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碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

「GOETHE(ゲーテ)」倉本聰さんへのインタビュー(4)

2022年08月06日 | 本・新聞・雑誌・活字

photo by H.Usui

 

 

 

【独占インタビュー】

87歳・倉本 聰は、

なぜ60年以上も書き続けられるのか?

(4)

 

創造の原点は、想像によって別世界へ入ること

今も脚本を書くこと自体が最高の楽しみであり、熱中できることだと言う倉本。その「原点」はどこにあるのだろう。

「想像することでしょうね。想像は自由ですから。あのオードリー・ヘプバーンが遊びにきて、富良野を案内してるとか。今、マリリン・モンローがそこから入ってきたらどうなるんだろうとか。まあ、僕にとってのミューズ(女神)だから登場人物が一時代古いんだけど(笑)。かなり飛びますよ、僕の想像は。これって眠ってる時の夢じゃなくて、目が覚めてる時の想像です。実は想像癖っていうのがガキの時からあって、常に想像を巡らせてる。 戦時中の空襲の時、防空壕で、怖いわけよ。ズドンズドンってそこらに爆弾が落ちてくるわけだから。その時親父だったか、おふくろだったか、僕に空襲の怖い音なんか聞かないで『別のことを考えなさい』って言ったんだよね。あれが元なのかもしれない。息子を楽にしてあげたいと思ったんだろうな、きっと。 学童疎開の時も、先生に言われた気がする。腹が減ったとか、田舎の子たちが意地悪だとかじゃなくて、他のこと考えろって。例えば、海で泳いでる時の楽しさ。『お前は昨日まで15mしか泳げなかったんだけど、今日はほら、20mも泳げた。もうちょっと頑張ると25mだ』って。そんなふうに集中してると、すっと想像が湧いてくる。あっちの世界に入っていく。 この想像によって別の世界に入っていくってことが、僕の創作の原点なんじゃないだろうか。想像と創作は、きっと死ぬまでやめられませんね」

 

倉本聰の3つの信条

1. 1日3cm、1ヵ月で1m。毎日ゆっくりでも続けること。

「地面に埋まった大きな岩も、時間をかければ少しずつ動かすことができる。創作も同じで毎日机に向かって書くことが大事です。1日休めば、回復に3日かかってしまいます」

2. 怒りはエネルギーだがクールダウンすることが必要。

「怒りは創作のエネルギーになる。ただし書くことは非常に冷静な作業で、怒ったままでは書けません。だから怒りを一度心の中に落としこむ。自分を抑えてクールダウンします」

3. 常に想像を巡らせる。それこそが創作の原点。

「子供の頃から想像癖があり、常に想像を巡らせています。集中していると、すっと想像が湧いてくる。自由な想像によって別の世界に入っていくことが僕の創作の原点です」

<「GOETHE(ゲーテ)」2022年8月号より>


「GOETHE(ゲーテ)」倉本聰さんへのインタビュー(3)

2022年08月04日 | 本・新聞・雑誌・活字

photo by H.Usui

 

 

【独占インタビュー】

87歳・倉本 聰は、

なぜ60年以上も書き続けられるのか?

(3)

 

本当に死にたくなった。鬱がひどかった時期

これまで何十年間も、倉本は膨大な数の作品を書いてきた。だが、時には筆が進まないこともあったのではないか。

「ありますよ。何度か鬱にもなったしね。特に富良野に来てからのある時期がひどかった。毎晩、自殺したくて仕方なかった。そんな時、中島みゆきが新しいアルバムのパイロット版を送ってくれたの。それが『生きていてもいいですか』。『異国』とか、『うらみ・ます』とか、名曲揃いのアルバムで、最高傑作だと思うんだけど、とにかく暗い(笑)。夜、ひとりで酒を飲みながら聴いてたら本当に死にたくなった。 ちょうど冬場でね、表はマイナス28℃とか30℃とかだったから、睡眠薬飲んで、ジープの中に入って寝ちゃえば死ねるなと思った。で、うちの玄関って二重扉になってて、風除室があるんだけど、そこで犬飼ってたわけ、北海道犬を。ヤマグチという名前の犬で、山口百恵ちゃんから取って。そのヤマグチが、外に出ようとする僕の上着の端を咥えて、引っ張るんですよ。なんか異様な顔して。それで僕、ハッと我に返った。つまり、山口百恵という生き神と、中島みゆきという死に神が綱引きした結果、何とか生き延びたってわけです(笑)。 それで精神科医の診断を受けたらね、『この季節になると毎年、鬱が出ますよ』と言われた。ところが、春になったらストンとなくなったの。翌年も出なかった。その理由だけどね、ここの自然が僕の入植を許してくれた、受け入れてくれたんだなと思った。無理に抵抗するんじゃなくて、自分を投げだすというか、自然に身を委ねたのがよかったのかもしれない」

