こちらは、モンテファルコ(Montefalco)で、ウンブリア州ペルージャ県にある人口5~6千人の小さな基礎自治体(コムーネ)、スポレートからは20キロメートルほど北にある。街は東西の長辺が300メートルほどの長方形の城壁で覆われており、西側に建つ時計のある楼城門(正面)から旧市街に入場できる。
モンテファルコは、標高500メートル前後の丘陵地帯の峰と峰とを結んだ高い場所に位置することから「ウンブリアの手すり」と呼ばれ、歴史的建造物の建つ中世の街並みを残す「イタリアの最も美しい村」にも登録されている。そのモンテファルコを世界的に有名にしているのは、タンニン成分を多く含んだサグランティーノ種から作られる赤ワインで、生産者が少なく大量生産が難しいことから希少価値の高さが一層評価を高くしている。
なお、ワインとは関係がないが、途中に、満開に咲き誇こる大量のひまわり畑が続く美しい景色があり、映画「ひまわり」(1970年)のシーンを思いだし感銘を受けた。
楼城門にあるアーチの向こうには、街のメインストリートで石畳のまっすぐな上り坂が続いている。ちょうど車が上って行ったが、ぎりぎり離合できる道路幅はありそうだ。左右には土産店、洋服店、カフェなどが並んでいるが人通りは少なく閑散としている。
午後2時を過ぎて、すっかりお腹も空いていたので、上り坂の途中から右側に入った通り裏側にあるリストランテ「Ristorante Il Coccorone」で昼食にする。古びた石壁にはランチメニューが貼られており、手ごろな値段で美味しそうだったので、特に予約もなしに入った。入口はくぐり戸から階段を上った先にある。
店内は、既に昼時を過ぎていたこともあるのか、他に来店客はいなかった。少し不安になったが、清潔な白壁に木材の天井と煉瓦のアーチが温かみを感じる造りで、親切な女性シェフの応対に、案内されるがまま着席した。
最初に、頼んだ青菜の炒めものは、どこにでもありそうなシンプルなものだったが、食べてみると新鮮で味に深みもあり美味しい。次に、お勧めされたパッパルデッレ アルサ グランティーノは、自家製パスタで、キアニーナ牛のラグーに、きのこ、トリュフが合わさっており、絶妙な麺の食感と豊かな香りが最高の一品だった。なお、ウンブリア州は黒トリュフの一大産地としても有名である。
飲み物は、アントネッリ モンテファルコ サグランティーノを頼んだ。アントネッリは、西に4キロほど離れた丘陵地にワイナリーがあり、エレガントで力強い豊富なタンニンと、甘い果実の香りとのバランスが絶妙なワイン。
メインは、お肉がお勧めとのことで、炭火で焼いたスペアリブを頂いたが、こちらも、見た目はいたってシンプルだが、肉の旨味と焼き具合が絶妙で大変美味しかった。すっかり満足してしまい、このお店だけで、モンテファルコに来た目的は達成したと思えるほどだった。また機会があれば再訪したい。
再びメインストリートに戻り、東側への坂道を上り詰め、右側のポルチコを過ぎると前方に視界が広がった。こちらが、モンテファルコの中心地「コムーネ広場」で、広場中央から振り返ると、ポルチコを備えた小ぶりで気品のある「モンテファルコ市庁舎」が広場を飾っている。13世紀に建設されたもので、上部に時計、後部に塔を配している。
市庁舎を正面にみて、後方右側から北東方面の路地を進んだ右側に「サン・フランチェスコ美術館」がある。1338年、フランチェスコ会の修道士によって建てられた教会で、1861年にイタリア王国の宣言により修道院の所有物が没収され、その後市民病院となり1990年以降に現在の美術館となった。旧教会と新たな付属施設との複合体の美術館で、館内には15世紀から17世紀のルネサンス美術作品が展示されている。
木製のトラス天井の身廊奥には、左右に小礼拝堂を備えた礼拝堂があり、内部にある木製の聖歌隊席の上の5つの壁を飾るのが、フィレンツェ出身のイタリア・ルネサンスの画家ベノッツォ・ゴッツォリ(1421頃~1497)により描かれた連作「聖フランチェスコの生涯」(1452年)である。ゴッツォリの画家人生は、フラ・アンジェリコの弟子兼助手から始まったが、こちらのフレスコ画は、ゴッツォリが、アンジェリコから離れ、独立してウンブリアに活動の拠点を移し活躍し始めた若かりし頃の連作である。
ちなみに、彼の代表作の一つは、フィレンツェに戻った30代後半から手掛けたメディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂(フィレンツェ)のフレスコ画「東方三博士の行列」(1459~1460)で、国際ゴシックの影響を受け、明るい色彩の中に多くの人物や動物たちが、華やかに、生き生きと描かれた魅力的な作品で知られている。
木製の聖歌隊の上の後陣の5つの壁面に、3層12のシーンが描かれ、左下から右方向にエピソードが進んでいる。最初の場面は、厩舎で誕生したフランチェスコが産湯で清められており、隣で巡礼者であるキリストが、フランチェスコの家を訪ねている。フランチェスコがキリストの再来であることを示している。その隣の画面には、貧しい兵士に衣服を与えるフランチェスコが描かれている。
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ところで、フランチェスコは、1181~1182年頃、ウンブリア州ペルージャ県アッシジの裕福な毛織物商人の家に生まれている。青春時代は、自由奔放に過ごし、騎士に憧れ戦場に赴むくものの捕虜となり大病を患う。そんな中、夢でキリストに出会い、回心して神の道に生きることを決意し、事物への執着を断って奉仕と托鉢の生活を始める。そんな生きざまに共鳴した若者たちが集い、1209年には「小さき兄弟会」(後のフランチェスコ会)を創立、その後も教えを説きながら各地を巡り、1226年10月3日アッシジで帰天している。
右下では、稼業の売り上げをアッシジ司教に寄進するフランチェスコと、それに反対する父親とが対立するが、フランチェスコは「全てをお返しします」と衣服を脱いで父に差し出している。フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切ってしまう。
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教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)は、夢の中で、傾いたローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂をたった一人で支えるみすぼらしい修道士の姿を見る。その男はフランチェスコであった。
