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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

和田の130キロ台はなぜ打ちにくいか

2010-10-15 21:45:35 | 好きな本
佐野真 2005年 講談社現代新書
野球の本を、もう少し何かなかったっけ、って探してたら、あった、あった。
これはけっこういいです、ソフトバンクの和田毅投手のピッチングについて書いてある本。
タイトルにあるとおり、和田がすごい凄いって言うんぢゃなくて、打てそうで打てないのは何故だろうってとこをテーマにしてる。
和田のストレートは、プロにあっては、ずばぬけて速い部類には入らなくて、スピードでいえば140キロそこそこ。
だけど、変化球で勝負するんぢゃなくて、そのストレートが打たれない、凡打に打ち取るどころか、三振がとれる。
それは高校生のときからそうで、120キロ台のストレートを相手は150キロに見えたと言っていた。
大学1年のとき、いいボールだと思ったら129キロで、自身愕然としたらしいが、その後コーチとフォーム改造に取り組んだら、2ヵ月で142キロが出たっていう大きな進歩はあったけど、でも、それよりやっぱり“速く見える”というところに特性がある。
対戦相手は、他校の150キロを投げるピッチャーより速く見えたと言っているし、結局、大学の4年間では、江川の記録を塗り替える476三振を奪っている。
高校から大学、プロ、そしてオリンピックで対戦した外国のナショナルチームまで、すべての証言をまとめると、「バッターからみると、計測した球速以上の速さに見える」「ストレートとわかっていても打てない」「体感的に加速する感じ・見たことがない球」などなどとなる。結果、数字としてはそんなに速くないストレートを、みんなボールの下を空振りしている。
こういう不思議なピッチャーなんだが、その秘密はなんなのか。
結論としては、投げたときの初速と終速の差が、ほかのピッチャーより小さい。プロで平均がその差10キロとしたら、和田は4,5キロらしいから、それが「切れ」のあるストレートだという。
ちなみに、初速と終速の差が小さいことを「切れ」と呼んでるんだけど、私の考えというか表現は、ちょっと違う。ふつうの(普通とは何だと言われそうだけど)イメージと差があることを、キレと表現すべきだと思う。たしかにストレートに関しては他人よりスピードが落ちないことだし、変化球に関しては、通常経験的に予測しているより変化することがキレだと思うから。
で、和田に関しては、どうして初速と終速の差が少ないボールを投げているかというと、ボールにかかるバックスピンがひとより多い、プロの平均が毎秒30回転程度、レッドソックスの松坂が38回転なんだけど、和田のはおそらくそれ以上だと推測している。
ここで実測してないのが本書の唯一欠けているところ。40回転くらい行ってるんではと推測してるんだけど、そこは是非証明してほしかった。ただし、傍証としては、和田は被本塁打が多い(回転が多くて、打たれるとボールが飛ぶ=軽い球質)ということを挙げているし、推測は外れていないとは思うけど。(被安打率はトップクラスの少なさなのに、ホームラン打たれやすいのは何か原因がある。)

ピッチングの分析だけぢゃない本書の魅力は、和田自身の投球や野球に対する考えがインタビューされているところで。
たとえば、和田の打ちにくさについて「腕の振りが変則で、ボールの出どこが見えにくいからだ」という意見もあるんだけど、和田自身は「それが原因だったら自分に好不調はないはずだ」と反論している。
非常に論理的であってクレバー、すべてに計画性があって、自己管理能力に長けている、そういうピッチャーの話だから、ただ単に投げているボールが偶然打ちにくいってわけぢゃなくて、面白い。(プロ野球に進むとき、親会社が危なそうなのに当時のダイエーホークスを選んだのは、DH制のあるほうが交代させられにくいし、自チームの打撃が強いほうが勝ちやすいってのがあったのではと大学の監督は言ってる。)
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ハッピィ・ハウス

