J OKAYAMA ~岡山スポーツの桃源郷へ

岡山トップスポーツファミリー(ファジアーノ等)、スポーツ文化情報リスペクトブログ(共同運営)。

新しい波21

2011-03-09 00:47:44 | 新しい波

 以前にたまたま2005年の事に触れてしまった事もあり、懐かしく2005年はどんな年だったのか思い出してみました。
                            

 2004年12月に中国リーグ昇格を果たし、中国リーグ1年目を戦っていました。当時のクラブ運営は、県サッカー協会有志の役員が構成される、「NPO法人 岡山ヒューマンスポーツクラブ」。事務局長は、M氏という方で現在は某市議会議員さんを務めておられます。事務局次長(常勤)は(同じイニシャルですが)M氏という方でした。
 ただ、ほとんどが非常勤のスタッフなので、どうしても現在のようにはいきません。予算規模もスポンサーも少ないため、今のファン・サポーターから見たら、驚くような運営規模だったと思います。その当時のクラブ運営に対して、ファン・サポーターはもどかしさもあったと思いますが、ほとんどが非常勤スタッフでは限界がありました。

 ただ、この時は「岡山からJリーグを!」という夢に向かって、歩き始めた真っ最中。思うようにはいきません。中国リーグで2位となり、全国地域リーグ決勝大会に出場を果たしましたが、1次ラウンドで負けて帰りました。確か熊本相手に健闘はしましたが、「頑張ってはいるが結果が残せない」状態でした。
 当時、全国地域決勝は出てみたが・・・将来に向けて「本当に岡山からJリーグを作れるのだろうか」とみんな不安の気持ちを胸に持っていました。この年に、市内のマンション(私とFリーダーは覚えています)から会議所へ事務所も移転しました。現在では考えられないのかもしれませんが、「いつでも遊びに来てください」というスタンスだったので、ファン・サポーターは気軽にクラブ事務所を訪れていました。

 自由に語り合えた空間だったので、当方も含めて要望・希望を正副事務局長に伝えました。ただ、非常勤ばかりのスタッフなので、「地に足をつけて考えましょう」という返答が多かったかなぁ。でも、気軽に事務所に行きやすかったので、楽しかったですね。確かに現在と比べられない話かもしれませんが、「礎」という意味では、ヒューマンスポーツクラブの意義は大きかったと思います。その時代に「岡山からJリーグを」という夢を語れて、本当に幸せでした。
 この年の秋に、ファジ丸が誕生しました。マスコット募集で、史上初めてサカダイにファジが登場した時です。当時の選考委員会の点付け係だったので、思い入れは強いですね。ファジの現在のロゴ(Iがiのタイプ)が登場した時、初めて応援Tシャツが登場した時、みんな楽しい思い出です。Fリーダーと初めてファジボラをしたのもこの年。サッカー協会がまだマンションの1室で、ファジがまだ机一つだった時代でした。(そういう意味ではファジボラ1号なのです)

 あくまで個人的にですが、「本当にJリーグまで行けるのだろうか」「経営破綻はしないのだろうか」「地域に全然浸透していないが大丈夫だろうか」といろいろ思っていました。確か、佐川急便やセントラル中国などの当時の強豪チームに惨敗もしていた気がします。
 とここまでは2005年の話。2006年から大きく時代は変わっていきました。一木会の結成を機会にです。2006年の模様は皆さんご存じのとおりです。

 こういう風にファジを見てきた者として、現在J2で戦っている姿は夢のようです。ただ、当方のポリシーとして、後ではなく絶えず前を向いて行きたいと思っています。と、思い出ばなしでした。たまにはこういう記事もいいでしょう。

 当ブログが、普段はサッカー以外のスポーツなど、広くスポーツ文化やJリーグ百年構想を語っているので、「ぜひ楽しく勉強会をしたい」という話があります。単に飲んで食ってになるかもしれませんが・・・うーん、どういう勉強をするんだろと思ったりもします。今度様子を聞いてみるとしよう。

 話は変わり、彦崎小学校でコーチによるサッカー教室(トップアスリート事業)が開催されたと、フロントブログに載っていました。記事はこちらです。 

コメント
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