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こちらは、ひざまつくフランチェスコとシルヴェストロ修道士が、アレッツォの街の外から悪魔を追い払い、平和を取り戻すことを祈っている。アレッツォの美しい街並みや、躍動感のある個性的な悪魔の姿も素晴らしいが、作品は、悪魔退散を祈るフランチェスコの表情に焦点を当てた構成となっている。
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作品全体は、フラ・アンジェリコの作風は残りつつも、ジョットの影響も見られるとの評価を受けている。どの作品も細かいディティールや多くの人物が、色彩豊かに丁寧に描き込まれている印象的な連作である。
右側には、ペルジーノ(Perugino)(1448頃~1523)のフレスコ画「キリスト降誕」(1503年)がある。こちらは、エディクラ(厨子)に描かれた作品で、上部には「受胎告知」が、アプスにあたる個所には、楕円形の身光に包まれた父なる神「永遠の栄光」が描かれている。
そして、その下に緑の丘陵地が広がり地平線上に青い水辺が広がる中、装飾柱に支えられた東屋風の開放的な厩舎に、幼子を囲み傅くヨセフとマリアたちの姿の「キリスト降誕」が描かれている。ペルジーノは、ペルージャ近郊出身のルネサンス期のウンブリア派を代表する画家で、システィーナ礼拝堂の壁画装飾の責任者(1481年頃)や、若きラファエロの師(1500年頃)としても知られている。
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身廊の右側のアーチ壁の奥は、サン ジロラモ礼拝堂で、ゴッツォーリは聖ヒエロニムスの生涯の物語を描いているが、大半は失われ天井部分のみが残っている。他にも、美術館には、司祭の法衣や、儀式で使用する法具や荘厳、木造の彫像、絵画などが展示されていた。
最後に、メインストリートを街の入口方向へ下り、楼城門の手前から右折して城壁沿いを200メートルほど歩いて行くと城壁は腰ほどの高さになり、街の北側が見渡せる。次に、前方に見えるスバシオ山(標高約1,300メートル)の斜面に位置するフランチェスコの故郷、アッシジ(Assisi)に向かう。
アッシジは、モンテファルコからは北に30キロメートルほどのウンブリア州ペルージャ県にある人口2万人強の城郭都市(旧市街)で、スバジオ山の斜面に広がっている。こちらは、そのアッシジ旧市街の西側斜面に建つ「ホテル ジオット アッシジ」(Hotel Giotto Assisi)の部屋からの眺めで、南側の麓近くに建つ「聖ペテロ修道院」(ベネディクト会のカシネーゼ会)が見渡せる。先ほどまで滞在したモンテファルコは、遠くの山並みの左方向になる。
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アッシジは、先住民族ウンブリ人がスバジオ山の斜面に作った歴史ある都で、ローマ帝国時代には、直径2キロメートルほどの細長い城郭都市となった。そして中世時代には都市国家になり皇帝派を選択するが、教皇派となった近隣のペルージャとの間で抗争が激化する。その後教皇派となった後は城壁外に市街が拡大し、とりわけルネサンス期に街は発展した。現在では、フランチェスコの出身地として、世界遺産「アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」として、多くの巡礼者や観光客が訪れている。
時刻は現在午後7時、これからホテルの北側を東西に延びるポルティカ通りを東方向に上って、旧市街の中心付近にあるリストランテに夕食を食べに向かう。
ポルティカ通りの坂を上り詰めると旧市街の中心地「コムーネ広場」に到着する。広場には市役所やインフォーメーションセンター、カフェ、レストランが集まった賑やかな広場となっている。広場の北面には「ミネルヴァ神殿」が建っている。ペディメントを6本のコリント式円柱が支える紀元前1世紀の古代ローマ時代の古い建造物で、今もなお美しい姿を見せている。隣接する時計塔は「人々の塔」と呼ばれ47メートルの高さがある。
目的のリストランテは、そのコムーネ広場の北東側から延びる細い上り坂の「サン・ルフィーノ通り」の途中にあるが、予約時間まで少し早いので、その先の「サン・ルフィーノ広場」まで足を延ばした。複数からの路地が交差する広場の向かい側には赤く染まるロマネスク様式の「サン・ルフィーノ大聖堂」が建っている。1228年に、古い教会の上に建てられた大聖堂で、現在も、床のガラス下に古い教会の遺構を見ることができる。ファサードには左右に小バラ窓を備えた、福音伝道者の4つの小さな浮彫を配した大バラ窓があり、その下には小さな浮彫アーチが優雅に装飾されている。塔は、現ファサードより100年前の古い教会時代からのものである。
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その後、再び、サン・ルフィーノ通りに戻り「リストランテ・ラ・ランテルナ(La Lanterna Ristorante Pizzeria)」で食事をした。狭い通り沿いに屋外テラス席が並び、後方の路地に入口がある。建物の外壁と同じく、歴史を感じる古い石壁とアーチのある店内で、木製の家具や植物が飾られている。
ワインは、アッシジ近郊のトルジャーノ・ロッソ アンティニャーノを頼んだ。昼に少し贅沢したのでややお得なワインだが、味わいは、やや渋みがある印象。
こちらでは、ウンブリア料理と、ピッツァが種類も多くお勧めとのことだが、昼の満腹感が多少残っていることもあり、軽めにと思いラビオリを頼んだ。
他にトマトが入った生野菜、きのことじゃがいものベーコンソテーや豚肉のソテーなどを頂いた。料理は味付けもしっかりしており、大変美味しかったが、モンテファルコのリストランテが良すぎただけに比較すると普通となってしまう。。
食後は、コムーネ広場に面するミネルヴァ神殿まで戻ってきた。この時間ポルチコ内は美しくライトアップされている。内側に十字架が飾られた「サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会」の入口がある。
1539年、教皇パウルス3世の願いに従って造られ、その後17世紀にバロック様式で改修されている。教会名のソプラとは最高声部のソプラノのことで、ミネルヴァの”上(ソプラノ)”に造られた教会を意味している。教会内には、17世紀に作られたバロック様式の祭壇があり中央に漆喰で飾られた聖母マリア像が飾られている。
そして、右側には、アントン・マリア・ガルビ(1718~1797)の「アヴェッリーノの聖アンドリューの死」の祭壇画と、左側には、マーティン・ノラー(1725~1804)の「聖ヨセフの死」の祭壇画がある。