2010-10-13 20:36:47 | 岡崎京子
岡崎京子 平成4年 主婦と生活社 GIGA COMICS DX(上・下巻)
(いつものことだけど、岡崎京子に関しては、なんの脈絡もなく、採りあげるんだな。)
だいぶ前のことだけど、当時上下2巻同時に出た岡崎京子のマンガ。
「コミック・ギガ」ってのは読んだことないんで、私は単行本手にとって初めて読んだ。
テレビディレクターと女優の夫婦の家庭なんだけど、ある日お父さんが「しばらくの間 父さんは 家族をやめたいんだ」と宣言して、解散状態になっちゃう。
主人公は、13歳の娘・るみ子で、親の勝手さ加減に腹を立てて、自立するべく家族を閉め出したり、家出を試みたりする。
岡崎のあとがきは、いつも面白いけど、この本のあとがきには、
「家族」という言葉の強制する、強引な“ぬくぬくとあたたかいしあわせ”のイメエジ。そのイメエジが、サイズの合わない靴のように、私にはきゅうくつでした。
なんて、書いてあります。
そんな家族ってもんに向かって、勢いのまま、バッカヤローって叫んで書いたみたいな感じ。明るくていいですけどね。

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シアトルユーに悪戦苦闘

2010-10-12 21:42:42 | 馬が好き
乗馬に行く。
ふつう火曜日だと、前日の月曜は練習するひと少ないから、「きのう動いてないの」って馬を選ぶんだけど。
(月火2日間とも運動してない馬は、水曜に元気良過ぎになるからね
でも、きのうは祝日だったんで、少年団が来てたから、きょうはそういうの無し。「あした動かさないの」って言ったって、未来のことはわかんないし。
ということで、シアトルユーに乗ってみますかってことになる。

ずいぶん前に一度乗ったきりだな、シアトルユー。
特に敬遠したくなるような印象もないけど、あえて言えば、ちょっと敏感って感じ?
7月の半ばだったかな、馬装してる最中に、風の音か何かに驚いて、そこらへんを暴走! 身体のあちこちに傷をこしらえちゃって、しばらく休んでた。
その前にも、私がほかの馬乗ってて、クビを例によってポポポンって愛撫してたら、その音で驚かせてしまったこともある。(私の練習後の“ポンポン”は音が大きいらしい 思いっきりホメてるもんで。)
まあ、そんなのはたいしたことないんだけどね、実際ちょっと乗るのが難しい馬なんで、私なんかには回ってこない。
「ハミうけが、私なんかも勉強になる馬なんで、乗ってみてください」
って、先生が勉強になるって、シロウトレベルにはチンプンカンプンなんぢゃないの?と思いつつ乗る。

どんな馬か忘れちゃってるんだけど、常歩で厩舎のまわりを歩ってるぶんには、べつにバタバタもビクビクもしてないんで、危険な感じはない。
馬場に出て、小さい区画のほうに入って、常歩。
馬がときどきアタマを上げるようにする。おおっとそうはさせるかって、手綱を(必要以上に?)引っ張ったり短くしたりしてくうちに、だんだんおかしくなってくる。
「ハミうけに気をつけて」と言われて、速歩でまわりはじめる。やっぱアタマ上げてくる。ハンドル操作が効かないわけぢゃないし、前に出そうと思えばそれなりに出てくれるんだけど、どうにもちゃんと乗ってるとは言い難い。
「一回、手綱ぜんぶ伸ばして」 軽速歩のまま手綱伸ばす。なんと、馬のクビがスーッと伸びてアタマが自然な位置に下がる。かるーく、そのまま速歩で進んでいく、人馬ともこのほうがよっぽど気持ちいい。
なにやってんだか、そこからまた手綱を手繰り寄せていく。あるところまで来ると、馬が嫌って(んだろうな…)ガンとクビ振ってアタマ上げる。しばし格闘
いちど先生に乗り代わり。ハミをうける。反抗しようとしてもガマンして、馬がハミにぶつかってくるとこで受け止める。(←表現合ってっか知らないよ。)馬のクビが曲がって、アタマが下がって、えーと文字で表すのは難しいな、とにかくカッコいい形になるわけだ
再び騎乗して、速歩で輪乗り。馬がイヤイヤをする、前に出しながら受け止めて、ちゃんとしたカッコになったら少しラクにして状態をキープする。…って、出来ねーよ
なんども試行錯誤、拳ギュッて握ってみたり、力入れて手綱引いてみたり、ウニウニと指を動かしてみたり、左右の拳をギシギシと動かしてみたり。
でも、基本的に、馬がときどきやるガツンって動きに負けてるんだな、たぶん。ちっとも「馬がゴメンナサイしてる状態」に近づかない。
だんだん馬のイライラが強くなるのか、最初より悪い状態になっていく。輪乗りが外ラチのほうへ逃げ出していくし、とうとう止まっちゃった。うりゃ!って言って脚使おうとしたら、後ろに下がりだす始末。絶対前に出さなきゃ、ムチないとこういうとき不便だな(←ふだん持たないくせに、困ったからってムチとかに頼らんよーに)、前ラクにして脚!

