リスペクトコラムです。
シーガルズの山口選手が引退されました。シーズンが終わって、今回は誰も引退が無かった。良かったと思っていた矢先の残念なニュースでした。先日の報告会でもそんな空気は全く無かった分、ビックリしました。山口選手はそのままシーガルズの思い出ですね。試合を見に行くと、いつも山口選手が出ている。そんなイメージ。当ブログ的にはその昔は森選手からバトンを受け継ぎ、長年引っ張っていき、これからは宮下選手がチームを引っ張って行くのかなと。あと、忍者と言われたブロードのプレーがもう見れなくなるのは残念ですね。
【シーガルズ 山口引退へ】
「山口は既にチームメイトらに引退の意思を伝えており、取材に『今季は最後のシーズンだと思い臨んでいた。やり切ったという思い。シーガルズで日本一という夢は後輩たちに託したい』と話した。関係者によると、今後は岡山県内に残り、地域のスポーツ振興などに携わる意向だという。」
「速攻や移動攻撃を武器に、センターとして長年チームをけん引した。入団17年目の今季はV1女子の通算出場セットを1317に伸ばし、リーグ新記録を樹立。出場試合数もリーグ記録に並ぶ381としていた。13年から主将を務め、13-14年シーズンは過去最高のリーグ準優勝。日本代表には09年に初選出され、10年世界選手権は主力として日本の32年ぶりのメダル獲得となる3位に貢献。12年ロンドン五輪では28年ぶりの銅メダルと歴史を刻んだ。下部のチャレンジリーグで戦った昨季は脚の故障のため出場1試合にとどまったが、トップリーグに復帰した今季は18試合に出場した。」
【17年間に感謝 夢は後輩へ】
「山口は引退の理由として「体力的にきつくなった」とし、16年リオデジャネイロ五輪出場後に引き際を考え始めたという。その後は「毎シーズン、『最後の年』として頑張ろうと決めてやってきた。今季に限っては、やり切ったという思いが強かった」と明かした。今後は岡山県内でスポーツ振興に携わり、シーガルズの活動にも協力していく意向。山口は涙ぐみながら「後輩に託した日本一になるという夢を今度は応援していきたい」と話した。」
【みんなの支えでやり切った】
「引退を延ばし延ばしにしたのは強い責任感があったから。一昨年、チームは下部リーグに降格。『いま辞めたら後悔する。下のリーグで頑張ってトップリーグに戻るまでは』と思いとどまった。」
「いったん休養し、来季復帰するプランも河本監督から打診されたが『チームが日本一を狙っているからこそ中途半端な気持ちではできない』と断った。」
【シーガルズ山口引退会見 稀代のマルチプレーヤー】
「代名詞の移動攻撃や速攻だけでなく、勝負強さが光るブロックにレシーブ、ネット際のルーズボールの処理といった全ての技術にたけている。2009年に初めて日本代表に選出された当時の監督の真鍋政義さんも『海外勢が苦手とするタイプ』とほれ込んだ一人だ。」
「縦横無尽の動きや跳び上がった瞬間に放つスパイクは欧米の強豪国から恐れられ『忍者』と呼ばれたという。こうした技術はシーガルズに入らなければ、得られなかっただろう。」
「山口がVリーグデビューしたのは01年12月。この直前にチームは富山から岡山へ本拠地を移していた。山口の成長の軌跡は、そのままチームの上昇とリンクする。」
「今季は攻撃でさすがの存在感を見せた。Vリーグオールスターにもセンターのファン投票1位で選出された。」
引用:山陽新聞
と山陽新聞では連日大特集でした。当ブログでもしっかりリスペクトできました。当ブログ、語る会グループでシーガルズの試合を初めて観戦に行ったのが2007年1月。もう12年も観に行っています。つまり、その頃から山口選手はチームにいたのです。当時はまだ観客も少なく、試合後にサイン会が行われ、サインをもらった思い出(上左写真)があります。当時の立ち位置は、今の宮下選手というよりは、金田選手かな。若手のホープといった感じ。それからずっとシーガルズと一緒に歩んできて、ついにレジェンド(伝説)になりました。
今後は県内のスポーツ振興に携わる仕事という事ですが、どこに行かれるのかなぁ。県体協か県バレー協会かといろいろ思ってみたり。とにかくまた岡山で山口選手に変わらず会えるのはうれしい事。今度は選手でなくなるので、もうちょっと気さくにお話ができるようになるかもしれませんね。
花道は5月1日開幕の黒鷲旗全日本選抜大会だとか。連休中だし、大阪だし、行けるものなら行って最後の雄姿を目に焼き付けたいところです。山口選手、長い間お疲れ様でした。次の道でまた岡山のスポーツのためにご尽力ください。