goo blog サービス終了のお知らせ 

碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

太田光がハマった、『お前はただの現在にすぎない』とは?

2019年10月01日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

爆笑問題・太田光がハマった

『お前はただの現在にすぎない』とは?

テレビとは何か、テレビに何が可能か

 

(文中敬称略)

生放送のスタジオで…

先日、TBSラジオの生番組『爆笑問題の日曜サンデー』に出演させていただいた。番組内の「サンデーマナブくん」という40分ほどのコーナーだ。テーマは「がんばれ!2時間ドラマ」。

1977年に90分の番組として始まった『土曜ワイド劇場』(テレビ朝日)が、2時間枠となったのは2年後の79年のことだ。

その後、80年『木曜ゴールデン劇場』(読売テレビ)、81年『火曜サスペンス劇場』(日本テレビ)、82年『ザ・サスペンス』(TBS)、83年『月曜ドラマランド』(フジテレビ)など、各局が続々と参入していく。80年代後半には、週に6~7本もの2時間ドラマが放送されていたのだ。

しかし、乱立による質の低下やパターン化、視聴者側の嗜好の変化、テレビを取り巻くメディア状況などから、2005年の『火サス』を皮切りに2時間ドラマ枠は徐々に消えてゆく。

今年3月に『月曜名作劇場』(TBS)が終了したことで、「民放地上波のレギュラー放送枠」としての2時間ドラマは、40年を超える歴史に幕を閉じた形だ。

この日の「サンデーマナブくん」は、「2時間ドラマの隆盛と消滅の理由を探ろう」といった主旨だった。

とはいえ、当日の生放送で話した内容を、ここで書きたいわけではない。初めてお会いした「爆笑問題」のお二人に挨拶をした際、太田光が口にした一冊の本のことである。

コーナーの冒頭で、進行役である江藤愛アナウンサーが、私の略歴を紹介した。すると太田がすかさず、「テレビマンユニオンの方ですか」と聞いてきたのだ。

約20年間、プロデューサーとして番組制作を行ってきたことを伝えると、太田はいきなり、「僕、今ちょうど、『お前はただの現在にすぎない』を読んでるんですよ。しかも、すごいハマっていて。その頃のことも調べてるんです」と嬉しそうに言うではないか。

正直、驚いた。まさか、生放送の場で、太田から、そのタイトルが飛び出すとは思わなかったからだ。何しろ、出版されたのは50年前であり、リスナーのほとんどは聞いたこともない本のはずだ。

「爆笑問題」太田光が今、ハマっているという『お前はただの現在にすぎない』とは、一体どんな本なのか……。

 

テレビとは何か

それは、ドキュメンタリー『あなたは……』から始まる。

「いま一番欲しいものは何ですか?」
「総理大臣になったら何をしますか?」
「天皇陛下はお好きですか?」

若い女性が、矢継ぎ早に質問を繰り出ていく。だが、その女性インタビュアーの姿は見えない。声だけだ。画面に映っているのは通勤途中のサラリーマンであり、魚河岸で働く仲買人であり、小学生の男の子である。彼らは、質問の意味を深く考える余裕も与えられないまま、質問の連射に即興で答えていく。

この後も質問は続き、やがて「ベトナム戦争にあなたも責任がありますか?」、「では、その解決のためにあなたは何かしていますか?」、さらに「祖国のために闘うことが出来ますか?」と畳み掛けていく。

829人の人々に、同じ「問いかけ」を敢行したこの番組は、それまで誰も見たこともない、斬新なテレビ・ドキュメンタリーだった。正直な言葉、取り繕った言葉、そして戸惑った表情や佇まいも含め、カメラが活写したのは1966(昭和41)年の“現在”を生きる、日本人の“自画像”そのものだったのだ。

今も放送史に残る傑作ドキュメンタリー『あなたは……』とはそんな番組であり、この年の芸術祭奨励賞を受賞した。制作したのは、当時、TBSのテレビ報道部に在籍していた36歳の萩元晴彦だ。構成は若き日の寺山修司。音楽は後に「現代音楽の巨匠」と呼ばれる武満徹である。

早稲田の露文科を卒業した萩元が、ラジオ東京(現TBSテレビ)に入社したのは1953(昭和28)年。奇しくも、日本でテレビ放送が開始された年だ。はじめラジオ報道部に配属され、録音構成『心臓外科手術の記録』で民放祭賞を受賞した。

後にテレビ報道部に転じてからも、『現代の主役・小澤征爾「第九」を揮(ふ)る』で、やはり民放祭賞を受賞。番組制作者として評価は高まっていく。

そんな萩元に大きな転機が訪れるのは1968(昭和43)年である。前年に制作した『現代の主役・日の丸』に対して、視聴者から抗議、非難、脅迫風の電話が殺到した。同様の投書も多数舞い込んだ。さらに、当時の郵政大臣が閣議で「偏向番組」だと指摘し、電波監理局の調査が行われる騒ぎとなった。

これに対し、会社側は萩元のニュース編集部への配転を決定。また同時期に、ベトナム戦争の内実を伝えようとした『ハノイ田英夫(でんひでお)の証言』も問題とされ、田はTBSを去り、演出した村木良彦は、萩元と同様、会社から処分を受けた。

組合側は、これらを不当として立ち上がり、いわゆる「TBS闘争」へと発展していく。

 