ま、いいや、普通に乗ってくださいってことで、蹄跡をまわるんだけど、普通に乗るわけ、ない。
またいろいろと試みる。クビ伸ばしたとこから、少しずつ手繰り寄せる、「左右を同じように使って」と言われる。また馬のイヤイヤが始まる。
んぢゃ、駈歩。輪乗りで駈歩、基本的に乗りやすいんだけどね、この馬。駈歩になると、意外といい感じ。駈歩でアタマ上げられると、ほんと輪乗りできなくなったりするもんだけど。
蹄跡をまわって、馬のアタマが下がるのに自然とついてくようにして、駈歩を続ける。前傾姿勢、重心が前行き過ぎないように気をつけて、アブミに立つ。
ひととおり終わったあと、また常歩の輪乗りから、始める。受け止めて、フッと軽くなって折り合いがつく瞬間が、…なかなか来ない
また、先生に乗り代わって、何度かハミ受けを修正したあと、速歩・駈歩で低い障害を飛んでみせてくれる。障害の前もそうだし、飛んだあとも、なんか勝手なこと馬がしようとする瞬間はあるんだけど、じっと待って言うことをきかせる。
はい、交代。拳を前に出して、そこで馬を抑えようとと引っ張り合いしないよーに。1馬力と勝負しても勝ち目はない。ヒジを身体につけて、そこで受け止める。
 なんか違うのがわかった。ヒジを体側につけるとき、私のは、どっちかっていうと前に出て伸びてるヒジを、後ろに引くようにして身体にくっつけるんだけど、それだと引っ張られたとき、また同じこと。肩甲骨をくっつけるようにして、横からグッとくっつける形をとらないと。
常歩で輪乗りしてるうちに、馬がフラフラと輪線から外れて逃げ出す。しっかり人が行きたい方向に行かさないと。馬の耳の間から前を見て、自分の前に箱を作ってそのなかに馬を入れとくよーに。
拳の一点で馬を受け止めてどうこうしようってんぢゃなく、手綱から拳とおってヒジまで一直線、その線を含む仮想の平面をつくって、左右のその面でつくった箱のなかに馬のクビとかアタマが入る…
それにしても、どっちの手前でも、馬が左に逃げてくよーな気がするのは、きっと馬ぢゃなくて、私の乗り方がどこかヘンなんだろう。(右手を強く引いてるとか?)
一瞬だけ、馬がハミを受けて、おお!これだ!と思ったときがあった。長く続かないで、すぐまた格闘に変わっちゃったけど。出来たってときがわかるようになっただけ、まだマシか。前に乗馬やめたときは、その感覚がわかんなくて絶望してヤメたようなとこあるからね。
小一時間の練習で、ちゃんと乗れたの十数秒って感じで、本日は終わり

シアトルユーは、そんなに激しく走ったりしてないんだけど、私とバトルを繰り返したせいか、汗びっしょりになっちゃった。鞍と頭絡をはずして水飲み場につれてったら、ひと口、二口くらいしか水を飲まない。洗い場につないだら、まだ何だか水飲みたそうだったから飲ませてやると、バケツに一杯分まるまる飲んだ。そろそろ涼しくなってきたし、水派ぢゃなくて、お湯派なのかな?
終わったあと、洗ってやってから、リンゴをやる。
隣の馬房からヒーズザマンが、その隣からメジロリュウジンが、物欲しそうに見てる。これは思い込みぢゃなくてハッキリわかる、だって目が合ったらジーッと見てんだもん、人のこと。馬と目が合ったら、負けだ。んで、しかたないからお裾分けしてやる。
そうそう、シアトルユーは、以前はリンゴを食べなかったんだけど、いつのころからか味に慣れたのか、最近はふつうに食べるようになった。でも、後からニンジンやったら、そっちのほうがが嬉しそうだったけど。

ちなみに、シアトルユー、競走馬時代に担当だったひとが、よくニンジンをやりに来る。愛されている馬というのは、幸せだなと思う。

今日は、手を放してる余裕がなかったので、撮った写真が少ない。
関係ないけど、おまけで、最近、体調不良で皆さんの前でお目にかけてない、ミニチュアポニーの「ハッピー」の今日の顔。

