大混雑となったことから、急ぎタクシーを見つけ乗り込み、杭州宋城を後にし、杭州市中心街方面に向かった。


夕食は、西湖の湖浜公園から1キロメートル東側にある「杭州川味観 庆春店」で火鍋を頂いた。テーブル席に置かれた陰陽太極図の様な仕切り鍋に、赤と白の二種類のスープが薬味と一緒に入れられ、そのいずれかに野菜や羊肉などの具材を入れて、しゃぶしゃぶして頂く。


他の肉や魚も食べたかったが、羊肉の量が多かったので注文を控えていたが、メニューの川蝦に興味があり注文すると、皮付きのままどっさりと運ばれてきた。皮を剝いて食べるのが大変だったが、しばらくすると慣れて美味しくなりどんどん食べた。


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昨夜は、リーガル プラザ ホテル(杭州杭州瑞豪中心酒店)に宿泊した。西湖湖畔の湖浜公園からは北東に1.5キロメートルに位置する市内中心部に建ち、西側は「武林広場」に面している。ホテルの部屋からは、その「武林広場」の花弁形噴水を望むことができる。リボンを手に取り華やかに踊る3人の少女像を中心に、周りに、琵琶、笛など楽器を演奏する姿の少女像が設置されている。
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朝食(ブッフェ)を23階にあるスカイ ガーデン レストランで頂いた後、チェックアウトして西湖の湖浜公園に到着した。これから遊覧船に乗って西湖の島めぐりに向かう。乗船して湖畔を振り返ると、次に出航する遊覧船が停泊している。反り屋根が強調される宝形造と切妻造が重なり合う中国伝統の建築様式を採用している。


こちらは、見た目は同型の船に見えるが、屋根の下に瓦付きの裳階(もこし)がある二重屋根で、軒下には、浮彫レリーフや欄間などの装飾が施され豪華な船となっている。製造時期などにより、豪華な装飾が施されたり、簡素な造りになったりするのかもしれない。
遊覧船は順調に進み、前方左右に「阮公墩」と「湖心亭」の二つの小島が迫ってきた。


遊覧船は右側の小島「湖心亭」に着船した。島の東側には、石で造られた三間四柱式の「牌坊」があり、梁には龍と紫陽花などの浮彫が施されている。
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遊覧船は乗り降りが終わるとすぐに、島を離れて行った。島は直径100メートル足らずの円形で、扁額や柱に詩句が書かれた「亭」などの建築物がいくつか建っている。観光客は、周囲を散策したり腰を掛けるなど思い思いの時間を過ごした後、遊覧船で次の島に向かっていくようだ。。


亭には、西湖の風景写真が飾られ、北宋の詩人「蘇軾(そ しょく)」(号:蘇東坡)が、絶景西湖の風景を、杭州ゆかりの西施にたとえて美しく詠じた七言絶句のパネルが掲げられている。
パネルには、「水光瀲灔晴方好 山色空濛雨亦奇 欲把西湖比西子  淡粧濃抹總相宜」と書かれている。
書き下し文にすると、水光瀲灩(れんえん)として、晴れ方(まさ)に好く、山色空濛(くうもう)にして、雨もまた奇なり、西湖を把って西子(西施)に、比せんと欲すれば、淡粧濃抹、総(す)べて相宜し(あいよろし)。。となる。


西子(西施)とは、紀元前5世紀の春秋戦国時代、越王勾践が、呉王夫差に復讐のための策謀として献上した美女の一人で、夫差は、その策略にはまり、国政を顧みず、国は弱体化して滅ぼされる。そして西子(西施)は西湖に入水したとも言われており、古来多くの文人が、史上名高い絶世の美女を西湖にてらして憧れた。。

作者の「蘇軾」(1036~1101)(号:蘇東坡)は、四川省眉山県生まれで、高級官僚の道を歩み、政策に異議をとなえたことで左遷され、36歳で、杭州の通判(副知事)として赴任し3年間この地で過ごした。その間、西湖の景色を愛し、多くの詩を遺した。西湖の南北を繋ぐ長さ2.8キロメートルの堤「蘇堤」も彼の手によるものである。

「湖心亭」の見所と言えば、清王朝の乾隆帝の揮毫による石碑である。「虫二」とは、「風月無辺」(地位や利益にこだわらない人の心を月と雲に例えた意味)の「風月」の二字から枠をなくす(無辺)と「虫二」となると言った隠喩らしいが、何とも洒落ている。


「湖心亭」の散策を終え、遊覧船に乗り、西湖で最も大きな島「小瀛洲」に向かった。7ヘクタールほどの楕円形の島だが、田の字で堤があるだけで、大半は湖(水辺)となっている。その南北に延びる堤の北側付近は、ジグザグに曲がる「九曲橋」となっている。


小瀛洲の中心部には、御碑亭、我心相印亭などが建ち、水辺越しに「九曲橋」が望める。九曲橋沿いには、杭州や蘇州などで見られる先端が翼が伸びる様に反り上げる屋根の「水榭(亭)」、白壁の建物、水中からは「九獅石」が建っている。9匹の小さな獅子が積み重なって一緒に遊んでいるような形をしていることから名付けられた。
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小瀛洲の湖畔から北西側を眺めると、南北に木々に覆われた「蘇堤」が続き、その途中にアーチ橋が望める。アーチ橋は、遊覧船が蘇堤西側の「西里湖」などへ行き来できる様に工夫された航路である。蘇堤は、西湖の泥を掘り出して築いたと言われている。ちなみに、蘇堤の西側にある「岳湖」付近は、「西湖十景」の一つ「曲院風荷」と呼ばれている。
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手前に浮かぶ燈篭が「西湖十景」の一つ「三潭印月」を鮮やかに演出するもので、中秋の名月に火が灯され、月明りと燈篭とが、湖面に反射して、美しく輝くのである。周りには、船頭が漕ぐ小型船が集まっている。

島には、亭に「三潭印月」と刻まれた石碑が飾られ、多くの観光客が記念写真を撮っていた。

最終日は、再び、ハイアット リージェンシー 杭州(杭州凱悦酒店)にチェックインして、夕食はホテル内にある「湖浜28餐庁」でいただいた。こちらは、龍井茶(ろんじんちゃ)でスモークした魚、豚足のテリーヌなど杭州名物を取り揃えた前菜。


龍井茶とお茶菓子。龍井茶(ろんじんちゃ)は、杭州市特産の緑茶である。西湖の西に位置する龍井村で作られていたことから名付けられた。西湖と銭塘江の中間に位置する虎跑泉の水を使って飲むのが最高に美味しいらしい。苦みも少なく、飲んだ後に甘味も感じられ、ごくごく飲める。


今回はレイクヴュー クラブルームに予約したので、部屋からは西湖全体が一望できる。屋上に、テラス席があるので、ビールにワイン、つまみなどを用意して腰を掛けた。


西湖では、湖浜公園と西湖天地の間を西湖景区音楽噴泉として、毎日午後5時半から噴水ショーが開催されている。湖畔には多くの見物客が集まるが、こちらは他に人もなく、特等席を独占しているようで、贅沢な気分になれる。


ホテルは、西湖湖畔沿いに、レセプションなどがある円形建物を囲む様に、客室棟が弧を描いて建っている。ホテル全体が鮮やかにライトアップされ、近未来都市の様に輝いている。


その後、夕食を食べに、北山街にある「大宅門」に向かった。上がガラス戸で下が木板の建具(隔扇門)が並んだ2階建ての木造建築で、入口は近代的な石造りの入口になっている。玄関口には水場を中心に美しいモザイクタイルの床があり、テーブル席には、幾何学文様の浮彫が施された壁や雷紋文様の金型暖簾で仕切られている。無数の吊り下げ電球で照らされている。明、清時代の雰囲気を現代的にアレンジした感じがある。


お店では、上海蟹の丸蒸し上海蟹の味噌甲羅焼き広東風のソースたっぷりの東坡肉、殻つき牡蠣のチーズ焼きなどを注文した。

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今朝は、空気が澄んでおり、ホテルの部屋からは、西湖の北側にある小島「孤山」や、隣の「白堤」、また手前には、昨夜、噴水ショーを見学した際の屋上テラス席のパラソルも見える。しばらく西湖を眺めていると、噴水ショーが始まった。以上で、杭州旅行は終わりとなる。この後、ホテルをチェックアウトして、杭州蕭山国際空港に向かい、帰国の途についた。
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(2006.11.3~6)
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カリフォルニア(その3)

2013-02-17 | アメリカ(カリフォルニア)
今日はオークランドから、東に約320キロメートル先の「ヨセミテ国立公園」に向かうことにしている。午前8時半に、オークランドのホテルから、州間高速道路580号線を走行し、70キロメートル先で205号線に乗り換え、更にマンティーカから99号線に、そして、モデスト、マーセドを通過して、140号線(セントラル ヨセミテ ハイウェイ)の途中で一息ついたところ。


ここまでオークランドのホテルから約2時間(200キロメートル地点)を過ぎた。140号線はハイウェイと名付けられているが、田舎道の直線道で、周囲に建造物はなく、時折、農家や農道との交差路が現れるだけの見渡すばかりの平原地帯が数十キロに渡り続いている。

ところで、一昨日ソノマで、リアタイヤ(後輪)がパンクしたことから、自分で付属の予備タイヤに交換しオークランドのホテルまで乗ったが、今朝、ラッシュ前の早朝に、サンフランシスコ市内に向かい車種変更をしてもらい、オークランドに戻り、改めて出発している。そのオークランドへ戻る途中、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ上でのサンフランシスコ方面へ向かう車線の渋滞は尋常ではなかった。

さて、セントラル ヨセミテ ハイウェイで休憩した後、約30分(30キロメートル)で、ヨセミテ国立公園へのゲートシティとなるマリポサ(Mariposa)に到着した。時刻は昼の12時を過ぎ、こちらのビルの1階にあった中華料理店(China Station)で、唐揚げの甘酢ごまだれ、野菜のカシューナッツ炒め、焼きそばなどを頂く。


マリポサからは「ヨセミテバレー」(Yosemite Valley)に直接向かう北ルートと、ジャイアント セコイアの巨樹が林立する「マリポサ グローブ」を経由してヨセミテバレーに向かう南ルートがある。まずは、南ルートを選択し1時間強(70キロメートル弱)山道を登り、ヨセミテ・エントランスゲート(南ゲート)に到着した。ゲートから更に3キロメートルほど山道(マリポサ グローブ ロード)を上った場所に観光客用の駐車場がある。

マリポサ グローブ ロードは、駐車場の先にも続いているが、これ以上の車両乗り入れは不可で、観光客は、高さ60センチメートルほどの自然木フェンスで仕切られた砂地の見学通路を歩いて見学する。歩いて5分ほどで最初の見どころ「フォーリン・モナーク」(Fallen Monarch)に到着する。見学通路が右左に蛇行する途中にあり、根の部分が通路側に向いている。吹き上げる火炎の様な形状でインパクトが強い。この場所は、撮影スポットとなっており、多くの人が入れ替わり撮影をしている。


フォーリン・モナークとは、” 倒れた国王 ” を意味し、今から約300年前に倒れたといわれている。すぐ先隣は、マリポサ グローブ ロードが見学通路と交差しており、側面から巨木の横たわる姿を見ることもできる。


フォーリン・モナークを過ぎると、左側に老木の風合いを感じさせる巨木がある。その先には、通路を跨いで倒壊した巨木が横たわっている。通路箇所は切断されているが、右側は通路から手を触れる位置にあることから、落書きが多い。そして、少し先の右側に、フォーリン・モナークに似た、倒壊樹木の根が通路側に向いている。

200メートルほど通路を進んだ右側には見どころの「バチェラー&スリー・グレース(Bachelor and Three Graces)」と名付けられた4本の巨木がある。手前が " 学士 " で、後方の3本が " 三美神 " を意味している。足元を見ると重圧と、長い年数経過からか、大きく膨らんでいる。学士を見上げてみるが、先端までは確認することはできない
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その後も、巨木を見ながら歩いて、300メートルほど進むと、正面に見どころの一つ「グリズリー・ジャイアント」が聳えている。通路は、巨木を迂回するように左側から円を描き後方に続いていく。樹齢は約2000年、高さが約64メートル、直径約9メートル、最も太い枝の直径が2メートルといわれ、ヨセミテ国立公園における最大のジャイアント セコイアである。長い歴史から、幾度も落雷による損傷を受けており、下部の裂け目の黒い箇所はその痕といわれている。
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見上げても、覆い茂る枝葉で先端箇所は見えない。名前の由来となったグリズリーとはアメリカに生息する巨大な " ハイイロ熊 " のことで、その貫禄ある立ち姿から名付けられた。
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グリズリー・ジャイアントから100メートルほどで、こちらも見どころの「カリフォルニア・トンネル・ツリー」(California Tunnel Tree)が見えてくる。トンネルは1895年人為的に開けられたもの。以前、更に標高の高い場所に、車が通れる大きなトンネルが空けられた「ワワナ・トンネル・ツリー」があったが、1968年の冬に積雪の重みに耐えられず倒壊したため、マリポサ グローブでは、唯一のトンネル・ツリーとなっている。


この辺りで、大きな松かさ状の球果や、リスと遭遇した。カリフォルニア・トンネル・ツリーをくぐって100メートルほど先には、マリポサ グローブ ロードが交差しており、この時間、観光用トラム(トロッコバス)が到着していた。まだまだ、見学通路は続くが、駐車場から1キロメートルほど歩いたこの場所までとし、再び見学通路を見学しながら歩いて引き返した。マリポサ グローブではゆっくり3時間近く滞在した。


次に、ヨセミテ・エントランスゲート(南ゲート)の手前まで戻り、ヨセミテバレーに向かうワウォナ ロードを30キロメートル北に走行し、途中から、グレイシャー ポイント ロードに右折して、26キロメートル進んだ最北端にある「グレイシャー ポイント」(Glacier Point)にやってきた。こちらの見晴らし台は、ヨセミテ渓谷のあるヨセミテバレーの南壁の「カリー ビレッジ」(標高2,199メートル、標高差975メートル)直上にあたる。周囲には、ヨセミテ国立公園のすばらしい眺望が広がっている。時刻は、午後6時になり、辺りは強風が吹き荒れ、かなり寒い。