東に歩いて行くと「聖キアーラ聖堂 」に到着する。キアラ(クレア)(1194~1253)は、フランチェスコに帰依した最初の女性とされている。こちらの聖堂は、キアラが亡くなった1253年から建設が始まり1257年に完成した。スバジオ山から掘り出される白とバラ色の石灰岩を縞模様に積み重ね、中央にバラ窓と入り口を一つずつ配したシンプルで美しい教会で、教会前の広場の中央には噴水があり、左側のテラスからは眼下を一望できる。
旧市街の中心部を散策して、ホテル ジオット アッシジに午後10時半に戻ってきた。ホテルに向かって左側に後方からの下りの坂道(ポルティカ通り)が通っており、その後方が旧市街の中心方面になる。ホテルは広場兼駐車場に面して東側に建っており、眺めの良いテラスは、右側の南側になる。
部屋の窓からは、真下に建つ聖ペテロ修道院がライトアップされていた。その先にアッシジ新市街の街並みが広がり、明かりが見渡せるが、今夜は明るい満月(luna piena、ルーナ ピエーナ)の輝きの方が印象に残った。
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翌朝、朝7時半に朝食を頂きにホテル内の朝食会場にやってきた。カウンターには、たくさん食べ物があると思いきや、パン、コーンフレーク、ヨーグルト、牛乳、ジュースだけで、あとはパンに付けるジャム、マーガリン、バターがやたら置かれていた。。カプチーノは、スタッフに直接注文する。イタリアのホテルでの朝食は概ねこんな感じである。
こちらが、ホテル前の駐車場からの眺めで、街の南麓からウンブリア州の緑の丘陵地帯が一望できる。左側の塔は、部屋から見えた聖ペテロ修道院の塔である。今朝も青空が広がっている。
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最初に「アッシジのサン・フランチェスコ聖堂」に向かう。ホテルからはポルティカ通りを西側へ下り、アッシジへの入口となる「フランチェスコ門(西門)」手前から、今度は上り坂を西に向け進んで行く。ホテルからは200メートルほどで「サン・フランチェスコ聖堂の下の広場」に到着する。広場は、左右手前にアーケードがある細長い”コの字”の回廊で、聖堂まで100メートルほどを進むと前方に多くの人が列を作る入口が見えてくる。
サン・フランチェスコ聖堂は、街の北西側の斜面の上に建ち、その斜面を有効に利用するため、上堂部分(ゴシック様式)と下堂部分(ロマネスク様式)と二堂に分かれている。広場は、その下堂部分のファサード前に到着する。
ポータルは2つの柱で支えられた大きなアーチがあるポーチで覆われ、上部にはフリーズと左右に聖人像の浮彫が施されている。内側側面には、モザイクで飾られたペディメント(フランチェスコの祝福)があり、正面はバラ窓のある尖塔アーチで、2連の多葉形の両開きの扉がある。ゴシックポータルは1271年以前に完成したもの。
下堂入口横にある階段を上ると、上堂のテラスとなりサン・フランチェスコ聖堂全体を眺めることができる。聖堂は、アッシジに生まれ、死後に聖人に列せられたフランチェスコの功績をたたえるために、1228年に教皇グレゴリウス9世(在位:1227~1241)によって建築が始まったもので、1253年に一応の完成をみたとされている。その後、何度か改修を経て、現在の姿となった。
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聖堂にはチマブーエ(1240頃~1302頃)、ジョット・ディ・ボンドーネ(ジョット)(1267頃~1337)、シモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)などの画家の手になるフレスコが多数描かれ、下堂はチマブーエの「玉座の聖母と4人の天使と聖フランチェスコ」が見所で、上堂にはジョットによるフレスコ画「聖人フランチェスコの生涯」が一番の見所である。フレスコ画は、1997年9月26日に発生したウンブリア・マルケ地震で聖堂の建物は大きく損傷したが、ボランティアによる修復工事などにより、2000年にはほぼ元の形に戻って公開されている。
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フランチェスコの生涯を描いた有名なジョットの連作壁画は、身廊の下部を取り巻く様に、後陣側から拝廊方向へかけての北壁面に13枚、東の拝廊左右に2枚、拝廊側から後陣方向へかけての南壁面に13枚の計28枚が続いている。どの壁画も、見上げた位置にあることから、間近で鑑賞できる。有名な「小鳥に説教する聖フランチェスコ」は、バラ窓の拝廊に向かって右下にある。
画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
サン・フランチェスコ聖堂の見学後は、昨夜、外観見学のみだった「サン・ルフィーノ大聖堂」を見学し、「聖キアーラ聖堂」と広場のテラスから眺望を眺め(右側は聖クイーリコ修道院)、そして、午後12時開催の小さな教会のミニコンサートを鑑賞して「コムーネ広場」に到着した。今日は、肌を刺すような暑さもあり疲れたので、噴水そばにあるリストランテ(市役所の向かい側)のテラス席で少し休憩した。
休憩後は旧市街の高台に建つ「ロッカ マッジョーレ(大城塞)」に向かうことにした。何度も通ったコムーネ広場の北東側から延びる、上り坂(サン・ルフィーノ通り)先のサン・ルフィーノ広場前から左折して、ポルタ・ペルリチ通りに入り、少し先の左側、石造りの民家の間の階段を上って行く。階段の先は、西に延びるやや急な上り坂「ロッカ通り」となり、上りながら後ろを振り返ると、旧市街に建つサン・ルフィーノ大聖堂や聖キアーラ聖堂が望める。
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ロッカ通りと並行する様に、斜面の上には尾根を蛇行する様に城壁が続き、突き当りに幕壁に囲まれた「ロッカ マッジョーレ」がある。幕壁の内側に建つ城は中庭のある正方形で、南東寄りにひと際大きな塔が聳えている。更に、手前の幕壁の小さな側塔を囲む様に、外側に突出した円形の側防塔(1538年に追加)が設置されている。
ロッカ マッジョーレ(大城塞)への入場は、右上に幕壁を見上げながら進み、大きく右に回り込み、円形の側防塔に沿って進んだ先の城壁門から入る。そして右側にあるチケットショップを通り、幕壁北東角の側塔門が入場口となる。内部は、剣、槍、弓などの武器や、甲冑、市民の洋服、映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972年、フランコ・ゼフィレッリ監督)の写真パネルなどが展示されている。