もうひとつ、やっぱり隣からジーッと見てた、コンキスターの顔。

最後のおまけは、シアトルユーの秘蔵ショット。
6月28日に、NHKのドラマ撮影やったときのヒトコマ。

主役を演じるのは馬事公苑のギルデッドエージって馬だったんだけど、なんせ撮影がハードスケジュールだったんで、走ったりしないシーンでは影武者も使いました。そのとき白羽の矢がたったのは、同じ栗毛のシアトルユー。
でも、顔がぜんぜん違うから、プロのメークさんに顔を直されてました。鼻の白いの全部茶色く塗られて、役のトレードマークの三日月型の流星を描かれてます。
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最近の野球

2010-10-11 22:49:10 | Weblog
私は野球ファンで、自分でも野球するの好きだし、観るのも好きだ。好きなはずだった。
でも、最近、野球をとんと観なくなった。
テレビで(テレビったら、ふつうの地上波ね)やってないってのもあるんだけど。
今シーズンなんて、まともに一試合をちゃんと観たことがない。
まあ、どーしても見たいってほどの興味も、自分の中で、一時期に比べて無くなっちゃったって感じはする。
どこが勝とうが負けようがあまり喜怒哀楽にかかわってこない。
困ったことに、見ないでいると、ますますつまんなく思えてきちゃうんで、今度はたまに観るチャンスがあっても敬遠しちゃうんである。

どーして、最近の野球がつまんなく思えるんだろう。
いろいろあるけど、ひとつには、ピッチャーのことである。
誰がどうというわけでもないが、分業がテッテーされちゃってんのが、なんかつまんない。
で、それにあわせて、先発ピッチャーがろくに投げなくなっちゃった。

中6日(週イチかよ?)で出てきて、5回くらいでご苦労様でしたってマウンド降りちゃう。
なんだそりゃ? それで投手寿命延びたって満足してんのか?
特にセントラルリーグにおいて、傾向がひどいと思う。規定投球回数(チームの試合数と同じイニングス)を投げるひとが少ない。そりゃそうだ、週に一度で5回くらいしか投げないんだもん。

で、リリーフも(リリーフって昔の概念とはちょっと変わってきてるけど)1試合で3人くらいはでてくる。
先発が5回か、せいぜい6回まで。あと1イニングずつ、次から次へとピッチャーが出てくる。
それはそれで立派なやりかただろうけど、なんかつまんない。
バッターも災難で、統計は知らないけど、1試合4打席として、前は対戦するピッチャーは2人だったかもしれないが、今は最低でも3人くらいとの対戦になる。前の打席で見た球筋とか、配球のアヤとか、後半戦には意味がない。
先発が疲れてきたころに迎える“ラッキーセブン”なんてのは、いまは死語なんぢゃないだろうか。
それにしたって、リリーフ陣も回の変わったとこ、イニングのアタマから投げて、1回だけだから、めいっぱい飛ばしてくる。
しかも、前だったら一部のリリーフエースを除いて、後から出てくるピッチャーは、先発陣より質が下だったんだけど、今はそうでもない。ちゃんとウイニングショットとか持ってるし。そりゃ打てないよね、なかなか。
イニングのアタマからというのは、私の記憶・印象では、横浜の権藤さんが固めて、ジャイアンツの長島がマネして、さらに広まったんぢゃないかと思う。いわゆる“方程式”とかなんとかっていう継投。
ちなみに、私はこの呼称がキライで、なんか何も考えてないような気がする。パターンを決めたら、そのときどきの、ピッチャーの調子も含めた、状況判断とかは一切なしで、カードを切っていく。そこに、打たれたときに、方程式どおりだったのに負けた、みたいな、監督の責任放棄のニオイがしてしょーがない。
で、昔話ばかりするみたいで悪いんだけど、以前のリリーフエースってのは、ランナーがスコアリングポジションにいて、絶体絶命(←大げさ)のピンチに、初めて出てったりしたような気がする。イニングのアタマからで1回だけ投げてこい、っていうのは、比較的ラクなんぢゃないかなーと思う。