こちらは、南北に連なるシエラネバダ山脈を西側から眺めた様子となる。右側(南)に急峻に切り立つ花崗岩の頂きが、手前を縦に割った様な形状から「ハーフ ドーム」と呼ばれている。直下がヨセミテ渓谷の東端となり、頂部との高低差は1524メートル(標高2,682メートル)ある。ハーフ ドームの北東側の雲がかかっている箇所は「クラウズ レスト」(標高3,025メートル)で周辺では最高地点の頂きとなる。
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そして、その「ハーフ ドーム」向かい側の高急峻の壁面に、丸みを帯びた頂部を持つ山は「ノース ドーム」と呼ばれている。
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ノース ドームから左側に視線を移した中央やや左側の稜線が窪んだ箇所が「ヨセミテ滝」が流れ落ちる場所となるが、乾季のこの時期は水量が大幅に少なくなる。その直下の渓谷が「ヨセミテバレー」の中心部になり、建物や、道路、駐車場などが木々の間に見て取れる。
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ヨセミテバレーは、シエラネバダ山脈西側斜面の高い花崗岩の頂に囲まれた深さ最大1,600メートル直下の渓谷にある。渓谷は、東西に広がり、直径は13キロメートルほどで、西から東に「マーセド川」が流れ、周囲の懸谷からは、ヨセミテ滝を始め6本以上のクリークが流れ落ち注ぎ込んでいる。マーセド川を挟んで、ノースサイド ドライブ(西方面)と、サウスサイド ドライブ(東方面)の2本のメイン通りがそれぞれ一方通行で通っている。まもなく午後6時半になるので、これから、そのヨセミテバレーに向かう。

グレイシャー ポイントからは距離にして約50キロメートル、ヨセミテバレーにある「ヨセミテ ロッジ」に到着したのは、日の暮れた午後8時頃だった(日の入りは午後6時39分)。こちらは「ヨセミテ ロッジ」のフロントオフィス棟の翌日の様子である。


そのヨセミテ ロッジは、ヨセミテバレーの中央付近にあり、フロントオフィス棟を中心に森の中にロッジが点在している。ヨセミテ国立公園は、世界的に人気のある観光地で、国立公園内に宿泊を希望する場合は、1年前から予約を受け付けるものの、常に満室状態で予約締結が困難である。今回、1年前に何とか予約できやってきた。その予約した部屋は2階建てロッジの1階だった。フロントオフィス棟には、レストランやカフェテリア、ギフトショップ、コンビニストアなどがあるが、レストランではテイクアウトも可能だったので、食材を買いロッジの部屋でソノマで購入したワインとともに夕食を頂いた。


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翌朝、東に3キロメートルほど離れた「アワニーホテル」に朝食に向かった。アワニーホテルは、1927年に完成した歴史ある豪華ホテルで、南側に突出した6階建ての中央棟を中心に左右後方にY字に両翼を持つ姿をしている。客室は100室で、ロビー、高い天井で大広間のダイニングルームなどがある。メインダイニングでのディナーは、ドレスコードが必須だが、朝食なので、ラフなスタイルで訪れた。格式はヨセミテ ロッジと異なるが、宿泊予約の困難さは、変わらない。

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アワニーホテルの右側後方のはるか上のノース ドームを確認しようと、見上げてみたが、雲に覆われている。ちなみに、こちらが昨日、グレイシャーポイントから、左下に見えるアワニーホテルと上部のノース ドームとを同時に眺めた様子である。

食後、アワニーホテルの南側の見晴らしの良い場所を散策すると、草を啄むミュールジカ(Odocoileus hemionus)に遭遇した。北アメリカ西部では普通にみられるシカで、耳がラバ(ミュール)に似ていることから名付けられている。後方がノースドームである。


アワニーホテルから南に200メートルほど歩くと、マーセド川に架かるアーチ橋があり、南側のグレイシャー ポイントのあるカリー ビレッジが望めるが、頂部は雲が立ち込めている。
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次に、2キロメートルほど、西方向に向かったヨセミテ ロッジの近くから、北側のヨセミテ滝の壁面を一望する。中央右側の縦に黒ずんでいる箇所の上部から739メートルの落差で流れ落ちるが、夏の乾季ですっかり水は枯渇しているらしい。。少し場所を移動して、ヨセミテ滝が流れ落ちる箇所を正面から眺めてみた。頂部の注ぎ口が窪みになっており、真下の中腹に滝つぼの様な形状も確認できる。少し水が流れている様にも見えた。
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更に、道なりに、南西方面に4キロメートルほど移動する。南壁には「カテドラル・ロックス」(Cathedral Rocks)があり、対する北壁には、巨大な花崗岩のモノリス(一枚岩)である「エル キャピタン」がある。エル キャピタンの絶壁は、様々なクライミング ルートがあることと、1年を通じて登れるため、世界中で人気の高いロッククライミングのスポットである。


更に西側に移動して「マーセド川」越しに「カテドラル・ロックス」方面を見上げてみた。先ほどは、手前から2番目の岩山を近距離から見上げたが、いくつかの尖塔状の岩山が並んでいる。中でも3番目の岩山は、この場所からは確認できないが、共通の岩山の中腹から切り立って聳え、ゴシック聖堂の尖塔に形状が似ていることが名前の由来となっている。1番目の岩山の手前の黒ずんだ壁面箇所が「ブライダルベール滝」だが、少しだけ水が落下している。
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さて、最後に、ヨセミテ国立公園への南ルートからの入口の一つ、ワウォナ ロード沿いの展望地「ワウォナトンネル」の東側「トンネルビュー」(Tunnel View)から、東側の「ヨセミテバレー」を一望してみる。ヨセミテバレーの景観では、最も有名な景観スポットで、左側(北)のエル キャピタン、右側(南)のカシードラル ロックスを手前に、グレイシャーポイントのあるカリー ビレッジや、その先のハーフ ドーム(見えない。)などが一望できる。
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以上で、ヨセミテバレーの見学を終え、これから、東側のシエラネバダ山脈を越えて「マンモス レイクス」(Mammoth Lakes)まで向かう。ヨセミテ渓谷から直接東に抜けるルートはないため、トンネルビューからは一旦、「カテドラル・ロックス」の麓付近まで戻り、Uターンするように、ノースサイド ドライブで西に向かい、トンネルビューの北側から、ビッグ・オーク・フラット・ロードに入り、カリフォルニアで最も高所を走る(3,031メートル)タイオガ・パス・ロード(120号線)(11月から5月までクローズ)で、大きく北側を回り込んで、シエラネバダ山脈を横断していく。

トンネルビューから1時間半が経過したころ、タイオガ・パス・ロードの途中にある景観スポット「オルムステッド・ポイント」に立ち寄った。駐車場の隣には、地面の長い亀裂で覆われた巨大な岩塊の斜面があり、その斜面越しに、ハーフ・ドームの北側を捉えることができる。この時間ちょうど、雲海からせり上がる様に神秘的な姿を見せるハーフ・ドームと、左側には、グレイシャーポイントや、ヨセミテバレーから見ることができなかった「クラウズ レスト」(標高3,025メートル)の頂きまではっきりと姿を見せている。まさに絶景!
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オルムステッド・ポイントから、東に3キロメートルほどで右側に「テナヤ湖(Tenaya Lake)」が現れる。直径2キロメートルほどの長方形で、水面の標高は2,484メートルあり、近隣からの多くの支流や泉からの水が流入している。ヨセミテバレーの先住民アワネチー族の指導者テナヤ酋長(~1853)にちなんでいる。


今夜の目的地「マンモス レイクス」までは、テナヤ湖から約90キロメートルの距離である。テナヤ湖から40キロメートルでタイオガ・パス・ロードのシェラネバダ山脈の横断が終わり、突き当りの丁字路を右折する。片側2車線の395号線を南に向かうと、しばらくして「マンモス レイクスまで20マイル(32.2キロメートル)」の標識が現れた。時刻は、午後6時半を過ぎたところ。


午後7時過ぎ、マンモス レイクスにある「エコノ ロッジ ワイルドウッド イン」(Econo Lodge Wildwood Inn)に到着した。ロッジは、町の中心部の東西に延びるメインロード北側にある。チェックインを済ませ、通りに出るが、街灯が少なく、町の様子がよくわからない。メインロードを東に350メートルほど行った南沿いにイタリアンカフェ(Perry's Italian Cafe)があったので食事をすることにした。飲み物は、アイアンストーン(メルロー)を頼み、オリーブ チーズのイタリアンサラダ、ムール貝のグリル、海老のタリアテッレ・クリームソースなどを頂いた。味は普通だったが、お腹が減っていたので美味しかった。


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翌朝、最終目的地のネバダ州南部にあるラスベガス(約500キロメートル)に向け出発した。途中でデスバレーを見学することにしている。ロッジを出発して、395号線を南東方面に約30分進んだところで、ビスタポイントと表示がある休憩スペースがあったので、車を停める。南側にシエラネバダ山脈が一望でき、白く雪に覆われた頂きが見える。


ガードレールの手前に案内板が設置されていた。一枚目は「周辺マップ」で、ピンク色の395号線を中心に、5のヨセミテ、6のアンセル・アダムス山の東側にあるマンモス レイクス、目的地となる13のデスバレーなどの位置関係が確認できる。隣の二枚目は「エッジ(鹿)の生活」(Life on the Edge)で、周辺の鹿の行動ルートを示し、鹿に注意して走行することを促す注意案内だった。

ビスタポイントを過ぎると、395号線は大きく右にカーブし南方向になる。


しばらくすると再び東へと方向を変え、周囲にちらほら建物が現れ始める。前方で道路が大きく右方向に曲がり南に進路を変えると、左右に、スーパーマーケット、ガソリンスタンド、ファーストフード店、モーテルなどが立ち並ぶ「ビショップ」の中心部となる。右側にコック帽子を被ったキャラクターが飾られた「エリック・スコットベーカリー」(Erick Schat's Bakery)があったので、こちらで食材を買い込むことにした。ビショップ到着は午前10時だった。


マンモス レイクスから、約140キロメートルの「インディペンデンス」を過ぎた395号線沿い右側に復元された「監視塔」が現れる。第二次世界大戦中の1942年に日系アメリカ人強制収容所跡があった「マンザナール国定史跡」である。当時、アメリカ合衆国政府は、11万人以上の日系アメリカ人と在留日本人を強制を収容所に拘禁しており、カリフォルニアには10ヶ所あったが、そのうちの一つである。。すぐ先右側の駐車場の奥には「マンザナー・ビジターセンター」があり、収容者の名簿や、関連書籍、記録映画の上映などが行われる。


敷地内の一番奥(最西端)には、収容者によって1943年に建てられた慰霊塔が建てられている。背後には、シエラネバダ山脈とカリフォルニア州の両方で2番目に高い(米国本土で6番目に高い山)標高4,383メートルのウィリアムソン山が望めるが、山頂付近は雲で覆われていた。


しばらくすると、デスバレーまで104マイル(約167キロ)と書かれた左折標識が現れるが、すぐ先右側にディーアス・レイク(Diaz Lake)があるので、直進して休憩した。周囲を少し散策したが、特に見るべきものはなかったので、軽く食べて、午後1時半、交差点まで戻り395号線に別れを告げ、136号線をデスバレー方面に向かった。


東に向かう136号線は、すぐに190号線になる。ゆるやかに右にカーブしながら、南東方向に進む。その後左にカーブして、山肌を抜けると、再び、眺めの良い平原が現れる。街道は、平原の先の山脈に向けて続いている。
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山間部に入る前、少し休憩した。周囲に生える草は、ほとんど枯れており、荒野が広がっている


前方の山間に入ると急に雲が立ち込め、周囲が見えにくくなったが、15分ほどで、再び平原となり、直線道が前方の山脈に向かっている。周囲の砂漠地帯は先ほどと変わらないが、いたるところに、植物の塊が生えている。デビルズコーンフィールド(悪魔のトウモロコシ畑)と呼ばれるキクの仲間アローウィードの残骸で、根を張っていた場所だけが残っている。
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他にも、巨大なソテツなど、インパクトが強い形状の植物が現れる。


前方の山脈を避けるように北東方向に延びる渓谷沿いを通り、山脈の向かい側に出て、道なりに南に向かうと、デスバレー国立公園の観光拠点となる「ファーニス クリーク」(Furnace Creek)に到着する。時刻は午後4時を過ぎていた。こちらのビレッジには、ビジターセンターがあり、デスバレーの自然や歴史に関する展示館などが併設されている。広場には、古いダイナ蒸気トラクター(1894年)が飾られている。


