写真が逆さまになるようです、ようですというのは私の場合でもタブレットでは正常なのですがスマホでは逆さまになっています。昨日のコメントへの返信でもばやきましたがなぜか分かりません。今回も同じかもしれませんがお許し下さい。
旧脇村邸は昭和初期の逗子の別荘建築の特徴をみせてくれます。
全体は和洋折衷で階下には暖炉があり洋風の応接間があります。
二階からは向いの家越しではありますが、逗子湾から江ノ島富士山が見えるのです。多分昭和初期当時は畑地の向こうに広がっていたのではないでしょうか。
今回は「逗子の別荘邸園を散策し、逗子が輩出した芥川賞作家の描写した逗子を読む」という催しですから関係作家の逗子描写が紹介されていました。
作家と紹介作品は、
堀田善衛の『風景異色』、石原慎太郎の『太陽の季節』、林京子の『父のいる谷』、辺見庸の『相模の海を愛し続けて』です。全部は紹介できませんが一番新しい辺見庸の書かれたものの一部を抜き書きしておきます。これは「月刊かながわ」の1993年2月号に載せられた「とても不思議な帰一感」という見出しの一文です。
辺見庸は昭和19年生まれ、宮城県の「石巻市の郊外で私は少年時代を過ごした。海が遊び場だった。海岸を日がな一日歩いて、ひばりの卵を見つけるのが無上の喜びだった。ひばりの卵を宝石のように思っていたのだ。台風の夜は、荒れ狂う波の音におびえはがら眠った。大漁旗に飾られた船も、漁師の無残な死も目にした。すべて、いずれは海へ。この、どうにも不可思議な海への帰一感は、そのころそうしてすりこまれたのだろう。」
大学卒、通信社の横浜支局へ、生まれた長女に「海」と名づける。
「逗子に移り住んでからは、神奈川の海はほとんどを見てまわった。波の荒れる三陸の海とはまた違う、相模の海の眺めは、柔らかな分だけ初めはもの足りなかったけれど、荒れくれた私自身の生活が鎮まってくるにつれ、年とともに目についてずいぶん心地よくなってきた。いまでも海岸への散歩をしばらく欠かすと喉が渇いたようになり、矢も盾もたまらず家をあとにするのだ。」
本社勤務から海外特派員生活へ。
「米国はカンザス州の草原などをひとり何時間も車で走っていたときのこと。ゆるやかな上りになり下りになる坂道に陽炎が立っていた。坂の向こうに露草色の空と綿雲しかない。すると頭に快い痺れのようなものがきて、私はいま、すぐそこの海に向かって走っている、じきに着く、という感覚にすっぽりと陥ったのだ。アクセルを踏み込む。ところが、海なんかない。あるわけがない。いけども、いけどもだ。その失望の深さ。」
新疆ウイグルでもモンゴルやプータンでも。「風景の奥に幻の海を見て、胸踊らせ、裏切られた。大地にあって海へと赴く感覚がそれほど強くなっているのだ。山には還れない。大地には還れない。ただ海だけ。私にはそんな特異な帰一本能があるのか。」
「逗子に帰って来たときの安堵感は、だからひとしおだ。海までの距離、そこにいたるべき方向を常に感じていられることの落ち着きのよさといったらない。それに、久しいときを経て相模の海に再び会える嬉しさは、田越川沿いに下っていきながら、どきどきして歩調が乱れてしまうほどだ。」
三浦半島の逗子葉山秋谷の海岸を歩く、
「それぞれの眺め異なっても、海、空を奏でる穏やかでのびやかな階調が必ずある。盛りあがり、くぼみ、鱗のように光りを散ら水の優雅な無限展開がある。それらを目でなぞりつつ、懐かしい海とともにある喜びを私はかみしめる。海への帰一感はいっこうに減る様子がない。」