まあ、そんなこんなで、なんだかピッチャーがコマ切れで出てくると、つまんなく感じてんぢゃないかという気はしてます。
私個人の興味がそがれている証拠に、悲しいかな「ホールド」の定義を、正確に知らなかったりします。そんな野球に興味がないから、ってのが、細かく調べたり、記録を重要視して眺めたりしない理由でしょう。
ただ、これだけは、私がブツクサ言っても、元に戻ることはないことは確か。競技がソフィスティケートされると、次第に役割が細分化されるものです。競馬で、距離カテゴリーが分かれると、それを飛び越えての対戦が減るのと一緒。

先発ピッチャーは、パシフィックリーグのほうが、らしい顔ぶれがそろってるようだけど、私が今いちばん注目しているのは、涌井(ライオンズ)ってことになるかなぁ。
なんか、メリハリがあって、三振を獲ろうとおもえば狙って獲れる、でも必要なければ力をセーブしてる、って感じがする。で、完投もできるしね。いいピッチャーだと思う。

きょうは、昨日からの野球つながりで、何の本をあげようかと考えてたんだが、探していた高橋源一郎のエッセイ(そのなかに、テッド・ウィリアムスの現役最後の試合のことが書かれている章がある。この話が好きなんだな、私は。)が見つからなかったんで、適当に野球について思うとこを書いてみることにしちゃった。
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シド・フィンチの奇妙な事件

2010-10-10 21:40:30 | 好きな本
ジョージ・プリンプトン 芝山幹郎訳 1990年 文藝春秋
野球つながり。
好きな野球小説。
ずいぶん前のことだから忘れちゃったけど、書店のカバー外して写真撮ってみたら、この表紙と帯に魅かれて、書店の店頭で手にとったんだったろうなって思い出した。
すごい話ですよ。
イギリス生まれだけど、チベットで仏教の修行を積んだ青年が、その成果として、コントロールした精神力を身体に作用させることをマスターし、こともあろうに、それを野球のボールを投げるということに振り向けた結果、時速270キロの球を投げるピッチャーとなった、っていうんだから。
野球が好きで、しかもチベット仏教が好きな私が、このプロットに魅せられたのは言うまでもない。
有体に言って、チベット仏教の力をもってすれば、そのくらいのことは出来ると、信じてる部分ありますから、私には。

んで、ストーリーのほうは、なんだかんだあって、ニューヨーク・メッツ(ジョンソンが監督で、前年にはグッデンがエースとなった時代のメッツだ)に主人公シド・フィンチが入団し、初登板でアメリカ中の度肝を抜くわけだ。
ちなみに、片足ははだしで、その左足を高々と上げるフォームは、ちょっと普通のベースボールの投げ方ぢゃないってのが、またいいね。
270キロの速球なんて、そんな球、キャッチャーに捕れるだろうかって疑問もあるだろうけど、そもそもがフィンチは仏教による心の力で、ただ速い球を投げるんぢゃなくて、それを的に当てるということもセットで会得しているわけで、キャッチャーの構えたミットに、より正確にいえばミットの捕球するポケットの位置に、ボールを投げ込むことができるんである。
このセンス・オブ・ワンダー、私としては、仏教により心が自分の身体を支配することが可能なことを疑わない私としては、大いにアリなんである。少なくとも、大リーグボール養成ギプスで鍛えて速球を投げるっていうより、仏教により自己をコントロールしてそれを為すというほうが、全然リアリティーを感じる。
でも、意外と繊細で、修行僧らしく悩んだりする一面もある主人公なんだけど、当然のことながら、心が揺れ動くと、コントロールを失って、殺人的な速球がどこ飛んでくか分かんないことになっちゃうわけで。そんなピンチをどう乗り切るかってのも大事なところ。

で、物語の語り部は、いろいろあって物を書けなくなってたライターなんだが、それがどうしてこんな奇妙な事件に巻き込まれたかっていうと、メッツの特訓にたまたま居合わせたって縁による。
つまり、それっていうのは、ストーリー紹介の順番前後するけど、270キロの球を捕れるかどうか、空高く飛んでいる飛行船からボールをグラウンドに投下して、キャッチャーに捕らせてみる、ってとこから物語は始まるってことです。

こんな書き方すると、いかにも荒唐無稽な感じするけど、ありがちな感動押し売りする安っぽい小説より、よっぽど面白い「野球モノ」だと私は思います、やっぱり。
(ただいま久しぶりに読み返し中。わりと読みやすいのは、あまりゴジゴジしてない訳文によるものぢゃないかと、ふと思っている。)
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