予定より遅れているので、急ぎ、ファーニス クリークから190号線を東に進んだ最初の交差点を右折してバッドウォーター・ロード(Badwater Rd.)を、南北に延びる岩山に沿って南へ30キロメートル進む。正面に大きな岩山が迫ってきたらまもなく到着である。通りは岩山大きく右に避けるように迂回したところに駐車場がある。こちらがデスバレーの名所の一つ「バッドウォーター」で、北アメリカ大陸で最も海抜の低い地点(マイナス86メートル)の内陸湖になる。
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かつてバッドウォーター盆地は塩水湖であり、悪い水という意味が由来となっている。一面に塩が堆積しており、水溜まりもある。案内板にあるソルトフラッツ(塩類平原)と比較すると、この日は塩の重なりが少なく、うっすらとしたまだら模様だった。
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次に、約10キロメートルほどバッドウォーター・ロードを戻り、右折して、アーティストドライブ(Artists Drive)に入り、7キロメートルほど行った「アーティスト パレット」に到着した。夕方近くが見どころとされることから、時間的にはばっちりである。ピンク、藤色、黄金色、緑、ラベンダー色など、多数の色を乗せた”絵画アーティストのパレット”のような色彩を楽しむことができる。この虹色の地層は、アマルゴサ山脈の堆積丘陵が浸食され、露出し酸化した数種類の鉱物が、それぞれに異なる色となり、まるで丘をパッチワークしたように見せる。
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次に「ザブリスキーポイント」に向かう。アーティストドライブは一方通行なので、北方面にある出口からバッドウォーター・ロード(Badwater Rd.)に合流し、190号線を右折して、5キロメートルほど行ったところになる。駐車場から、舗装されたゆるい坂を、300メートルほど徒歩で上った展望台が目的地となる。
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ザブリスキーポイントは、黄金色をはじめ、豊かな色合いのバッドランドの絶景を見渡すことができる展望台のことで、風でけずられた岩の数々が広がり、岩がうねり折り重なる様な姿が一望できる。岩が一番美しく見えるのが、朝日の当たった直後である。もともと湖だったとされる。
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まもなく午後6時半になる。急ぎ駐車場に戻り、出発した。目的地は、約200キロメートル先のラスベガスにある今夜の宿泊ホテル「ベスト ウエスタン マルディ グラ ホテル & カジノ」(Best Western Mardi Gras Hotel & Casino)で、ラスベガス・モノレールとラスベガス・コンベンションセンターから徒歩5分ほどの場所にある。

走行後、日が暮れ暗くなってきた。30分ほどで、ネバダ州に入った。街灯もなく、砂漠地帯に延びる一本道をヘッドライトを頼りにひたすら進んでいく。1時間半ほどで、前方に、ラスベガスの街の光に照らされる明るい空が見えてきた。。デスバレーから約2時間半で宿泊ホテルに無事到着した。

ラスベガスでは2泊した。「ルレーブ(Le Reve The Dream)」のショー(O(オー)や、Mystere(ミスティア)をプロデュースした フランコ・ドラゴーヌ氏による ” 水 ” を極めたショー)や、ハイド ベラージオ(Hyde Bellagio)前から、パリス ラスベガス(Paris Las Vegas)のシンボル(エッフェル塔や凱旋門など)を背景とした「噴水ショー」を鑑賞した。
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他にもスタートレック シリーズのラスベガス・テーマアトラクション「Star Trek The Experience」やフレモント・ストリート・エクスペリエンス(歩行者天国兼アトラクション)などを堪能した。食事は、サンコースト ホテル&カジノ、ホテル ウィン・ラスベガス(The Buffet) 、パリス ラスベガス ホテルのブッフェを利用した。

そして、ラスベガス滞在3日目の朝、午前10時28分ラスベガス発ユナイテッド航空(UA1511便)22EFに乗り、サンフランシスコで、ユナイテッド航空(UA853便) 34ABに乗り換え日本に帰国した。 
(2007.9.19~23)
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カリフォルニア(その2)

2013-02-17 | アメリカ(カリフォルニア)
こちらは、サンフランシスコ湾と太平洋が接続するゴールデンゲート海峡に架かる吊橋「ゴールデン・ゲート・ブリッジ」(金門橋)で、ビスタポイント(南展望台)からの様子だが、今朝は、曇り空で眺めは今一つ。橋の色は「インターナショナル オレンジ」(オレンジ色の一種で赤ではない。)で塗装されており、この色合いは、霧の中でも明るく見やすいことを考慮して建設時から採用されている。真下に見える煉瓦色の建物は、19世紀半ばに海上からの防備を目的として建造された砦の跡(現在は博物館)で、フォートポイント国立史跡と呼ばれている。
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ゴールデン・ゲート・ブリッジは、数多くの映画の舞台となってきたが、1958年のアメリカ映画「めまい」(Vertigo)(アルフレッド・ヒッチコック監督作品)では、フォートポイントの横からキム・ノヴァク演じるヒロインが入水自殺を図り、刑事役のジェームズ・ステュアートが救い出すシーンが撮影されている。

橋の主塔間の長さは1,280メートル、全長2,737メートル、水面からの主塔の高さは227メートルあり、1937年に4年の歳月を経て完成している。こちらのビスタポイントには、米国土木学会(ASCE)による歴史的土木建造物に指定されたことを示すプレートと、カリフォルニア州の歴史的建造物に指定されたことを示すプレートが並んでいる。


そして手すりのそばには、ドネーション箱が置かれ、その先にサンフランシスコ市の街並みを見渡すことができる。 今朝はそのサンフランシスコの市庁舎近くにあるオファレル・ストリートを午前9時半に出発し、101号線を通ってここまでやってきた(約7キロメートル)。


これから、カリフォルニアワインの生産地として知られるナパ、ソノマのワインカントリーに向かうことにしている。カリフォルニア州は、北端のメンドシーノから南端のリヴァーサイドまで700キロメートル以上に渡りブドウ畑が広がり、4つの地域(ノース コースト、セントラル コースト、サウス コースト、セントラル ヴァレー)からワインが生産されている。ナパ、ソノマは、ノース コーストに位置している。

最初に向かうソノマは「ソノマ カウンティ」と呼ばれ、南部の「ソノマ ヴァレー」、北部の「ノーザン ソノマ」、海岸部の「ソノマ コースト」の概ね3つに分かれている。そして、その3つは、地域毎に、いくつものAVA(米国政府承認ブドウ栽培地域)に細分化されている。同じソノマであっても、海岸部の冷涼な海風が吹き込む地域や、内陸部の丘陵地が続く地域があり、それぞれ気候や土壌も異なることから、生産するブドウ品種や、小さな家族経営のワイナリーから国際的に有名なワイナリーに至るまで生産者も幅広く、個性豊かなワインが数多く産出されている。
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「ゴールデン・ゲート・ブリッジ」(金門橋)を横断し、そのまま101号線を北上すると、1時間ほど(約80キロメートル)でソノマの郡庁所在地「サンタローザ」に到着する。最初に、そのサンタローザから東に15分ほどの「ソノマ ヴァレー」にあるワイナリー「セント・フランシス」(St.Francis)にやってきた。


広い駐車場の先に流れる小川を橋で渡った東側に、鐘楼門を持つワイナリー現れる。この時間、朝のサンフランシスコと異なり、眩しいほどの青空が広がっている。鐘楼には、イタリア最古の企業で、世界最古の鋳造所と称されるイタリア・マリネッリ鋳造所により鋳造された1,000ポンドのブロンズ・ベルがあり、毎時、鳴らされている。ワイナリーは、その鐘楼門を角地とし、北翼と東翼のL字状に建物が広がっている。


鐘楼門の手前右側には、ブドウの房を背景に、小鳥と話す聖フランチェスコの像が飾られている。像を見ていると、一年ぶりに、イタリアのアッシジに戻ってきた様な気持ちになった。


ワイナリー「セント・フランシス」は、1971年に設立されたソノマ ヴァレーを代表する歴史あるワイナリーで、カベルネ・ソヴィニョン、メルロー、長年受け継がれた古樹のジンファンデルなどが世界的に評価されている。こちらのワイナリーでは、テイスティングはもちろんのこと、常駐する専用のシェフが腕を振るうテイスティング・メニューやプライベート・ディナーが堪能できるということで、お昼を兼ねてチャレンジすることにしている。

鐘楼門から、テイスティングルームを兼ねたレセプション会場に入り、右側の扉を出て回廊を進む。そして突き当りを左に曲がった先の扉を入ると東翼のダイニングルームとなる。ダイニングルームには、北側と東側に、それぞれテラスに出られる大きなガラス張りの観音扉があり、明るい光が差し込んでいる。南壁には暖炉があり、西南角にはカウンターテーブルとワインの収納棚が設置されている。案内されたテーブル席からは、窓越しに北側の緑鮮やかな風景と遠景のフッド山が見渡せる。
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テイスティング・メニュー「ワインダイニング(ルビーフライト)」(Ruby Flight)の赤ワインコースは次のとおり!
最初のワインは、向かって左側の、シラー(2004 Syrah Wild Oak Sonoma County)(ボトル価格35ドル、クラブ価格28ドル)で、料理は、左手前の、野生の森のキノコ ギリシャ風ピキーリョペッパー デュクセルクリーム(wild forest mushrooms ala grecque piquillo peppers duxelle cream)になる。
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そして、二番目のワインは、右側の、カベルネソーヴィニヨン(2003 Cabernet Sauvignon Wild Oak Sonoma County)(ボトル価格35ドル、クラブ価格28ドル)で、料理は右手前の、ソノマ カウンティ産鴨もも肉のリエット ポシェのタルト チェリーのコンポート ピスタチオ ナッツ クラスト(rillette of sonoma county duck leg poached tart cherry compote pistachio nut crust)になる。

三番目のワインは、左側の、アンセム メリタージュ(2003 St. Francis Anthem Meritage)(ボトル価格60ドル→割引価格55ドル、クラブ価格48ドル)で、料理は左手前の、キハダマグロのグリル焼き、ピーマンカルパッチョ、ニース風のオリーブ グレモラータ(grilled ahi tuna roasted sweet pepper carpaccio nicoise olive gremolata)になる。
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そして、最後のワインは、右側の、ジンファンデルのパガーニ・ヴィンヤード リザーヴ(2004 zinfandel pagani vineyard reserve sonoma valley)(ボトル価格45ドル、クラブ価格36ドル)で、料理は右手前の、牛の肩肉の蒸し煮、ほうれん草の甘いニンジンのピューレ、古いジンファンデル・ボルドレーズ (pave of braised beef shoulder Wicked spinach sweet carrot puree old vine zinfandel bordelaise)になる。

白ワインのテイスティング・メニューについては、メニュー表を取り忘れたが、料理はこんな感じ(その1)(その2)。ワインも料理も洗練された美味しさで、贅沢なひと時だった。他のテイスティング・メニューとしては、チーズとおつまみのセット、ワインダイニング(ライトフライト)がある。

テイスティングルームがある北翼側の建物の東側にはテラス席があり、この時間2組が利用していた。手前の右側階段を降りると、芝生が敷き詰められた楕円状の中庭で、大規模なワインパーティーが催せるほどの広いスペースがある。その中庭の周囲には散策のための遊歩道が設けられ、更にその先には、一面のブドウ畑が広がっている。


1時間半ほど滞在して、次のワイナリーに向かった。一旦、ソノマの郡庁所在地サンタローザまで戻り、そこから、101号線を北西方面に8キロメートルほど行き、リヴァーロードの標識に従い、西に向かう。セント・フランシスからは、約30分ほどで「マルティネリ・ワイナリー」(Martinelli Winery)に到着する。

1880年代にイタリア・トスカーナ地方から移住した、ジュゼッペとルイザ・マルティネリが、購入した土地にジンファンデルとマスカット・オブ・アレキサンドリアを植えたのが始まりの家族経営のワイナリー。現在、フォートロスシーヴュー、ロシアン リヴァー ヴァレー、グリーン ヴァレーにブドウ畑がある。


倉庫を感じさせる煉瓦色の建物を入ると、光沢のある高級木材のフローリング、家具、棚も木材、天井も板張りで、柱、梁、筋交いが張り巡らされ、壁には、歴史を感じさせる写真が多く飾られている。矩形のテイスティングカウンターがある大きなメインルームと、数人が座れるテーブル席と隣接するコーナーカウンターなどの部屋がある。

次にワイナリー「ゲイリー・ファレル」(Gary Farrell)に向かう。マルティネリ・ワイナリーからは、西に10キロメートルほどの距離で、最初にリヴァーロードを西に向かい、途中、ウォーラーロードへ右折し、ロシアン川を渡って、ウエストサイド・ロードを西に進んだところになる。右側に現れる小端積みされた石材のゲイリー・ファレル(Gary Farrell)の表札から右折し、坂道を500メートルほど上っていく。


ワイナリーは、ジャクソン山の南中腹の見晴らしの良い丘の頂にある。主に、ロシアン リヴァー ヴァレーに畑があり、1982年にはゲイリー氏がピノ・ノワールを中心に生産し、2000年から規模を拡大しワイナリーとテイスティング・ルームを構築している。しかし、2004年にはアライド・ドメック(Allied Domecq)氏に売却、更に2005年、2006年と次々にオーナーが変わっている。

丘の頂にあるワイナリーは、長方形の切妻屋根の平屋で、室内天井は、梁むき出しでトップライト(天窓)があり、明るく開放感がある。テラスやテイスティングルームからの眺めも良く居心地が良い。この日は、小柄で初老の愛想の良い女性が対応してくれた。ワイン樽貯蔵庫は扉を開けた隣の部屋にあり、多くの樽が積み重ねられた、天井高の高いスケルトン天井の倉庫になっている。


次に、ウエストサイド・ロードを東に戻り、ロシアン川に沿って北上して、10分ほどで「ロキオリ・ワイナリー」(J Rochioli Vineyards & Winery)に到着した。イタリア系移民のトム・ロキオリの祖父が、息子のジョーと共に、ソーヴィニヨン・ブランとカベルネ・ソーヴィニヨンを植えたことに始まる。80年代に、トム・ロキオリは、ファミリー・ネームを冠したワインを造ることを提案し現在のワイナリーを創設したが、85年には、ピノ・ノワールの初ヴィンテージが、ベストアメリカンに選ばれ、早々と高級ブランド入りを果たしている。

本日のワイナリー巡りは以上で終え、ウエストサイド・ロードを8キロメートルほど北上し、ロシアン川の支流となるドライ川を渡り、南北に延びる101号線を横断し、ヒールスバーグ(Healdsburg)に向かった。

今夜は「ソノマ カウンティ」のお洒落な街として知られるヒールスバーグの「レストラン・サイラス」(Cyrus)で夕食を頂くことにしている。町の入口となるロータリーからは、目抜き通りのヒールスバーグ・アベニューを北に向かったノース・ストリート沿いにある。ソノマで有名なシェフ兼オーナーで、数々の賞も得ているダグラス・キーン(Douglas Keane)氏が経営する高級レストランである(2012年廃業)。