1969(昭和44)年、萩元はTBSにおける後輩であり仲間でもある村木良彦、今野勉と共に一冊の本を出版する。当時の状況の克明な記録であり、「テレビとは何か」を徹底的に考察したこの本が、『お前はただの現在にすぎない~テレビになにが可能か』(田畑書店刊、後に朝日文庫で復刊)だ。

 「お前はただの現在にすぎない」とは、トロツキーの言葉だそうだが、原典を確認してはいない。3人が書いた、通称『ただ現』は、後にテレビ界を目指す青年たちのバイブルとなる。なぜなら、この本は、制作者自身がテレビの<本質>に迫った、画期的なドキュメントだったからだ。

この本には、当時の様々な言葉が集録されている。議事録、声明文、ビラ、発言、証言などだ。その間を縫うように、3人の制作者の<問い>が続いていくのだ。テレビとは何なのか。テレビに何ができるのか。テレビの表現とはいかなるものなのか。それらの問いかけは、彼らにとって「お前はいま、どう生きているのか」という問いと同義だった。

3人の制作者は探り、自問自答していく。

「テレビは時間である」
「テレビは現在である」
「テレビはドキュメンタリーである」
「テレビは対面である」
「テレビは参加である」
「テレビは非芸術・反権力である」

そして、さらに書く。

「テレビが堕落するのは、安定、公平などを自ら求めるときだ」と。

 

日本初の番組制作会社「テレビマンユニオン」誕生

60年代末。それは国内で学園紛争、国外ではベトナム戦争という騒然たる時代だった。

共著者である村木良彦も今野勉も、萩元に負けず劣らず個性的で優れた制作者だ。しかし、国の許認可事業としての放送局を経営する側から見れば、彼らは会社の言いなりにならない“危険分子”と映ったかもしれない。ひと癖もふた癖もあるこの男たちが、自由に番組を作ることを許すわけにはいかなかった。

やがてTBS闘争が沈静化し終息に向かうころ、彼らは「ものをつくるための組織」「テレビ制作者を狭い職能的テリトリーから解放する組織」、つまり「テレビマンの組織」をつくることになる。実現へ向けて、水面下で難しい地ならしを行ったのは、村木や今野と同期入社の吉川正澄(きっかわ・まさずみ)だ。

1970(昭和45)年2月25日、萩元、村木、今野、吉川たちTBS退職者に、契約・アルバイトのスタッフも加えた総勢25名が、日本初の番組制作会社を創立した。「テレビマンユニオン」の誕生である。それは、番組をつくること、流すこと、その両方を放送局が独占的に行ってきた日本のテレビ界にとって一種の革命だった。

萩元は、皆に推される形で初代社長となる。この時、連日の話し合いの中で決めた組織の基本三原則は「合議・対等・役割分担」。それはテレビマンユニオンの創立から半世紀近くが過ぎた現在も生きている。

三原則の意味について、萩元はこう語っていた。「経験年齢とは一切関係なく全員が“対等”で、その運営は“合議”でなければならず、社長は選挙によって選ばれた者が“役割分担”する。全員が“やりたいことをやる”ために」。

 

半世紀後の『お前はただの現在にすぎない』

私がテレビマンユニオンに参加したのは、創立から約10年後の1981年だ。現在は、制作会社として大手の一つだが、当時はまだ規模も小さく、いわゆるベンチャーみたいなものだった。

採用試験は2年に1度。年齢・学歴・職歴・性別・国籍等、一切不問。1980年冬に行われた試験に挑んだ者、1600名。合格者は4名だった。

当時、村木が2代目社長を務めていた。新人4名が初めて揃った初日、私たちに向かって、村木は2つのことを言った。

 「明日ツブれるかもしれませんが、

  それでもいいですか?」

4名のうちの2名は新卒。私ともう一人(女性)は社会人経験があった。私自身は、高校教師の職を辞して、テレビマンユニオンに参加していた。ここで「ツブれるかも」と言われても、すでに帰る場所はない。もちろん、村木は私たちの覚悟を問うたのだ。

この時、もう一つ、村木が言ったのは……

 「組織に使われるのではなく、

  組織を使って仕事をしてください」

これに、シビれた。約40年も前に、新人に対して「組織に使われるな、組織を使って仕事をしろ」と迫る組織。これに感激したのだ。「明日ツブれてもいいや」と思った。以来、『お前はただの現在にすぎない』一冊と、この言葉を拠りどころに、20年にわたってテレビの仕事をすることになる。

2019年、すでに萩元も、村木も、吉川も故人となった。一人、今野だけは、元気だ。83歳の今もバリバリの現役演出家である。そして、テレビもまた「問い」を続けており、「現在」であり続けている。

今、太田光が精読しているという、『お前はただの現在にすぎない』。この本で太田が何を感じ、何を思い、何を考えたのか。別の機会に、太田自身のテレビ論を含め、ぜひ聞いてみたい。いや、私だけでなく、泉下の萩元や村木にも聞かせたいと思う。

それを聞き終わったら、今度は萩元が太田に対して、一つの「問いかけ」をするはずだ。ドキュメンタリー『あなたは……』で、829人の日本人に投げかけた、最後の質問である。

「最後に聞きますが、あなたはいったい誰ですか?」

(文中敬称略)



『だから私は推しました』が描く 、地下アイドルのリアル

2019年09月07日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

NHK『だから私は推しました』が描く

「地下アイドルのリアル」

『あまちゃん』もアイドル物語だった

 

