カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・ウンブリア(その1)

2013-02-13 | 中央イタリア
こちらの東西に延びる外壁は、ローマから東に30キロメートルほど行ったラツィオ州ティヴォリ(チボリ)(Tivoli)にある遺跡「ティヴォリのハドリアヌス別荘(1999年世界遺産登録)」(ヴィッラ・アドリアーナ)の「ポイキレ」で、ギリシャ・アテナイにあった彩色回廊(ストア・ポイキレ)(紀元前5世紀)にインスパイアされ建てられた。駐車場のある入口ゲートからは500メートルほど南にあり、中央のアーチ門(写真は左側)に通じている。


ティヴォリ(チボリ)には、昨夜、午後6時過ぎにローマに到着(成田空港発、仁川経由の大韓航空)し、環状高速道路(グランデ・ラッコルド・アヌラーレ)の東側、プラエネスティーナ街道沿いのホテル(ユーロスターズ ローマ コングレス)に宿泊してやってきた。現在午前10時になり、日差しが強くなってきた。

ヴィッラ・アドリアーナは、古代ローマ帝国の第14代皇帝ハドリアヌス帝(在位:117~138)の指示により建設された1.2平方キロメートルの敷地に30を超える建物群を持つヴィラ(別荘)で、西暦118年に工事が開始され、一時中断後に、皇帝の巡察旅行で魅了された建造物や景観を取り入れて133年に完成している。ハドリアヌス帝は、ローマのパラティーノの丘にある宮殿を嫌い、リトリートを求めていたことから隠れ家として建設されたと言われている(ヴィッラ・アドリアーナ遺跡の概略図)

こちらは、南東側からポイキレの敷地内を眺めた様子で、中央には池があり、東西に延びる北外壁の糸杉で隠れた先が中央アーチ門の場所になる。対して、南外壁は完全に失われているが、大きく土地が下がり下部に2層に分かれた空間「百の小房」が連続して築かれている。ヴィラの施設管理のための職人や警備兵などの寝所だったと言われている。
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ポイキレの東隣にある教会のアプスを思わせる「哲学者の間」の側面門を抜けると、ヴィッラ・アドリアーナ最大の見所の一つ「島のヴィラ」(別名、海の劇場)がある。直径40メートルの大きな円形外壁の内側に、2重のイオニア式円形回廊があり、間には水を湛えた堀がある。堀は北側(左側)にある石橋で行き来きができ、内側の回廊には東屋があった。
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島のヴィラには、付属施設として、ラウンジ、図書室、温水風呂、床暖房付きのスイート、洗面台、ギャラリー、噴水などの設備があった。こちらのヴィラは、地中海を取り囲むローマ帝国をイメージして建設されたと言われている。なお、背後(北東側)の高台に見える3層構造の建物は「ギリシャ語図書館」である。それにしても自然と遺跡との調和が素晴らしく全てが絵になる美しさがある。

そのギリシャ語図書館に東隣には「ラテン語図書館」が続いており、突き当りが「皇帝の食堂」になる。そして向かい側(右側)の広場は「図書館の中庭」だった。ちなみに、皇帝の食堂の先(東方向)に見える山の斜面には、ティヴォリの街並み(新市街)が広がっている。
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島のヴィラから南に向かうと長方形の「養魚池」がある。所々に列柱の跡が残されており、周囲に回廊が形成されていたことが伺える。


養魚池から更に南に向かうと、右側(西側)には「大浴場」があり、ドームと内部にイオニア柱が2本残されている。古代ローマ人、特に裕福なローマ人にとって入浴は非常に重要で、一日のうち数時間、乃至は一日を浴場(テルマエ)で過ごしていた。ハドリアヌス帝は、治世後半、こちらのヴィラから帝国を統治したとの記録が残っており、風呂好きでも知られることから頻繁にテルマエで過ごしていたのかもしれない。今では、こちらの大浴場を背景にコンサートなども開催されている。左側(南側)のアーケードのある建物は「大倉庫」と言われており、右端は3層構造になっている。