レストラン・サイラスは、フレンチ料理をコンテンポラリーラグジュアリーに高めた料理がコンセプトとのこと。こちらは、金目鯛風の魚の切り身に大振りのウニを乗せた一品で、新鮮なウニに、香ばしい焼目を付けている。


こちらはラム肉で、赤身を皮で巻いた一品。ラム肉は大変柔らかい。他にもロブスターなど新鮮で高級素材をベースにしており満足感があった。フレンチをベースに和の食材と和の旨味を取り入れた料理といった印象。ただ、ジュンサイや、和風だしはやや微妙だった。。


最期にチョコレートムースのデザートを頂いた後、サンタローザのホテル(Quality Inn & Suites)に戻った。

さて、こちらは、訪問先のワイナリーから(パート1)。。左から、ゲイリー・ファレルのジンファンデル、セント・フランシスのシャルドネ、ゲイリー・ファレルのピノノワール、セント・フランシスのロゼ、マルティネリのピノノワール、マルティネリのシャルドネである。
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ソノマ2日目は、ヒールスバーグから、北西に17キロメートルほど行った、ドライ クリーク ヴァレーにある「フェラーリ カラーノ ビンヤーズ アンド ワイナリー」(Ferrari-Carano Vineyards and Winery)からスタートする。

フェラーリ カラーノは、イタリア系アメリカ人を親に持つ、ネバダ州リノ出身のドンとロンダ・カラーノにより、1985年に設立された。ラスベガスと共にカジノ・シティとしても名高いリノでワインリストを強化するためのワインを探していた二人は、ソノマ北部の美しさに魅せられ土地を取得したのが始まりである。


ワイナリーを囲む庭園は、フランスやイタリアで見られるパルテール(平面幾何学式庭園)のスタイルが採用され、5エーカーの規模を誇っている。庭園には色とりどりの花が植えられ、羊とブドウをあしらったアンフォラや、イノシシのブロンズ像などいたるところに彫刻が飾られ、宮殿を思わせる雰囲気である。


正面口となる東側から、建物に入ると、レセプション会場を始め、ワインショップや、関連グッズを販売するショップがある。そして、地下には、淡いクリーム色の大理石風の色合いを基調に、ドーリア式のエンタシス円柱、豪華な木製の調度品、シャンデリアなどで飾られた「エノテカ・プリヴェイル・ルーム」がある。


こちらには、複数客のテイスティングを並行して行える大型のティスティング・カウンターや、中央のダイニングテーブル、個室を備えている。ダイニングテーブルのある一角には、ブドウ装飾の鉄格子があり、先に多くのワインが寝かされたワインセラーが見える。反対側には、貯蔵庫へのエントランス スペースと、先隣の階段下に多くの樽が並ぶ貯蔵庫がある。

南側のテラスから階段を下りると、噴水のある長方形の水場があり、先に、対となるドーリア式円柱が梁(エンタプラチュア)を支えるギリシャ風オブジェが数基飾られている。その先には、ブドウ畑が広がり、ロシアン川支流となるドライ川を経て丘の斜面に続いている。対する、ワイナリーの北側にも丘があることから、渓谷となるこちらの狭いエリアのブドウ畑は、温暖な気候となり、凝縮感のあるジンファンデルが育つと言われる。


フェラーリ カラーノは、ワイナリーのあるドライ クリーク ヴァレーの他にも、アレキサンダー ヴァレー、ロシアン リヴァー ヴァレーなど広範囲にブドウ畑を持っており、多種多様の高品質のワインを生産している。

午前11時過ぎ、フェラーリ カラーノを後にし、海岸線の州道1号線(パシフィックコーストハイウェイ1)に向かった。ドライ・クリーク・ロードを西に向けて進み、ソノマ湖を南に迂回して、ソノマ コーストの山々が続く海岸山脈を抜けた60キロメートル先で、州道1号線と合流するスチュワーツ・ポイント(Stewarts Point)に至る。こちらは、スチュワーツ・ポイントから左折して1号線を南に20キロメートルほど走行した「ティンバーコーブ」(Timber Cove)の断崖上からの絶景である。


そのまま、1号線をジェナー(Jenner)まで下り、ロシアン川に沿って走る116号線を通って101号線に戻り、午後2時過ぎ、「ジムタウン」(Jimtown)にある「サウサル・ワイナリー」(Sausal Winery)に到着した。サウサル氏が家族経営で行うワイナリーで、アレキサンダー ヴァレーに属している。駐車場にある冠木門風のゲートを入った先にあるワイナリーは、板張りのテラスに木造平屋建てで、星条旗がはためいており、西部劇で登場するバーを思わせる(2012年売却)。


ジムタウンから128号線を南東に向かうと「ナパ カウンティ」の北端に位置する「カリストガ」(Calistoga)に到着する。こちらは、南北に走る目抜き通りのリンカーン・アベニューだが、人通りが少なくひっそりしている。


カリストガは、小さな街だが、天然温泉が有名で、数多くのスパを体験できる温泉保養地である。現在午後4時、これから、リンカーン・アベニューの南端、チェスナットヒルの麓にある「ラベンダーヒル・スパ」(Lavender Hill Spa)でスパを堪能する。


火山灰泥風呂が有名とのことで、温かい湯舟に浸かって癒された。


午後8時、今夜の夕食は、昨夜に引き続き、ヒールスバーグのレストランを予約している。カリストガからは、山越えをし、101号線に出て向かう方が早い。

レストランは、「ドライクイークキッチン」(Dry Creek Kitchen)で、昨夜のレストラン・サイラスの一筋南側のプラザ・ストリートと目抜き通りのヒールスバーグ・アベニューが交差する場所にある。レストラン南隣の「ホテル ヒールスバーグ」に併設され、ヒールスバーグ・アベニュー向かい側には「ヒールスバーグ・プラザ」(公園型ショップ)や、緑豊かな並木道にお洒落なショップが続いている。


メニューは、前菜、メイン、デザートのプリフィクスディナーを頼んだ。アメリカ料理だが、高級レストランならではの洗練されたフュージョン料理である。料理はボリュームもあり、ワインとの相性が良く、ワインカントリーならではのこだわりさを感じることができる。

1時間半ほど滞在して、サンタローザのホテル(Quality Inn & Suites)に戻った。こちらは、訪問先のワイナリーから(パート2)。。左から、フェラーリ カラーノのカベルネ・ソーヴィニヨン、サウサルのカベルネ・ソーヴィニヨン、サウサルのシラー(ファットキャット)(右端も同じ)、ロキオリのジンファンデル、フェラーリ カラーノのピノノワールである。
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今日は、ナパ カウンティの最高峰のワインブランドで、アメリカを代表する高級ワインでもある「オーパス・ワン・ワイナリー」(Opus One Winery)を訪問することにしている。ナパ カウンティは、東側に沿って走るヴァカ山脈と、西側にそびえるマヤカマス山脈との谷底平野にあり、カリフォルニアワインの一大生産地として知られている。

サンタローザのホテルをチェックアウトし、6キロメートルほど北にあるファウンテン グローブ パークウェイ沿いにある「トラヴァーソ グルメ フード ワイン」(Traverso's Gourmet foods wine)で買い物をして、11時過ぎに、オークビル(Oakville)に到着した。南北に横断するセントヘレナ・ハイウェイ(29号線)からは、東側に延びる直線の専用道路に入ったところ。正面に現れる、円錐状のなだらかな丘の上から盛り上がる様に建つ近代建築がオーパス・ワン・ワイナリーである。
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中央のエントランスのある建物を中心に周囲をサークル状の柱廊で取り囲まれている。この圧倒的な存在感のあるワイナリーは1991年に完成している。ナパでは、朝晩の寒暖差が激しく、ブドウの糖度の高低差があることから、オーパス・ワンでは、夜間の糖度が抑えられた時間帯に手摘みで収穫し、更に一粒ずつ人の手で選別するなどの細かい作業工程を経ている。

オーパス・ワンでは、テイスティングのみと、テイスティングと醸造工程見学がセットになったツアーがある(要予約)。テイスティングを終え、お昼の12時にエントランス前を見学していると、ツアーが終了したらしく、十数人が帰って行くところだった


オーパス・ワン・ワイナリーは、1978年にロバート・モンダヴィが、フランス・ボルドーのフィリップ・ド・ロチルド男爵とボルドー風のブレンドをつくる合弁事業して設立している。もともと、カリフォルニアワインは、ポート・スタイルの甘口ワインで知られていたが、ナパでは、1960年代に入り、いくつかのブティックワイナリーと呼ばれる高品質ワインワイナリーが設立した。ロバート・モンダヴィもその立役者の一人で、技術革新と戦略的なマーケティングでカリフォルニア・ワインを世界的に認知されるレベルに高めた。オーパス・ワン ブランドは、ボルドーが持つエレガントさと、カリフォルニアの豊潤さをバランスよく融合させたことで、世界のワイン品評会で高い評価を受け、現在ではカリフォルニアワインの最高峰と呼ばれている。

エントランス前から西方向に見える小さな長方体の構造物は、そのロバート・モンダヴィのワイナリーで、29号線を挟んだ向かい側にある。その遠景はマヤカマス山脈で、向こうがソノマ カウンティになる。
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抜けるような青空の下、ワイナリーの周辺を散策していると、遺跡見学をしているような気持ちになった。この時間、斜面下の車寄せに黒塗りの高級車が2台と、その前でサングラスにスーツ姿の体格の良い男性が待機していたが、主人の出迎え場面には遭遇しなかった。

昼は、オークビルから、南に5キロメートルほど下った、ヨントビル(Yountville)に向かった。ヨントビルは、人口約3500人で、その3分の1がカリフォルニアの退役軍人の家に住んでいる。また、小さな街だが、美食の街で知られていることから観光客が多く訪れる。

ミシュランの1つ星のブション(Bouchon)は、通り沿いにあり、煉瓦と赤い外装の一軒家で、縦仕切りの大きい窓からの光が差し込み、明るい雰囲気である。入口の手前には、植え込みのあるガーデン、テラス席などがあり、隣には姉妹店の「ブション・ベーカリー」を併設している。


ブションは、数々のベストシェフ賞を受賞し、2005から2006年にかけて、2つの異なるレストランで同時に、ミシュランガイドで3つ星を獲得した唯一のアメリカ人シェフのトーマス・ケラー氏がオーナーを務めるフレンチビストロ料理店である。他にも、通りの1キロメートル北側に、同じトーマス・ケラー氏が経営するミシュランガイドの3つ星の「フレンチランドリー」がある。

昼は、軽めに、ムール貝の蒸し煮、豚の血液入りのソーセージ(ブーダン・ノワール)、フライドポテトを頼んだ。ムール貝は身もスープも絶妙で、ソーセージはもちろん、フライドポテトもレベルの高さを感じる洗練された美味しさがあった。


食後は、ナパ市内を散策し、サンフランシスコの東対岸にある「オークランド」(Auckland)に向かった。今夜は「マカフィー・コロシアム」(McAfee Coliseum)に、オークランド・アスレチックス(本拠地) VS シアトル・マリナーズの試合(アメリカンリーグ(西地区))を見に行くことにしている。

球場から2キロメートル南にある「クオリティイン」(Quality Inn)にチェックインをして、歩いて球場にやってきた。この日は、ホームのオークランド・アスレチックスが勝率5割を割り低迷しており、観客数も少なくやや盛り上がりに欠ける印象があった。外野席に座り、球場内の売店で買ったビールを飲み、ホットドッグ、タコス、ポテトなどを食べながら観戦した。


こちらは距離があるが、イチロー選手。最終的に、この年のシアトル・マリナーズは、4年ぶりに最下位を脱して地区2位となったが、ポストシーズン進出はかなわなかった。イチロー選手自身は、7年連続7度目のMLBオールスターゲーム選出を果たし、MVPを受賞した上、7年連続7度目となるゴールドグラブ賞と2度目のシルバースラッガー賞を受賞するなど、相変わらずの絶好調でシーズンを終えている。

(2007.9.16~18)
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カリフォルニア(その1)

2013-02-17 | アメリカ(カリフォルニア)
昨日、午後4時5分、成田空港発ユナイテッド航空(UA838便)で、今朝午前9時18分(時差-16時間)サンフランシスコ国際空港に到着した。空港からは「バート、BART」(ベイエリア高速鉄道)に乗り換えて、先程2ndストリート沿いにあるマリオットホテルにチェックインをしたところ。これからケーブルカーに乗りポーク・ストリートに昼食を食べに行くことにしており、まずは2ndストリートを北西方面に向かう(サンフランシスコ概略図参照)。

  
正面に建つ高層ビル手前の、左右に延びるマーケット・ストリートを左折して南西方面に向かう。こちらは、バス、トロリーバス、路面電車、バートなどの公共交通機関が充実する市内で最も華やかなメインストリートで、通り両側には、街路樹の並ぶ広い歩道が続き多くの人が往来している。


マーケット・ストリートをしばらく歩くと、バートのパウエル駅となり、通り向かいから北方向にパウエル・ストリートが延びている。ここに、ケーブルカーの始発駅「パウエル停留所」(パウエル・ブールバード & マーケット・ストリート停留所、Powell Street & Market St)があり、周囲には多くの人が集まっていた。周囲が混雑していたことから、北側から停留所を眺めると、車両全体を望むことができる。因みに、マーケット・ストリート南側の大型の建物は、ウェストフィールド サンフランシスコセンター(ショッピングモール)である。
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サンフランシスコのケーブルカーは、1873年に開業し1890年までの間に23路線が存在したが、現在は3路線のみの運行となっている。その内の2路線は、こちらのパウエル停留所を起点とし、中華街(チャイナ タウン)付近まで線路を共有した後「メイソン線」(Powell-Mason)(ピア39埠頭にほど近いベイ・ストリートとテイラー・ストリートの交差点手前を終点)、と「ハイド線」(Powell-Hyde)(サンフランシスコ海事国立史跡公園を終点)に分岐して運行している。