よるドラマ『だから私は推しました』(NHK 全8話)が最終章に突入した。地下アイドルと、それを応援するアラサー女子の物語だが、当初の予想をいい意味で裏切る展開に目が離せない。

そもそも、「アイドル」を描くドラマ自体がそう多くはない。ましてや、“お堅い”はずのNHKが扱うテーマとしては異色だと思う人も少なくないだろう。

NHKとアイドルドラマの関係を考える時、忘れてはならない作品がある。それが『あまちゃん』だ。

アイドル物語としての名作『あまちゃん』

歴代のNHK朝ドラには、いくつかの共通点がある。まず、主人公が女性であることだ。いわゆる「一代記」の形をとったものが多い。作品によっては、その生涯を年齢の異なる複数の女優がリレー形式で演じることもある。

次に、多くの朝ドラが、女性の自立を描く「職業ドラマ」という側面をもっている。全体的には、生真面目なヒロインの「成長物語」という内容が一般的だ。

『あまちゃん』における、物語の時間設定は2008年から2012年までである。放送された2013年と地続きの4年間であり、主な舞台は2011年の震災と津波で被害を受けた東北だった。

ドラマとはいえ、現実の場所と出来事をどう取り込むか、脚本作りは難しかったと推測されるが、脚本を書いた宮藤官九郎は、結果的にこのドラマを笑いとユーモアに満ちた「アイドル物語」に仕立て上げた。それが宮藤の最大の功績だ。

過去のヒロインたちが目指した法律家(『ひまわり』1996)、看護師(『ちゅらさん』2001)、編集者(『ウエルかめ』2009)などとは明らかに異質な、朝ドラから最も遠いと思われる職業、それがアイドルである。

しかし、アイドルを「人を元気にする仕事」と定義付ければ、納得がいくのではないだろうか。主人公が、震災後、被災地となった北三陸の人々を元気づける「地元アイドル」になる、というアイデアは秀逸だった。

「人を元気にする」のがアイドルの仕事

このドラマの中では、2008年の夏に、ヒロインのアキこと天野秋(演じたのは能年玲奈、現在は「のん」)は、24年ぶりに帰郷する母・春子(小泉今日子)に連れられて、過疎地域である北三陸へとやって来た。祖母・夏(宮本信子)が住む春子の実家で、高校2年の夏休みを過ごすためだ。

この時、春子には思惑があった。一つは、地味で暗い性格であり、学校でも軽いいじめを受けていたアキを、違った環境に置いてみたかったこと。もう一つは、夫である黒川正宗(尾美としのり)の神経質な性格が我慢できず、離婚を決意していたことである。

春子の母・夏(宮本信子)は海女であり、かつて春子を跡継ぎにしようとして拒否された経緯がある。アキは偶然海に飛び込んだことで海女に興味を持ち、その見習いとなった。

北三陸の観光協会や北三陸鉄道の人たちは、過疎化対策、また地域振興を目的に、「ミス北鉄」コンテストを実施する。ミスに選ばれたのは地元で評判の美少女・ユイ(橋本愛)だ。このユイと海女のアキが、地元アイドル「潮騒のメモリーズ」を結成する。

2人が北鉄でウニ丼を売ったり、お座敷列車で歌ったりする活動はネットで流され、全国からファンが集まってくる。その人気に火がつくきっかけが、観光協会のサイトに置かれた2人の「動画」だという筋立ては、極めて現代的かつリアルなものだった。

またこのドラマでは、アキたち地元アイドルを軸に、大人たちが「町おこし」や「地域活性化」を図ろうとする展開の中で、全国各地の市町村が実際に抱えている諸問題を浮き彫りにしていた。地域の過疎化、住民の高齢化、シャッター商店街、若者の雇用問題などだ。

こうした社会的テーマや課題を、朝ドラが取り込んでいること自体が当時は珍しいことであり、挑戦的な試みだったのだ。

ドラマとして可視化された「アイドルビジネス」

アキとユイは、本格的アイドルを目指して上京することを決める。ところが直前になってユイの父親が倒れ、アキは1人で東京へ行き、アイドルユニット「GMT47」に入る。

「AKB48」のAKBが「秋葉原」の略であるように、このGMTは「地元(じもと)」の意味である。プロデューサーの荒巻太一(古田新太、怪演!)が全国の都道府県から1人ずつ地元アイドルを集め、グループアイドルとして売り出そうとしていたのだ。しかし、まだ47人は揃っておらず、現状はアキを入れて6人のユニット「GMT6」だった。

ちなにみに、このGMT6のメンバーの一人、埼玉出身の入間しおりを演じて強い印象を残したのが、松岡茉優だ。

GMT6は、すでに稼働していた「アメ横女学園(以下、アメ女)」の下位に置かれるグループだった。このアメ女の設定によって、『あまちゃん』は、いわゆる「アイドルビジネス」の仕組みを視聴者に見せていくことになる。

朝ドラはもちろん、民放のドラマでも触れられることのなかった領域だ。『あまちゃん』における“現実の取り込み”の一つである。 

「グループアイドル」というシステム

アメ女のモデルは、明らかに実在の人気アイドルグループであるAKB48だ。ドラマの中で行われるアメ女に関する説明は、ほぼAKB48に準ずると考えていい。

まず、アメ女は上野に専用の劇場「東京EDOシアター」を持っている。これは秋葉原の「AKB48劇場」と同じスタイルであり、「会いに行けるアイドル」はアメ女にとっても重要なコンセプトだ。