ロッカマッジョーレの最初の建設時期ははっきりしないが、アッシジを統治していた、皇帝を後ろ盾とするスポレート公国ウルスリンゲンのコンラート(アッシジ伯1177~1198)の城塞だった。赤髭王(バルバロッサ)フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝、在位:1155~1190)や、シチリア王で神聖ローマ皇帝のフェデリーコ2世(フリードリヒ2世)(1194~1250)も少年期に住んだと言われている。しかし、1198年の市民蜂起により破壊されてしまう。その後、アッシジは教皇領に組み込まれ、1356年にアヴィニョンの教皇インノケンティウス6世からの委託を受けたアルボルノス枢機卿(1310~1367)によって現在の要塞が再建されている。
城を取り巻く幕壁の北西角に建つ側塔からは、西に向けて幅に厚みがある城壁が繋がっている。城壁の終点には、1458年、教皇ピウス2世(在位:1458~1464)により増築された多角形の塔が建っており、内部にある通路で行き来することができる。こちらは、その多角形の塔から城を眺めているが、城壁の北側(左側)は、東側のなだらかなスバシオ山の斜面と異なり、断崖となっている。
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西側には、旧市街の終点に建つ「サン・フランチェスコ聖堂」の威容が望め、北側は森の斜面となっている。大聖堂の後方からは、広大なウンブリアの大地のパノラマが展開している。
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次に「カルチェリの庵」にやってきた。かつてフランチェスコとその兄弟たちが瞑想した場所で、アッシジ中心部からは、東に4キロメートルほど行ったスバジオ山の深い森の斜面にある。山間部のS字カーブ沿いの広場にある小さな瓦屋根の門をくぐり、細い小道を少し歩くと、森で覆われた斜面に二階建ての石造りの小さな教会が見えてくる。現在建つ教会や僧院は、1400年、フランチェスコ会シエナの聖ベルナルディーノ(1380~1444)が、フランチェスコを偲び建てたもので、石畳で敷き詰められた中庭には、フランチェスコの祈りによって水が湧き出たと言われる井戸が残されている。
そして教会の先から谷底に架かるアーチ橋を渡ると登山道といった様相になり、少年に語り掛けるフランチェスコのブロンズ像や、森の中に、全身全霊を傾けて祈りを捧げる個性的な姿の修道士たちのブロンズ像が飾られている。
大きな岩に囲まれた山道が続き、修道士たちが隠遁と瞑想の場として使ったと伝わる洞窟なども点在している。こちらの小道の斜面側には、階段状に石が積まれ十字架が掲げられている。手前には、周囲の石を組み合わせて造ったとみられる粗末な祭壇が設置されているが、フランチェスコが祈りを捧げていた神聖な場所とされる。時折差し込む木漏れ日と鳥のさえずりが気持ち良く、心までも清められる様な風景である。まさに聖域である。
他にも、敷地内には、2~3人ほどしか入れない粗末な煉瓦造りの「ファレナミの小礼拝堂」もあり、内部には、聖母子のイコンや磔刑像などが祀られている。
再び聖キアーラ聖堂近くまで戻り、次に、南に1キロメートルほど下った場所にあるフランチェスコの人生の起点となった「サン・ダミアーノ修道院」に向かった。
最寄りの駐車場から、右側に麓の景色を見ながら、東に100メートルほど行った先に、赤い石畳の矩形の敷地の奥にコの字で建物が建っている。正面に瓦屋根の張り出しポルチコが設置され、その奥が礼拝堂入口となっている。放蕩生活を送っていたフランチェスコが、1206年サン・ダミアーノ教会の磔のキリスト像から「早く私の壊れかけた教会を建て直しなさい」という神の声を聞き、一人で石を積みながら修復したのがこの礼拝堂といわれている。
内部は、筒形ヴォールト型の身廊で、低い位置にある後陣のアーチにフランチェスコに呼びかけたとされる2メートルほどの木製の十字架像が飾られている(オリジナルは聖キアーラ聖堂に保管)。十字架のキリストは苦しみの姿というより、感情を表さず、立ち上がり、両手を広げてメッセージを伝えている様に見える。祭壇には、バロック様式の木製の聖歌隊席があり、アプスには、14世紀に描かれた、アッシジの最初の司教ルフィーノ(~238頃)とダミアーノ(~303頃)を従えた聖母子像のフレスコ画がある。
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礼拝堂の南側には、広い緑の芝生の中庭があり、駆け抜ける修道士(フランチェスコ?)のブロンズ像が飾られている。そして礼拝堂の北隣がサン・ダミアーノ修道院で、周囲を建物で囲まれた小さな回廊が2つあり、更に北隣に中庭がある。修道院の敷地を示す壁は低い石壁が並ぶだけで、周囲に他に建物はなく、糸杉やオリーブの木が立ち並ぶ風景が広がっており、沈黙と瞑想の場所といった趣がある。
サン・ダミアーノ修道院は、フランチェスコの説教に心動かされたキアラ(クレア)が、家を飛び出し、フランチェスコの指導の下、清貧、貞節、従順の誓いを受け入れ、髪を短く切り、粗末なチュニックを着て1212年に修道生活に入ったのが始まりで、その後、妹のアグネスとともに「清貧の女性修道会」を創立し、生涯を送った場所でもある。キアラ(クレア)は1255年に列聖され、清貧の女性修道会は、1263年に教皇ウルバヌス4世により「聖キアラ会(クララ会)」となった。
アッシジの旧市街から、南西に3キロメートルほど行った新市街の中心部、アッシジ駅の南西側に「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」がある。こちらは、フランチェスコが布教の拠点としてフランチェスコ会を結成した場所と言われている。
大規模なラテン十字型の教会で、長さ126メートル×幅65メートル、中央交差部には高さ75メートルの大きなドーム(クーポラ)が設置されており、また、教会の顔となるファサード前からは、広場のような広い並木道が200メートル先まで続いている。教皇ピウス5世(在位:1566~1572)の要請を受け、ペルージャ出身の大建築家ガレアッツォ・アレッシ(1512~1572)により、1569年から1679年にかけ、フランチェスコ会の貧困の理想に一致する厳格な構造を持つ教会として建設された。
しかし、1832年にウンブリア州を襲った地震で、身廊、側通路の一部崩壊、ドームの広い亀裂など深刻な被害がもたらされたことから、その後、建築家ルイジ ポレッティにより再建が行われ、新たにファサードをローマ バロック建築に改築したが、1939年、バロック以前のスタイルに戻されている。頂部に1930年制作の金の像「天使のマドンナ」が飾られている。
これで、アッシジとはお別れになる。次に、ペルージャ方面に移動した。宿泊は、ペルージャ中心部から、南東に5キロメートル離れた、ポンテ サン ジョヴァンニ駅近くのホテル テヴェレ ペルージャに泊まり、駅東側にある中華レストラン(バンブー リストランテ チャイニーズ)で中華料理を頂いた。