そして、もう一つの路線は、カリフォルニア・ストリート(北へ約800メートル行った東西に延びる通り)を「カリフォルニア・ストリート線」(California Street)として運行している。

「メイソン線」と「ハイド線」は合計28両の車両を所有している。車両は、構造上、一方向にしか走行できないため、起点と終点で車両の方向を変える必要がある。具体的には、板張りの円形の転車台(ターンテーブル)中央まで車両を移動し、背板の付いたポールを人力で押して車両の向きを変える「ターンアラウンド方式」である。車両自体重いことから、もう1人が、直接車両を押して補佐する。作業自体は、乗務員2名(運転手と車掌)により行われており、常に、この様子を見学するために、多くの人が集まってくる。


一通りターンアラウンド方式を見学した後、「ハイド線」に乗車して出発した。スピードは遅いが、坂道になっても変わらず、力強く上っていく。後部席に座ると、左右に車輪を乗せるための二本の軌道と、中央の溝が確認できる。


この溝の下には、ケーブルが時速9.5マイル(15.2キロメートル)で移動しており、運転士がそのケーブルをグリップで掴むことにより車両を走行させている。逆に、停止する場合はグリップをケーブルから離し、ブレーキをかけている。運転手はグリップレバーを巧みに操作することからグリップマンと呼ばれているが、走行、停止、徐行などを行うグリップレバーの操作はかなり経験を積まないと難しい職業とされている。

15分ほど乗車して、南北に延びるハイド・ストリートと東西に延びるユニオン・ストリートとの交差点で下車する。こちらは、ケーブルカーを下車し、ユニオン・ストリートを西に200メートルほど下って振り返った様子だが、かなり勾配がきつい。。歩く距離が短いと思っても、地図だけでは判断できないのが、サンフランシスコの町。目的のレストランは、次のポーク・ストリートとの交差点を左折した右側にある。


こちらが、そのポーク・ストリート沿いにある目的地「ベトナム料理レストラン(Aux Delices)」。このエリアは、あまり治安が良くないと言われていることから、夜の訪問は避け、この時間にしたのである。


店内は、昼時を過ぎた午後2時前でもあり空いていた。料理は、生春巻き、春巻き、大根餅、お粥、フォースープなどを注文したが、本格的なベトナム料理を頂ける老舗店との評判は納得でき、大変美味しく頂いた。


食後は「サンフランシスコ・アジア美術館」(Asian Art Museum)に向かった。最寄り駅は、マーケット・ストリート沿い、バート(ベイエリア高速鉄道)のパウエル駅の次駅、シヴィック・センター駅が最寄り駅になる。レストラン(Aux Delices)からは、ポーク・ストリートを南に2キロメートル行ったシビック・センター・プラザの東隣に位置している。

アジア美術館は、建設会社を営み、国際オリンピック委員会(IOC)の第5代会長などを務めたアベリー・ブランデージ(1887~1975)が収集したアジア美術品のコレクションをベースに、1966年よりアジア美術館(前身:アジア美術協会)として開館している。


ブランデージが、アジア美術に傾倒したきっかけは、1927年に日本の根付を購入したのが始まりと言われている。その後、絵画、陶器、彫刻に至る様々なアジア全域のコレクションを作り上げ、個人では負えない規模となった1950年代以降、サンフランシスコ市へ寄贈を続けてきた。現在、美術館には、アジアからの伝統的な約18,000点の芸術作品と工芸品が所蔵されており、古いものは、6,000年前のものがある。ギャラリー(展示室)は、南アジア、イラン、中央アジア、東南アジア、ヒマラヤ、中国、日本、韓国がある。通常、ギャラリーには2,000点以上の作品が展示されている。

第1展示室(南インド~600)には、「リンガ」(400~450)」(砂岩、高さ147.3センチ、出土:インド、マディヤプラデーシュ州)が展示されている。リンガは、シヴァ神の象徴で、シヴァを祀る寺院の聖所に置かれ祀られる。多くは円筒が垂直にそそり立つ形で表されるが、こちらは、その円筒に更にシヴァの顔が模られている。丸顔に大きな目を見開き正面を凝視しており、額には特徴の第3の目が刻まれ、髪の毛は頭の上に巻き、耳飾りを付けている。


第2展示室(東インド600~1600)には、「仏陀の生涯の場面の一つ」(降魔印)(インド、ビハール州、1000~1200、パイロフィライト、高さ16.5センチ)が展示されている。作品は、北東インド(ベンガル地方とビハール地方を中心とした地域)を支配したパーラ朝(750~?1162)時代のもの。パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教(タントラ仏教)が盛んであったため、チベット仏教もその影響を強く受けている。


第9展示室(東南アジア600~1300)には、カンボジア・クメール(アンコール)王朝時代の「ヒンドゥ教の神シヴァ」(975~1025)(111.8センチ)と、シヴァの妻「神パールヴァティー」(975~1025)(104.1センチ)が展示されている。やや損傷があるものの、クメール美術の頂点を極めた時代の貴重な作品である。


インドネシア中部ジャワで制作された「太陽神スーリヤ」(800年~900年頃、ブロンズ像、高さ40センチ)。スーリヤとは、インド神話(ヒンドゥー教の神話)における太陽の神で、三眼に四臂姿、七頭の馬が曳く戦車に乗り天を駆けるとされている。こちらの作品は、七頭の馬が支える台座の上に立像として表現されている。脇侍としてダンダ、ピンガラ、女神などが配されている。


第10展示室(東南アジア1300~1800)には、アクリルケースにタイの仏頭が2つ展示されている。正面を向く仏頭(1350~1400、ブロンズ45.7センチ)は、アユタヤ王朝のもので、左側を向く仏頭(1350~1450、ラッカーと金メッキされた鉛青銅、48.3センチ)は、スコータイ王朝のものになる。


仏頭は、同時代のものだが、王朝としては、「スコータイ王朝」(1240頃~1438)がタイ族最初の王朝(13世紀頃までアンコール王朝の支配下にあった)で、次に中部アユタヤを中心とした「アユタヤ王朝」(1351~1767)がスコータイ王朝を吸収している。仏頭は、共に、小さなヘアカールや優しく微笑んだ表情などスコータイ様式で制作されている。体躯が失われているが、スコータイ様式では、降魔像と遊行像が多く制作されており、左側の大きめの螺髪相は、遊行像と思われる。

第11展示室(東南アジア1800~)には、インドネシアのジャワ島で生まれた「ワヤン ゴレ」が展示されている。人形は、高さ70センチほどのサイズで、舞台下から、体から頭まで伸びる木製の棒と、手に接続された棒とを巧みに操作することで演じられる。演目は、ヒンドゥー教の叙事詩ラーマーヤナやマハーバーラタなど伝統的のエピソードを中心に、地元独自で伝えられる神話など多岐にわたる。


展示されている人形は、インドの叙事詩「マハーバーラタ」に登場するラークシャサ(羅刹天)、カウラヴァ(100人の王子)、パーンダヴァ兄弟(ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)などで、1960年代前後にチャンペア(西ジャワ)で制作されたもの。

第15展示室(中国BC.221~960)には、埋葬品「天王俑唐代彩釉陶」(618~907、唐王朝、陝西省または河南省)(高さ約120センチ)が展示されている。天王俑とは、魔よけと墓室の安全保護のため、墓の入口に配置され、埋葬者の鎮魂を目的とした。甲胄を身に付け、躍動感ある立ち振る舞いで邪鬼を踏みつける姿は、四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)を思わせる。なお、天王俑には、鎮墓獣が配置されることもある。


第16展示室(中国、仏像彫刻)には、338年(中国五胡十六国の後趙(319~351)時代)に制作された「釈迦禅定坐像」(河北省、金メッキブロンズ像、高さ40センチ)が展示されている。この時代、後趙皇帝の石勒(在:319~351)は、西域出身の僧侶、仏図澄(ぶっとちょう)を保護し、都の洛陽では仏教が大いに栄えていた。中国で制作された仏像では、最古のものとされている。


美術館では睡魔がピークとなり、1時間半ほど見学して退館した。。昨夜、飛行機内ではあまり寝られなかったので、ホテルで少し休んだが、睡眠不足の解消にはいたらない。美術館内のシートでも座りながらウトウトしてしまった。海外便は、東周りの方が時差ボケが激しいと言うが、そうかもしれない。

アジア美術館の隣のシビック・センター・プラザを挟んで西隣には、ワシントンの議会議事堂によく似た白い荘厳なドームの「サンフランシスコ市庁舎」(San Francisco City Hall)が建っている。1915年にアメリカ・ルネッサンス・ボザール様式で建てられたもので、同様式には、ニューヨーク中央駅、ボストン美術館などが挙げられる。白いドームまでの高さは94メートル(ワシントンの議会議事堂より35センチメートル高い)あり、ドームでは、世界で5番目の高さがある。市庁舎では、日に3回の無料見学ツアーが開催されており、また、結婚式場としても人気が高く、毎日数十組の式が執り行われるとのこと。


時刻は午後5時半、ゴールデン・ゲート・ブリッジを渡ったダウンタウン・ソーサリトにあるスコマズ(Scoma’s Sausalito)に夕食を食べにやってきた。サンフランシスコ中心部から少し離れているが、混雑していないことからのんびり過ごすことができる。ちなみに周辺にはいくつもシーフード・レストランがあるが、海の浅瀬に杭を打ち込み、通りから海にせり出して建てられた、こちらの「スコマズ」が景観も味も評判が良い。
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テーブル席からは、抜けるような青空と広がる海面の先に、サンフランシスコ・ベイエリア、ロシアン・ヒル、アルカトラズ島を始め、オークランド・ベイブリッジまで一望できるベストポジション。素晴らしい眺めが、一段とテンションを盛り上げてくれる。

料理は、シュリンプカクテルを始め、クラムチャウダー(お勧め)、ダンジネスクラブ(アメリカチョウ蟹)のパスタ(お勧め)※写真食べかけ。。海老、蟹、魚フライの盛り合わせプレート※写真食べかけ。。など頼み、ケンウッド・ヴィンヤーズの白(カリフォルニア・ソノマ)と共に頂いた。景色の素晴らしさに加え、値段もリーズナブルで美味しく堪能できた。時折、セグロカモメが、飛来するのもスコマズならではかも。


メインを食べ終わるころ、時刻は日没時間の午後7時になった。ちょうどこの時間、ベイエリアに建つ、サンフランシスコのランドマーク「トランスアメリカ・ピラミッド」の右側の高層ビル「バンク・オブ・アメリカ」を、日没直前の最後の夕日が赤く照らしていた。
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翌朝、これから、サンフランシスコ最大の見どころの一つ「アルカトラズ島」(Alcatraz Island)の見学を予定しており、フィッシャーマンズ・ワーフ近くの「ピア33埠頭」に向かった。

フェリー船の運航間隔は、概ね30分に1便ほどである。乗船チケットは、予めインターネットで予約・購入(午前9時半発)しておき、出航20分ほど前に「ピア33埠頭」に到着した。港に到着すると、周囲は、多くの観光客でごった返していた。


予約便は、出発10分ほど前から乗船が始まり、観光客が続々と乗船していった。アルカトラズ島までは直線距離にして約2.4キロメートル、約15分の乗船時間である。この時間、空にはやや暗雲が立ち込めてきたが、今朝の天気予報では、晴れのち曇りだったので、雨は大丈夫と思うが、どうだろうか。。

フェリーは、3階建てで、最上階は屋外席だった。見晴らしが良いため屋外席が人気が高いが、この時間は、風が強く、乗船時間も短いので、一階席に座ることにした。しかし、途中で、手持ち無沙汰になり、最上階に上って前方を眺めると、ごつごつとした小さな岩の塊の様なアルカトラズ島が、徐々に迫ってくる様子を見ることができた。洋上は、かなりの強風で、船首旗がちぎれんばかりにはためいている。


予定どおり、船着場に到着し、フェリーを降りると、最初に、観光客はドックと呼ばれる旧陸軍兵舎の前に集合させられ、スタッフから見学に関する説明(英語のみ)があった。刑務所棟内では、配布されるパンフレットと貸与されるオーディオガイド(日本語あり)を聞きながら、自由に見学することができ、入館料とオーディオガイド料金は予めフェリー料金に含まれている。なお、見学は、ガイドに従って行うことも可能である。


アルカトラズ刑務所内で、一番の見どころは「セルハウス」と呼ばれる牢獄で、1909年から1912年の間に囚人によって作られたが、これらは、囚人たち自身が建設したもので、作った本人たちが牢獄に入れられていた。建設当時は、世界最大の鉄筋コンクリート製の建物だったと言われている。刑務所内には、当時のまま独房が並んでおり、他に食堂や図書館や看守のオフィスもあった。


アルカトラズ刑務所の他にも「シンシン刑務所」や「サン・クエンティン州立刑務所」等の連邦刑務所があるが、周囲を寒流が渦巻き、人喰いザメもいる等の過酷な環境を併せ持つ監獄島(アルカトラズ刑務所)は、囚人者たちに大変恐れられた。しかし、刑務所としての歴史は意外なほど短く、1934年から1963年までの29年間で閉鎖されている。


アルカトラズ刑務所に収監された囚人の最も有名な人物として、禁酒法時代のシカゴで、犯罪組織を運営したアル・カポネ(1899~1947)がいる。また、1909年に投獄され、その後アルカトラズ刑務所に移送された「アルカトラズの鳥男」の異名で知られるロバート・フランクリン・ストラウド(1890~1963)も、1961年の映画「終身犯」で取り上げられたこともあり、広く知られている。

「セルハウス」は、頑丈な鉄格子で区切られ、牢獄内には囚人たちのベッドや洗面台などがある。アルカトラズ刑務所を題材にした最も有名な映画は、1979年に公開されたアメリカ映画「アルカトラズからの脱出」であろう。主演のクリント・イーストウッド演じるフランク・モリスが、2人の囚人とともにアルカトラズ島から抜け出した事件(1962年6月のアルカトラズ脱獄事件)を映画化していた。


