kaeruのつぶやき

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「しんぶん赤旗」と新聞「赤旗」。

2015-11-30 21:19:44 | 日本共産党のこと。

「しんぶん赤旗」が印刷所の輪転機の不具合で大幅に遅れたことに触れ、戦争中の非合法時代の「赤旗(せっき)」の印刷に携わった人の本を手にしたことをつぶやきました。そのようなことは自分の経験のなかったかのではないかと思い、特に意味はないのですが『「赤旗」地下印刷局員の物語』を手にしたのです。

この本の書き出しは「平均寿命三ヶ月なんだけどな」という言葉からはじまっています。平均寿命といっても生命のことではありません。時代は1931年・昭和6年です、著者の林田茂雄さんは1907年生まれですから24歳でしょう。その時「第二無産者新聞」印刷部員になるように言われたときの言葉です。その「仕事」に「参加してから検挙されるまでの活動期間の平均日数が」三ヶ月だというのです。

第二無産者新聞はその前身である「無産者新聞」が当時の政府によって発行を禁止されたあと非合法的に出されたもので創刊は1929年9月9日と書かれています。実は私の関心をもったのはこの「無産者新聞」の発行が1925年なのです。創刊90年かという思いがよぎりました。90年前の日本社会の一局面を確認しておきたかったのです。

「無産者新聞」は合法的大衆紙政治新聞として無産者新聞社から発行されていました。普通の書店や街頭でも売られて最高時で二万七千から三万部をも発行して中国への干渉戦争に反対することや労働者農民の生活擁護のたたかいに大きな役割を果たしつつありました。しかし1928年の「3・15」や翌年の「4・16」の弾圧のあと発行禁止においこまれました。このようなことを背景に第二無産者新聞の印刷に携わるのですから三ヶ月持つか、ということになるわけです。

1928年2月には日本共産党の中央機関紙として「赤旗」(せっき)が発行されています。第二無産新聞がこの「赤旗」と合同しそれまでガリ版刷りだった「赤旗」が活発化されたのは1934年4月8日付の第69号からと記されています。A3版で8面、部数は七千部だったそうです。もちろん共産党の印刷所などありません。町の印刷所が非合法の印刷物だと分かっていて(と思われる書き方がされています)、知らぬ顔をしてやっていたのです。

月6回の発行は順調に進んだようですが、活版化した月(4月)の下旬メーデーを前にして当局がシラミつぶし作戦をやり印刷所の一角がそれには引っかかり6面中4面が担当していた同志とともに奪われたことがあったといいます。

この先のことも書き連ねたいのですが、先を読まねばわかりません。 また機会がありましたら書きます。私の知らないことばかりで自分の覚えとして書き連ねましょう。