次が階級制度である。アメ女のメンバーは、センターを頂点とする人気の順に「レギュラー」「リザーブ」「ビヨンド」「ビンテージ(卒業したOG)」と分けられていた。GMT6のメンバーはその下に位置するシャドー(代役)である。こうしたピラミッド型のヒエラルキーも、そのままAKB48にも当てはまる。

また、プロデューサーの荒巻(古田)は、このピラミッドに並ぶメンバーの入れ替えを、「国民投票」という名のファン投票によって実施する。これはAKB48における「選抜総選挙」に相当するものだ。選ばれた上位陣が新しいシングル曲に参加できるシステムもAKB48と変わらない。

注目すべきは、こうした「階級制」や「選抜制」の仕組みを『あまちゃん』の中で描くこと自体が、秋元康プロデューサーがAKBグループで展開してきたリアルな「アイドルビジネス」に対する、秀逸な「批評」となっていたことだ。これもまた、過去のドラマにはない果敢な挑戦だった。

「地下アイドル」の世界を描く『だから私は推しました』

放送中のNHKよるドラ『だから私は推しました』は、一人の地下アイドルと、彼女を推す(特定のアイドルを熱烈に応援する)ドルオタ(アイドルオタク)女子の物語だ。

主人公の遠藤愛(桜井ユキ)は一見どこにでもいそうなOLさん。最近失恋したのだが、原因のひとつは、SNSでの自己アピールに夢中で、常に「いいね!」を熱望する、その過剰な承認欲求だった。

スマホを落としたことをきっかけに、偶然入った小さなライブハウスで、初めて「地下アイドル」なるものに遭遇する。

一方の栗本ハナ(白石聖)は、地下アイドルグループ「サニーサイドアップ」のメンバー。ただし、歌もダンスも不得意な上に、コミュ障気味という困ったアイドルだ。そんなハナを見て、愛は思う。「この子、まるで私だ」と。それ以来、ハナを全力で応援する日々が始まる。

まず、このドラマで描かれる「地下アイドルの世界」が興味深い。ライブの雰囲気、終演後の物販、厄介なファンの存在、アイドルたちの経済事情などが、かなりリアルなのだ。

「地上アイドル」と「地下アイドル」

前述のAKB48やアメ横女学園が「地上」のアイドルだとすれば、「地下」の最大の特色は、アイドルとファンの「距離感」ではないだろうか。

普通、地下アイドルの公演は、武道館や東京ドームなどの大会場で行われたりしない。ほとんどは、それこそ地下にある小さなライブハウスだったりする。キャパが小さい分、アイドルとの物理的距離が近いのだ。

近いからこそ、自分の応援は「推し(応援しているアイドル)」が認識してくれるし、応援に対してアイドルからの「レス(ファン個人への反応)」が来たりもする。応援とレスの相互作用は、地下アイドルの世界ならではの醍醐味だ。

まだ楽曲も売れていないし、有名ではないし、パフォーマンスも稚拙だったりするが、そういうことさえ、地下アイドルファンには応援する動機となる。また、ファンもたくさんはいないので、「物販」と呼ばれる、ライブ後のグッズ販売やサインや握手を通じて、本人と、かなり密接なコミュニケーションが可能となる。

そんな状況が、このドラマでは細部までリアルに描写されていて、多分、本物のドルオタの皆さんが見ても、その再現度の高さに納得するのではないかと思うほどだ。

オリジナル脚本の魅力

脚本は森下佳子のオリジナル。昨年夏に放送された『義母と娘のブルース』(TBS系)同様、ヒロインの心理が丁寧に書き込まれている。また、地下アイドルについても十分な取材を行っていることがうかがえる。

加えてこのドラマには、「地下アイドル考証」として、本物の地下アイドルである「姫乃たま」の名前がクレジットされている。地下アイドルに関する著作もある姫乃が、その体験と知見でリアルを下支えしているはずだ。

女優陣も大健闘だ。徐々に自分を解放していくアラサーのドルオタ女子を、メリハリのある芝居で好演している桜井ユキ。そして、自分に自信の持てない、弱気な地下アイドルがぴったりの白石聖。2人の拮抗する熱演は特筆モノだ。

最終章に入り、それまで愛すべき地下アイドルだったはずの栗本ハナの「本当の顔」、その「本質」が見えてきた。また、警察の取調室(担当刑事はハライチの澤部佑)にいる遠藤愛の身に、本当は何が起こったのかも。

全8話のうち、残るは2話のみ。漫画や小説などの原作がない、オリジナル脚本のドラマだけに、最後までどんな展開になるのか、わからない。いや、だからこそ楽しみな「地下アイドルドラマ」なのだ。

 

左端がハナ(番組サイトより)


話題作『サ道』に至る、テレ東「深夜ドキュメンタリードラマ」の系譜

2019年08月30日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

番組サイトより

 

 

話題作『サ道』に至る、

テレ東「深夜ドキュメンタリードラマ」の系譜

 

ドラマ『サ道』とは何なのか?