(2006.7.10~11)
モンテファルコは、標高500メートル前後の丘陵地帯の峰と峰とを結んだ高い場所に位置することから「ウンブリアの手すり」と呼ばれ、歴史的建造物の建つ中世の街並みを残す「イタリアの最も美しい村」にも登録されている。そのモンテファルコを世界的に有名にしているのは、タンニン成分を多く含んだサグランティーノ種から作られる赤ワインで、生産者が少なく大量生産が難しいことから希少価値の高さが一層評価を高くしている。
なお、ワインとは関係がないが、途中に、満開に咲き誇こる大量のひまわり畑が続く美しい景色があり、映画「ひまわり」(1970年)のシーンを思いだし感銘を受けた。
楼城門にあるアーチの向こうには、街のメインストリートで石畳のまっすぐな上り坂が続いている。ちょうど車が上って行ったが、ぎりぎり離合できる道路幅はありそうだ。左右には土産店、洋服店、カフェなどが並んでいるが人通りは少なく閑散としている。
午後2時を過ぎて、すっかりお腹も空いていたので、上り坂の途中から右側に入った通り裏側にあるリストランテ「Ristorante Il Coccorone」で昼食にする。古びた石壁にはランチメニューが貼られており、手ごろな値段で美味しそうだったので、特に予約もなしに入った。入口はくぐり戸から階段を上った先にある。
店内は、既に昼時を過ぎていたこともあるのか、他に来店客はいなかった。少し不安になったが、清潔な白壁に木材の天井と煉瓦のアーチが温かみを感じる造りで、親切な女性シェフの応対に、案内されるがまま着席した。
最初に、頼んだ青菜の炒めものは、どこにでもありそうなシンプルなものだったが、食べてみると新鮮で味に深みもあり美味しい。次に、お勧めされたパッパルデッレ アルサ グランティーノは、自家製パスタで、キアニーナ牛のラグーに、きのこ、トリュフが合わさっており、絶妙な麺の食感と豊かな香りが最高の一品だった。なお、ウンブリア州は黒トリュフの一大産地としても有名である。
飲み物は、アントネッリ モンテファルコ サグランティーノを頼んだ。アントネッリは、西に4キロほど離れた丘陵地にワイナリーがあり、エレガントで力強い豊富なタンニンと、甘い果実の香りとのバランスが絶妙なワイン。
メインは、お肉がお勧めとのことで、炭火で焼いたスペアリブを頂いたが、こちらも、見た目はいたってシンプルだが、肉の旨味と焼き具合が絶妙で大変美味しかった。すっかり満足してしまい、このお店だけで、モンテファルコに来た目的は達成したと思えるほどだった。また機会があれば再訪したい。
再びメインストリートに戻り、東側への坂道を上り詰め、右側のポルチコを過ぎると前方に視界が広がった。こちらが、モンテファルコの中心地「コムーネ広場」で、広場中央から振り返ると、ポルチコを備えた小ぶりで気品のある「モンテファルコ市庁舎」が広場を飾っている。13世紀に建設されたもので、上部に時計、後部に塔を配している。
市庁舎を正面にみて、後方右側から北東方面の路地を進んだ右側に「サン・フランチェスコ美術館」がある。1338年、フランチェスコ会の修道士によって建てられた教会で、1861年にイタリア王国の宣言により修道院の所有物が没収され、その後市民病院となり1990年以降に現在の美術館となった。旧教会と新たな付属施設との複合体の美術館で、館内には15世紀から17世紀のルネサンス美術作品が展示されている。
木製のトラス天井の身廊奥には、左右に小礼拝堂を備えた礼拝堂があり、内部にある木製の聖歌隊席の上の5つの壁を飾るのが、フィレンツェ出身のイタリア・ルネサンスの画家ベノッツォ・ゴッツォリ(1421頃~1497)により描かれた連作「聖フランチェスコの生涯」(1452年)である。ゴッツォリの画家人生は、フラ・アンジェリコの弟子兼助手から始まったが、こちらのフレスコ画は、ゴッツォリが、アンジェリコから離れ、独立してウンブリアに活動の拠点を移し活躍し始めた若かりし頃の連作である。
ちなみに、彼の代表作の一つは、フィレンツェに戻った30代後半から手掛けたメディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂(フィレンツェ)のフレスコ画「東方三博士の行列」(1459~1460)で、国際ゴシックの影響を受け、明るい色彩の中に多くの人物や動物たちが、華やかに、生き生きと描かれた魅力的な作品で知られている。
木製の聖歌隊の上の後陣の5つの壁面に、3層12のシーンが描かれ、左下から右方向にエピソードが進んでいる。最初の場面は、厩舎で誕生したフランチェスコが産湯で清められており、隣で巡礼者であるキリストが、フランチェスコの家を訪ねている。フランチェスコがキリストの再来であることを示している。その隣の画面には、貧しい兵士に衣服を与えるフランチェスコが描かれている。
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ところで、フランチェスコは、1181~1182年頃、ウンブリア州ペルージャ県アッシジの裕福な毛織物商人の家に生まれている。青春時代は、自由奔放に過ごし、騎士に憧れ戦場に赴むくものの捕虜となり大病を患う。そんな中、夢でキリストに出会い、回心して神の道に生きることを決意し、事物への執着を断って奉仕と托鉢の生活を始める。そんな生きざまに共鳴した若者たちが集い、1209年には「小さき兄弟会」(後のフランチェスコ会)を創立、その後も教えを説きながら各地を巡り、1226年10月3日アッシジで帰天している。
右下では、稼業の売り上げをアッシジ司教に寄進するフランチェスコと、それに反対する父親とが対立するが、フランチェスコは「全てをお返しします」と衣服を脱いで父に差し出している。フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切ってしまう。
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教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)は、夢の中で、傾いたローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂をたった一人で支えるみすぼらしい修道士の姿を見る。その男はフランチェスコであった。
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こちらは、ひざまつくフランチェスコとシルヴェストロ修道士が、アレッツォの街の外から悪魔を追い払い、平和を取り戻すことを祈っている。アレッツォの美しい街並みや、躍動感のある個性的な悪魔の姿も素晴らしいが、作品は、悪魔退散を祈るフランチェスコの表情に焦点を当てた構成となっている。
