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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

森浩一著 『敗者の古代史』  その2

2013-08-28 16:32:35 | 本のひと言

 この本の 「はじめに」 に書かれていることからもう少し、引用します。

「敗者の立場で古代史を読み直すことは、さまざまな地域の隠された歴史を

掘り起こすことになるかもしれない。それとその地域の人びとに勇気をあた

えることができるだろう。」

 この例が昨日記した1985年のイワイのシンポジウムの例なのですが、本文

にも書かれていますので紹介しておきます。

 このシンポジウムが終わったあと八女市の青年約十人が、 “これで長年の胸

の閊(つかえ)がとれました” と喜んでくれた。 これは昨日も紹介したことで重複

しますが、続けます。

 「八女市には~磐井の墓とみてよい岩戸山(いわとやま)古墳がある。江戸時

代の末に尊皇運動が盛んになりだすと、八女市とその周辺にあった磐井関係の

遺跡が傷つけられたり、その土地の人が逆賊磐井の子孫として白い目で見られ

だしたという。そのような差別の原因が今回のシンポジムウで晴れたといってく

れた。」

 継体・磐井戦争は6世紀・約1500年前の出来事ですが、 『日本書紀』 に

「磐井が陰(ひそか)に叛逆」 と記載されていることを鵜呑みにして(森さんの

弁)の歴史用語として「磐井の乱」 「磐井の反乱」 が用いられ、江戸末期から

シンポジウム開催まで130年余り、その地域の人びとの精神の閊えとなって

きたということには驚かされます。

 そして、森さんの提案 “磐井の反乱とか乱はやめよう。磐井戦争にしましょ

う” 、磐井の乱でなく磐井戦争、たったそれだけのことが、その地域の青年の

精神を解放したのでした。

 

 その2 にあたる話も “考古学は地域に勇気をあたえる” の例です。

昭和49(1974)年4月に福岡県鳥栖市で吉野ヶ里遺跡のシンポジウ

ムが開かれました。

 「この当時、なぜか九州人は東京や大阪にコンプレックスをもっていて、

それが古代史の解釈にも反映していた。 しかも九州島のなかでも福岡

が優越感をもって佐賀や熊本などを見下す傾向が感じられた。その佐賀

で吉野ヶ里遺跡が急浮上したのだから影響は大きい。」

 そのシンポジウムの司会をしていた森さんが、閉会にさいして咄嗟に口

から出てしまった言葉が “考古学は地域に勇気をあたえる” でした。 大

観衆の熱気にうたれたためだそうです。


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