テレビ東京の「ドラマ25」(金曜深夜0時52分)で放送中の『サ道』。これ、「さどう」と読むのだが、もちろん「茶道(さどう)」ではない。サ道の「サ」は、「サウナ」のサだ。

茶道・華道などの「芸道」や、柔道・剣道といった「武道」と同様、サウナもまた極めていけば「道」になる。単なる所作の体得や技術の習得ではなく、精神修養の場とさえ化すのだ。

しかも、「サウナー」と呼ばれるサウナ好きを超えたサウナの達人、「プロサウナー」なる人たちが存在するらしい。『サ道』は、彼らが偏愛する“実在のサウナ”と、その“楽しみ方”を教えてくれるドラマなのである。

実は、「実在の場所」という点がキモで、ドラマの形はとっているものの、ストーリーよりも、この「実在の場所」をいかに見せるか、その魅力をどう伝えるかに最大のポイントがある。

つまり、『サ道』は単なるドラマではなく、「ドキュメンタリードラマ」と呼びたい作品なのだ。そして、テレ東の深夜枠における、この「手法」が際立つようになったのは、『孤独のグルメ』からだと言っていいだろう。

画期的な「発明品」としての『孤独のグルメ』

今年の10月、『孤独のグルメ』シーズン8の放送が控えている。一口に第8弾と言うが、シリーズ化は簡単なことではない。いかに多くのファンを持ち続け、変わらぬ支持を得ているかの証左であり勲章だ。

『孤独のグルメ』がスタートしたのは、7年前の2012年。それも鳴り物入りの登場ではなく、深夜らしくひっそりと始まった。

ところが回を重ねるごとに、「テレ東の深夜で面白いものをやってるらしい」と、テレビ好きやドラマ好きの間で話題となり、口コミ的に噂が広がっていった。

内容を確認してみよう。登場するのは井之頭五郎(松重豊)ほぼ一人。個人で輸入雑貨を扱っているが、五郎の仕事ぶりを描くわけではない。商談のために訪れる様々な町の「実在する食べ物屋」で、フィクションの中の人物である五郎が食事をするのだ。

番組のほとんどは五郎が食べるシーンで、そこに彼の「心の中の声」が自前でナレーションされる。

たとえば、シーズン2に登場した、京成小岩駅近くの四川料理「珍珍」。水餃子を目にした五郎は、「見るからにモチモチした皮。口の中で想像がビンビンに膨らむ。たまらん。たまらん坂(田原坂?)」などと、おやじギャグ満載の内なる声を発し続ける。この“とりとめのなさ”が、何とも心地いいのだ。

またシーズン3では、伊豆急に乗ってプチ出張。川端康成「伊豆の踊子」で知られる河津町でグルメした。食したのは、名物のワサビを使った「生ワサビ付きわさび丼」だ。カツオ節をまぶしたご飯に、自分ですりおろした生ワサビを乗せ、醤油をかけて混ぜるだけの超シンプルな一品。しかし、五郎の表情でその美味さがわかる。

しかもそこに、「おお、これ、いい!」とか、「白いメシ好きには堪らんぞ~」といった心の声がナレーションされると、見る側も俄然食べたくなってくる。

そう、このドラマの面白さは、口数が少ない主人公のせりふではなく、頻繁に発する心の声、「つぶやき」にあるのだ。いわば五郎の「ひとりツイッター」であり、「ソーシャルテレビ・アワード」の受賞も納得だ。

そして、忘れられないのがシーズン6で訪れた、渋谷道玄坂の「長崎飯店」である。皿うどんに入っていた、たくさんのイカやアサリに、「皿の中の有明海は豊漁だあ!」と感激。また春巻きのパリパリ食感を、「おお、口の中でスプリングトルネードが巻き起こる!」などと、何とも熱い実況中継を披露した。

もしもこれを情報番組で、若手の食リポーターが語っていたら噴飯ものだろう。「オーバーなこと言ってんじゃないよ!」と笑われるのがオチだ。しかし我らが五郎の言葉には、「一人飯のプロ」としての説得力がある。食への好奇心、感謝の心、そして遊び心という3つの心が、てんこ盛りだからだ。

常に一人で食事をする五郎(設定では独身)だが、そこにいるのは「職業人」としての自分でも、「家庭人」としての自分でもない。いわば本来の自分、自由な自分だ。

誰の目も気にせず、値段や見かけに惑わされず、美味いものを素直に味わうシアワセがここにある。それが大人のオトコたちには、唸るほど羨ましい。「グルメドキュメンタリードラマ」の本領発揮だ。

銭湯バージョンとしての『昼のセント酒』

『孤独のグルメ』の成功を踏まえ、2016年の春クールに放送されたのが、『昼のセント酒』だった。

このドラマの主人公は、小さな広告会社に勤める営業マン・内海(戸次重幸)である。売り上げがイマイチであることは気になるものの、外回りで訪れた町で銭湯を見つけると入らずにはいられない。そして、風呂上がりには一杯やらずにいられない男だ。

銭湯では、戸次が本当にスッポンポンで入浴する。当時、これほど男のナマ尻を見せられるドラマは珍しかった。画期的とも言える。いや、ボカシなどは一切ない。裸で歩き回る戸次の度胸は見上げたものだが、その股間を、風呂桶や飾ってある花で隠し続けるカメラもまた、アッパレな名人芸だった。