そんな倉本も世の中に対して腹を立てたり、憤ったりすることは少なくないはずだ。以前、怒りが書くためのエネルギーになるとも語っていた。

 「怒りをエネルギーにするんだけど、書くというのは非常に冷静な作業ですからね。怒ったままじゃ書けない。だから、怒りを一度心の中に落としこむ。自分を抑えてクールダウンする。僕の場合、そんな『間(ま)』を入れる方法がタバコでしょうね。 本質的な気分転換をするには、それぞれのやり方があると思うんだ。でもね、タバコが流行ってた時代のほうが、今よりも平和だったんじゃないか。タバコがなくなってから、みんなイラつき始めたんじゃないかって気がしてしょうがない。 昔もね、煙が迷惑な人もいたでしょうけど、迷惑ってことを言い広げたのは医者なのね。そんなことを皆に気づかせなければ、今みたいな忌避反応は起きなかったはずで、社会を住みにくくしたのは医者だよね(笑)」

<「GOETHE(ゲーテ)」2022年8月号より>


「GOETHE(ゲーテ)」倉本聰さんへのインタビュー(2)

2022年08月03日 | 本・新聞・雑誌・活字

photo by H.Usui

 

 

【独占インタビュー】

87歳・倉本 聰は、

なぜ60年以上も書き続けられるのか?

(2)

 

知識ではなく知恵によって生みだすことが「創る」こと

倉本はこれまでも今も、毎日必ず原稿用紙に向かっている。まさに1日3㎝の積み重ねによって、長い連続ドラマもできあがっていくのだ。倉本にとって、書くことは日々を生きることと同義かもしれない。

「書くというより、創るということをしてるんだろうね。『創作』という言葉があるじゃないですか。創と作、両方とも『つくる』でしょ? でも、意味が違うんですよ。『作』の『つくる』ってのはね、知識と金を使って、前例に倣(なら)って行うことです。 それに対して、『創』のほうの『つくる』は、前例がないものを、知識じゃなくて知恵によって生みだすことを指す。この『創』の仕事をしてるとね、楽しいわけですよ。でも、多くの人は『作』をやってる。特に都会のビジネスマンは、ほとんど『作』の仕事をさせられてるじゃないですか。だから、ストレスが溜まるんだと思う。 全部『創』の仕事にしちゃうとね、苦しくもなんともない。肉体的にはハードだけど、寝て起きりゃ直る。でも、『作』ばっかりだと精神的によくない。仕事は、意識して『創』のほうに寄せてくといいんです」 「作る」ではなく、「創る」こと。その姿勢はどんな職業の人間にも有効だし、自分なりの応用ができそうだ。 「創るということは生きることだけど、遊んでいないと創れない。同時に、創るということは狂うことだと思う。だから、『創るということは遊ぶということ』『創るということは狂うということ』『創るということは生きるということ』というのが僕の3大哲学ですね」

「遊ぶ」にしろ、「狂う」にしろ、倉本だからこそ到達した境地だと言える。「もう少し説明してもらえますか」とお願いしてみた。

 「僕の言う『遊ぶ』ってのは、楽しむことだよね。自分が楽しむ。実はね、今、全11回の連続ドラマの新作を書いてるんですよ。放送の予定も、何もないシナリオです。それを、僕はすごく楽しんで書いている。シノプシス(粗筋)の段階で何度も書き直して、でもその都度、内容は螺旋状の進み方でよくなっていく。楽しんでいないと、そんなアウフヘーベン(高い次元への進化)は起きないですよ。 それから、『狂う』ってのは、熱中するってことでしょうね。今は書籍なんかで使うと、すぐ差別用語だって削られちゃうけど、意味合いとしては熱中するということ、もっと言えば熱狂することだと思う」

<「GOETHE(ゲーテ)」2022年8月号より>


「GOETHE(ゲーテ)」倉本聰さんへのインタビュー(1)

2022年08月02日 | 本・新聞・雑誌・活字

photo by H.Usui

 

 

【独占インタビュー】

87歳・倉本 聰は、

なぜ60年以上も書き続けられるのか?