大倉庫と大浴場との間を抜けると、ヴィッラ・アドリアーナの見所の一つ「カノプス」で、透けるような青空の下、池に遺跡のシルエットが反射する美しい光景が広がっている。南東側に向けて続く細長い長方形の池(120メートル×20メートル)で、エジプトの2つの都市アレクサンドリアとカノープスを結ぶ古代の運河を象徴したもの。ハドリアヌス帝が、ナイル川で溺死した寵愛する美青年アンティノウスへの想いを具現化し造られたと言われている。
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大倉庫(右上が大倉庫)からすぐ池の手前(北東側)は丸みを帯び、部分的に列柱が再建され、交互に配された水平とアーチ型のアーキトレーブで繋がれている。柱の間には、アレス(火星)、ヘルメス(水星)、アテナ(ミネルヴァ)の彫像が飾られ、すぐそばには鰐の彫像もある。そして、カノプスの向かい側(南東側)には、エジプトの「セラーピス神殿」を模した半円形のドームがある

池沿いを歩き、南東側のセラーピス神殿前から振り返って見る。池の周囲に形成されていた回廊の列柱の一部(4名の女人像と両脇の男性像)が再建されている。女人像はアテネのエレクティオン神殿、エフェソスのアルテミス神殿の模刻との説がある。その女人像のオリジナルは、他の彫像と共に、隣接する博物館に展示されている。


他に「黄金広場」、「皇帝の宮殿」に残るドーリス式柱、管理事務所そば(遺跡入口の近く)の「ヴィーナスの小神殿」などを見学した。遺跡内を実際に歩いてみると、ヴィラと言うより小さな都市遺跡の様に感じた。現在見学が可能なエリアは全体の3分の1ほどで、一層その規模の大きさに驚かされる。これほどのヴィラにも関わらず、ハドリアヌス帝が亡くなった後の記録はなく、3世紀以降には、ローマ帝国を襲った大規模な動乱などから石切り場と化し廃墟となり歴史から姿を消してしまう。その後、発掘されたのは15世紀になってからである。

次にヴィッラ・アドリアーナから、北東4キロメートルほど行ったティヴォリ(チボリ)中心部にある「ティヴォリのエステ家別荘」に向かった。

そのティヴォリ(チボリ)中心部は、旧市街と南側から南西部にかけて広がる新市街に分かれている。こちらは、その境目に建つ城壁を南側の新市街から眺めた様子である。右前方の円形の塔は、教皇ピウス2世(在位:1458~1464)により建設された小さな正方形の城「ロッカピア」(1461年築)の塔で、城から東側と北西側に向け城壁が築かれていたが、現在は北西側の100メートルだけが残っている。城壁のすぐ向こう側(北側)に「ブレソの円形劇場」(184年築、1948年発掘)の遺構があり、塔と城壁と円形劇場を中心にして周りを一方通行の環状道路が通っている。


北西側の城壁の先の環状道路を横断すると「ガリバルディ広場」(80メートル×40メートル)となり、その先のサンタ・マリア・マッジョーレ教会(16世紀再建)が建つ小さな「トレント広場」の西側に「ティヴォリのエステ家別荘」への入口がある。

1550年、エステ家の枢機卿イッポーリト2世・デステ(アルフォンソ1世・デステとルクレツィア・ボルジアの子)(1509~1572)がローマ教皇の座を巡る争いに敗れて、この地に隠匿して造った後期ルネッサンス様式の庭園で、イタリア一美しい噴水庭園として称えられ、現在に伝わっている(2001年世界遺産登録)。入口に建つ別荘は、ベネディクト派修道院を改装したもので、内部は、16世紀ローマ派のフレスコ画やモザイクで豪華に装飾されている。その別荘を抜けるとテラスがあり、真下から北西方向に庭園が広がっている(4.5ヘクタールの矩形の敷地で、東京ドーム約0.96個分)。

テラスからは庭園に向け、左右に折り返し階段が続いている。右階段を下りながら北側を見ると、ティヴォリの大聖堂(サンロレンツォ・マルティーレ)(1641年にバロック建築様式で再建)のロマネスクの鐘楼が聳えている。ティヴォリの旧市街はその大聖堂の少し先までで、その先はティブルティーナ山が聳え、ティヴォリの南東側から街を包み込む様に流れてきたアニエーネ川(テヴェレ川の支流)が西に向けて流れて行く渓谷となっている。
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折り返し階段は、テラスの一段下の踊り場に到着する。すぐ下の「百噴水」から噴き出す噴水の飛沫や、更にその前方の「ドラゴンの噴水」から勢いよく垂直に噴き出す姿が涼しさを与えてくれる。この様に庭園内には、ギリシャ・ローマ時代をモチーフにした噴水が500ほど築かれている。
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この庭園を設計したのは、ヴィッラ・アドリアーナ遺跡を発掘した建築家ピーロ・リゴーリオ(1510頃~1583)で、1563年から2年がかりで斜面をならし、アニエーネ川から地下水道を別荘内に引き込む工事を行った後に、本格的な建築物の工事を始めたが、かなりの難工事で、所有者で依頼主のイッポーリト2世・デステが生存中には完成できなかったとのこと。