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作品全体は、フラ・アンジェリコの作風は残りつつも、ジョットの影響も見られるとの評価を受けている。どの作品も細かいディティールや多くの人物が、色彩豊かに丁寧に描き込まれている印象的な連作である。
右側には、ペルジーノ(Perugino)(1448頃~1523)のフレスコ画「キリスト降誕」(1503年)がある。こちらは、エディクラ(厨子)に描かれた作品で、上部には「受胎告知」が、アプスにあたる個所には、楕円形の身光に包まれた父なる神「永遠の栄光」が描かれている。
そして、その下に緑の丘陵地が広がり地平線上に青い水辺が広がる中、装飾柱に支えられた東屋風の開放的な厩舎に、幼子を囲み傅くヨセフとマリアたちの姿の「キリスト降誕」が描かれている。ペルジーノは、ペルージャ近郊出身のルネサンス期のウンブリア派を代表する画家で、システィーナ礼拝堂の壁画装飾の責任者(1481年頃)や、若きラファエロの師(1500年頃)としても知られている。
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身廊の右側のアーチ壁の奥は、サン ジロラモ礼拝堂で、ゴッツォーリは聖ヒエロニムスの生涯の物語を描いているが、大半は失われ天井部分のみが残っている。他にも、美術館には、司祭の法衣や、儀式で使用する法具や荘厳、木造の彫像、絵画などが展示されていた。
最後に、メインストリートを街の入口方向へ下り、楼城門の手前から右折して城壁沿いを200メートルほど歩いて行くと城壁は腰ほどの高さになり、街の北側が見渡せる。次に、前方に見えるスバシオ山(標高約1,300メートル)の斜面に位置するフランチェスコの故郷、アッシジ(Assisi)に向かう。
アッシジは、モンテファルコからは北に30キロメートルほどのウンブリア州ペルージャ県にある人口2万人強の城郭都市(旧市街)で、スバジオ山の斜面に広がっている。こちらは、そのアッシジ旧市街の西側斜面に建つ「ホテル ジオット アッシジ」(Hotel Giotto Assisi)の部屋からの眺めで、南側の麓近くに建つ「聖ペテロ修道院」(ベネディクト会のカシネーゼ会)が見渡せる。先ほどまで滞在したモンテファルコは、遠くの山並みの左方向になる。
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アッシジは、先住民族ウンブリ人がスバジオ山の斜面に作った歴史ある都で、ローマ帝国時代には、直径2キロメートルほどの細長い城郭都市となった。そして中世時代には都市国家になり皇帝派を選択するが、教皇派となった近隣のペルージャとの間で抗争が激化する。その後教皇派となった後は城壁外に市街が拡大し、とりわけルネサンス期に街は発展した。現在では、フランチェスコの出身地として、世界遺産「アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」として、多くの巡礼者や観光客が訪れている。
時刻は現在午後7時、これからホテルの北側を東西に延びるポルティカ通りを東方向に上って、旧市街の中心付近にあるリストランテに夕食を食べに向かう。
ポルティカ通りの坂を上り詰めると旧市街の中心地「コムーネ広場」に到着する。広場には市役所やインフォーメーションセンター、カフェ、レストランが集まった賑やかな広場となっている。広場の北面には「ミネルヴァ神殿」が建っている。ペディメントを6本のコリント式円柱が支える紀元前1世紀の古代ローマ時代の古い建造物で、今もなお美しい姿を見せている。隣接する時計塔は「人々の塔」と呼ばれ47メートルの高さがある。
目的のリストランテは、そのコムーネ広場の北東側から延びる細い上り坂の「サン・ルフィーノ通り」の途中にあるが、予約時間まで少し早いので、その先の「サン・ルフィーノ広場」まで足を延ばした。複数からの路地が交差する広場の向かい側には赤く染まるロマネスク様式の「サン・ルフィーノ大聖堂」が建っている。1228年に、古い教会の上に建てられた大聖堂で、現在も、床のガラス下に古い教会の遺構を見ることができる。ファサードには左右に小バラ窓を備えた、福音伝道者の4つの小さな浮彫を配した大バラ窓があり、その下には小さな浮彫アーチが優雅に装飾されている。塔は、現ファサードより100年前の古い教会時代からのものである。
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その後、再び、サン・ルフィーノ通りに戻り「リストランテ・ラ・ランテルナ(La Lanterna Ristorante Pizzeria)」で食事をした。狭い通り沿いに屋外テラス席が並び、後方の路地に入口がある。建物の外壁と同じく、歴史を感じる古い石壁とアーチのある店内で、木製の家具や植物が飾られている。
ワインは、アッシジ近郊のトルジャーノ・ロッソ アンティニャーノを頼んだ。昼に少し贅沢したのでややお得なワインだが、味わいは、やや渋みがある印象。
こちらでは、ウンブリア料理と、ピッツァが種類も多くお勧めとのことだが、昼の満腹感が多少残っていることもあり、軽めにと思いラビオリを頼んだ。
他にトマトが入った生野菜、きのことじゃがいものベーコンソテーや豚肉のソテーなどを頂いた。料理は味付けもしっかりしており、大変美味しかったが、モンテファルコのリストランテが良すぎただけに比較すると普通となってしまう。。
食後は、コムーネ広場に面するミネルヴァ神殿まで戻ってきた。この時間ポルチコ内は美しくライトアップされている。内側に十字架が飾られた「サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会」の入口がある。
1539年、教皇パウルス3世の願いに従って造られ、その後17世紀にバロック様式で改修されている。教会名のソプラとは最高声部のソプラノのことで、ミネルヴァの”上(ソプラノ)”に造られた教会を意味している。教会内には、17世紀に作られたバロック様式の祭壇があり中央に漆喰で飾られた聖母マリア像が飾られている。
そして、右側には、アントン・マリア・ガルビ(1718~1797)の「アヴェッリーノの聖アンドリューの死」の祭壇画と、左側には、マーティン・ノラー(1725~1804)の「聖ヨセフの死」の祭壇画がある。
東に歩いて行くと「聖キアーラ聖堂 」に到着する。キアラ(クレア)(1194~1253)は、フランチェスコに帰依した最初の女性とされている。こちらの聖堂は、キアラが亡くなった1253年から建設が始まり1257年に完成した。スバジオ山から掘り出される白とバラ色の石灰岩を縞模様に積み重ね、中央にバラ窓と入り口を一つずつ配したシンプルで美しい教会で、教会前の広場の中央には噴水があり、左側のテラスからは眼下を一望できる。