映画では、フランク・モリスなど囚人たちが、独房の通気孔を手製のナイフで広げ、ベッドに作り物の頭部を置いて、壁の後ろのパイプなどを伝って脱出していたが、こちらの独房の様子は、細かい箇所まで、映画のシーンとそっくりで、大変興味深かった。

一通り刑務所内の見学を終え、外に出ると、晴れ間がのぞき始めた。強風は少し収まったが、波は荒立っている。「アルカトラズからの脱出」のラストで、囚人たちは手製のいかだで海に出るが、その後は生存も死亡も確認されておらず、消息は不明で終わっている。実際、記録上も脱走に成功した囚人はいないとされている。
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帰りのフェリーは予約指定がないので、ゆっくり見学し、12時発に乗船した。2階席の船首展望デッキに陣取り、サンフランシスコのウォーターフロント方面を眺めながら「ピア33埠頭」に戻った。
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お昼時になったので、これから食事に向かう。場所は、ケーブルカー(カリフォルニア・ストリート線)の終着駅ヴァンネス・アベニュー停留所近くを予定している。最初に、ピア33埠頭の倉庫兼店舗のある建物を抜け、大通りを横断した停留所から、路面電車に乗車する。ちなみに、倉庫兼店舗のある建物の大きなアーチ門には、それぞれ埠頭番号が書かれている。ピア33埠頭に向かって右側の建物には、ピア31埠頭と表示がある。


こちらの路面電車は「Fライン」と呼ばれ、各国など他都市で利用されていたクラシックな車両が日替わりで運行される特別な路線になる。この日は、英国ブラックプールのオープンカートラムが走行していた。ちなみに、サンフランシスコ市内を走行する他の路面電車は、ミュニメトロと呼ばれ6路線(K、L、M、J、N、T)が運行している。


英国ブラックプールのオープンカートラムは、船のような流線型の外観が特徴で「ボート カー」の愛称がある。1933年から5年間、英国エレクトリック社により12台(225号~236号)が製造され、英国北西部のブラックプールで走行していた。その後、多くが廃車となるが、1980年代に入り、カリフォルニア州が、226号車と228号車を博物館展示用としてリースし、後にサンフ​​ランシスコ市営鉄道(ムニ)が購入し観光用として不定期で運行している。ボート カー(Fライン)は、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ近くのフェリービルディング停留所に到着した。


次に、マーケット&ドラム・ストリート(Market St & Drumm St)停留所からカリフォルニア・ストリートを東西に走るケーブルカー(カリフォルニア・ストリート線、California Street)に乗車する。カリフォルニア・ストリート線の車両は、パウエル両線と違い、両方向に走行でき、現在、12両の両運転台車両が運行されている。後部に陣取っていると、なだらかに通りを上るにつれ、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの姿が徐々に見えてくる。

カリフォルニア・ストリートのなだらかな上りは、中華街から延びる目抜き通りのグランド・アベニューとの交差点を過ぎると、突然、体を大きく前後に引っ張られ、勢いよく急勾配を上っていく。上りきるとノブ・ヒルの丘の上となる。
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ノブ・ヒルの丘の上をしばらく走行すると、目的のレストラン(スワン オイスター、Swan Oyster Depot)はもうすぐ。最寄り駅は、終着停留所となるヴァンネス・アベニュー(Van Ness Avenue)の一つ前のポーク・ストリート停留所となる。

レストランは、カリフォルニア・ストリートに面していることからすぐに分かった。入口には、食材を並べたショーケースがあり、調理前の魚や蟹の他に、トレイには切り身の魚や、ホタテ、はまぐり、ムール貝、車海老などが並べられている。
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店内は、座席数が少ないこともあり混雑していた。テーブル席は難しそうなので、狭いカウンター席に何とか座り、生牡蠣や生クラム、クラムチャウダー、魚介のカクテルなどを注文した。クラムチャウダーは、お勧めの自家製で蟹の身も入っており絶品。白ワインともよくあっている。ところで、どのシーフード店でも、ケチャップのソースが必ず出てくるが、素材の鮮度を楽しむならレモンを絞るだけの方が美味しい。
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こちらが、お勧めの「生クラム」。日本では、ハマグリやアサリは生で食べないので、少し緊張して食べた。身はやや甘みがありシャキシャキして美味しい。どの料理も新鮮で味は最高だし、カウンター越しのマスター(アヒルのおもちゃを背景に忙しそうに動く。)はフレンドリーで親切なのだが、客席誘導をしないので、店内には、座れないお客が、席が空くのを待っている状態。ゆっくりできないのが残念だが、混雑する一方なので、食べ終わると早々に退散した。
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カリフォルニア・ストリートを東に700メートルほど戻ったエリアが、丘の上の高級住宅地ノブ・ヒル(Nob Hill)になる。南北に延びるメイソン・ストリートとの交差点には、茶系外観の建物「ジェームズ・C・フロード・マンション(James C. Flood Mansion)」(1886年築)が建ち、西隣のハンティントン パークを挟んで「グレース大聖堂」(Grace Cathedral)のファサードが望める。
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グレース大聖堂は、カリフォルニア・ゴールドラッシュ時の1849年に小さな礼拝堂「グレース教会」として建設された。その後、数度の増改築を経て大聖堂となったが、1906年のサンフランシスコ大地震で崩壊(火災による)したことから、銀行家のクロッカー一族が寄進した現在のノブ・ヒルの地に、1927年から建築が始まり、1964年に完成している。鉄筋コンクリート造のゴシック・リヴァイヴァル建築で、パリのノートルダム大聖堂を模した外観をしている。


ジェームズ・C・フロード・マンション東側には、南北に走るメイソン・ストリートを挟んで、1907年開業の老舗ホテル「フェアモント サンフランシスコ」(Fairmont San Francisco)が建っている。豪華な大理石や繊細な装飾など古さを感じさせない風格と、丘の頂上に位置する立地条件の良さが大変魅力的な高級ホテルである。


そのフェアモント サンフランシスコ前から、メイソン・ストリートをほんの数メートル北に歩くと、勾配の急な下り坂になり、サンフランシスコ湾が見渡せる。島は「エンジェル アイランド 州立公園」(Angel Island State Park)で、右端に隠れてしまったが、アルカトラズ島がある。この場所から眺めていると、海から吹き上げてくる強い風で押し戻されそうになった。
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カリフォルニア・ストリートを挟んで南側に建つ「インター コンチネンタル ホテル」前が、ノブ・ヒルの丘の上にいることを一番実感できる。正面入口だけが平地にあり、左(東)のカリフォルニア・ストリートと、右(南)のメイソン・ストリートが大きく下がり斜面にホテルが建っているのが分かる。
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インター コンチネンタル ホテルを左に見ながら、斜面に駐車する車からメイソン・ストリートを南方向に眺めるとこんな様子。北側と同じようにかなりの勾配がある。右側には、高級マンションらしい外観が続いている。
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次の目的地「ユニオンスクエア」(Union Square)までは、下りなので歩いて向かった。最初にカリフォルニア・ストリートを東に150メートル下り、パウエル・ストリートとの交差点を右折し、ケーブルカーの軌道に沿って400メートルほど南に下ると「ユニオンスクエア」に到着する。広さ約1万平方メートルの長方形の広場で、周囲には椰子の木が植えられ、中心には、米西戦争のマニラ湾海戦で英雄となったジョージ・デューイ提督(Admiral George Dewey)をたたえる高さ約30メートルの記念碑が建っている。


広場の周囲は、ティファニー、ルイヴィトン、ディオール、ブルガリなど高級ショッピングの中心地でもあり、買い物客や観光客で常に賑わっている。

次にサンフランシスコを代表する観光名所「フィッシャーマンズ・ワーフ」(Fisherman's Wharf)の「ピア39埠頭」にやってきた。今朝、アルカトラズ島に向かった「ピア33埠頭」からは、400メートルほど西の海岸線に位置している。野性のアシカがたくさんいることでも知られており、入り江沿いに設けられた花壇傍にはアシカの彫像が飾られている。またこちらの桟橋からは、まるで戦艦を思わせる様な形状の「アルカトラズ島」も一望できる。


海に細長く伸びる「ピア39埠頭」の桟橋には、木造二階建ての建物が立ち並び、ショッピングモール、レストラン、ギフトショップなど個性的でおしゃれな100軒以上のお店が軒を連ねるなど、フィッシャーマンズ・ワーフで最も賑やかなエリアとなっている。また、子供に人気のメリーゴーランドなどのアトラクション施設や、ストリート・パフォーマーの登場など、テーマパークを思わせる演出も盛りだくさん。
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そして、「ピア39埠頭」前のジェファーソン・ストリートを500メートルほど西に向かったウォーターフロント北部に位置する埠頭が「ピア45埠頭」で、その埠頭入口には、カニがデザインされたフィッシャーマンズ・ワーフのシンボルマークが飾られている。フィッシャーマンズ・ワーフは、「漁師の波止場」を表しており、古く19世紀後半のゴールドラッシュでサンフランシスコが発展したのを機に最初に栄えた港町だった。


「ピア45埠頭」前を南北に延びるテーラー・ストリートの西沿いには、老舗のシーフードレストランが並んでいる。左側の青色に白字のパラペット看板の店舗は、1927年創業の「サベーラ・アンド・ラ トーレ」(Sabella and La Torre)」で、その右隣の紫色に白字のパラペット看板は、創業1934年創業の「ニックズ・ライトハウス(Nick’s Lighthouse)」。共に、レストラン入口沿いに屋台があり、名物のダンジェネス クラブ(渡り蟹の一種)を始め、フライド シュリンプ、カラマリ、エビ サンド、クラブ サンド、クラブ カクテル、エビ カクテルなどをテイクアウトできる。この時間(午後6時50分)は、行列ができるほどの人で賑わっていた

そして、その隣のレンガ色の3階建ての店舗は、魚の絵にAlioto'sと表示されたシンボルマークで有名な、シーフードレストラン「アリオト」(Alioto's)である。1925年にシチリア人移民ヌンツィオ・アリオトが、カニとエビ カクテルをフィッシュスタンドで販売し人気を博したことに始まる歴史あるシーフードレストラン。「アリオト」の経営は、代々アリオト家が事業を引き継いでいる。


「アリオト」の1階入口両側は、オープンテラスのテーブル席となっており、この時間多くの来店客で賑わっていた。ちなみに「アリオト」には、1995年、ノルウェー国王のハーラル5世とソニア王妃が来店し食事したことでも話題になった。そして「アリオト」の右隣りに、創業1935年の「グロット」(Grotto)が続いている。

これら老舗のシーフードレストランの西側(後ろ側)は、船溜まりとなっており、桟橋には多くの漁船が停泊している。中央の細い桟橋を歩いて「アリオト」を振り返ると、「アリオト」と、隣の「タランティーノ」(Tarantino's)のテーブル席に多くの客が座っていた。

今夜は、人込みで疲れたこともあり、観光客ご用達の老舗シーフードレストランの味は普通評価が多いこともあり、近隣の建物内の一角にある小さなレストラン「Pesce Seafood Bar」で夕食を頂くこととした。Pesceとはイタリア語で「魚」を意味する。


飲み物は、地元サンフランシスコのクラフトビール(アンカースチーム)と、白のハウスワインを頼んだ。アンカースチームとは、1896年にアンカー・ブルーイング社が、カリフォルニアで最初に生産した歴史あるビールで、キレとコクが特徴のラガービールでありながら、エール製法で発酵された風味豊かな味わいが特徴の一品である。


料理は、シンプルなシーフードではなく、イカ墨のリゾット、ブイヤベース、カニ味噌を使ったやや手の込んだ料理を注文した。料理は美味しく、店内も落ち着いた雰囲気がありゆっくり食事ができた。

(2007.9.14~15)
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イタリア・トスカーナ

2013-02-16 | 中央イタリア
こちらはルネッサンス期の画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1412~1492)の彫像で、彼の生まれ故郷サンセポルクロ(旧:ボルゴ・サンセポルクロ)にある「ピエロ・デッラ・フランチェスカ庭園公園」に飾られている。靴職人の子として誕生したピエロは、この地で、20代前半まで画家として徒弟修行をし、その後フィレンツェに向かっている。


サンセポルクロは、トスカーナ州アレッツォ県にある、人口約16,000人の基礎自治体(コムーネ)で、今朝、フォルリから、アウトストラーダA14でチェゼーナまで行き、国道3bisで、アペニン山脈を南に横断してやってきた。

東西2キロメートルほどの長方形の小さな町で、旧市街の入口となる西側には、南北200メートルほどにわたり、初代トスカーナ大公でフィレンツェのメディチ家コジモ1世(1519~1574)により築かれた城門と城壁が保存されている。ピエロの彫像が立つ公園は、その旧市街の北西側に位置しており、西隣に「サン・フランチェスコ教会」が建っている。

サン・フランチェスコ教会の南側にある「サンセポルクロ市立美術館」には、そのピエロにより描かれた「ミゼリコルディアの多翼祭壇画」(横330センチ×高さ273センチ)が展示されている。作品は、1445年から描かれ、当初3年間で完成させる予定だったが、17年後の1462年に完成している。
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地元の慈善団体「ミゼリコルディア信心会」の依頼で制作されたもので、ミゼリコルディアとは「慈悲の聖母」を意味している。作品は、聖母が慈悲深げに両手を広げ、マントで教会の屋根にも似た奥行きのある空間を作り出し、信者を包み込む姿を中心に構成されている。向かって右側の聖セバスティアヌスと洗礼者ヨハネが最初に描かれ、左側の聖アンデレ、聖ベルナルディーノは1450年頃に描かれた。プレデッラの「キリストの生涯」は弟子により描かれている。

サン・フランチェスコ教会の西隣の交差点から南側に進むと、町の中心地となり、左側に市役所、先隣に「サンセポルクロの大聖堂」(10世紀築、1520年より大聖堂)、更にその先に「ベルタの塔広場(Piazza Torre di Berta)」と続いている。