折り返し階段は、庭園の東角に到着する。すぐ先には、庭園で最初に作られた噴水の一つで、1570年に完成した「楕円の噴水」がある。上部から流れてきた水が楕円形の噴水台に注ぎ込み、更に噴水台から滝となりプールに注ぎこんでいる。背後には、扇状に水を噴き出す花瓶が壁龕内に置かれ、上部の半円形テラスの手摺りの花瓶からは水が注ぎ出している。まるで、水が織り成すアート作品といった印象で見ていて癒される。


楕円の噴水の先から南西方向に100メートルほどのまっすぐの道が続き、左側には1577年に完成した「百噴水」と名付けられた階段状の噴水設備が続いている(別荘のテラスは噴水後方の上になる)。テヴェレ川の古代の3つの支流(アルブネオ川、アニエーネ川、エルコラネオ川)を噴水に見立て、上下3か所から噴き出しそれぞれの水路を形成している。中段にはエステ家の紋章ワシの彫刻やユリなどのオブジェが交互に配置されているが、多くはシダやコケで覆われている。オブジェの背後は扇状を含んだ打ち上げ噴水で、手前は下方の水路へ吹き出している。
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最下層の吹き出し口は動物の顔から人間の顔まで、様々なモチーフで造られ、それぞれの口から水路へ吹き出している。しかし、中には蛇口だけが残り、噴き出していない個所もある。「百噴水」の景観は、ウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー(1959年)」の宴会シーンなど、多くの映画に登場している。


「百噴水」の中央付近にある右側階段を下りると、左右の回り階段に囲まれた「ドラゴンの噴水」(1572年築)がある。教皇グレゴリウス13世(在位:1572~1585)の訪問を記念して建てられたもので、円形に配置された4体の互いに背を向けたドラゴンが飾られ、中央から水が噴流する仕掛けとなっている。


庭園中心部には、北東から南西にかけて3つの長方形の池が並んでいる。そしてその北東側の斜面には1930年代に建築家アッティリオ・ロッシ(1875~1966)によって整備された「ネプチューンの噴水」がある。更に上部には1566年に建設に着手し、1571年から水圧を利用しパイプオルガンが自動演奏する「オルガン噴水」があり、鷲の彫刻や4体の女性像が並ぶバロック様式のファサードで飾られている。
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ハンガリーの作曲家フランツ・リストは、エステ荘の噴水に因んで曲を作曲しているが、特に、1877年に作曲された「エステ荘の噴水」は、壮麗に吹き上げる噴水が見事に表現された傑作と言われ、その後の音楽会や美術界に多大な影響を与えた。

この豪華な庭園別荘は、イッポーリト2世・デステ亡き後、甥にあたるルイージ・デステに引き継がれるが、その後、1605年に、アレッサンドロ・デステの所有となり大規模な改修が行われ、1641年以降はモデナ公爵家のもとで続けられた。18世紀以降は放棄され荒れ放題となるが、20世紀に入り修復運動が行こり、維持管理が続けられている。

それでは、南北に延びる高速道路に乗り、ウンブリア州に向かう。今回は、ウンブリア州から、エミリア ロマーニャ州、トスカーナ州など中央イタリアを周遊する予定にしている。最初の目的地オルヴィエート(Orvieto)は、ティヴォリから、約120キロメートル北にあるウンブリア州テルニ県にある人口約2万人の小さな基礎自治体(コムーネ)で、丘の上にあることから「天空の街」と呼ばれている。古くはエトルリア人が住んでいたが、紀元前280年頃にはローマ人に攻め落とされている。13世紀から14世紀にかけて最盛期を迎え、15世紀半ばに、教皇領として併合されている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

オルヴィエートの東側には、高速道路と並んで鉄道が走っており、そのオルヴィエート駅の周囲に数か所の駐車場が設置されている。街へは許可のない車の乗り入れはできないため、フニコラーレ(ケーブルカー)に乗ってオルヴィエートに向かう。停留所からは、東西に延びる「カヴール通り」を300メートルほど歩いた右側の丁字路角にある3つ星ホテル「ホテル・コルソ」が今夜の宿泊ホテルになる。ホテルは3階建てで、中央のみ2階建てで屋上テラスがある。


