2022年7月25日(月)
ずっと謎だった長年のモヤモヤがすっきりしました。崎
伊勢に大王崎があって、その先に大王島があります。
「大王って誰なんだろう」と思い続けていましたが、蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)から大王島までと空海の生誕地までが同距離で二等辺三角形を描きます。
この図形は、「私は蘇我入鹿の生れ変りである」と聞こえてきます。
そしてそのことを証明するかのように、推古天皇の墓から蘇我入鹿の墓までと空海の生誕地までの距離は同距離で二等辺三角形を描きます。
不思議な不思議なお話ですねぇ。
2022年5月25日(水)
阿武町 あぶちょう ・・ 最近よくニュースで聞く名前です。
誤送金問題がなければ、私も含めて全くその町の存在さえもほとんどの人が知ることがなかったのではと思います。
でも今や知らない人はいないのでは・・と。
阿武と言えば私には、阿武山古墳であり、その古墳は蘇我入鹿の埋め墓だと響いてきます。
それで、阿武町と阿武山古墳に何か通じるものがあるのかを空海コードで探ると・・、阿武町の山に古墳の存在が浮かび上がります。
後醍醐天皇が隠岐の島に流されたことは歴史的に有名ですが、その場所が隠岐国分寺跡ですが、この場所から阿武町の山(古墳)と蘇我入鹿の埋め墓である阿武山古墳までは同距離で二等辺三角形を描きます。
また、奈良県吉野にある後醍醐天皇陵と隠岐国分寺跡と阿武町の山(古墳)の3点は、直角三角形を描きます。このことは私には偶然とは思えません。
この世で起きる事故や事件、いえいえ不思議な気象現象さえも今の私たちに必死で先祖の霊が私たちにその場所を注視するように促していると常にそう考えるようになりました。
「私はここに居ま~~す」と、言って居られる様子ですが、どんな高貴な方が眠って居られるのでしょう・・。
2022年5月10日(火)
4月13日のブログで今城塚古墳を物部守屋を祀る陵墓と間違って書いていました。(現在は訂正しています)。
物部守屋は用明天皇でしたから、詣り墓は用明天皇陵です。下の図形は、それらのことを教えている空海コードです。
難波宮から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までと、物部守屋の埋め墓までと、用明天皇陵までの3ヶ所は凡そ21㎞と同距離です。
2022年4月21日(木)
改ざんされた隠された歴史の謎を解く鍵は、難波宮跡にあるようです。
その難波宮跡から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までと、用明天皇陵までと物部守屋の墓までは略同距離です。
物部守屋は用明天皇だったと空海コードでは響いてきます。
2022年4月1日(金)
日本には地域によって埋め墓と参り墓を造る両墓制の風習がありました。
蘇我入鹿の詣り墓は当初、前方後円墳の型式で皇極天皇陵として近江に造営されました。・・これが竜石山です。
でも、図らずも乙巳の変で暗殺されたので、公に祀られることを憚られました。
それで、蘇我入鹿を尊ぶ人たちの心の拠り所としての参り墓を、松尾寺の補陀落山に求めました。
この三カ所は、直角三角形を描いています。この三点を使って、過去と後々の大王たちの陵墓や埋め墓の位置決めがなされています。
大王たちと親族たちの埋め墓の位置が、夜空の星々のごとく見つけられるように、三角法を駆使して関連性を持たせて決められています。
このような個々の御霊を崇め祀る文化と歴史を作り上げている国がどこにありましょう。
この日本という国土は、素晴らしい御霊で輝き続けています。
もっとその輝きを煌びやかにするために、一刻も早く蘇我入鹿の御霊を国家を上げて祀らなければならない時に入ったようです。
・・、それで今、聖地巡礼ツアーとして日帰りでの蘇我入鹿の三墓参りを計画中です。 ご期待ください!
