2日続けての「昨日の今日」で恐縮です。
タイトルにありますように昨日は日本海軍によるハワイ真珠湾攻撃のあった1941年12月8日(現地7日)から82年目でした。
ワイコマさんのブログにも書かれていまして気付きました。
雑誌「前衛」12月号の該当記事を紹介しよう思います。
こちらのページを、
海外旅行の定番といえばハワイである。しかしこの地は太平洋戦争の始まりとなったパールハーバーがあり、重要な戦争遺跡でもある。一九四一年一二月七日早朝に日本帝国海軍機が米太平洋艦隊奇襲攻撃した。日本帝国陸軍が英領マレー半島のコタバルへ敵前上陸してから1時間後である。太平洋を挟んで日本とアジアの民に未曽有の惨禍をもたらした太平洋戦争の始まりである。
パールハーバーには、将兵と共に轟沈した戦艦アリゾナを慰霊するアリゾナ記念館を中心に、米軍の太平洋戦争関連資料を展示した「世界大戦武勲記念史跡」がある。当時のローズベルト米大統領はだまし討ちだと 「Remember. Pearl Harbor」を発し、米兵と米国民をおおいに鼓舞した。 七六年後の二〇一七年にトランプ前米大統領がこの地からツイッターで同じ言葉を発した。当時日本では「鬼畜米英」と叫んでいたが死語となった。アメリカでは生きているのだ。
湾には戦艦ミズーリが係留されている。一九四五年九月二日、東京湾のこの艦上でマッカーサー連合国軍最高司令官らと、大日本帝国外務大臣重光葵らによる無条件降伏の調印が行われた。太平洋戦争の終わりである。艦には降伏文書が展示されている。 この史跡には武勲を誇る米海軍の資料が数多くある。その一つに沖縄からの疎開児童を乗せた対馬丸を沈めた潜水艦ボーフィンが係留され、見ていると怒りがこみあげてきた。
ビジターセンターの片隅に広島で被爆し一〇年後に一二歳で亡くなった佐々木禎子さんの折り鶴がある。 接眼レンズ越しに見る折り鶴はあまりにも小さく涙が出そうだった。米軍の聖地に、原爆症と闘い生存を願った少女の折り鶴を展示する運動を起こしたハワイ市民に凄みさえ感じた。終戦から七八年、「Remember Pearl. Harbor] と「No More Hiroshima Nagasaki」 の間にある深い怨念とわだかまりが存在してきた。 二つの相反する趣旨が歴史的地で共存するのは、人間の平和を希求する悶えなのかもしれない。一方、二〇二三年この史跡と広島市平和公園が姉妹協定を結んだ。しかしこの協定締結は、日米の政治パフォーマンスの匂いがプンプンする。
先制攻撃が成功したかに見えた真珠湾攻撃も数年後、 未曽有の惨禍を伴って敗戦となった。この事実はウクライナに侵攻したプーチンも日本軍の二の舞になることを示唆しているかのようである。
撮影は、二〇一四年 二〇一六年~二〇一九年。写真集 「Pearl Harbor海の彼方の戦争遺跡」として新日本出版社から発行。
書かれていますようにグラビアの説明文です、雑誌を開くと、
これを一枚目として8ページ5枚の写真が、その5枚目です
一枚目が戦艦ミズーリで、その次が潜水艦ボーフィンです、同じ文ですがもう一度読んでください。
湾には戦艦ミズーリが係留されている。一九四五年九月二日、東京湾のこの艦上でマッカーサー連合国軍最高司令官らと、大日本帝国外務大臣重光葵らによる無条件降伏の調印が行われた。太平洋戦争の終わりである。艦には降伏文書が展示されている。 この史跡には武勲を誇る米海軍の資料が数多くある。その一つに沖縄からの疎開児童を乗せた対馬丸を沈めた潜水艦ボーフィンが係留され、見ていると怒りがこみあげてきた。
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