(1)

 

『前略おふくろ様』や『北の国から』など、人々の心に残る名作を生みだしてきた脚本家、倉本聰。80歳を過ぎて『やすらぎの郷』や『やすらぎの刻~道』を手がけただけでなく、87歳の現在も”新作”に挑んでいる。北海道・富良野に倉本を訪ねた目的は、たったひとつだ。なぜ60年以上も書き続けられるのか。それが知りたかった。

文明社会では時間が金銭として換算される

富良野市街から少し離れた森の中に、倉本聰の仕事場がある。天井が高い丸太造り。目の前に木々の緑が広がる大きな窓。富良野塾を開いていた頃からのアトリエである。執筆や点描画の制作、そして客人と向き合うのもこの場所だ。

「富良野に移住したのは42歳の頃なんです。そこからもう一度人生が始まっちゃった。自分の身体の中のエネルギーを使う生活がね。それまでは頭で生きてたというか、都会人の感覚でしたから。 ところが、こっちに来たら全然違うことがわかった。都会の生活って全部、何かの代替エネルギーで暮らしてるよね。でも、ここでは自分のエネルギーで暮らすしかない。しかも、知識なんて全然役に立たないことを思い知った。知恵で生きないとダメだって」

1981年から20年以上も続いた、代表作『北の国から』。主人公の黒板五郎(田中邦衛)一家が、廃屋で暮らし始めた第1話を思いだす。確か、五郎のモチーフはロビンソン・クルーソーだったはずだ。

「このアトリエに入ってくる時、通った林道があるでしょ? 移住当時はまったく整備されてなくて、でっかい岩が路面にはみだしてたんです。いつもクルマの片輪が乗り上がるんで、移動したい。でも、自分の力じゃどうにもならない。その時、近所の農家の青年に『あの岩を動かしたいんだけど、あなただったらどうする?』って聞いてみた。 そしたらね、『やらねばならんなら、やるよ』って言うんだ。 『どうやって? 道具も重機も何もないんだけど』って心配したら、『剣先のスコップを持ってきて、岩の回りを掘る』と。ぐるっと掘って、岩をむきだしにする。次に丸太をテコにして、じわじわと四方から浮かしていく。『丹念にそれをやったら、1日に3㎝ぐらい動くんでないかい? 30日(1ヵ月)もやったら1mは動く』って当たり前のように言われた。 これにはひれ伏しちゃったね。つまり、僕らの感覚では1日に3㎝ってのは動かないって範疇(はんちゅう)ですよ。でも、1日3㎝とはいえ、確かに動くんだ。文明社会のなかでは、時間が金銭として換算されちゃってるよね。そういう考え方はもうやめようと思った」

<「GOETHE(ゲーテ)」2022年8月号より>

 

 


エッセイが収録された、『あなたのなつかしい一冊』出版!

2022年07月30日 | 本・新聞・雑誌・活字

『あなたのなつかしい一冊』毎日新聞出版

 

 

井上ひさし:著『モッキンポット師の後始末』

選と文:碓井広義

 

大学生になったのは1973年。オイルショックの影響でトイレットペーパーが店頭から消えた年だ。見つけた下宿は台所もトイレも共同の四畳半。農家が、崖の下の「納屋」を改造して作ったもので、私を含む3人の1年生が入った。家賃6700円は大学生協が斡旋(あっせん)する最安値だった。

壁は薄いベニヤ板だったからプライバシーなどない。3人はすぐ仲良くなった。一緒にバイトをしたり、実家から送られてきた米を融通し合ったりするビンボー学生生活を面白がることができたのは、前年に出版された井上ひさしの連作小説集『モッキンポット師の後始末』のおかげだ。

物語の背景は昭和30年代。主人公の小松は仙台の孤児院で高校までを過ごし、東京の「S大学文学部仏文科」に入学する。同時に「四谷二丁目のB放送の裏にある『聖パウロ学生寮』」に住み始め、土田や日野という親友もできる。S大学は井上さんの母校である上智大学(ソフィア・ユニバーシティー)を指す。B放送は当時四谷にあった、ラジオの文化放送だ。モッキンポット師(神父)も実在の神学部教授がモデルだった。