さらに、「こら! 銭湯の中で騒ぐんじゃない!」と、やんちゃな子供を叱る近所のオヤジの存在もうれしい。

原作は、『孤独のグルメ』で知られる久住昌之のエッセー集だ。毎回、「実在の銭湯や店」が登場するが、実は単純に原作をなぞっているだけではない。

たとえば北千住の場合、原作では「大黒湯」から居酒屋「ほり川」に向かったが、番組は「タカラ湯」と「東光」のチャーハンを取り上げた。

また、原作の銀座編は「金春(こんぱる)湯」と、そば「よし田」の組み合わせだったが、番組では金春湯は同じでも、新橋のやきとん「まこちゃん」まで歩いて、シロとカシラを味わっていた。こういうのは地道なロケハンの成果だ。見ていると、カバンにタオルをしのばせ、ふらりと寄ってみたくなる。

「食」にこだわる『孤独のグルメ』をアレンジしながら、「風呂」という新たなアイテムを発見し、後の『サ道』への道筋をつけたことは大きな功績だ。

奇跡の脱力系ドラマとしての『日本ボロ宿紀行』

深川麻衣が、「乃木坂46」を卒業したのは2016年のことだった。その後、女優として活動を続け、朝ドラ『まんぷく』ではヒロイン・立花福子(安藤サクラ)の姪、岡吉乃を演じていた。

そして今年の1月クール、晴れの「地上波連続ドラマ初主演」となったのが、『日本ボロ宿紀行』だ。

ヒロインの篠宮春子(深川)は、零細芸能事務所の社長。同時に、かつての人気歌手・桜庭龍二(高橋和也、好演)のマネジャーでもある。経営者だった父親(平田満)が急逝し、春子は突然社長になってしまったのだ。

しかも所属タレントは皆退社してしまい、残留したのは桜庭だけだった。本当は、桜庭も「辞める」と言ったのだが、「売れ残りのCDを全部売ってからにしてください!」と春子が突っぱね、このたった1人の所属歌手と共に地方営業の旅に出る。

とは言うものの、このドラマは「忘れられた一発屋歌手」の復活物語ではない。2人が地方の旅先で泊まり歩く、古くて、安くて、独特の雰囲気を持った「ボロ宿」こそが、もう1人(1軒?)の主人公だ。

春子は幼い頃、父親の地方営業について行った体験のおかげで、無類の「ボロ宿好き」になってしまった。毎回、ドラマの冒頭で、春子が言う。「歴史的価値のある古い宿から、驚くような安い宿までをひっくるめ、愛情を込めて“ボロ宿”と呼ぶのである」と。

この言葉は、原作となっている、上明戸聡の同名書籍にも書かれている。しかも、原作本はあくまでもノンフィクション。このドラマに登場するのもまた、毎回、「実在の宿」だ。

新潟県燕市の「公楽園」は元ラブホで、お泊まりが2880円也のサービス価格。ここでの春子と桜庭の夕食は、節約のために自販機ディナーだった。また山小屋にしか見えない、群馬県嬬恋村にある「湯の花旅館」も、玄関に置かれた熊の剥製や巨大なサルノコシカケが、どこにも負けないボロ宿ムードを醸し出していた。

つまり、登場する「ボロ宿」のマニアック度やニッチ度が半端じゃないのだ。まあ、それがこのドラマのキモだと言っていい。

行く先々で桜庭がマイクを握るのは、誰も歌なんか聴いていない温泉の広間だったり、何でもない公園の片隅だったり、まさかの「お猿さんショー」の前座だったりと、泣けてくるような場所ばかりだ。唯一のヒット曲「旅人」を熱唱した後、がっくりと落ち込む桜庭を引っ張るようにして、春子はその日の宿へと向かう。

そのボロ宿で、壁のしみだの、痛んだ浴槽だの、古い消火器だのに、いちいち感激する春子が、なんともおかしい。何より、「女優・深川麻衣」が平常心のまま頑張っている。もう、それだけで、一見の価値ありと感じてしまう、奇跡的な脱力系深夜ドラマだった。

それにしても深夜とはいえ、「よくぞこの企画が通ったものだ」と思う。マイウエイというより、アナザーウエイを行く、テレビ東京ならではの強みだろう。

「食事処」「銭湯」「宿」と進んできた、テレ東「深夜のドキュメンタリードラマ」。この夏、新たなテーマとしたのが、「サウナ」というわけだ。

 そして、サウナが“主役”の『サ道』へ

『サ道』の登場人物は、上野にある「北欧」をベース基地にしている、「プロサウナ―」のナカタ(原田泰造)、偶然さん(三宅弘城)、イケメン蒸し男くん(むしお、磯村勇斗)の3人だ。

このドラマは、彼らによる細かすぎて笑ってしまう「サウナ談義」と、ナカタが一人で訪れる各地の「極上サウナ」が、入れ子細工のような構成で進んでいく。

とにかく、取り上げるサウナが、いずれも魅力的だ。杉並区のごくフツーの住宅地の一角にある「吉の湯」は、遠赤外線利用のサウナと屋外での「外気浴」が嬉しい。また錦糸町「ニューウイング」には、何とミニプールの水風呂があって、ジャバジャバと泳ぐことができる。

平塚の「太古の湯 グリーンサウナ」では、珍しいテントサウナが味わえる。狭い空間だが、白樺の枝の束「ビヒタ」で体をたたいて、サウナの本場フィンランドに思いをはせるのだ。