次に、15キロメートルほど南に位置するモンテルキ(Monterchi)にやってきた。トスカーナ州アレッツォ県にある人口約1,700人の小さな基礎自治体(コムーネ)で、町の南側に、一辺200メートルほどの三角形の小山に広がる旧市街がある。その旧市街への入口となる南麓側にある「出産の聖母美術館」に、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いたフレスコ画「出産の聖母」(高さ260センチ×横幅203センチ)が展示されている。


作品は、1455年から1465年頃の間に制作されたと考えられている。モンテルキは、ピエロの母親の出身地で、1459年にこの地で亡くなっており、ピエロは葬儀のために帰省して「出産の聖母」を描いたと推測されている。もともと、モンテルキにあった「サンタ・マリア・ディ・モメンターナ礼拝堂」に描かれたフレスコ画だったが、1785年頃、墓地建設のために礼拝堂が廃止され、1889年になって発見された。その後、1911年に政府によりサンセポルクロに移動するものの、最終的にモンテルキで保管されることになった。


しかし、依頼主や所有主がはっきりしなく、こちらの美術館も安住の地とはなっていない。近年、世界中から鑑賞のために訪れる美術愛好家も多く、また安産や懐妊を願う女性もよく訪れる。ところで、妊娠した聖母は1300年代にトスカーナ地方で流行し、いくつか描かれたが、その後の「トレント公会議」で禁じられている。

出産の聖母には持物がなく、頬が赤く健康そうな妊婦といった表情で、左手を腰に当て、重そうなお腹を前に突き出し、右手で衣のお腹部分を開けている。左右には、それぞれ緑色と赤色の衣服を身につけた天使がカーテンを広げている。ちなみにこちらは裏側の様子
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出産の聖母は、ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーがイタリアで製作した映画「ノスタルジア」(1983年)にも登場している。冒頭、トスカーナを取材に訪れた作家が、古い教会を尋ねると蝋燭が一杯に灯された中、女性信者が「出産の聖母」の前で祈りを捧げているといった神性な場面だった。

美術館での見学後、隣の旧市街側の一段上の高台にある、トスカーナ料理店「センツァ・テンポ(senza tempo)」で昼食を頂くことにした。テラス席もあるが、暑かったので、店内のテーブル席に案内してもらった。料理は、夜のこともあるので、シンプルに、生野菜、アリオーネソースのスパゲッティを注文した。セコンドピアットは、Lボーンステーキがお勧めとのことで、注文すると、塩胡椒で味付けした脂身が少なく赤身の肉厚ステーキで、柔らかく甘みもあり大変美味しかった。レモンが添えられていたのも良かった。


トスカーナ料理の名物は「キアニーナ牛」と呼ばれるブランド熟成肉で、骨付きを炭火で焼いたステーキが最も美味しいとされる。古代から生息するイタリアの在来種で、世界中の牛の祖先とも言われ、真っ白な大きな体が特徴で、トスカーナ州東部からウンブリア州方面に広がるキアーナ渓谷に因んでいる。

食後は、西側に広がる山を越え、アレッツォ(Arezzo)に向かった。距離にして30キロメートル、約30分の距離である。

アレッツォは、トスカーナ州アレッツォ県の県都で、周辺地域を含む人口約9万8000人の基礎自治体(コムーネ)である。共和政ローマ時代にはアレティウム(Arretium)と呼ばれ、アレティウムの戦い(紀元前283年頃)の舞台として知られ、ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前146年)時代には軍需物資を供給するローマの重要な中継点として発展した。帝政ローマ時代においては、ローマ第3の都市として栄え、特に農業や陶器産業が発展し主要な収入源となっている。

12世紀には、自治都市(コムーネ)となり、他の都市と同様に教皇派と皇帝派の対立が激しくなる。14世紀以降は、ペルージャとの戦争を経て、フィレンツェ共和国に併合され、16世紀にはメディチ家が支配するトスカーナ公国の領土となっている。

アレッツォでは、最初に「サン・フランチェスコ教会」にあるピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画の傑作「聖十字架伝説」の見学に向かった。アレッツォ駅から北に向け直進すると、円形の敷地を持つ「グイード・モナコ広場」が現れ、中心に、アレッツォ出身で楽譜記譜法の原型を考案した音楽教師グイード・アレッツォ(グイード・モナコ)(991頃~1050)像が建っている。


グイード・モナコ広場を横断すると、再び直線道(グイード・モナコ通り)になり、旧市街へ向かう上り坂になる。250メートル行った突き当りの丁字路を右折すると、東西に延びるカヴール通りとなり、南側に「アレッツォ市立近代・現代美術館」(旧:キアーヴィ ドーロ ホテル)と、先隣に直結して、目的地の「サン・フランチェスコ教会」に到着する。グイード・モナコ通りは、再開発された広い直線道だが、カヴール通り(旧ヴァッレルンガ街道)は、アレッツォ旧市街でも最も古い通りの一つである。

「サン・フランチェスコ教会」の東隣には、南北に延びるサン・フランチェスコ通りが交差しており、その交差点から、西側のカブール通りを向いて建つのが、彫刻家パスクアーレ・ロマネッリ(1812~1887)による「フォッソンブローニ像」(1867年)である。ヴィットリオ フォッソンブローニ(1754~1844)は、アレッツォ生まれの政治家、数学者、経済学者、技術者・外交官として活躍し、特にアレッツォ県のヴァル ディ キアーナの開墾事業に貢献した人物として知られている。
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サン・フランチェスコ教会のファサードに向かって左端にある小さな扉を入った所に、チケットショップがある。そして、その身廊の突き当りにある中央祭壇「バッチ礼拝堂」に、1447年から1466年にかけて、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた傑作「聖十字架伝説」のフレスコ画がある。作品は、窓の左右後壁と両側壁のそれぞれ三層に分かれている。窓に向かって右上から下に「預言者エレミヤ」「③聖木を埋める男性」「④コンスタンティヌス大帝の夢」、左上から下に「預言者エゼキエル」「⑥ユダの拷問」「受胎告知」が描かれている。※番号はストーリー順。
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ちなみに、祭壇手前に掲げられた十字架は、マエストロ・ディ・フランチェスコによる「十字架上のキリストとその足に接吻する聖フランチェスコ」(1250~1260)である。

窓に向かって右側壁の上部には、エデンの園においてアダムが息子に埋葬され、その際に植えられた木が十字架になると示唆する「①アダムの死」がある。そして、その下の中央に、シバの女王が、聖木から作られた橋が将来キリストの受難に繋がり、ユダヤ王国の終焉となることをソロモンに伝え、これを聞いたソロモンが、橋を切って埋めさせた「②聖木を礼拝するシバの女王と、ソロモンとシバの女王の会見」(3.3メートル×7.4メートル)の連画が描かれている。
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その下には、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世(在位:306~337)がはじめてキリスト教を公認するきっかけとなったミルウィウス橋の戦い(312年)が描かれた「⑤コンスタンティヌス大帝の勝利」がある。

反対側の左側壁には、上部から、ヘラクレイオス帝が聖十字架を高く掲げ、エルサレム市民から歓迎される「⑨聖十字架の賞揚」が描かれ、中央に、コンスタンティヌス1世の母ヘレナ(聖ヘレナ)が、エルサレムで聖十字架を発見する「⑦聖十字架の発見と検証」が、下部に聖十字架が重要な役割を果たす東ローマ・サーサーン戦争(602~628)「⑧ヘラクレイオス帝とホスロー王の戦い」が描かれている。ピエロ・デッラ・フランチェスカの明るい色彩と開放感のある背景のもとに織りなす人物描写は圧倒されるほどの美しさがある。

サン・フランチェスコ教会の向かい側のテラス席の先隣にある白い3階建ての建物には、1804年創業の老舗カフェ「カフェ・ディ・コスタンティ」があるが、今日は休みらしい。コスタンティとは、16世紀に設立された歴史あるアカデミア(学会)で、19世紀初頭までこの場所にあった本部に因んでいる。
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次に、カヴール通りを東に100メートルほど進み、交差点を左折した上り坂(イタリア通り)のすぐ右側に「ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会」のファサードが覆いかぶさるように迫って建っている。13世紀に再建されたもので、1階には5連アーチ門に3つのポータルがあり、その内の中央から教会内に入場できる。そのポータルの上には、3層にわたり、柱で支えられたロッジアがあり、うち2層は大小のアーチで、最上層はアーキトレーブとなっている。壮観な眺めだが、見慣れないファサードで多少違和感がある。ロッジアの奥には明かり採りのためのバラ窓やアーチ窓などを確認できる。


ファサードの右側上部に高さ50メートルの角状の鐘楼が聳えている。1216年に工事が始まり1330年に完成しており、側面を設計上リスクがあったのか、バットレスピラスターで補強されている。鐘楼は「デッラ チェントブーケ」(100の穴)と名付けられており、それぞれムリオン(縦仕切り)のある窓が2基づつ5層にわたり続いている。合計4面で80の窓となり、100に届かないことから、6層以上があったと言われているが裏付ける証拠はない。

ロマネスク様式の主祭壇は、3つのアーチで支えられた2階建てで、2階の欄干の奥にシエナ派の巨匠の1人、ピエトロ・ロレンツェッティ(1285頃~1348頃)(アンブロージョ・ロレンツェッティの兄)が1320年に制作した「アレッツォ教区教会の多翼祭壇画」(画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons))の衝立が飾られている。祭壇画には、聖母子を中心に、聖人の福音記者ヨハネ、アレッツォ司教の聖ドナート、使徒ヨハネ、マッテオ(マタイ)が描かれている。上部のアプスにもピエトロ・ロレンツェッティのフレスコ画があったが、現在は失われている。この日は結婚式が執り行われており近づくことができなかった。
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ファサードから鐘楼側に回り込み、教会の壁面に沿って進むと、アレッツォの中心広場「グランデ広場」(別名:ヴァザーリ広場)になる。広場の中心から西側に振り返ると、高低差10メートルの勾配を持つ斜面をそのまま活かしているのが分かる。


先程訪問した、左側の「ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会」の後陣は、下部が浮き彫りアーチで、その上2層にわたりロッジア(中層はアーチ、上層はアーキトレーブ)が施されている。弧を描くロッジアは壮観で、19世紀後半に大規模な改修がされたが、美しいロマネスク様式を見せてくれる。そして、右隣の半円形の階段の上には「元裁判所宮殿」(1780年築)が、更にその右隣には、フラテルニタ・デイ・ライチ慈善会により1262年に創建された「フラテルニタ・デイ・ライチ宮殿」(現:ライチ美術館)が並んでいる。

1375年からゴシック様式で着工され、15世紀のルネサンス様式を経て、16世紀半ばに、アレッツォ生まれでフィレンツェの都市改造事業にも携わったマニエリスム期の画家兼建築家のジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574)によって完成した。ヴァザーリは、日本でも「芸術家(美術家)列伝」の作者で知られている。その後、18世紀後半に、トスカーナ大公で、神聖ローマ皇帝のレオポルト2世(1747~1792)の支援で改装され現在に至っており、様々な時代の様式が融合した歴史ある建築物である。
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ポーチ上のティンパヌムには、アレッツォ出身の画家スピネッロ・アレティーノ(1350~1410)による「ピエタ」(現:コピー)が描かれ、その上の2層目には、聖母子のレリーフ(慈悲の聖母)と左右にアレッツォ司教の聖ドナートと聖グレゴリオの彫刻が施されている。こちらは、1434年に制作参加したベルナルド・ロッセッリーノ(1409~1464)を中心とする彫刻グループによるもの。聖母子レリーフは、聖母がマントで信者を包み込む”慈悲の聖母”(ミゼリコルディア)を主題にしているが、幼子を抱いているバージョンは珍しい。。その上のバルコニー風の小回廊は1460年に追加されている。頂部の3つの鐘のある塔には、1552年にジョルジョ・ヴァザーリにより設計された天文時計が飾られている。

「グランデ広場」(別名:ヴァザーリ広場)の現在の姿は、トスカーナ公国の初代大公コジモ1世(1519~1574)が、新領主の権威を示すために、丘の上に「メディチ要塞」(1538~1560)を再建し、それまで広場の北側にあったポポロ宮殿、コムーネ宮殿など自治都市時代からの行政府の建物を一掃し、再開発をジョルジョ・ヴァザーリに指示したもの。その一環として、北面の「ロッジア宮殿」(別名:ヴァザーリの柱廊)は、1572年から建設が始まった。しかし完成は、ヴァザーリ後任の建築家アルフォンソ・パリージ時の1595年のことだった。
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広場の中程には、公告の掲示場所だった中世の柱のオブジェ(ペトローネ)が残されている。

広場では、毎年6月と9月の年2回、サラセン人の馬上槍試合(ジョスト ラ デル サラチーノ)が行われている。試合は、チーム対抗で、疾走する馬上から、鎧を着たサラセン人の人形が持つ的を槍で突くといった内容。試合前には、中世の衣装を身にまとった人々のパレードが行われ大いに賑わう。

広場の東側には、右側に一際高い胸壁のある塔の「ラッポリー宮殿」(Palazzo Lappoli)(1930年代再建)が、広場を見下ろす様に建っており、1階には土産ショップや、カフェなどが営業している。そして左隣には、中世から続く歴史ある邸宅が階段状に繋がり建っており、それぞれ、縦仕切りの格子窓やアーチ窓で、木製バルコニーが取り付けられているものもある。これら邸宅の北側には、サン・マルティーノ通りが延びている。
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中世の建物が取り囲む「グランデ広場」は、地元出身の俳優、映画監督でコメディアンのロベルト・ベニーニが、監督、脚本、主演を務めたイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」(1997年)の舞台として世界的に知られている。特に、グイド(ロベルト・ベニーニ)一家の3人がサン・マルティーノ通りから、一台の自転車に乗りグランデ広場に駆け下りて来るシーンは有名で、他にもサン・フランチェスコ広場や周辺の通りで撮影がなされている。