旧市街の中心部を散策して、ホテル ジオット アッシジに午後10時半に戻ってきた。ホテルに向かって左側に後方からの下りの坂道(ポルティカ通り)が通っており、その後方が旧市街の中心方面になる。ホテルは広場兼駐車場に面して東側に建っており、眺めの良いテラスは、右側の南側になる。
部屋の窓からは、真下に建つ聖ペテロ修道院がライトアップされていた。その先にアッシジ新市街の街並みが広がり、明かりが見渡せるが、今夜は明るい満月(luna piena、ルーナ ピエーナ)の輝きの方が印象に残った。
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翌朝、朝7時半に朝食を頂きにホテル内の朝食会場にやってきた。カウンターには、たくさん食べ物があると思いきや、パン、コーンフレーク、ヨーグルト、牛乳、ジュースだけで、あとはパンに付けるジャム、マーガリン、バターがやたら置かれていた。。カプチーノは、スタッフに直接注文する。イタリアのホテルでの朝食は概ねこんな感じである。
こちらが、ホテル前の駐車場からの眺めで、街の南麓からウンブリア州の緑の丘陵地帯が一望できる。左側の塔は、部屋から見えた聖ペテロ修道院の塔である。今朝も青空が広がっている。
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最初に「アッシジのサン・フランチェスコ聖堂」に向かう。ホテルからはポルティカ通りを西側へ下り、アッシジへの入口となる「フランチェスコ門(西門)」手前から、今度は上り坂を西に向け進んで行く。ホテルからは200メートルほどで「サン・フランチェスコ聖堂の下の広場」に到着する。広場は、左右手前にアーケードがある細長い”コの字”の回廊で、聖堂まで100メートルほどを進むと前方に多くの人が列を作る入口が見えてくる。
サン・フランチェスコ聖堂は、街の北西側の斜面の上に建ち、その斜面を有効に利用するため、上堂部分(ゴシック様式)と下堂部分(ロマネスク様式)と二堂に分かれている。広場は、その下堂部分のファサード前に到着する。
ポータルは2つの柱で支えられた大きなアーチがあるポーチで覆われ、上部にはフリーズと左右に聖人像の浮彫が施されている。内側側面には、モザイクで飾られたペディメント(フランチェスコの祝福)があり、正面はバラ窓のある尖塔アーチで、2連の多葉形の両開きの扉がある。ゴシックポータルは1271年以前に完成したもの。
下堂入口横にある階段を上ると、上堂のテラスとなりサン・フランチェスコ聖堂全体を眺めることができる。聖堂は、アッシジに生まれ、死後に聖人に列せられたフランチェスコの功績をたたえるために、1228年に教皇グレゴリウス9世(在位:1227~1241)によって建築が始まったもので、1253年に一応の完成をみたとされている。その後、何度か改修を経て、現在の姿となった。
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聖堂にはチマブーエ(1240頃~1302頃)、ジョット・ディ・ボンドーネ(ジョット)(1267頃~1337)、シモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)などの画家の手になるフレスコが多数描かれ、下堂はチマブーエの「玉座の聖母と4人の天使と聖フランチェスコ」が見所で、上堂にはジョットによるフレスコ画「聖人フランチェスコの生涯」が一番の見所である。フレスコ画は、1997年9月26日に発生したウンブリア・マルケ地震で聖堂の建物は大きく損傷したが、ボランティアによる修復工事などにより、2000年にはほぼ元の形に戻って公開されている。
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フランチェスコの生涯を描いた有名なジョットの連作壁画は、身廊の下部を取り巻く様に、後陣側から拝廊方向へかけての北壁面に13枚、東の拝廊左右に2枚、拝廊側から後陣方向へかけての南壁面に13枚の計28枚が続いている。どの壁画も、見上げた位置にあることから、間近で鑑賞できる。有名な「小鳥に説教する聖フランチェスコ」は、バラ窓の拝廊に向かって右下にある。
画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
サン・フランチェスコ聖堂の見学後は、昨夜、外観見学のみだった「サン・ルフィーノ大聖堂」を見学し、「聖キアーラ聖堂」と広場のテラスから眺望を眺め(右側は聖クイーリコ修道院)、そして、午後12時開催の小さな教会のミニコンサートを鑑賞して「コムーネ広場」に到着した。今日は、肌を刺すような暑さもあり疲れたので、噴水そばにあるリストランテ(市役所の向かい側)のテラス席で少し休憩した。
休憩後は旧市街の高台に建つ「ロッカ マッジョーレ(大城塞)」に向かうことにした。何度も通ったコムーネ広場の北東側から延びる、上り坂(サン・ルフィーノ通り)先のサン・ルフィーノ広場前から左折して、ポルタ・ペルリチ通りに入り、少し先の左側、石造りの民家の間の階段を上って行く。階段の先は、西に延びるやや急な上り坂「ロッカ通り」となり、上りながら後ろを振り返ると、旧市街に建つサン・ルフィーノ大聖堂や聖キアーラ聖堂が望める。
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ロッカ通りと並行する様に、斜面の上には尾根を蛇行する様に城壁が続き、突き当りに幕壁に囲まれた「ロッカ マッジョーレ」がある。幕壁の内側に建つ城は中庭のある正方形で、南東寄りにひと際大きな塔が聳えている。更に、手前の幕壁の小さな側塔を囲む様に、外側に突出した円形の側防塔(1538年に追加)が設置されている。
ロッカ マッジョーレ(大城塞)への入場は、右上に幕壁を見上げながら進み、大きく右に回り込み、円形の側防塔に沿って進んだ先の城壁門から入る。そして右側にあるチケットショップを通り、幕壁北東角の側塔門が入場口となる。内部は、剣、槍、弓などの武器や、甲冑、市民の洋服、映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972年、フランコ・ゼフィレッリ監督)の写真パネルなどが展示されている。