チェックインをした後、やや上り坂の「カヴール通り」を西に向け散策に向かう。ホテルのすぐ西側からは、カフェ、リストランテ、ショップなどが並ぶ賑やかな通りとなる。このカヴール通りが、メインストリートでオルヴィエートの東西を貫いて通っている。


ホテルから500メートルほど賑やかな通りを進むと、前方に「市民の塔(モーロの塔)」(1310年築、高さ47メートル)が見えてくる。この市民の塔が建つエリアがオルヴィエートの中心になる。
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「市民の塔(モーロの塔)」が建つ交差点を鋭角に左折して南に進むと、土産物屋やテラス席で食事をする人々で益々賑わってくる。すぐに視界が開け、大きな広場の中央にゴシック様式の巨大な大聖堂「オルヴィエートの大聖堂」(ドゥオーモ)が現れる。側廊壁は特徴のあるモノトーンの縞模様で、先頭には壮麗で圧倒的な威容を誇るファサードが聳えている。


大聖堂の建設は、教皇ウルバヌス4世(在位:1261~1264)がこの地で「ボルセーナの奇蹟の聖餐布」(ボルセーナでの教会ミサにおいて、パンから滴るキリストの血で聖餐布が染まった。)を奉献し始まったが、完成は4世紀を隔てた17世紀初頭であった。その間、多くの建設家が携わったが、1300年、シエナの建築家・彫刻家ロレンツォ・マイターニが築いた3枚続きの絵画に3つの尖塔を備えたファサードは、イタリア・ゴシック建築を代表する建造物と言われている。
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アーキヴォルトが織りなす扉口間の4つの柱に施された豊かな浅浮彫刻も見所である。こちらには、旧約聖書の創成期から新約聖書の「最後の審判」までを茎とアカンサスの葉を織りなし表現されている。
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大聖堂の右袖廊にある「サン・ブリツィオ礼拝堂」(有料)には、ルネサンス期の画家ルカ・シニョレッリ(1450頃~1523)が描いた「罪されし者を地獄へ追いやる天使」、「蘇る死者」(1500~1504頃)などのフレスコ画があり、その内の2か所のパネルに、1447年、フラ・アンジェリコ(1395頃~1455)が、弟子のベノッツォ・ゴッツォリと共に「キリストの裁き」と「預言者」を描いている。

「市民の塔(モーロの塔)」が建つ交差点に戻り、北側に行くと「ポポロ広場」に到着する。広場北面には12世紀に建てられたロマネスク・ゴシック建築の「ポポロ宮」が建っている。オルヴィエートが自治都市だった時代には「隊長の館」と呼ばれており、現在は会議場となっている。下層からはエトルリア時代の神殿遺跡が発見されている。


再び「市民の塔(モーロの塔)」が建つ交差点に戻り、次に西に200メートルほど行った南隣りに「レプッブリカ広場」(共和国広場)があり、広場南面には大きな7つのアーチ門(中央は通り抜け可)のある「市庁舎」(15世紀改築)が建ち、東面には小さな二連アーチが並ぶ十二角数の塔を持つ「聖アンドレア教会」(12世紀築)が建っている。


夕食は、ホテルと「市民の塔(モーロの塔)」の中ほど「カヴール通り」沿い南側のサンタンジェロ広場にあるリストランテ「イ・セッテ・コンソリ」(I Sette Consoli)を予約している。広場には聖マリア教会のファサードが面し、教会に隣接して左側に建つ3階建ての建物の1階がリストランテの入口になる。


テーブルは聖マリア教会の鐘楼が望める中庭のテラスに案内された。飲み物は、ウンブリア州のモンテファルコ・サグランティーノ コレッピアーノ アルナド・カプライを頼んだ。