広場南側にも古い建物が並び、ラッポリー宮殿に似た胸壁の塔を持つ建物「コファーニ・ブリッツォラリ宮殿」(Palazzo Cofani-Brizzolari)がある。15世紀に建てられた(塔は12世紀築)もので、1930年代に再建されている。他に広場の東南側ある屋根付き井戸(15世紀)や、西南側にある新古典主義様式の大理石の噴水(1603年)なども見所である。
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次に「ロッジア宮殿」(ヴァザーリの柱廊)前を通って、西側から、丘の上に向かい、プッブリコ・デル・プラート公園の西側、アレッツォの最も標高の高いエリアに建つのが「アレッツォ大聖堂」(ドゥオーモ)である。おそらく、古くは街のアクロポリスがあった場所に16世紀初頭に建設されたゴシック様式教会で、石階段の上に建っている。


未完成のままだったファサードは、ダンテ・ヴィヴィアーニ(1861~1917)が、1914年にネオゴシック様式で完成させており、装飾群は、ジュゼッペ・カシオリ、エンリコ・クアトリニ、ダンテ・ヴィヴィアーニにより施されている。3つあるポータルのルネットは浅浮き彫りで装飾されている。中央のポータルには、切妻があり、頂部がキリスト、向かって左右に聖グレゴリオとアレッツォ司教の聖ドナートがそれぞれ天蓋の下に飾られている。上部には円形のバラ窓がある。
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大聖堂は、アレッツォ司教の聖ドナート(~362)に捧げられている。聖ドナートはアレッツォでは2番目の司教で、ローマ帝国ユリアヌス帝(在位:361~363)下の362年に(時期は諸説あり)詳細は不明だが殉教し列聖されている。今日ではアレッツォの守護聖人で、癲癇の子供を治療したことから、癲癇の守護聖人とも評されている。祭壇には、彼の遺骨(頭部以外)を収めた大理石の石棺が置かれ、上部を彫刻家・建築家アグノロ ディ ベンチュラ(1312頃~1349)により、聖母子像など浮き彫りが施された12本のゴシック様式の尖塔柱によって飾られている。


1384年に、フランスの傭兵隊長アンゲラン7世により頭部の遺骨を略奪されたが、現在は返却され、ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会に収められている。

聖堂内は、3つの身廊があり、それぞれが交差ヴォールトで覆われた6つに分割され、翼廊はない。祭壇に向かいすぐ手前の左身廊壁には、1327年に亡くなったアレッツォの司教兼領主グイド・タルラティ(Guido Tarlati)の大きな慰霊碑が飾られている。1330年にシエネの彫刻家兼建築家アゴスティーノ・ディ・ジョヴァンニ(1285頃~1347頃)が、アグノロ ディ ベンチュラとの協力で制作したもの。
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正面の張り出しパネルには、左右の天使がカーテンを広げた中央に、大きくデフォルメされた司教が横たわり、それぞれ左右後方に多くの人が集まっている。その下には、司教の生涯が16(4×4)枚のパネルに浅浮き彫りで表現されている。シーンは、アレッツォの司教と領主の人生、軍事的成功、そして統治の成果などを表している。建築家ジョルジョ・ヴァザーリは、記念碑のデザインについて、ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃~1337)を参考にしていると言及している。

その慰霊碑の右下の聖具室に通じる扉の横に、ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた「マグダラのマリア」(1459年)のフレスコ画が残されている。わずかに隆起した眉毛に、やや視線を下げ、高貴な雰囲気を醸し出している。肩にかかる豊かな髪の毛は1本ずつ細かく描かれ、緑色の下衣に、右手で朱色のマントをたくし上げ、左手に香油壺を持っている。背後のアーチの左柱は、後から設置された慰霊碑で隠れているが、他にも何か描かれていたのだろうか。。


アレッツォから北西に約8キロメートル離れたアルノ川に架かる「ブリアーノ橋」(Ponte Buriano)にやってきた。美術研究家によると、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」(1503年から1506年に制作)の右背景に描かれた橋がこちらの橋と言われている。橋は砂岩素材で、長さ158メートル、幅5.80メートル、高さ10メートル、7つの低いアーチで構成されている。記録では1277年に架けられ1558年に再建、その後18世紀に2度修理されている。


モナリザに描かれた橋と比べると、ブリアーノ橋は、アーチが低い様に見えるが、水量の違いからなのか、何とも言えないが、河川敷には、現在、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたドローイング「ウィトルウィウス的人体図」(1485~1490年頃)をデザインした案内板が解説付きで掲げられている。

そして、アレッツォから30キロメートル南にある、トスカーナ州アレッツォ県、人口約22,000人の基礎自治体(コムーネ)のコルトーナ(Cortona)に到着した。コルトーナは、トスカーナ州で最も古い丘の町の一つで標高600メートルの丘の中腹にあり、玄関口となる「ガリバルディ広場」には、見晴らしの良い眺望が広がっている。時刻は午後8時半、ギリギリ日没前に到着することができた。


夕食は、ガリバルディ広場から、華やかなナツィオナーレ通りを250メートルほど西に歩いたコルトーナの中心「レプッブリカ広場」にある「トラットリア(La Grotta)」に向かった。広場の南側に面した「エノテカ(Molesini)」と「フラワーショップ」間の細い路地を入った突き当りにある。

入口手前に7テーブルほど設置されたテラス席があり、そちらを案内された。なお、店内は、石造りの洞窟スタイルで1階に3部屋ほどあり、位置的には広場に面したエノテカの裏側になるようだ。La Grottaは、トスカーナ郷土料理店で、特にお肉が美味しいと評判である。ワインは、サンジョヴェーゼ種のコルトーナ・ワイン(Angelo Vegni Cortona Sangiovese)を頼んだ。


料理は、まずアンパティストとして、トマトのサラダ、プリモピアットとして、自家製パスタ、タリアテッレとポルチーニ茸などを頼んだ。


セコンドピアットは、ビステッカ アッラ フィオレンティーナ(トスカーナ州の郷土料理Lボーンステーキ)、サルシッチャ(ソーセージ)のグリルを、コントルノ(セコンドピアットの付け合わせ)として、野菜のグリルなどを頼んだ。ドルチェ(デザート)はプリンを頂いた。評判どおり、どの料理も大変美味しかった。人気店でこの日も多くの客が来店しており、ほぼ満席の印象だった。


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コルトーナの玄関口となるガリバルディ広場は、小さなサークル(ラウンドアバウト)で、バスの停留所や車の送迎のための停車場となっており、中央にイタリア王国成立に貢献した軍事家ジュゼッペ・ガリバルディ(1807~1882)を記念したオベリスクが建っている。こちらは、南側から街並みを背景に眺めた様子で、南西側から東側にかけては、欄干手すりのある円形の展望エリアになっている。
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その展望台から南側を眺めてみる。キアーナ渓谷が広がり、丘の斜面に街が続き麓に州道が通っている。すぐ先からウンブリア州となり、遠景として「トラジメーノ湖」が望める。紀元前217年にカルタゴの将軍ハンニバル(前247~前183頃)が、ガイウス・フラミニウス率いるローマ軍を待ち伏せして破った「トラシメヌス湖畔の戦い」が繰り広げられた場所で、ここから見える北湖畔が主に戦場となった。
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やや左側に視線を移動した丘の中腹には、麓から街に上るチェザーレ・バッティスティ通りが走っている。通り左側にある円柱の建物の先に、昨夜宿泊したホテルがある。
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こちらが、宿泊したホテル「Hotel Villa Marsili」で、部屋からは、ガリバルディ広場ほどの標高はないが、パノラマが一望できた。ガリバルディ広場までは、ホテル北側の坂道を200メートルほど西に上ってくると到着する。


さて、昨夜の夕食に引き続き、再び、ガリバルディ広場から「ナツィオナーレ通り」を西に250メートルほど進み、コルトーナのメイン広場「レプッブリカ広場」にやってきた。古代ローマ時代から続く公共広場で、西側にランドマークの「コルトーナの市庁舎」(16世紀改築)が面して建っている。12世紀にロマネスク様式で建てられた庁舎で、広場から続く長い階段は憩いの場所となっている。昨夜も多くの人が階段に座っていたが、今朝は誰も座っていない。
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広場の中心から振り返って、ナツィオナーレ通りの方面を眺めてみる。右側の灰色の建物の1階がエノテカ(Molesini)で、その右隣の路地の先が、昨夜のトラットリア(La Grotta)の場所になる。そのナツィオナーレ通りは、広場を横断して、市庁舎の階段左側のアーチ門を抜けてローマ通りとなり続いていく。
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レプッブリカ広場からは放射線状に道が発出しており、市庁舎の階段右側から延びる通りを北西方向に向かうと、すぐに「シニョレッリ広場」に到着する。正面左側に13世紀に建てられたプレトーリオ宮(現:エトルリア・アカデミー博物館)があり、その先隣に柱廊が美しい1854年建設のネオ・クラッシック様式の劇場(映画館、コンべンションホール)が建っている。


その劇場の手前を左折して進むと「コルトーナ大聖堂」(ドゥオーモ)に到着する。5世紀から6世紀の間にあった寺院の遺跡の上に建てられ、11世紀に教区教会となり、教皇ユリウス2世(在位:1503~1513)により1507年に大聖堂となった。その後何度か改修され現在に至っており、ポーチの横には、アーチや窓の痕が残っている。ファサードに向かって左側は旧市街の西端の城壁となり、美しいパノラマが広がっている。


教会内は、15世紀の後半にルネサンス建築で再建されたものをベースに、身廊を覆うヴォールトは、18世紀初頭に整備されている。主祭壇は、1664年制作の大理石と半貴石の豪華な祭壇で飾られている。この時間はミサの最中で多くの参列者が集まっていた。


ファサードに向かって右側面には、16世紀後半に建設されたロッジアが続いている。フィレンツェの近郊、フィエゾーレより産出した青味がかったグレーの砂岩「ピエトラ・セレーナ(Pietra Serena)」(晴れやかな石の意)が使用されている。細工しやすく、トスカーナ地方の装飾的な建築各部に使用されている。後方の大鐘楼は1566年、地元出身の建築家で、ミケランジェロの助手でもあったフランチェスコ・ラパレッリ(Francesco Laparelli、1521~1570)により建てられた。


そしてコルトーナ大聖堂のファサードの向かい側には、「コルトーナの司教区美術館」があり、ここに、コルトーナ最大の見所の一つフラ・アンジェリコ(1390頃~1455)の「受胎告知」が展示されている。他にも、コルトーナ出身の画家ルカ・シニョレッリ(1450頃~1523)の作品などが展示されている。


こちらが「コルトーナの受胎告知」(1433~1434)(175センチ×180センチ)で、もともと、コルトーナのジェズ教会に所蔵されていた。下部のプレデッラには、聖母の生涯が描かれている。フラ・アンジェリコによる板絵の受胎告知は3点あり、こちらがその内の一つ。他の2点は、プラド美術館と、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ美術館(アレッツォ県サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ)にある。他にフレスコ画が2点あるが、共にフィレンツェのサン・マルコ美術館にある。


右側には「コルトーナの三連祭壇画」(1436~1437)(218センチ×240センチ)が展示されている。祭壇画は、中央に大きな玉座に座る聖母子が、遠近法を駆使しやや前面に描かれ、足元左右に純粋さを表す赤と白のバラの花瓶が置かれている。そして、聖母に向かって左側に、聖ドミニコと聖ニコラスが、右側に洗礼者ヨハネとアレクサンドリアの聖カタリナが配されている。その下のプレデッラには、聖ドミニコの物語が描かれている。
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「コルトーナの司教区美術館」の隣には建物がなく、テラスとなっており、斜面沿いの街並み越しにトスカーナの大地が望める。大聖堂の広場の少し手前から下へと続く道に入ると、大きく左に曲がり、勾配の急な下り坂に繋がっている。振り返ると広場の先に建つファサード横のロッジアと大鐘楼が大きく見上げるほどの位置にある。


路地には中世の邸宅が建ち並び、煉瓦造りのバルコニーを木材で支えている建物もある。近くで見てみると、バルコニーは、やや波打っており安全面で不安を感じる。。


古い街並みが続く路地を抜け「レプッブリカ広場」に戻ってきた。そしてレプッブリカ広場で少し買い物をした後、ナツィオナーレ通りを歩いてガリバルディ広場に戻り、広場西側にあるホテル サン ルカ1階にある「リストランテ・トニーノ(Tonino)」で昼食を食べることにした。
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テラスからは、眩しい日差しの下、トスカーナの雄大な眺望が広がっている。ランチメニューは、アンパティスト、プリモピアット、セコンドピアット、ドルチェとも品数は4~5品ほど。こちらは「カプレーゼ」で、鮮やかな色合いのトマトに、厚切りのモッツァレッラ、新鮮なバジルの一品。美味しいオリーブオイルをかけて頂く。


こちらは「クロスティーニ トスカーナ」で、炙ったバゲットに、鶏のレバーペーストをこんもりと盛った一品。濃厚感はあるものの上品で芳醇な香りが素晴らしい。


こちらは「スパゲッティ・ポモドーロ・エ・バジリコ」で、トマトとにんにくとバジルで作る、シンプルながら奥深い一皿。ちなみに、プリモピアットでは、他に、カルボナーラ、ラザニア、ラビオリポルチーニ、リボッリータがあった。セコンドピアットでは、フィレ アラ グリリア、ピカタ ア ヴィーノ オ リモーネ(レモン又は白ワイン風味の仔牛チーズ焼)、アニェッロ スコッタディート(子羊ロース肉)、オムレツがあったが、頼まなかった。。


食後は、コルトーナを後にし、フィウミチーノ空港に向かった。突き抜けるような青空に中世の街並みがよく映える。。そんな中央イタリアの旅はこれで終了である。
(2006.7.15~16)
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