行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

相国寺を救った若冲の『動植綵絵』30幅と薩摩藩士を救った英国人医師

2016-05-16 12:22:05 | 日記
臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は、京都五山の第2位に列せられる名刹だ。14世紀末、室町幕府3代将軍の足利義満によって創建され、夢窓疎石を開山とする。同寺院のホームページには以下の記述がある。

室町時代永徳2年(1382)、三代将軍足利義満が一大禅院の建立を発願、建立にあたってその寺号について春屋妙葩及び義堂周信にはかったところ、春屋妙葩は「現在、あなたは左大臣の位にあり中国ではこれを相国といいます。相国寺とつけてはどうか」、義堂周信は、「中国の都、東京(開封)に大相国寺という寺があり、まさに恰好の名前ではないか」と進言しました。(http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_china.html)

北宋時代、皇帝の住む首府として栄えた河南省開封の大相国寺は今も残る。『水滸伝』の時代とも重なる。開封は東に位置する都であることから「東京」の名でも呼ばれた。「相国」の官職名は『三国志』にもしばしば見られ、宰相とほぼ同義である。義満の左大臣は、相国に相当するところからもその名の由来がある。

同寺院の養源院を訪れ、興味深い歴史の話を聞くことができた。



一つは薩摩藩士を救った英国人医師の話。養源院は薬師如来像があったことから、幕末の1868年に起きた鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍と戦って負傷した薩摩藩士を運び込む野戦病院となった。すぐ近くに薩摩藩の藩邸があったのだ。だが当時の外科技術のレベルは低く、傷口が化膿し、バタバタと武士が死んでいく。苦痛の叫びを物語るように、養源院の柱には負傷した薩摩藩士が残した刀の傷跡が残っている。

そこで招かれたのが、英国領事館付きの医官として日本に滞在していたイギリス人の外科医ウィリアム・ウィリスだ。英国公使パークスを通じて派遣が要請され、通訳のアーネスト・サトウとともに養源院で藩士の治療に当たった。日本で最初にクロロホルムを使った麻酔を行ったとも言われている。当時、天皇家は尊王攘夷であり、京都に外国人が入ることは許されていなかった。薩摩藩が天皇家に掛け合って例外を認めさせたというエピソードが伝わる。朝廷と薩摩藩の力関係を物語るかのようだ。

もう一つは、東京都美術館で生誕300年記念展覧会が開かれている伊藤若冲(1716~1800)にまつわる物語だ。同展では、若冲が相国寺に寄進した『釈迦三尊像』3幅と宮内庁所蔵の『動植綵絵』30幅が一堂に会している。





若冲は、禅宗を深く信仰し、相国寺の住職とも親交が深かった。若冲は、相国寺に伝わる日中の絵画に接する一方、同寺が参拝者に向けて行う展示によってその名を知られるようになった。一般公開の際、参道には行列ができたというから、文化が庶民に広がっていくさまを見るようである。寺院が文化を育て、発信する中心的な役割を担ったのだ。

昨今の寺院経営は難しいと言われるが、明治期は廃仏毀釈の逆風で、それこそ存続の危機に瀕していた。相国寺の苦境を救ったのが若冲が残した絵だった。相国寺は『釈迦三尊図』3幅以外の『動植綵絵』30幅を明治天皇に献納し、下賜金1万円を受ける。この資金の助けによって相国寺は1万8000坪の敷地をなんとか維持できた。同寺院が皇室と深い関係になければあり得なかったことだろう。京都から天皇や皇族が離れ、貴族文化の根は大きく断たれたが、寺院を中心にした京の庶民文化は天皇家の配慮によって守られたということになる。

養源院には、蟹を描いた若冲の掛け軸もあった。さりげなく伝わる歴史もまた尊い。(続く)


 

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