モッキンポット師は、小松のバイト先が「フランス座」だと知った時、「コメディフランセーズといえば、フランスの国立劇場や。するとあんたは、国立劇場の文芸部員……?」などと勝手に勘違いする素敵な人だ。もちろんフランス座は浅草のストリップ劇場であり、小松はこっぴどく叱られる。

次々と珍事件を起こす小松たち3人組。彼らの尻ぬぐいに奔走するモッキンポット師。やがて聖パウロ学生寮は閉じられてしまうが、主人公たちの友情と騒動は続いていく。その愛すべき愚行は大いに笑えて、ちょっとしんみりもして、小説の中の登場人物たちに励まされた。

大学4年生の頃、文章講座の授業に井上さんがゲストとしてお見えになった。終了後に雑談する機会があり、私は『モッキンポット師の後始末』に助けられ、べニヤ壁の下宿も楽しむことができたと感謝した。井上さんは「それは貴重な体験ですよ。いつか書いてみるといい」と笑いながらおっしゃった。この時は、三十数年後に自分がS大学文学部教授になることなど想像もしていない。

井上さんが亡くなったのは2010年の春。75歳だった。思えば、大学の教室で向き合った時はまだ40代だったのだ。当時の井上さんの年齢をはるかに超えてしまったが、「いつか書いてみるといい」と言われたあの言葉は、今も宿題のままだ。

 


モノ・マガジンで、「実相寺昭雄監督特集」

2022年07月08日 | 本・新聞・雑誌・活字

「実相寺昭雄研究会」が全面協力しています

ドキュメンタリー映画を撮った、実相寺研の高橋巌監督

実相寺研の重鎮、中堀正夫撮影監督

研究会が制作・発売した、オリジナル・フィギュア

「モノ・マガジン」2022.07.16号 

 


月刊ゲーテに、「熱狂人生・倉本聰」を寄稿

2022年07月01日 | 本・新聞・雑誌・活字

GOETHE(ゲーテ) 2022年8月号

 


連休初日の本屋さんで・・・

2022年04月30日 | 本・新聞・雑誌・活字

 

連休の初日、

本屋さんに行ったら、

沢木耕太郎さんの『作家との遭遇』が

新潮文庫の

「新刊」として

出ていたので、

入手しました。

 

2018年の単行本には

23人の作家が

登場していたのですが、

この文庫では19人。

 

カポーティなど

4人の外国人作家が、

”収納”の都合で

入らなかったようです。

 

でも、

井上ひさしさんに始まる

19人のラインナップは

十分魅力的で、

作家論として、

また

連休中の読書への

入口としても

最適かもしれません。

 


芥川賞作家の西村賢太さん死去 合掌

2022年02月05日 | 本・新聞・雑誌・活字

番組収録のスタジオで、西村賢太さんと

 

 

芥川賞作家の西村賢太さん死去 

「苦役列車」「暗渠の宿」

 

「苦役列車」「小銭をかぞえる」などの破滅型の私小説で知られる芥川賞作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日午前6時32分、東京都北区の病院で死去した。54歳。東京都出身。

中学卒業後、アルバイトで生計を立てながら小説を執筆。同人誌に発表した作品が2004年に文芸誌「文学界」に転載され、07年に「暗渠の宿」で野間文芸新人賞、11年に「苦役列車」で芥川賞を受けた。

受賞決定後の記者会見での型破りな発言が注目され、同作はベストセラーに。映画化もされた。

関係者によると、4日夜、タクシー乗車中に意識を失って病院に搬送されていた。

(共同通信 2022.02.05)


産経新聞に、「『北の国から』黒板五郎の言葉」書評掲載

2022年01月10日 | 本・新聞・雑誌・活字

 

 

【書評】

「『北の国から』黒板五郎の言葉」

倉本聰著、碓井広義

■生きる力伝える名場面集

北海道富良野市を舞台に一家族の歳月を描いたテレビドラマ「北の国から」は、昭和56年から21年間にわたって放送された。原作・脚本は倉本聰氏、主人公の黒板五郎を演じたのは昨年亡くなった田中邦衛。

その放送40周年を記念して出版されたのが本書。倉本氏がどこから発想を得たかを当時記した文章が巻頭に掲げられ、ハッとさせられた。「都会は(中略)己のなすべき事まで他人に金を払いそして依頼する。(中略)生きるための知恵、創る能力は知らず知らずに退化している。それが果たして文明なのだろうか」。お金さえあれば-。そんな生き方でいいのかと問う。

