多い登場人物の複雑な関係
主宰「浜地泰造」氏の演出による今回の「舞台」――。演劇ユニット「 」(かぎかっこ)としての3回目の「公演」のようだ。その「案内チラシ」にはこう書かれていた――。※「太字」と「下線」は筆者。
《 フランス料理と中華料理と和食。 先輩のOLと後輩のOLと男。父と母と娘。 3つの三角関係が織り成すそれぞれの悩み。
3人集まるとつい始めてしまうような相談を、糾弾を、決断をしているだけなのに、この三角関係、何かが足りない。足りないものが埋まったときにおとずれるのは喪失か再生か。
三者三様9つのすがたを、かぎかっこが5人で描きだす。》
筆者は、上記の “前説” にタイトル名の『人数の足りない三角関係の結末』を加え、今回の「舞台」の展開を自分なりに想い描いた。古稀まであと2年と十日余の “単細胞系前期高齢型知能” には、ややこしい展開が予想される「舞台」の “予習” は欠かせないのだ。ことに各人物のキャラクターと、人物相互間の関わりなどの “事前整理” は、絶対不可欠といえる。
そうした備えがなければ、おそらく舞台進行中の筆者は、間違いなく3、4ケタの “フラッシュ暗算” に追いまくられる。備えあれば憂いなし。予習あれば狼狽なし。
……のつもりだった。だが「舞台」は、「登場人物・各3人」×「エピソード・3つ」=9人の人間模様という、単純な「掛け算」では終わらなかったのだ。
実際の「舞台」は、筆者の予測とキャパ(capacity)を超える “謎と推理に充ちた世界” となった。その “実態” を解き明かすためにも、「舞台」の全容を眺めてみよう。といっても、筆者自身、正直言って細部については、聞き洩らしや見落としがあるようだ。筆者は観劇中も多少メモを取ってはいるものの、無論、必要 最低限なものでしかなく、いつも苦労している。
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「舞台」すなわち『人数の足りない三角関係の結末』(作/大根健一)は、“時間・空間的に異なる” 3つの「エピソード」からなっている。だがこれら「3つ」は、一見、“脈絡もない” ような “ふり” をしながら、その実、“オムニバス的” に繋ながっている。上記の「前説」をもとに、それら3つの「エピソード」をまとめてみると……。
TV番組を支える“裏事情に裏の顔”―エピソード:1
【●エピソード:1】は、かなり昔に人気を博した『料理の鉄人』を想わせる設定だった。かれこれ20年前から10数年前まで、筆者は結構この番組を観ていた記憶がある。別に「料理」に興味を持ったからではなく、裏方の「料理人」を「エンターテイナー」として表舞台に登場させた番組作りのオリジナリティに惹かれたからかもしれない。「料理の鉄人」達を紹介する “鹿賀丈史のエンターテイナーぶり” も見事であり、不思議なリアリティと快感をもたらしていた。
それはともかく、今回の「舞台」では「3人」の「料理の鉄人」……っぽい人物が登場する。「フランス料理」の〈坂ノ上〉(浜地泰造)、「中華料理」の〈陳〉(丸尾行雅)、「和食」の〈サダコ〉(石川優衣)。
この【●エピソード:1】は、表向き華々しい「テレビ番組」の “舞台裏” を “覗き趣味的” に見せながら、その実、「人物3人」の“裏の顔や裏事情”を、“覗き込む” ように明らかにして行く。
鼻もちならない感じで、キャバクラ好きという〈坂ノ上〉。いかにも中国人が話しそうな日本語を、たどたどしく “きめてみせる”〈陳〉。本来は普通の食堂のオーナーである〈サダコ〉。彼女は今回、同じ「和食」の女鉄人〈長良川(ながらがわ)〉のドタキャンのため、急遽「代役」として頼まれたという。
3人はそれぞれ「番組プロデューサー」との打合せということで、一人ずつ「舞台」から立ち去る。ということは、「坂ノ上と陳」「陳とサダコ」「サダコと坂ノ上」という “3とおりのデュオ” 状態が生まれる。そのような状態では “席を外している一人” に対する “残った二人の精神的優位性”が働きがちだ。そのため自然な成り行きとして、“欠席裁判的な悪口” や “眼の前の二人なればこそ” の “取引” や “駆け引き” も生まれる。
この3人もその例に漏れないのだが、実は、〈坂ノ上〉と〈陳〉とは〈サダコ〉の前では不仲を装ってはいるものの、どうやらそれは番組構成上の演出と思われる。つまりは “つるんで” おり、実際には「坂ノ上・陳」の連合と「サダコ」との「2:1」の闘いとなる。だが、“或る予想外の出来事” によって、真っ当なクッキング・ファイトとなりそうだ。
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漂流する三角関係―エピソード:2
【●エピソード:2】は、海を漂流中の「2人の女」と「男」の計3人が登場する。3人は同じ会社に勤めている。「女」2人は先輩の〈まきえ〉(酒井絵莉子)と後輩の〈あい〉(石川優衣)であり、この二人は〈山路〉(浜地泰造)に “二股” をかけられている。つまりは、“三角関係の社内恋愛” というわけだが、〈山路〉は離婚経験者であり、〈ななえ〉という名前の少女がいるようだ。
なぜどのような経緯で漂流するようになったのかは不明だが(筆者の見落としや聞き損ないかもしれないが)、とにかく海の上で「3人だけの生活」を送っている。いや、何とか生きている。そうではあっても、〈山路〉を巡る女二人の “闘い” は凄い。この「二人の女」の間に挟まれた〈山路〉にとっては、“二重の漂流” というべきだろうか。“海” と “女の嫉妬” という。にもかかわらず〈山路〉は、“無人島に着いたら、二人の女にばれないよう二人と付き合って行こう” との夢想を抱いている。
だが、そんな〈山路〉のユートピアン的ロマンチシズムなど軽~く吹き飛ばす女二人の “生命力” 。……というか “生理学的女子力” は凄い。この期に及んで〈山路〉に “子作り” を迫るため競い合おうとしている。女同士の見栄やハッタリ、意地や憎悪とはいえ、“生身の女性の産みの執念” のようなものがふっと頭を掠めた。
“産む性” の “産める強さ” というものだろうが、この面での “性の強さ” があるかぎり、男は太刀打ちできない。ともあれ、そのように想起させる「酒井・石川」2女優の “女のやりとり” に凄みを感じた。それは言うまでもなく「脚本」の勝利でもあるのだが。
“嫉妬” と “執念” と “闘争” においてパワーザップする二人の女とは逆に、パワーダウンしていく男……〈山路〉。彼は「再就職」を果たして東京にいるはずだったとの想いに囚われている。そうした中、“逞しい女二人の中で、〈山路〉はある決心をする。
“自分がいなくなった後、ゆっくり話し合うこと” を二人の女に言い残し、海に消えて行く。だが、女二人の漂流は続く……。 [続く]