そして、埼玉の「草加健康センター」では、北海道から出張してきた伝説の「熱波師」、エレガント渡会(わたらい)さんによる、至高の「ロウリュ(サウナストーンに水をかけて水蒸気を作り、それをタオルなどであおいで客に熱風を送る)」を体験する。

サウナ、水風呂、そして休憩というセットを数回繰り返すうち、一種のトランス状態のような快感がやってくる。ナカタたちはそれを「整った~」と表現しているが、見ていると、すぐにもサウナに駆け付け、ぜひ整ってみたいと思う。

先日は、ついに“サウナの聖地”として崇められている、静岡の「サウナしきじ」が登場した。注目は、水風呂で使われている「水」だ。それは、まさに「富士の天然水」であり、水風呂につかりながら、浴槽に注入されるその水を飲むことができる。タナカも「水によって水風呂はこんなに違うのか~」と、うっとりするほどだった。

ドラマの中で、サウナのことを「家族公認の愛人」と表現していたが、言いえて妙だ。どんなに通いつめても(度合はあるだろうが)、家族から、特に妻から文句がでることは、あまりないと思う。オトナの男には、おススメの道楽である。

そうそう、このドラマの映像が美しいことも記しておきたい。基本的には男の、いや、おっさんたちの裸が頻出するわけだが、あまり見苦しい、暑苦しい、鬱陶しいという印象はない。むしろ、サウナの中や、水風呂の風景の美しさのほうが目立つほどだ。演出家の美意識、そしてカメラや照明のスタッフの奮闘によるものだろう。

最後に、一度聴いたら忘れられないテーマ曲「サウナ好きすぎ」もいい。何と、あのCornelius(小山田圭吾)なのだ。サウナという桃源郷での“うっとり感”や“恍惚感”を、見事に楽曲化している。ふとした瞬間、「♪ サ、ウ、ナ、好き、すぎ」と口ずさんでいる自分に気づいたりするほどで、音楽によっても“整った~”を実現しているのだ。

 

 


「サイン」と「監察医 朝顔」 どちらが意欲作か

2019年08月02日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

話題の法医学ドラマ

「サイン」と「監察医 朝顔」

どちらが意欲作か

大森南朋のハマり役、上野樹里の演技力

 

ドラマは一朝一夕には作れない。企画が決まり、脚本が書かれるのと同時並行でキャスティングが行われる。ロケ地探し、リハーサル、収録、そして編集や音楽入れなどの仕上げと、手間と時間のかかる作業が続くのだ。 

ましてや、ヒットドラマの“後追い”となると、実際に放送されるタイミングとの時差は大きくなる。昨年4月クールの「おっさんずラブ」(テレビ朝日系)が予想外に支持され、その様子を見た他局が追随したことで、今年の春は「きのう何食べた?」(テレビ東京系)や「俺のスカート、どこ行った?」(日本テレビ系)など、「男性同性愛者が登場するドラマ」が同時多発した。 

「法医学ドラマ」という鉱脈

今期は、「法医学ドラマ」が2本放送されている。こちらのきっかけは、昨年1月クールに放送された「アンナチュラル」(TBS系)であることは明白だ。 

架空の「不自然死究明研究所(UDI)」を舞台に、不条理な死に立ち向かう法医解剖医、三澄ミコト(石原さとみ)を主人公としたドラマだった。しかも単なる謎解きのサスペンスではない。遺された者たちが、いかに生き続けるかをも問いかけていた。 

自殺系サイト、長時間労働、いじめといった今日的な問題も織り交ぜながら、解剖医たち自身が「生きるとは何か」という根源的な問いに向き合っていく。そのプロセスを、卓越した構成力で描いたのは脚本の野木亜紀子だ。ドラマ自体だけでなく、彼女もまた数々の賞を受けた。

その様子を見て後追いした他局が、法医学系の原作を探し回った結果、この夏、「サイン―法医学者 柚木貴志の事件―」(テレビ朝日系)と「監察医 朝顔」(フジテレビ系)が同時に登場することになった。

大森南朋主演「サイン―法医学者 柚木貴志の事件―」

韓国ドラマを原作とする「サイン」の舞台は、架空の組織「日本法医学研究院」だ。主人公は解剖医の柚木貴志(大森南朋)。解剖医としての腕は超一流だが、融通が利かず、頑固で偏屈。血の気が多く、すぐカッとなる。剖検の最中は基本的に冷静だが、付いてこられない助手などへの罵詈雑言は完全なパワハラだ。

どこまでも一匹狼タイプであり、協調性なし。権威や権力にも屈しない。って、まるで「ドクターX」の大門未知子ではないか。つまり“テレ朝系医療物”の王道キャラなのだ。そんな柚木役に大森南朋が見事にハマっている。

また柚木を尊敬し、彼から学ぼうとする新米解剖医・中園景(飯豊まりえ)。柚木の元婚約者で警視庁捜査一課の管理官、和泉千聖(松雪康子)など、女性陣の存在も物語に膨らみを与えている。

このドラマでは、毎回の個別事件の解明と、国民的人気歌手の死の真相という継続案件が並行して描かれていく。特に後者に関しては、前院長(西田敏行)を追いやって日本法医学研究院のトップ立った、国立大学の伊達教授(仲村トオル)や、大物政治家の秘書(木下ほうか)、さらに謎の若い女(森川葵)などがうごめいており、闇が深そうだ。