料理はお勧めの、本日のサジェッション・メニュー(40ユーロ)を頼んだ。内容は、アミューズブーシュがあり、前菜は、「オムレツ」(シルバースキンオニオン、アロマティックハーブ、ウンブリア産ラードとバルサミコドレッシングを添えたもの)。次に「タリオリーニ」(アサリ、ブロッサムズッキーニ、ローストチリトマト、カラスミを添えマジョラムの香りで味付けしたもの)。
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そして、「チンタ セネーゼ ポークのトルテリーニ」(ヴァレンターノ産のひよこ豆のソース、ハムのみじん切り入りを添えたもの)。メインには、「ポークフィレ」(湯通ししたポークフィレに、粗塩、豆のソース、ボルロッティ豆、ローズマリーオイルを添えたもの)。更に「チーズの盛り合わせ」があり、最後に「桃のデザート」(ピーチパフェ、ピンクペッパーをかけたピーチ、そしてアマレットリキュールをかけたアイスクリームと一緒に)だった。ポーション自体は小さめだったが、さすが有名店であり、どの品も、味付け、食感、香りなどがバランスよく繊細に絡み合い、見事に仕上げられている。ワインとの相性も良く大変満足できた。

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翌朝ホテルで朝食を食べ、9時過ぎに、オルヴィエート大聖堂の右袖廊向かい側にある「オペラ デル ドゥオーモ博物館」の見学に向かった。シモーネ・マルティーニのサンドメニコの多翼祭壇画、フランチェスコ・モーキ(1580~1654)の「受胎告知の聖母」と「受胎告知の天使」(博物館展示パネル)を始め、ルネサンス期のルカ・シニョレッリの絵画、ルカ・デッラ・ロッビアのテラコッタ、サン・サヴィーノの頭蓋骨の遺物、羊皮紙に書かれた大聖堂の設計草案、金細工職人のオブジェなど13世紀以降の様々な時代の彫刻や作品が収められている。

次に、リストランテ・イ・セッテ・コンソリと「市民の塔(モーロの塔)」との間、カヴール通り沿いの南側にある「マンチネッリ劇場」(劇場案内パネル)の見学にやってきた。1862年、イタリア建築家ヴィルジニオ ヴェスピニャーニ(1808~1882)などにより、新古典主義様式で建設されたもので、入口の7つのアーチからなるポルチコが特徴である。地元オルヴィエート生まれの音楽家ルイージ・マンチネッリ(1848~1921)の功績遺徳を顕彰して名付けられた。


マンチネッリは、ボローニャ音楽院院長として、ペルージャ、ローマ、ボローニャ等で指揮を執り、海外においてはマドリッド、ロンドン、ブエノスアイレス、ニューヨークなどで精力的に活動した。ニューヨークではメトロポリタン歌劇場の指揮者となり世界中に知られている。国内では、ジュゼッペ・ヴェルディやジャコモ・プッチーニのオペラなどワグネリズムを積極的に紹介した。

入口を入ったホワイエはルネサンス様式で装飾されたヴォールト天井で、ロゼット装飾、コリント式の柱頭、手すりなどクラシックスタイルを用い、エレガントで居心地の良い空間が演出されている。そして劇場は馬蹄形で、観客席は1階と、周囲に4層のボックス席が配され、古典的なイタリア劇場の様式となっている。舞台のメインカーテンは、チェザーレ・フラカッシーニ(1838~1868)の歴史画で、535年、東ローマ帝国の将軍ベリサリウス(500頃~565)が、ゴート族の包囲からオルヴィエートを解放する様子が描かれている


天井も、同じくフラカッシーニによる作品で、メダリオンには12の寓話を女性像で表し、外側には古典メダルに、作曲家のロッシーニ、ベリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディなどや、詩人のメタスタージオ、アルフィエーリ、カルロゴルドーニなどの肖像画で飾られている。そして中央には、豪華な16世紀の古典様式のシャンデリアが吊り下げられている。フラカッシーニの自然主義的なスタイルは、ローマ教皇領と州で高く評価されていたが、腸チフスでわずか30歳で亡くなっている。ローマ市は、ローマフラミニオ地区に胸像を建立し彼を称えている。
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オルヴィエートは、中世から続く歴史的な街並みがコンパクトに凝縮しており、小粋なカフェやリストランテ、お洒落なショップが美しく調和するなど散策するのが楽しかった。

次に、約30キロメートル東にあるトーディ(Todi)に向かった。ウンブリア州ペルージャ県にある人口約1万7000人の基礎自治体(コムーネ)で、オルヴィエート同様に、丘の上に街が建設され、過去、エトルリア、ローマ帝国、教皇領と様々な支配を経験している。中世には都市国家的な自治政治も行われており歴史的な建物も残っている。