本書では、ドラマの名場面をシナリオ形式で再現し最小限の説明を添えた。大自然の厳しさと美しさ、人々の交流、葛藤、友情、恋愛まで濃密に描かれ、ドラマの魅力を追体験できるはずだ。

五郎は妻の不貞がもとで、小学生の純と蛍の子供2人を連れて故郷の富良野へ戻る。放置された実家は廃屋同然、明かりはランプ、ご飯は薪で炊く、テレビなし。不便な生活に純は反発する。「電気がないッ!?夜になったらどうするの!」、五郎の答えは「夜になったら眠るンです」。ある日、五郎は2人の小遣いを自分に預けさせる。「欲しいもんがあったら自分で工夫してつくっていくンです。つくるのが面倒くさかったら、それはたいして欲しくないってことです」

五郎は決して立派な父親ではない。別れた妻への思いや、積んでは崩れる積み木のように続く苦労に弱音を吐き、自己嫌悪にも陥る。それでも倉本氏は、時に交わり、時にすれ違いながら子供たちに生き方を教える五郎の人間臭さまで表現し、読む者の心を揺さぶる。

後年、住まいを焼失し、建て直す金も失った五郎は「金がなかったら-知恵だけが頼りだ」と石で家を作り始める。令和になった今なら、一家の開拓生活はどんなだろう。

この数年は終わりが見えそうで見えない災厄に、疲れを感じる人も多い。五郎の言葉は時を超えて現代に「生きる力」を熱く伝える。何をやってもうまくいかず、気持ちが負けそうになるとき、どこからでもいいから開いて読みたい一冊だ。(幻冬舎・1430円)

評・河原潤子(ライター)

(産経新聞 2022.01.09)

 

 

 

 


三島由紀夫、51年目の「11月25日」 合掌

2021年11月25日 | 本・新聞・雑誌・活字

 

今日は11月25日。
三島由紀夫の命日です。

毎年この日には、
三島に関連する本を読んできました。

たとえば、
昨年は
井上隆史『暴流(ぼる)の人 三島由紀夫』
などです。

今年は、
三島本人の文章にしました。

 

『蘭陵王(らんりょうおう)

 ―三島由紀夫 1967.1~1970.11』

 

この本には、
1967年(昭和42年)1月以降に発表されたエッセイの中から、
単行本未収録だったものが
すべて収められています。

ちなみに
私の手元にあるのは初版で、
発行は71年5月6日。

前年の11月に亡くなった三島自身は
この本を目にしていません。

1967年(昭和42年)の
「年頭の迷い」というエッセイには、
この年に自分が満42歳になること、
40歳になったら
「せめて地球に爪跡をのこすだけの仕事」に
着手したいと思い、
大長編にとりかかった、
とあります。

後の『豊饒の海』全4巻です。

「この大長編の完成は早くとも5年後のはず」で、
「そのとき私は四十七歳になって」いる。

そして、
「もはや花々しい英雄的末路は
 永久に断念しなければならぬ
 ということだ」
と続きます。

実際の三島の死が、
「英雄的末路」だったかどうかの評価は
様々にあるでしょう。

この文章を書いてからの数年間で、
三島が何を断念し、
何を断念しなかったのか、
それは分かりません。

ただ、
三島が47歳を迎えることはなかった
という事実があるばかりです。

1970年(昭和45年)11月25日、
三島由紀夫 没。
享年45。

合掌。

 

 


『黒板五郎の言葉』重版出来(じゅうはんしゅったい)!

2021年11月21日 | 本・新聞・雑誌・活字

おかげさまで「2刷」です。感謝です!


寄稿した『現代用語の基礎知識2022』の発売!

2021年11月07日 | 本・新聞・雑誌・活字

情報・社会「メディアと放送」を担当させていただきました。

 

 

 

 

 


またも重版出来!(じゅうはんしゅったい)「7刷」に感謝

2021年11月01日 | 本・新聞・雑誌・活字

 

 

 

 

 


紀伊國屋書店「玉川高島屋店」にて

2021年10月23日 | 本・新聞・雑誌・活字

「『北の国から』黒板五郎の言葉」平積み、感謝です!

 

さらに棚差し、感謝です!

 

文庫コーナーの「少しぐらいの嘘は大目に」も、感謝です!