柚木と伊達、真逆の性格をもつ2人の法医学者の対決を軸に展開されるストーリーは、大人が見て十分に楽しめる。しかし、その面白さを支えているのは、原作となっている同名の韓国ドラマである。

物語全体の基本的設定も、主な登場人物たちのキャラクターや関係性も、韓国の放送局SBSが作った連ドラ「サイン」と、ほとんど同じになっている。いわば日本版リメイクなのだ。

いや、リメイクがいけないわけではない。海外のヒットドラマをリメイクするのもまた、エンタメビジネスとしては当然の取り組みだ。

しかし、作り手たちは本当にやりたくて、これを作っているのだろうか。韓国ドラマ「サイン」を見た時、「うーん、面白い。このままコピーして日本版をやろう!」ということだったのか。

「うーん、面白い。ならば自分たちは、これを超える法医学ドラマを生み出そうじゃないか!」という発想はなかったのか。

脚本家・倉本聰さんから聞いた、こんな言葉がある。

 知識と金で

 前例にならってつくるのが「作」。

 金がなくても智恵で

 零から前例にないものを生み出すのが「創」。

「サイン」は確かに作られてはいるが、果たして本当に創られているのか。作り手自らのクリエイティビティは、どれだけ発揮されているのか。それが一番気になる。

上野樹里主演「監察医 朝顔」

一方の「監察医 朝顔」。主人公の万木朝顔(まき あさがお)は、興雲大学に所属する法医学者だ。「サイン」の柚木と同じく解剖の腕は確かだが、遺体との向き合い方が独特で、より人間的なアプローチと言うか、そこに「生きた証」を探し出そうとする。

そして時任三郎が演じる彼女の父親、万木平(まき たいら)は、所轄署のベテラン刑事。仕事上、現場で会うこともある2人は、自宅で同居生活を送っている。

刑事として事件の真相を探る父。解剖医として死因を究明する娘。そんな2人が物語をけん引していく。

ドラマ「監察医 朝顔」の原作は、同じタイトルの漫画だ。香川まさひとがストーリーを、そして作画を木村直巳が担当していた。「漫画サンデー」での連載がスタートしたのが2006年だから、結構古い作品だ。6年前に終了したが、全30巻という大長編になった。

「サイン」と違って、こちらのドラマは、原作を大胆かつ繊細に脚色しているのが特徴だ。

たとえば、朝顔は解剖を始める際、遺体の耳元に顔を寄せて、こうささやく。

「教えてください。お願いします」

相手がまるで生きているかのように向き合う朝顔。あくまでも真摯、そして謙虚なその“振る舞い”は、彼女の人間性や人物像をさりげなく象徴している。

第1話では、死因を再検証するために、同じ遺体を2度解剖することになる。その時も「何度も、ごめんなさい。もう一度だけ、教えてください。お願いします」と、遺体に語りかけていた。

そしてストーリーにも、作り手たちの意欲が見て取れる。

原作に、水のない場所で女性の遺体が発見されるが、その死因が「溺死」だったケースが登場する。本当は同居していた男が風呂場で殺害したことが、後に判明した。

ドラマでは、水辺で犯罪に巻き込まれた女性が、ひん死の状態ながら自宅に帰ろうとして、途中で息絶えた話になっていた。彼女は意識を失っていた時に水を飲んでしまい、その水が時間差で肺に入り、呼吸困難となってしまったのだ。

さらに被害女性は、関係がぎくしゃくしていた娘のために新しい弁当箱を買い求め、その帰り道で襲われたことがわかってくる。自身が「母を失った娘」である朝顔は、残された少女の気持ちに寄り添っていく。

また、平の妻で、朝顔の母親である里子(石田ひかり)の死も、原作とは異なっている。

漫画では旅行先の神戸で、阪神淡路大震災に巻き込まれたことになっていた。それがドラマでは、2011年3月11日、朝顔と一緒に三陸にある自分の実家を訪ねて、東日本大震災に遭遇してしまう。しかも遺体はまだ見つかっておらず、平は県警から所轄への異動を願い出て、妻を探し続けている。

原作の単なるアレンジを超え、原作をベースにした“オリジナル”とも言える脚本(「相棒」シリーズなどの根本ノンジ)のおかげで、このドラマは奥行と厚みのある法医学ドラマとなっているのだ。

上野樹里の演技力に注目

それにしても、あらためて感心するのは上野樹里の演技力だ。原作漫画では「しっかり者のお姉さん」という雰囲気の朝顔だが、ドラマでは、どこか精神的危うさも抱えた、複雑なキャラクターとなっている。上野はそれをごく自然に演じている。

たとえば父の平と亡き母の話をするとき、相手の気持ちをはかりながら、同時にそれを相手に気づかれないようにして話す、その微妙な表情と台詞回しなど絶品だ。

上野といえば、すぐ思い浮かぶのが、「のだめカンタービレ」(フジ系)や、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」だ。どちらも、好き嫌いが分かれるくらい、強烈な個性を持つヒロインだった。

朝顔は個性的ではあるが、「スーパー外科医」のような存在ではない。弱さも、脆(もろ)さもある普通の女性だ。しかし、理不尽な母の死を嘆き、憤り、そこから声なき死者の声を聞き、「生きた証」を取り戻す“助けびと”になることで、自分をも支えてきた。

「監察医 朝顔」は、過去の法医学ドラマとは一線を画す、ユニークな人物像と物語に挑む意欲作だ。