2022年3月31日(木)
徐福の墓 秦河勝の墓(生島) 蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)の三点は二等辺三角形を描いています。
地図に表されている徐福の墓は、秦始皇帝を祀る地下神殿でした。 徐福の墓は新宮市の蓬莱山でした。(2023年1月2日加筆)
そしてその三角形の重心にはイルカの地上絵が造形されています。
竜石山は、蘇我入鹿=第35代皇極天皇を祀るために造営された前方後円墳でしたから、イルカと竜石山との中間点に何があるのかを調べると・・。
巨大なクジラの地上絵が造形されていました。
すぐその北には光明皇后の十字架の地下神殿が指し示していた愛宕山が在ります。そしてその北には、竜ヶ岳があります。
そして南のライン上には、星田妙見山(星田妙見宮)があって、もっと南に下ると・・、そこには、龍の立派な磐座がある竜王山です。
北には、高浜湾(若狭湾)に面する岩神(福井県高浜町)があります。
竜石山 竜ヶ岳 竜王山など竜 竜 竜と言う山の名前や、そこに立派な磐座が造形されていたりと、偶然ではあり得ません。
意味ある地名と、その十字架の中心近くに、愛宕山や星田妙見など信仰の拠点が重なったりすると、これはもう計画的配置であることの証明です。
その十字架の交点の近くに巨大なクジラの地上絵(造形物)があることも意味あるものです。
そして、この十字架の交点の近くには、第50代桓武天皇の墓や52代嵯峨天皇の墓が、愛宕山から全く同距離の場所に造営されていて三点は二等辺三角形を描きます。
いえいえ、その近くには、天智天皇や藤原不比等の墓もあったり、沢山の天皇家の方々の埋め墓も存在しています。
蘇我入鹿を祀る十字架が浮かび上がりました!
2022年2月11日(金)
建国記念日に間に合いました。昨日、竜石山の謎が解けました!
そして蘇我入鹿は、第35代皇極天皇で、滋賀県近江八幡市安土町にある竜石山(りゅうせきさん)
が皇極天皇陵でした。
コンターラインを見ても見事な前方後円墳になっていますし、またそこには黄金も北から計測して4mほどキャッチしました。
この謎を解く鍵は、蘇我入鹿の詣り墓である松尾寺の補陀落山であり、阿武山古墳の入鹿の埋め墓であり、奈良県吉野町矢治の岩神神社の磐座でした。
そして宮滝遺跡と浄見原神社と、そこから望む天武天皇の墓である衣笠山でした。
見事に計画された配置です。
これもひとえに皆様方のおかげと、武部さんの尽力によるものです。
ただただ感謝です。
建国記念日の今日、この真実を多くの方々にかみしめてほしいと私は願います。
2022年2月7日(月)
昨日、JR摂津富田まで行って、そこからタクシーに乗り込み、「阿武山古墳までお願いします」と私。
「京都大学の阿武山観測所になっていて、入れない可能性がありますよ」と運転手さん。
「入口まで行ってダメだったら帰りますから、とりあえずお願いします」と言うことで発進してもらいました。
車が止まった場所は、運転手さんのいう通り門が閉じられていましたが、門の前で関係者らしき男性が居られたので、「阿武山古墳に行きたいのですが、入っても良いですか」と尋ねると、「良いですよ」と。
「行ったら分かりますかね」
「分かりますよ」
「何分ぐらいで行けますか?」
「10分か15分ほどでしょうかね」と丁寧に教えてもらいました。
それでタクシーの運転手さんに40分前後で帰ってきますから・・とお願いして、門の横から入って急ぎ足で坂道を上がって行きました。
教えてもらったとおりに迷うことなく辿り着くことができました。
早速、御参りを終えて、リュックの中から金探査機のコア・ロッドを取り出して、黄金を探るとすぐさま強くヒットしました。
墓室正面右手に墓室と同じほどの広さが綺麗に整備されていましたが、その場所に黄金の反応です。
時間が無いので急ぎ足で調べましたが、7m×10mほどの範囲に黄金が埋められています。
古墳の説明板の内容からすれば、3mほど掘り下げて墓室をにわか仕立てで造営していますから、黄金も同じ深さほどに埋められていると推測します。
この黄金は、誰の財宝か!?