ロッカマッジョーレの最初の建設時期ははっきりしないが、アッシジを統治していた、皇帝を後ろ盾とするスポレート公国ウルスリンゲンのコンラート(アッシジ伯1177~1198)の城塞だった。赤髭王(バルバロッサ)フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝、在位:1155~1190)や、シチリア王で神聖ローマ皇帝のフェデリーコ2世(フリードリヒ2世)(1194~1250)も少年期に住んだと言われている。しかし、1198年の市民蜂起により破壊されてしまう。その後、アッシジは教皇領に組み込まれ、1356年にアヴィニョンの教皇インノケンティウス6世からの委託を受けたアルボルノス枢機卿(1310~1367)によって現在の要塞が再建されている。
城を取り巻く幕壁の北西角に建つ側塔からは、西に向けて幅に厚みがある城壁が繋がっている。城壁の終点には、1458年、教皇ピウス2世(在位:1458~1464)により増築された多角形の塔が建っており、内部にある通路で行き来することができる。こちらは、その多角形の塔から城を眺めているが、城壁の北側(左側)は、東側のなだらかなスバシオ山の斜面と異なり、断崖となっている。
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西側には、旧市街の終点に建つ「サン・フランチェスコ聖堂」の威容が望め、北側は森の斜面となっている。大聖堂の後方からは、広大なウンブリアの大地のパノラマが展開している。
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次に「カルチェリの庵」にやってきた。かつてフランチェスコとその兄弟たちが瞑想した場所で、アッシジ中心部からは、東に4キロメートルほど行ったスバジオ山の深い森の斜面にある。山間部のS字カーブ沿いの広場にある小さな瓦屋根の門をくぐり、細い小道を少し歩くと、森で覆われた斜面に二階建ての石造りの小さな教会が見えてくる。現在建つ教会や僧院は、1400年、フランチェスコ会シエナの聖ベルナルディーノ(1380~1444)が、フランチェスコを偲び建てたもので、石畳で敷き詰められた中庭には、フランチェスコの祈りによって水が湧き出たと言われる井戸が残されている。
そして教会の先から谷底に架かるアーチ橋を渡ると登山道といった様相になり、少年に語り掛けるフランチェスコのブロンズ像や、森の中に、全身全霊を傾けて祈りを捧げる個性的な姿の修道士たちのブロンズ像が飾られている。
大きな岩に囲まれた山道が続き、修道士たちが隠遁と瞑想の場として使ったと伝わる洞窟なども点在している。こちらの小道の斜面側には、階段状に石が積まれ十字架が掲げられている。手前には、周囲の石を組み合わせて造ったとみられる粗末な祭壇が設置されているが、フランチェスコが祈りを捧げていた神聖な場所とされる。時折差し込む木漏れ日と鳥のさえずりが気持ち良く、心までも清められる様な風景である。まさに聖域である。
他にも、敷地内には、2~3人ほどしか入れない粗末な煉瓦造りの「ファレナミの小礼拝堂」もあり、内部には、聖母子のイコンや磔刑像などが祀られている。
再び聖キアーラ聖堂近くまで戻り、次に、南に1キロメートルほど下った場所にあるフランチェスコの人生の起点となった「サン・ダミアーノ修道院」に向かった。
最寄りの駐車場から、右側に麓の景色を見ながら、東に100メートルほど行った先に、赤い石畳の矩形の敷地の奥にコの字で建物が建っている。正面に瓦屋根の張り出しポルチコが設置され、その奥が礼拝堂入口となっている。放蕩生活を送っていたフランチェスコが、1206年サン・ダミアーノ教会の磔のキリスト像から「早く私の壊れかけた教会を建て直しなさい」という神の声を聞き、一人で石を積みながら修復したのがこの礼拝堂といわれている。
内部は、筒形ヴォールト型の身廊で、低い位置にある後陣のアーチにフランチェスコに呼びかけたとされる2メートルほどの木製の十字架像が飾られている(オリジナルは聖キアーラ聖堂に保管)。十字架のキリストは苦しみの姿というより、感情を表さず、立ち上がり、両手を広げてメッセージを伝えている様に見える。祭壇には、バロック様式の木製の聖歌隊席があり、アプスには、14世紀に描かれた、アッシジの最初の司教ルフィーノ(~238頃)とダミアーノ(~303頃)を従えた聖母子像のフレスコ画がある。
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礼拝堂の南側には、広い緑の芝生の中庭があり、駆け抜ける修道士(フランチェスコ?)のブロンズ像が飾られている。そして礼拝堂の北隣がサン・ダミアーノ修道院で、周囲を建物で囲まれた小さな回廊が2つあり、更に北隣に中庭がある。修道院の敷地を示す壁は低い石壁が並ぶだけで、周囲に他に建物はなく、糸杉やオリーブの木が立ち並ぶ風景が広がっており、沈黙と瞑想の場所といった趣がある。
サン・ダミアーノ修道院は、フランチェスコの説教に心動かされたキアラ(クレア)が、家を飛び出し、フランチェスコの指導の下、清貧、貞節、従順の誓いを受け入れ、髪を短く切り、粗末なチュニックを着て1212年に修道生活に入ったのが始まりで、その後、妹のアグネスとともに「清貧の女性修道会」を創立し、生涯を送った場所でもある。キアラ(クレア)は1255年に列聖され、清貧の女性修道会は、1263年に教皇ウルバヌス4世により「聖キアラ会(クララ会)」となった。
アッシジの旧市街から、南西に3キロメートルほど行った新市街の中心部、アッシジ駅の南西側に「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」がある。こちらは、フランチェスコが布教の拠点としてフランチェスコ会を結成した場所と言われている。
大規模なラテン十字型の教会で、長さ126メートル×幅65メートル、中央交差部には高さ75メートルの大きなドーム(クーポラ)が設置されており、また、教会の顔となるファサード前からは、広場のような広い並木道が200メートル先まで続いている。教皇ピウス5世(在位:1566~1572)の要請を受け、ペルージャ出身の大建築家ガレアッツォ・アレッシ(1512~1572)により、1569年から1679年にかけ、フランチェスコ会の貧困の理想に一致する厳格な構造を持つ教会として建設された。
しかし、1832年にウンブリア州を襲った地震で、身廊、側通路の一部崩壊、ドームの広い亀裂など深刻な被害がもたらされたことから、その後、建築家ルイジ ポレッティにより再建が行われ、新たにファサードをローマ バロック建築に改築したが、1939年、バロック以前のスタイルに戻されている。頂部に1930年制作の金の像「天使のマドンナ」が飾られている。
これで、アッシジとはお別れになる。次に、ペルージャ方面に移動した。宿泊は、ペルージャ中心部から、南東に5キロメートル離れた、ポンテ サン ジョヴァンニ駅近くのホテル テヴェレ ペルージャに泊まり、駅東側にある中華レストラン(バンブー リストランテ チャイニーズ)で中華料理を頂いた。
(2006.7.10~11)