午後1時半頃、トーディの中心地「ポポロ広場」のすぐ南東側にある「ガリバルディ広場」に到着した。広場のテラスからはパノラマが広がり、南東側にはブドウ畑が広がる丘の斜面から麓の新市街一帯が一望できる。
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昼食は、ガリバルディ広場近くのピッツェリア「カヴール(Cavour)」で頂いた。ガリバルディ広場から麓に延びるトーディの目抜き通り(ローマ通り)からすぐ東側の路地に入った所にある。魚介のマリネやピッツァなどを注文したが美味しかった。流石に本場イタリアで食べるピッツァは美味しい。


ワインは、トーディで生産されるカンティーナ テュデルナム サンジョベーゼ コッリ マルターニを頼んだ。ラズベリーの香りで果実味がある。


食後は、ガリバルディ広場の北西側に隣接するトーディの中心広場「ポポロ広場」に足を延ばした。北側正面の大きな階段の上に建つゴシック様式の建物が「トーディ大聖堂」(ドゥオーモ)で、古代ローマ時代にアポロ神殿があった場所に建てられている。


現在の建物の原型は、焼失した前身の教会を受け1190年に再建されたが、正方形のファサードはビリオッティ司教の下、1517年から1523年の間に完成したもので、大きなバラ窓やポータルの木製ドアの繊細な浮き彫り装飾が見所となっている。入り口を入ったファサード内側には、ファエンツァ出身の画家フェッラウ・フェンツォーニ(1562~ 1645)が、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画に触発され描いた「最後の審判」のフレスコ画がある。

トーディ大聖堂の階段上からポポロ広場を振り返ると、「プリオーリ宮」(隊長の館)が大聖堂と向かい合う様に建っている。そして、プリオーリ宮の左側にあり、ポポロ広場に大きく張り出した階段のある建物は、1214年に建てられたイタリア最古の市庁舎の一つ「ポポロ宮殿」で、南側はガリバルディ広場に面している。その手前の旗が掲揚されている建物が1293年頃に建てられた「カピターノ宮殿」で、現在は、司法ホールや裁判官の事務所などが入居している。最上階は、ポポロ宮殿の最上階と繋がる「市立美術館」で、エトルリア時代から中世、近世までの遺物、彫刻、絵画作品などが展示されている。


次にルネサンス期の画家マソリーノ(1383~1440頃)のフレスコ画を見に行った。場所はプリオーリ宮に向かって右側にある通りから南に下り、道なりに大きく右側に曲がった左側に現れる大階段と芝生の先の「サン フォルトゥナート教会(Chiesa di San Fortunato)」内にある。教会は、1198年、教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)による創建で、1292年にロマネスクからゴシック様式への改修工事が始まったが、ファサードは一部未完成のまま1436年に終了している。なお、南側の後陣の先からはパノラマが広がっている。

教会内には、フレスコ画や彫像で飾られた13の礼拝堂があり、後陣に向かい右側4番目の礼拝堂の右壁面に、マソリーノの「聖母子と二人の天使(1432年)」がある。繊細な描線と温和な色彩が醸し出す静かで叙情的なマソリーノらしい作品である。
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トーディでは、最後に、南西側の街外れの斜面の芝生内にポツンと佇む「サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会」に寄った。中央部の正四角柱に大ドームを頂き(高さ約50メートル)、四方に同じ形の半ドームの後陣が囲むルネサンス的美学を反映した「集中式、ギリシア十字形プラン」(ファサードを持たない)で、1508年から100年の歳月を費やし建設されている。


扉口は、東側の後陣下部に向けて幹線道路から芝生内に直線の石畳歩道が設けられている。教会内部にはバロック様式の大きな衝立祭壇があり、他の二つの後陣には扉口左右に彫像群が並び、もう一つの後陣にはパイプオルガンが設置されている。ちなみに、お昼のピッツェリア「カヴール」に、草原の中に立つ教会が描かれた絵が飾られていた。

次に、トーディから直線距離で20キロメートルほど東にあるスポレートに向かう。道路自体は中央の山脈を南に迂回して通っているため1時間以上かかる。そのスポレートは、周囲を広大な山に囲まれた高い標高にあり、古代のフラミニア街道(ローマ=リミニ間)の東の分線に位置し、長く戦略的・地理的な要所とされてきた。中世には一帯を支配したスポレート公国(570~1198)の都として栄えた。現在は、ウンブリア州ペルージャ県にある人口約3万8000人の基礎自治体(コムーネ)である。