もちろんこの墓ににわか仕立てで埋葬された、聖徳太子と尊ばれた蘇我入鹿であり第35代皇極天皇の財宝である。
埋葬されていた骨の状態も、埋葬品もそれらのことを物語っている。
おそらく石室の内部には、埋葬者について書かれた文字が遺されていた筈である。
一刻も早く黄金を取り出して、しかるべき遺言の場所に安置し祀らなければなりません。
藤原鎌足の墓は鎌足公古廟であって、そこから第50代桓武天皇が交野に移し替えています。
いつでも立証できます。
夜明けの晩が近づいています。 急げ! と天界から響いてきます。
2022年1月30日(日)
役行者の墓から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までの距離と、斉明天皇陵までの距離は見事に同距離で二等辺三角形を描いています。
「私は、蘇我入鹿(皇極天皇)と斉明天皇の間に漢皇子として生まれました!」と役行者は言っています。
斉明天皇の亡骸が埋められた場所は、斉明天皇陵から東へ270m行った閑散とした竹藪の中でした。
役行者や行基、和気清麻呂や最澄、空海・・そして桓武天皇たちは、蘇我入鹿の亡骸を生野の地下神殿に持って行って祀ってくれと、切に『成就』を願っています。
そうそう、土塔を造ったと言われている行基さんは、役行者の御子でしたよ。
2022年1月29日(土)
役行者の生誕地は、奈良県御所市にある吉祥草寺です。
そして、役行者の墓は、土塔と吉祥草寺とで正三角形(赤色)を描くポイントに造営されました。
その役行者の墓から蘇我入鹿の埋め墓までと土塔までの距離は大まかに二等辺三角形(黄色)を描きます。
そして、土塔から蘇我入鹿の墓(阿武山古墳)までと役行者堂までの距離は共に37.1㎞で、見事に二等辺三角形(青色)を描きます。
まだ皆さんを役行者の墓へはお連れしていませんが、すぐ近くまではお連れしたことはあります。
蘇我入鹿=聖徳太子=第35代皇極天皇の次男として生まれた御子が漢皇子=役行者でした。
このことが分かった上で、できるだけ早いうちに巡礼ツアーを行いたいと思います。
2022年1月28日(金)
大阪府堺市中区土塔町にある「土塔」の第一目的は、聖徳太子と尊ばれた蘇我入鹿の詣り墓と埋め墓の位置を教えていた。
日本には、埋め墓と詣り墓の両墓制がありました。
このような二つの墓を造る風習があるということを知ったのは、昨年のお盆に瀬戸内の岩黒島に泊まったのがきっかけでした。
それまでは、そのようなものは、大王、天皇たちに限られたものだとばかり思っていました。
岩黒島から西に18㎞ほど行ったところに佐柳島という島があって、そこの人達は埋め墓と詣り墓の二つ造る風習があったことを知り、入鹿の埋め墓はどこなのかとづっと頭の片隅にありました。
そしてついにその場所を空海コードでたどり着きました。詳しくは後日にして今日は、基本図形を掲載します。
下の図の三点は、黄金比で美しい三角形であるケプラー三角形で位置決めされています。 特別な三角形です。
阿武山古墳は蘇我入鹿の埋め墓である。
そして松尾寺(大和郡山)の補陀落山は蘇我入鹿の詣り墓でした。
堺市の土塔は、その大事な両墓を教えるベンチマークポイントとなるモニュメントでした。
2022年1月26日(水)
和歌山県和歌山市直川に役行者堂があります。
その役行者堂と比叡山延暦寺根本中堂とイエス・キリストの墓は、正三角形を描いていました。
なんと役行者堂と阿武山古墳とイエスの公的陵墓も正三角形を描いています。
計算されつくしたポイント群です。
間違いなく役行者は全てを知っていますね。
2022年1月25日(火)
聖徳太子と尊ばれた人は、蘇我入鹿であり第35代皇極天皇でした。・・と書けば皆さんはどう思われるでしょうか。
そして、聖徳太子二王子像に描かれた二人の王子は、天武天皇(長男)であり漢皇子(次男)です。
二人は、蘇我入鹿と斉明天皇との間に生まれた御子たちでした。
そして漢皇子は、日本独自に発祥・発展した山岳信仰である修験道の開祖、役行者でした。
これらのことは、空海コードで読み解けるように大地に記されていました。
ここまで来れば、阿武山古墳に埋葬された人物が誰だったのか、皆さんにはもう十分に推測できていることでしょう。
これから少しづつ空海コードで解き明かしていきたいと思います。