スポレートでのホテルは、旧市街の中心部の「リベルタ広場」北側に面した3階建ての「ホテル・オーロラ」で、1階に複数並ぶアーチ扉の一つをくぐった中庭の奥にフロントがある。この日は、FIFAワールドカップのイタリアとフランスとの決勝戦と言うことで夜遅くまで町中大変な賑わいだった。


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翌朝、街の散策に出かけるため、ホテル・オーロラへの入口と別のアーチ扉をくぐると、古い建物が密接する石畳の細い下り坂の小道(サンターガタ通り)が続いている。振り返ると上部に小さなアーチ橋が架かり、路地裏には中世時代と変わらぬ風景が今も残されている。そんな路地裏に旧サンターガタ教会、ローマ時代の円形競技場、考古学博物館などの複合施設への入口があるが、まだ開いていない。


敷地内へ入ることはできないが、リベルタ広場の西側に設けられた壁面アーチ扉から、ローマ時代の円形競技場(1世紀)の観客席や旧サンターガタ教会(12世紀)の後陣を見渡すことができる。円形競技場は中世以前の地震崩壊後、石切場になったが、近年修復されショー、コンサート、祭事などで利用されている。

リベルタ広場から、路地を東方向に進むと旧市街の外れとなり右側に眺望が広がり始める。前方の緑の大きなモンテルーコ山が迫る深さ80メートル渓谷(テヴェレ川の支流テッシーノ川が流れる)に、全長200メートルの息を飲むような巨大な「トーリ橋(塔の橋)」が架かっている。古代ローマ人により3世紀に建設された巨大な水道橋で、その後14世紀に改修された。モンテルーコ山側には、監視塔が設けられている
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水道橋には、高い防護壁と低い手摺りに挟まれた幅2メートルほどの通路があり、歩行による横断が可能となっている。渓谷を見下す中央付近から旧市街側を振り返ると「サンテリオ丘」頂上に「アルボルノツィアーナ要塞」が望める。スペイン出身のアルボルノス枢機卿(1310~1367)の指示の下、グッビオの建築家マッテオ・ガッタポーネにより1359年から1370年にかけて建設されたもので、当時、アヴィニョン捕囚(1309~1377)下にあったローマ教皇の権威を軍事的に強化する目的があった。
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要塞は、堅固で堂々としただけでなく快適な住居としても工夫されており、教皇ニコラウス5世(在位:1447~1455)を始め多くの教皇や、スポレートを治めたルクレツィア・ボルジア(1480~1519)などが滞在したという。しかし、16世紀以降は要塞の重要性が大幅に失われ、1764年以降は知事の住居として、1817年から1982年までは刑務所として利用された。

アルボルノツィアーナ要塞のあるサンテリオ丘の向こう側(北側斜面)に「スポレート大聖堂」(ドゥオーモ)(サンタ・マリア・アッスンタ聖堂)が建っている。旧市街中心部からは東に200メートルほどの丘の中腹に位置し、専用スロープを下った広場に面して建っている。現在の大聖堂の建設は、ローマ神殿の後に建てられた教会が前身となり、1155年、赤髭王(バルバロッサ)フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝、在位:1155~1190)により街を破壊された後に始まった。


当時「スポレート公国」は、自治権を持っていたが、神聖ローマ帝国の一部でもあった。「カノッサの屈辱(1077年)」以降の激化する神聖ローマ皇帝とローマ教皇との対立の中、スポレートは、教皇派から教皇領として譲渡されてしまい、双方の支配から自治を取り戻すべく戦いを開始した中での破壊であった。現在の教会と鐘楼は、街の再生と共に始まり13世紀にロマネスク様式で一応の完成をみるが、1491年にアントニオバロッシと彼の工房により、ファサードにルネサンス様式のポルチコが追加された。その後、17世紀から18世紀にかけて、大聖堂の内部はバロック様式で大規模な改修が行われている。

ファサードには、マエストロ ソルスターノによる黄金をバックにしたモザイク画「祝福を授けるキリスト」(1207年)と直径4メートルの大きなバラ窓を中心に、周囲に合計8つのバラ窓で飾られている。


大聖堂の最大の見所が、ルネサンス様式の主祭壇に描かれたフィレンツェ派を代表する画家フィリッポ・リッピ(1406~1469)によるフレスコ画「聖母の生涯」である。こちらのフレスコ画は、リッピが、フィレンツェ近郊のプラート大聖堂の大作「聖ステファンと洗礼者ヨハネの物語」を完成させて間もない頃に依頼を受け1467年から制作を始めたもの。
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フレスコ画は、繊細な装飾が施された柱とエンタブラチュアの凱旋門からの視点で、聖母のエピソードが構成されている。最初に左側面に、白い建物内で神のお告げを受け入れるマリアが描かれた「受胎告知」があり、右側面に、家畜小屋の前で誕生したキリストにマリアが手を合わせる「キリストの降誕」がある。そして中央に描かれているのが「生神女就寝」で、最後に上部のエクセドラ(アプス)の「聖母マリアの戴冠式」へと続いている。どのエピソードも色彩豊かに繊細かつ流麗な線描で描かれている。
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「生神女就寝」には、作者のフィリッポ・リッピ自身や息子、弟子たちが描かれ、聖母マリアは、リッピの妻ルクレツィアをモデルにしているとも言われている。

しかし、フィリッポ・リッピは、制作中の1469年に過労により転落して突然亡くなってしまう。最終的に彼のワークショップにより完成するものの、57歳での突然の死は、過去、修道女だった妻ルクレツィアと駆け落ちし修道士から還俗させられたことから、奔放な人生が招いた女性問題などが原因で毒殺された説もある。

聖堂の主祭壇手前の南(右)袖廊にある祭壇の左側に、フィリッポ・リッピが眠る墓があり、壁にはフィレンツェのロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492)の依頼により、息子のフィリッピーノ・リッピによって設計された墓碑(1490年)が掲げられている。なお、リッピの墓と向き合う様に右側には、ローマの貴族でウンブリア州に影響力を持っていたジョヴァン・フランチェスコ・オルシーニの墓もある。

そして、聖堂の主祭壇右側の通路の先には「サンティッシマ・イコーネ礼拝堂」があり、中央には聖母が描かれた11~12世紀のビザンチンのイコンが祀られている。1185年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王バルバロッサ)から、長年の教皇との対立に一応の決着が付いた和解の印としてスポレートに寄贈されたもの。ちなみに、スポレートは1201年から教皇領となり1213年からは教皇庁により直接統治を受けることとなった。
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スポレート大聖堂のもう一つの見所は、聖堂内部に入った最初の右側廊奥にある「エロリ司教の礼拝堂」である。1497年に司教コスタンティーノ・エロリ(在任:1474~1500)により建てられたもので、ルネサンス期の画家ピントゥリッキオ(ベルナルディーノ・ディ・ベット)(1454~1513)のフレスコ画「聖母子と諸聖人」で覆われている。 上部のアプスには、祝福を受ける父なる神が天使と共に描かれ、下部の説教壇には敬虔なキリストが描かれており、プレデッラが張り出している様に見える。


中央には、殉教の象徴とされるヤシの木と菩提樹が立つ丘の上に、ローブに身を包み、頬の赤味が印象的な聖母が、優しい眼差しで幼子を抱きかかえて座っている。聖母の左右には、洗礼者ヨハネとヒエロニムス(レオナルド)が控え、背景の港町には、聖ドミニコの説教を聞くため、多くの人が集まっているのが見える。
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最後に、スポレート大聖堂の西側にある旧市街の中心部の「メルカート広場」にやってきた。古くはローマ時代のフォロ(広場)だった場所で、広場北側の噴水が見所となっている。モンテルーコ山からトーリ橋を経由して供給されており、現在のバロック様式の噴水は1748年に制作されたもの。中央の吹き出し口からすぐ下のボウルを経由して、地上のプールに滝となって流れ出る仕組みとなっている。プールの左右にもサイドマスクがあり吹き出し口が設けられている。
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大きく色合いが異なるファサードの上部のペディメント部分は、1626年、フィレンツェ貴族バルベリーニ家が制作したもので、1608年から1617年までスポレート司教を務めた教皇ウルバヌス8世(在位:1623~1644)を称える碑文が書かれ、彼を始め、彼の弟や甥を含めた4人のバルベリーニ家の”蜜蜂をモチーフとした紋章”が飾られている。

広場周囲にはカフェ、リストランテ、食料品店などのお店があり、この日は、噴水前でミニコンサートが開かれていたが、昼前の午前11時にも関わらず、観客や人通りが少なく、やや寂しい印象だった。
(2006.7.8~10)
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